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記事紹介: ドイツのTerf 不安のないトイレ

もうひとつドイツでのトランス排除フェミニズムの話題。

2019年5月2日の、Linus Gieseによる記事。

Toiletten ohne Angst – Ja, wir sollten darüber reden, wo trans Menschen willkommen sind - EDITION F

https://editionf.com/transfeindlichkeit-toiletten-dritte-option/

「不安のないトイレ」というタイトルだが、トランスの人にとって、という意味だ。

 

不安のないトイレ   ー  たしかに、どこならトランスの人たちが歓迎されるのか話し合うべきだろう。


トイレと性の多様性に関するたちの悪いジョークはさんざん作られてきた。そこで忘れられているのは、それらの発言に傷つけられ、トイレに行くような日常のことで何が起こりうるのかを無視されたトランスの人たちの事情である。


「すぐさま女子トイレに消え失せないなら、覚悟しろよ」

私たちは日に4,5回トイレに行き、人生のうち3年と6ヶ月をそこで過ごす。

私はトランス男性で、私もときにおしっこをしなければならない。公衆トイレが必要なときは男子トイレを使う。私は髭があり、紳士服を着ている。前に古い習慣のためうっかり女子トイレに足を踏み入れたとき、女性たちは驚いて拒絶的に私を見た。

人口の約0.2%はトランスである。表現を変えると、諸君の会う500人に1人統計的にはトランスだと言える。なので気づいていなかったとしても、諸君がすでに公衆トイレをトランスの人たちと共有した可能性はかなり高い。


トランス敵視のフェミニズム

数十年間、トランス男性は男子トイレを、トランス女性は女子トイレを使ってきた。このような日常的な出来事についてはどんな形の審議も必要ないと考えられる。しかしじっさいには公開討論がますます喧しくなっているのを私は大きな懸念をもって見ている。メディアからの注目がさいきんこの話題に向けられたのは、CDU(ドイツキリスト教民主同盟)党首のAnnegret Kramp-Karrenbauerがカーニバルの行事で、トイレについて「おしっこを立ってするか座ってするか決められない」と、からかったときだった。CDU政治家のStefan Ottは彼のFacebookページの投稿で、「『第三の性』の冗談を信じ込む権利があるが、冗談でしかない。我々は現状が続くことを懸念するべきだ。」と書いた。またSNSでもさかんにそれについて議論され、それらの議論にはとくにTERFと呼ばれる人たちが参加している。TERFとはtrans exclusionary radical feministの略語で、トランスの人を排除するフェミニズムのことだ。

中略。ご存じターフの説明。オーストリアの映画館で、ジェンダー中立のトイレが導入されたことなども。

 

私が何度も驚かされるのは、社会のあらゆる層にトランスへの敵意があり、一見啓蒙されているフェミニストにさえ見受けらることだ。しかしなぜ他の人を排除しながら、その世界を公正で良いものにするため戦っていると信じられるのか。

 

トランス女性は女性である

これらの議論の意地悪さは、議論のさいにトランス女性をつねに女性の服を着ただけの「男性」として描き出すことだ。なので私はこの立場でもう一度声を大にして強調したい。トランス女性は女性を自称する「男性」ではなく、あくまで女性である。

日刊紙WELTの政治部編集者のThomas Vitzthumは2月初めに「トランスセクシュアリティ: 第三の性のためのトイレは必要か」という見出しで書いた。そこで彼は「バイエルン州の3つ自治体で学校新設にあたりトランスやインターセクシャルの子ども用トイレを設置しようとしている。しかしこの措置は本当に意味があるのか。」と書いた。私はこの手の記事にはいつも「待て。やめろ」と叫びたくなる。これらは誤解を招きやすく有害だからだ。トランスと第三の選択肢は別の事柄だ。報道のために調査をして専門家と話すべきジャーナリストさえ誤りを犯すことは、性の多様性に対する知識と敬意がいかに欠けているかを強調している。

そのようにいうのは、第三のトイレは中間の性の人や二分法でない性の人のためにならたしかに意味のある改良だが、たいていのトランスの人は独自のトイレを必要としていないからだ。彼らが必要なのは自分の性に合ったトイレに行けるような、安全と社会的な受容である。トランス男性で作家のJayrôme Robinetは彼の自伝の中で初めて男子トイレに入ったときのことを書いている。「そこで何が待ち受けているだろう。顎をくだかれるか。顔を殴られるか」私が行くどの男子トイレでも私は個室が空いていることを期待する。男子小便器を使うのは不安が大きすぎるからだ。2、3ヵ月前にドライブインのトイレに行ったとき、ひとりの男が私に話しかけて言った。「すぐさま女子トイレに消え失せないなら、覚悟しろよ」


「トイレ論争」は不安を煽る

それでも私がこの「論争」に参加すべきなのはとくに次のような問いを立てるためだ。トランスの人が自分の性に合ったトイレに行くのをいったいどうやって妨げるのか。ドイツの公衆トイレすべての入り口に検問を設けたいのか。DNA使わないと入場できないようにすべきか。指紋認証が解決策になるだろうか。あるいはトランスの人に共通のマークを服に縫いつけてもらって、それによってシスの人と区別し、本人にとって正しい方のトイレから排除するか。そしてそのようなマークによってトランスの人は他にどんな場所から締め出され追い出されることになるだろう。更衣室か。病室か。

英語圏では現在とりわけ激しくトイレについて議論されている。大衆紙がそれを扱わない日はほとんどない。しかしTERFにとっての問題は、ほんとうにトイレに入ってくるために「男性」が女性を自称することなのか。私の印象では、トランスの人のアイデンティティを否定するためにトイレの話題が代わりに使われているように思える。私たちの世界は変わりつつあるが、トランスの人は昔からずっといたのだ。ただ彼らは今のように大きな声を上げられなかったし、目立たなかっただけだ。このように私たちの性のため多様性がますます利を得ているが、その変化のために多くの他の人は脅かされ肩身が狭くなったように感じているのだと私は思う。トイレという議題は、不安を煽りトランスの人の存在を問題視するために利用され、それによって彼らを排除し制限し生活を困難にしている。

 

どうすれば私たちはうまく受容できるか

私が望むのは私たちがそれを自重することだ。私たちは、どうすればトランスの人がある場所に入るのを妨害したり禁止したりできるかを議論すべきではない。もしそれでもトランスの人について議論したいのであれば、どうすれば社会全体でトランスの人のアイデンティティや存在を受け入れることを実現できるのかを議論してほしい。一番いいのは、それによって彼らの経験を知ることだ。

私はさいきんある若者と会った。彼は自分がほんとうにトランス男性なのか自問していて、私や私の人生についても多くの質問をした。私はトランス男性として男子トイレに行っていいのか。男子更衣室に入っていいのか。フィットネスクラブやプールにも男性として行けるのか。その会話は長く私の記憶に残っている。多くのトランスの人がすでにあらゆる日常の場面でもっている不安や懸念や不確かさが明らかになったからだ。そしてどのトランスの人もそんな不安を感じなくてもいい。トランスの人が、どこでも、彼らを受け入れ社会の一員になれるように助けてくれる他者に会えることを信じられるといい。

 

 

この話題を日本語、英語、あるいは韓国語圏で追っている人には、何も目新しい情報はなかったと思う。AKKがトランスを揶揄した話くらいか。

日本でのこの話題だと、トイレ、更衣室、シェルターに銭湯や温泉が加わる。ドイツにも公衆のサウナやテルマがあるけど、混浴だからか上の記事にも挙げられていない。

 

トイレの話題に始まり、トランスの存在を否定するところまで行くのはドイツでも同じなようだ。日本語でも、以前「私が今の心のままで男になっても違和感はないと思う」と書いているTwitterユーザーを見かけた。

脳の機能についてはまだ専門家でもわからないことが多いそうだが、たとえば相貌失認や受容性失音楽、半側空間無視をじっさいに自分が体験することがどういう感じなのかを知るのは難しい。それでもそういう症例も、関連する脳機能も存在するのだ。

それを考えると「心がそのままで性が変わったら…」のような思考実験の無意味さ、というか想像力の無力さを痛感する。性なんて育った環境や文化の影響を受けやすいからよけいに複雑だろうし。

しかし、じゃあどうすればいいのかというのはまったく明らかで、当事者の話を聞けばいい。上にも書いてある通り。

 

 

記事紹介:ドイツのTerf シュヴァルツァーへの批判

一部のフェミニストトランスジェンダーの人々に差別的な態度をとるという風潮がアメリカでも日本でもある。ドイツにもあり、そのひとつを紹介する。

アリス・シュヴァルツァーはドイツのもっとも有名なフェミニストで雑誌Emmaの創始者である。彼女はイスラム系移民に対する批判でも知られ、人種差別的だと批判を受けている。

 

Emma-Fail: Alice Schwarzer trans*feindlich « gnurpsnewoel.

31. Juli 2014
 in Gender & LGBATTIQ* & Feminismus und Fragen & Antworten

http://gnurpsnewoel.blogsport.de/2014/07/31/emma-fail-alice-schwarzer-transfeindlich/

 

 

 

『Emma』誌の誤り: トランス敵視なアリス・シュヴァルツァー

助言を乞われても何を言うべきかさっぱりわからないという人は何をするだろうか。そう、それを正直に認めるのだ。あるいは助言ができる立場の人のところに行くように言う。アリス・シュヴァルツァーはそうしなかった。

 

 

シュヴァルツァーは雑誌Emmaの彼女のコラム「アリスに聞く」の中で、施設指導員のBengtaから、トランスの若者をどう扱えばいいかを質問された。シュヴァルツァーはそれに基づいて相談コラムで安易にトランス敵視の言い回しをする様子を見せた。彼女はその言い回しをほとんどすべてなぞり、文を混ぜ合わせ、Emmaに書いて出版した。ここにシュヴァルツァーの長話のサンプルを並べるとこうだ。

 

  • 「偽の皮をかぶって」「生物学的な女性」「転換手術をする」「性役割を切り替える」「自由に選択できる」「心の葛藤」「身体を切り刻む」「女の子なのか疑わしい人」「役割からの脱却」「早まってホルモン摂取や手術施行をしないように」「フラッパー」「カテゴリーに凝り固まった思想」


トランス敵視は、「言語による攻撃や、性的アイデンティティの疑問視や否認、(…)精神病理化、(…)存在しないものとするような表現、(…)異物化」の形で現れるとベルリンの人権団体TransInterQueerは定義している。シュヴァルツァーはすべてに該当する。Bengtaの施設にいる若者には申し訳ない。なので依然として、指導員のBengtaがEmmaの他にも情報源をもっていることが望まれる。彼女はその若者と施設からトランス専門の相談センターに行くかもしれない。情報はたとえばポータルサイトの meingeschlecht.de でも見つかる。そこならシュヴァルツァーとは違う適切な相談もできる。

 

 

アリス・シュヴァルツァーらは、ジュディス・バトラーなどのポストモダン的なフェミニストを批判している。そういった議論の中で「ジェンダリズム」(「ジェンダー主義」)という言葉が使われる。これはトランス排除にも関係する用語である。ここで↓紹介しているようなバトラー批判が反ジェンダリズムに当たる。これが「性差を相対化しすぎて女性の権利主張もできなくなっている」というのが主旨だ。

http://ottimomusita.hatenablog.com/entry/2018/02/16/193859

 

トランスジェンダリズム」という言葉は英語圏、日本語圏でも見かけると思う。この「ジェンダリズム」も反トランスの用語であり、似ているが、もう少し広い。ジェンダー平等を目指す政治的な動きも批判の対象に含まれていて、保守派の政治活動と一部結びついているらしい。ここまでくるとTERFといってももはやフェミニズムですらない。ここ↓で紹介している論文が詳しい。

http://ottimomusita.hatenablog.com/entry/2019/02/01/191718

 

その論文にも書かれているが、このジェンダー主義というレッテルはイスラム系の移民排除の言説の中でよく使われる。「イスラム教の女性差別には甘いのに、西欧のジェンダー平等には厳しい。これはおかしい」という具合に。

 

 

論文紹介: ドイツの移民ケア労働者 前編


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ポーランドの移民女性の家庭使用人、マグダが活躍するドイツの人気ホームドラマ

 

Twitterにこんな書き込みが、


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下の記事のような話についてのようだ。

ノルウェーでオペア制度廃止の議論 裕福な家族がフィリピン人女性子守りを搾取する温床に(鐙麻樹) - 個人 - Yahoo!ニュース

女性の社会進出の裏にケア労働で搾取される移民がいる、という話でフェミニストを糾弾する人はそもそもケア労働は女の仕事だという前提で話している。しかし、男も恩恵に与っているではないか。

これはまったくその通りだと思う。

そしてどんな業界にも一般的に搾取はある。

それもその通りなんだけど、とくにケアの領域で搾取が起きやすいこと、そしてそれが女性の「輝かしい社会進出」と対照をなしていることには注意が必要だ。

もし、家事やお年寄りや子どもの世話のようなケア労働が、弁護士や銀行員と同じくらい社会的に評価されていればこういう構図にはならないだろう。ケア労働はたまに思いだしたように、立派な仕事だ、献身的だ、と褒められるものの、ふだんは忘れられ大して給料を貰えていない。

ケア労働は女性の仕事と見なされることが多く、ケア労働の軽視と女性差別は関連している。じっさいキャリア志向なリベラリズム的なフェミニズムに対してフェミニズム内部でも批判はある。

 

ドイツでの移民のケア労働者をめぐる状況について論文を調べた。以下の論文は主に法律について書かれている。

http://www.ethik-und-gesellschaft.de/ojs/index.php/eug/article/view/2-2013-art-2/51 [pdf]

http://www.ethik-und-gesellschaft.de/ojs/index.php/eug/article/view/2-2013-art-2

Constanze Janda

 

Feminisierte Migration in der Krise? Pflegearbeit in Privathaushalten aus aufenthalts-, arbeits- und sozialrechtlicher Perspektive

女性化された移民は危機にあるか在留、労働、社会福祉の観点から見た私的な家事でのケア労働 

 

Constanze Janda

要点

  • ドイツでは福祉による介護給付だけでは足りず、移民がよく家庭労働に雇われる
  • ケア労働をするのは東欧や非EUからの移民が多い
  • ケア労働の需要はあるが募集のための法的な枠はあまりない
  • そのため移民ケア労働者は不安定な働き方やときに違法労働をよぎなくされている

 

1. 導入

2007年の住宅投機による経済危機でEUで失業率が上がった。これは移民にも影響し、失業者が職を求めて移住したり、また移民が仕事をなくして帰国する動きもあった。低賃金で条件の悪い仕事でも自国民が行うためだ。ドイツ国内で失業した移民にとって、移民権は在留できるかどうかに関わる。さらに労働や福祉的な保護も問題だ。

ドイツでは「家事は夫婦両方の責任」と民法で決められており、就業は夫婦両方の権利だという。

そのため女性の就業は増え、家事は家庭外の労働力に割り当てられる。きっかけはさまざまで、高齢者やケアが必要な人が増えたことや、また職業のため家事に必要な時間がなくなったこと(いわゆるケア欠損, Lutz 2013, 1258; Moritz 2007, 151; Frings 2011, 82) などだ。また女性の就業で家庭の収入が増えて、雇いやすくなった。

1.2 女性化する移民

しかし、それによって性的役割分担は変わらず、家庭労働はあいかわらずおもに女性がしている。IAO(国際労働機構)の報告では世界に5200万人の家事労働者がいる。そのうち83%が女性だ(ILO 2013, 20)。なので家事は再分配されているが(Lutz 2002, 88; Hess 2008, 109)、ますます多くの移民女性がやっている。

この社会的な地位を専門用語で「女性化された移民」という。昔ながらの家事労働を他の家庭で引き継ぐ女性の移民のことだ(Granato 2004, 2)。女性は、男性(労働)移民の家族としてではなく、ひとりで自分の目的をもって入国する。彼女らは仕事で家計に多大な貢献をする(Lenhart 2007, 32; Apitzsch/Schmidbaur 2011, 46; Morokvasic 2009, 28; Liebig 2011, 19; Spindler 2011, 173)。

女性化された移民は、短期間・一定周期で行われるという特徴がある(Apitzsch; Schmidbaur 2011, 46; Lutz 2013, 1258)。たいてい、長期在留したり生活の場をそこにおちつけるつもりはない。またたいてい、複数の国に移住はせず、出身国から同じ国に何度も来る(Zerger 2008, 1; Parusel/Schneider 2011, 248)。これは、故郷に残してきた家族を手放さなくてすむので移民女性の利益になるし、特定分野で短期の労働力需要を満たせるので受け入れ国の利益にもなる。

この現象は新しいものではなく、鉄のカーテン崩壊以来、とくにEUの東方拡大のあと重要性を増してきて(Lenhart 2007, 30)、中欧や東欧の国民と関連してきた(Lutz/Palenga-Möllenbeck 2010, 421)。この「新しい」EU市民の就労自由期間が終わってからは、移民の動向は第三国に移った。
 

 

1.3 「ケア緊急事態」と女性化された移民

女性化された移民はいろいろな観点から語られるが、この論文は重要性の高さのためケア移民の法的な条件範囲に焦点を当てる。そこで果たされる仕事は典型的に女性的なものだとされ、人目につきにくく、そのために困難な条件で行われ、社会的に価値ある仕事として認知されにくい(Morokvasic 2009, 29f.)。在留法の条件の間隙や不明瞭さと、脱法的な手配を利用する特徴がある「グレーなケア市場」の存在は立法府もしぶしぶ認めている(BT-Drs. 17/8373, 1)。

このあと社会福祉法(SGB)について書かれている。日本の介護保険制度に当たるものがドイツで施行されたのは1995年だ(日本は2000年)。それまでは介護は妻や娘や息子の嫁など個人でしていたが、保険加入者の共同責任になった。在宅や通院での介護の現物支給や費用の負担補助があるが、それは十分なものではないという。なるべく家庭や地域でするものという方針があるそうだ。

ここまでは日本と似ているだが、ドイツでは福祉で足りないぶん東欧やその他の国からの移民を雇い、彼らが住み込みで働いてケア労働をするようになったという。

 

2 女性化された移民の法的な条件範囲

外国人の入国と在留、また就労は国家の法にしたがい許可保留つきの禁止を受ける。以下はケア労働をしている移民の法的な位置づけが詳述されている。

 

2.1 EU市民の女性の在留と労働市場参入の権利

外国人でもEU加盟国の国民とその他の国で条件は違う。EU市民の女性には制限はない。彼女らは、ドイツ連邦でも他のEU加入国でも在留と就労は特別の許可は要らず自由だという。国籍による労働条件の差別も禁止されている。

しかしこの差別禁止そのものはふさわしい労働条件と賃金の保障を約束するものではない。ドイツのケアの分野では労働条件はたいてい国籍に関わらず不安定だ。家事やケアでのサービス業の自営での提供はArt. 56 AEUV[EU労働基本条約]でサービス業の自由として保障されている。

 

2.2.1  就労者自由参入権の暫定規定

EUではEU市民は移動も就労も自由なのだが、ドイツなどでは、国内の労働市場を守るために東欧の国にたいして一部規制をかけていた。

自由な移住はEU全体で認められたわけではなく、各国が2+3+2ルールと呼ばれる規則にしたがい段階的に自由な移住を容認するかどうかを自分たちで決めた(Fuchs 2010, 980; Nowak 2012, 13)。重要なのは現在この猶予期間はクロアチアにたいしてだけ残っていることだ。ブルガリアルーマニアの国民は2013年12月31日に暫定期間が満了し完全に平等な立場を得た。

したがってEU市民女性のヨーロッパ内部での移民動向は法的には自由だ。彼女らのケアの仕事への参入の問題もない。そのため就労のために乗り越えるべき法的な障壁は少なく、実際的な障壁がある。これらの障壁は、搾取的なことがおおい就職や労働条件の交渉のさいの雇用者の差別的な態度にある(Spindler 2011, 171; ILO 2013, 45)。ブルガリア人とルーマニア人就労者の住み込みケア労働者としての就業の需要は減少するだろう。なぜなら自由な参入の承諾を得て、よりよい給料と整備された労働条件の見通しがあり、もはや魅力のない仕事に頼らなくてもいいからだ(Schmid 2010, 190)。

クロアチアについても現在は2015年いらい完全に門戸開放されている。

独がクロアチアに労働市場を完全開放、7月に就労制限撤廃 | FBC

この論文は2013年のものなので例外的だったクロアチアについて詳述されている。このときは国内の労働市場を守るための規制がかけられていた。

 

 

2.2 第三国の国民の在留と就労の参入権

EU以外の外国、第三国は入国も就労それぞれ法で制限されている。

入国にはパスポートとビザが必要で(§§ 3, 6 AufenthG)、在留には在留資格(§ 4 Abs. 1 AufenthG)、就業には法令か官令の許可が要る(§ 4 Abs. 2 AufenthG)。

稼ぐため繰り返し何度も移住することは在留法では想定されていないが、可能だ。

すでに在留を法的にまとめることは、何重もの官僚的障壁に結びついているため難しくなっている。在留資格の授与は、§ 5 Abs. 1 AufenthGにしたがい、生活費の保証と十分な医療保険があることを前提とする。

じっさいには旅行ビザを利用する場合もあるという。

在留が認められても就労が認められるわけではなく、別に許可がいる。

在留法には、政治的理由や人道的理由で難民やその家族を受け入れるための枠があり、それらの人も働ける仕組みがあるが、ケア労働を担っているのは典型的にはそれらの難民ではない。ケア需要を満たすという、もっと実利的な理由で就労が促進されているという。

しかしケア労働力の著しい需要にもかかわらず、ここ分野での体系だった就労者募集の努力はみられない。これらの職務はむしろ1973年に発せられた募集中止がいまだに効いている(Keller 2005, 30; TießlerMarenda 2008, 5)。

募集停止というのは、ドイツ国内の労働者の雇用を守るための外国人の就労制限である。

したがって、それらは連邦労働局(BA)の同意での就職を目的とした在留資格の授与の枠内でのみ許される(§§ 18, 39 AufenthG)。

ケア労働力としてドイツ連邦で働きたい移民女性は、滞在資格に加えて、優先度審査に合格し、国内の労働者と同じ条件で仕事をしないといけない。

優先度審査というのは、高い能力をもった外国人の就労を優先して許可するための審査で、資格や経験が必要である。これらを満たすのは不安定な住み込みケアワーカーではたいてい難しい。じっさいには安く使えるケア労働者の需要があるが、表向きには「能力の低い移民はいらない」というのが基本的な態度になっている。

§§ 18, 39 AufenthGにしたがい在留資格が授与されると周期的な移住が可能になる。この資格は§ 51 Abs. 1 Nr. 6 und Nr. 7 AufenthGにそって単に完全に出国してしまうか、外国に6ヶ月以上続けて滞在するだけで失効する。

 

 

2.2.3. 女性化された移民を可能にする特別規則

立法府は§ 42 AufenthGの中で管轄の連邦労働福祉省(BMAS)に、法令の形で移民の労働市場参入権を細かく規定する権限を与えている。

BeschV(就労令)で職種ごとに決まりを定めている。

それもふくめてケア労働をできる可能性があるものは、オペア(§ 12 BeschV)、派遣の家事使用人(§ 13 BeschV)、家事手伝い(§ 15c BeschV)、ケア労働力の派遣(国際法社会保障協定)、自営業を目的とした在留許可(§ 21 AufenthG)の5つ挙げられている。結論から言うとこの5つの枠のどれもケア労働が利用するのは難しい。

「オペア」がまだ比較的かんたんそうだが、もともとケア労働のための制度ではない。子守りや家事を手伝いながら外国語や異文化を学ぶための制度で、働く家庭に18歳以下の子どもがいないといけないとされている(DA 2.20.114 zur BeschV)。

「派遣の家事使用人」は、適応範囲が狭い。1年以上家庭労働参加をドイツで望んでいて、かつ会社などから派遣されなければいけない。ふつうに移民してこれを利用するのは不可能だ。

「家事手伝い」は、

§ 15c BeschVにより、社会保険加入義務のあるフルタイムの家事手伝いを目指すときのみBA(連邦雇用庁)の同意が得られる。家事手伝いという概念は誤解を招きやすいが、この用語は§ 14 SGB XIでいうケアが必要な人のいる家庭での仕事でないといけない(DA Haushaltshilfen 4.3.3)。したがってたとえば自分の世話がまったくできない認知症の人のような人の世話でなければ§ 15c BeschVでは可能にならない。

この仕事は家族によるケアや資格をもたない人にも働き口を取られることがあり、不安定である。

家事手伝いとしての仕事は最大3年まで許されるので一時的なものになり、雇い主は人員を入れ替える。さらにBAの同意の前提条件は家事手伝いの人の出身国の労働管理局の斡旋協定を必要とする。そのような協定はこれまで第三国と結ばれておらず、今のところ第三国の国民にこの移住ルートは開かれていない。

「ケア労働力を派遣すること」は、EU内の国の企業にはサービス業の自由として認められており、EU外の国には社会保障協定をドイツと結んでいる国に認められている。これらは企業のための決まりだ。労働法は出身国の法に準じる。

注目すべきは、派遣は短期間しか許されておらず、さらに連続派遣として延長はできないということだ。それをこえると老人介護師の認定職業資格が必要になる(Frings 2010, 67)。じっさい自分で調達するケア労働力にとって派遣は合法的に国内で働けるようになる選択肢ではない。

「自営業」は起業家ためのもので多くの投資と将来性が求められる。

 

 

以上のように、需要はあるのに、EU以外の国から来たケア労働者が合法的に働くのは難しい。

移住法は規則の適応対象として男女を区別しない。しかし規則は特定の役割分担を再現する。たしかに立法府は高い資格をもった労働力の移民流入を促進してきた。高い資格をもった就労者、指導的地位、管理職、あるいは学問やIT部門などでの女性の割合は比較的少ない(Keller 2005, 36; Shinozaki 2009, 76; Kofman 2013, 580)。圧倒的に女性が行っている教育やケアでの仕事はたいてい安定した高い資格の職とは認められていない(Shinozaki 2009, 71)。また資格となる職業経験も条件付きでしか助けにならない。高資格者移民の永住は学んだ職業で仕事をするという前提条件の影響下にあるからだ。したがって女性化された移民はたいていの場合、資格がなく価値の低い雇用で、それは制限にさらされている。つまり、移民してきた女性は高資格の職に就くチャンスもドイツに永住する展望もほとんどないため、高い資格を持っている場合でさえ「伝統的に女性のもの」とされる職を割り当てられる。彼女らの移住事情は「低い資格」で特徴づけられる(Keller 2005, 37; Liebig 2011, 29; Morokvasic 2009, 37; Shinozaki 2009, 71)。

後半は移民ケア労働者の置かれている状況を労働法との関連で書いている。またいつか紹介する。

下のリンクのPDFの初めの2ページが、移民の労働について日本語でよくまとまっている。就労令の章番号が上に紹介したものと合わないが、2013年に改正があったのでそれ以前のものかもしれない。

 

http://kantohsociologicalsociety.jp/congress/53/points_section01.html

年の瀬と、二つの魔法のこと


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世界には二種類の魔法がある。仕組みがわかっても解けないものと、仕組みがわかると解けるものだ。
酒は第一の魔法で、サンタクロースは第二の魔法だ。

酒に酔う、その生理学的な仕組みがわかっても、酩酊の魔法は解けない。

いっぽうで、「サンタクロースはお父さん」みたいな身もフタもない真実とされるものを人は幼少期からいくつも突きつけられて、たくさんの魔法を解かれて大人になっていく。
 

潮干狩りの貝は漁師が浜にわざわざ撒いてるということや、ペットショップで売れ残った犬猫の行方や、着色料や添加物についてや、UFO映像に使われたCGや、ファーストフードの店員の笑顔の源なんかを知りながら歳を重ねる。

そうして幾度も学びと幻滅をくりかえし、なんとく抽象的なことも考えられるようになると、ショックを受ける前に(これは怪しいぞ)と鼻が利くようになってくる。身もフタもない真実がウラに隠れているぞ、と気づくようになる。

 

その点、科学、とくに自然科学は、世の中の裏返ったカードをみんなひっくり返して日の下に晒してくれるような安心感がある。小学校4~6年生くらいの子に科学や自然が好きな子が多いのもなにかそういう理由があるのかもしれない。
 

「真実は身もフタもないものだった」
 

たしかにそいうことはままありうるし、真実が残酷だったり下世話だったりすることもある。そういう場面は印象が強いし、記憶にも残る。ただしそれはあくまで印象にすぎず、

「身もフタもない。“だから“真実だ」

という推論はなりたたない。

なりたたないのだけど、身もフタもないもの、より幻滅を味わえそうなものを先回りして真実だと決めてしまうバイアスはある。露骨で夢がないという感じが、客観性を担保してくれる証拠のようにすら解釈される。

 

性欲やお金、利害や欲望、偽善や陰謀、政治や策略、そういう仕組みの存在を優先して真実と見なし、魔法を暴いてしまえば、傷つけられることはないだろう。もうサンタクロースに騙されたくない。まだサンタクロースを信じている友だちをバカにしてやりたい。これは何を切り落とすカミソリなのだろうか。

 

じっさい、魔法が解けた人たちはまだ魔法のさなかにいる人たちをとても冷静に見ていて、ときに辛辣だ。進化心理学の信奉者から見ると世の人たちは遺伝子の操り人形だ。フェミニズムを学んだ人からすればミソジニストは女性学の教科書どおりにふるまっている。占星術に無知なものは星の動きに従順である、という言葉もあるそうだ。

 

世の中の仕組みにはいろんな説明の仕方がありうる。統計を用いた説明、階級闘争としての説明、遺伝子の遺しやすさによる説明、物語のような説明、経済学的な説明、道徳を重んじる説明、精神分析の説明、ゲームの理論などなど。その中のひとつが誰かを幻滅させそうなものだからといってそれに飛びつかなくてもいい。


相手の手札の中にジョーカーがあるとわかっても自分がそれを引くと決まったわけではない。よくよく、選ばないといけない。いくつかのカードはいかにも引いてくれと言わんばかりに突き出してくる。他のカードは前のカードに隠れて引きにくい。

 

魔法や呪いを解いてくれる説明、それ自体が別の魔法や呪文だということもある。科学がオカルトの魔法を解いてくれたあと、科学至上主義という憑き物を科学史や科学哲学がお祓いしてくれるかもしれない。何がジョーカーなのかは場合によって変わりうる。

 

あるいは早めにババを引いてしまったほうがいいときもあるだろう。また早めに自分のもとを離れていってくれるから。手札を入れ替えているうちに、還元しすぎず特殊化しすぎない、現象に合った大きさのカードが見つかるかもしれない。あるいはいくつものあいだで迷っている状態がちょうどいいのかもしれない。

ある理論によって真実を知り、理論に対する批判を知ってその理論から距離を置き、また一周まわってきて再評価して...。解いては説かれ、説かれては解いて、そういうカード遊びに親しむうちにおちつくところにおちつくだろう。

 

いったいどこにおちつくのか。それはしばしば第一の魔法のもとである。仕組みを理解しても解けない魔法。それは弄んでいる手札ではなく、自身の体のほうにある陶酔と苦痛だ。比較行動学や愛着理論を学んでも、相変わらず子どもは可愛いし、恋愛もする。認知心理学で視覚の仕組みを学んでも、錯視が消えることはない。
 

ウンベルト・エーコの小説『フーコーの振り子』で、知的遊戯にのめりこんで危うげになる主人公を、その妻が諫めるくだりがある。そこで彼女はこの第一の魔法にも訴えていたのだと思う。身体感覚や親密な関係、日常生活の知恵から出発して思考すれば、抽象的で極端な思想に走らない。途方もない高さまで積み上がった理論に連れ去れそうな意識をお腹のまんなかあたりにひっぱりもどしてくれる。

 

「革命思想に殉じるべきだ」

「すべての現実は社会的に構築されている」

「個体は遺伝子の乗り物にすぎない」

でも、ほんとうに?そう問いかけて立ち止まらせてくれる。

 

とはいえ、思想のカード遊びに興ずるインテリにはいい薬なのかもしれないが、ぼくたち俗人にとってナイーブさは精緻な理論や高邁な思想以上の劇薬になる。解けないぶん間違っていても修正が効きにくいため危険だ。

 

「そうはいっても、気持ち悪いじゃない」

「わかっちゃいるけど、信じたいんだよ」

 

素朴な実感の前では百の言葉も空疎に響くし、現実の痛みに理屈は通じない。知識人と呼ばれる人たちでさえさいきんはすごく素朴な実感でものを言う。

 

ナショナリズムは幻想なんだってね。知ってるよ。でもね...」

「正しさばかり主張してもね...」

そいういう声があちこちから聞こえるのが情の時代といわれるゆえんなんだろう。今は原初の魔法こそ猛威をふるっている。2020年代はどうなるやら。
 

あらためてみなさん、メリークリスマス。サンタクロースが来る人も、来ない人も。年末年始、お酒の飲み過ぎには気をつけて。

 

 

 

 

 

 

 

記事紹介: 移民と労働市場

 

移民と労働市場に関するわりと最近の記事。

 

https://m.tagesspiegel.de/politik/studie-zu-migranten-am-arbeitsmarkt-politik-macht-fluechtlingen-das-arbeiten-schwer/24466174.html?utm_referrer=https%3A%2F%2Fwww.google.com%2F

 

要点は、

 

  • 難民の3分の1が職を得ていて統合も以前より早い
  • しかし職業訓練不足や不安定な業種など問題もある
  • 移民が働きにくいのには法律の問題もある
  • 色んな意見に配慮した法律はときに複雑で不明瞭
  • 実践的な法律とよい行政運営が必要
  • 2015、6年の難民ラッシュは例外的な事態

 

 

 

Studie zu Migranten am Arbeitsmarkt

Politik macht Flüchtlingen das Arbeiten schwer

19.06.2019, 15:05 Uhr

 

労働市場の移民の研究

政治は移民の労働を困難にしている
 

Andrea Dernbach
 


難民は一方でより早く職を見つけている。しかし「象徴政治[パフォーマンスにすぎない政策のこと]と実用的でない[連合のための]妥協」は大きな障害だ、とベルリン研究所。

 

移民政策が相矛盾した目標を目指しているせいで、難民は働いたり長く続けられる仕事を見つけたり職業訓練を修了したりするのが困難になる。これはベルリンの人口発展研究所の研究結果だ。この研究によってさらに明るみにでたのは、難民だけでなく役人をも巻き込む官僚制の密林である。

これらすべては、新しく来た人々がドイツにもたらした言語の問題や資格や能力の不足の問題として深刻化していると「個人と制度の障害。難民の労働市場統合への長い道」という研究[論文のPDFリンク]のチームは書いている。

著者のTanja KiziakとFrederick SixtusとReiner Klingholzは、公開データから引用した数字を利用しており、その分析のためにメルカトル財団との彼女らの研究所の2回の専門家ワークショップの成果と26人の難民のインタビューから抜粋した。この議論の文書はそこで、激しい移民流入があったかつてよりも統合は素早く進んでいると評価した。

すでに1月にIAB(労働市場職業調査研究所)は、DIW(ドイツ経済調査研究所)と連邦移民難民局の社会経済の世論調査回答者について、2013年から2016年にドイツに亡命した人の3分の1以上が仕事をもっており、そのうち80%が社会保険加入義務のある職だったと立証した。

しかし、ベルリン研究所は職の質に難があるとし、「とりわけ建物の清掃や飲食業のような不安定なことが多い職種ではさまざまに支援の仕事が重要になる」と示した。2018年に社会保険加入義務のある職業を見つけた難民の3分の1以上は派遣業種で雇われているという。そしてそこから長く続けられる仕事にステップアップすることはたいてい失敗する、と連邦政府の情報を引いた研究で述べている。

 

 

各州は法律に異なる解釈をしている
 

たしかにドイツの政策や行政の責任ではない障害もある。それは言語の困難のほかに、故郷に残った親族を助けたり亡命の手引きをしてくれた人への負債の支払いをするために、すぐにお金を稼ぐ必要があることなどである。

しかし、難民の情報や、雇用者や役所の職員など集められた専門家の情報をみると、「制度的な障害はそれらよりも妨げになる」ということがわかる。さらに、働きたい難民は自治体や「福祉局、住居局、外人局、難民移民局支所、ジョブセンター、職業紹介所に」行かなければいけない。連邦制による権限の分配のために、各州が連邦法に異なる解釈をすることになる。たとえば、バイエルン職業訓練中の辞職は「難民にとってきわめて不利と解釈される」。

さらに難民の職業訓練の状況は明らかにドイツ人の職業訓練状況よりも、あるいはドイツのパスポートがないすべての職業訓練生の平均よりも、頻繁に終了する(37.5%対24.9%)。全体としては、高い中退率は若い人たちが職業選択を変えたり会社を変えたりすることに起因する。しかし難民はたいてい職業学校や言語のために失敗する、と共著者のFrederick SixtusはTagesspiegelで述べた。たしかに許可を得た人は職業訓練を開始してもよいが、職業特有の言語授業を受ける権利はない。さらに授業時間は職業訓練する会社の要件にも合わないことが多い。
 

 

子どもの割合が高く、大きな潜在性
 

さらなる妨げは連邦、州、自治体間の情報交換である。ITの規格がすでに極端に相異なるため情報交換は麻痺しているという。そして立法府がますます移民法を作っているので、それを適応するべき法的状態が雑然としており、はじめはまったく十分に実行において移行されない。住所義務が2016年に(再度)施行されたあいだは、難民の労働を直接妨げるものもあった。

ドイツでの彼らの家族の後続移民などの展望の不確かさは、彼らが新しい故郷としてのドイツとかかわり合い、ここで将来と向き合うことを妨げた、KiziakとSixtusとKlingholzは書いている。

2016年には11%が単科大学卒で、5%しか職業訓練を修了していなかったというような、しばしば嘆かれる資格取得の少なさはどうもじっさいはそうではないようだ。多くの難民は論文によると「亡命の時点で単純に専門資格をとるには若すぎた」という。全体として、若い人々、とくに子どもの割合が高いのは利点だという。「彼らは数年後にも労働市場の大きな潜在力になる」。
 

 

政治は決定できないと研究者

 

この3名は、問題の根源はドイツの政治が決定できないことだとしている。ドイツの政治は「保守から世界に開かれた進歩派まで」ドイツ社会のすべての立場を顧慮しようとし、右派の周辺やそれが強くなることを危惧し、またヨーロッパの近隣国から「そのいっそう制限的になる[移民]政策を模倣すること」を求められていると感じているという。

これらの混合は「実用的でない妥協や、ときには象徴政治に」つながると研究では判定されている。「研究成果では、実際にとられているやり方では多くのことがドイツで暮らす難民の状況を困難にしている。そして、同時に社会的立場間での真の均一化は実現できていない。」

 

法律はより少なく、実践を多く
 

Kiziak、SixtusとKlingholzは打開策として、よりよい法整備のための議会での発想の転換を提案している。苦労した連合のための妥協の成果であり、そのためはっきり定式化されておらず広く解釈でき問題に触れるだけで解決しない。そういった法律はむしろ断念したほうがよいという。

過ぎたるは及ばざるがごとし。新しい複雑化した法律はなかなか「スムーズかつ適切に」切り替えできないので、「立法は細部すべてまでは規定できず、いくらかの難しい事態の解決法は良い行政運営と実用的な法律にあるという認識」という認識が政治には必要になる。

そしてさらに政治が認識すべきことは、2015年と2016年がピークの難民流入の多さのような例外的な状況は例外的な規則をもって解決されるということだ。これは、すでに連邦労働局の労働市場・職業調査研究所が提案していた期日規則にあたる。それは2017年の終わりまでにドイツに来た人はひとまとめにして期限つき在留許可が得られ、それを統合の度合いによって延長するというものだ。そうすることで迅速に必要な権利保障が得られ、労働市場への道が容易になる。現在の難民危機から移民管理の新しいシステムを作り出す試みは不可能だと彼女らは宣言する。「例外的な状況は将来の路線を定めるのには適さない。」

 

 

さまざまな政治的立場に配慮しなければいけないのは、そもそも移民の就労が増えればドイツ人の働き口が減って困るという本音があるからだろう。しかし一方で、排除してはいけないという名分があり、そのあいだでジレンマがあるせいだろう。

そこの妥協点を探ることが必要なんだろうけど、移民のせいで仕事が減る!とはだれもあまりはっきりと言いにくいのか、調べてもなかなかジレンマとの取り組みが見えてこない。

主な案内では「移民の統合は最優先です」みたいなお役所の麗句がでてくるだけだ。自分の体験として、

「外人局では、働くのは日本食のレストランだって言ってね。ドイツ人と求人で競合しにくいほうがビザとりやすいから」

と言われていた身としては、なんだかシラジラしい。

目下興味があるのは、移民の労働環境だ。移民政策が労働環境にどう影響するのか、いろいろ読んでみる予定。

 

 

 

記事紹介: ドイツのイスラム教徒フェミニスト5名

去年3月の記事。ドイツにいるイスラム教徒でフェミニストの女性を5名紹介している。3月27日はムスリム女性の日だそうだ。

 

5 muslimische Feministinnen in Deutschland - watson

 

ドイツの代表的なムスリムフェミニスト5名

2018年3月29日 Yasmin Polatの記事
 [序文略]

ここではドイツで公にイスラム教内でフェミニズムのテーマに取り組む5人のムスリム女性を挙げる。

 

 

Lamya Kaddor

  • この宗教教育学者でイスラム学者の女性はリベラルなムスリム女性と自称している。
  • 彼女はシリア移民の娘で、数年間はムスリム内のリベラルと伝統主義者の間の意志疎通に力を尽くしている。
  • 過激派とイスラム教についていくつかの著作があり、2010年には『ムスリムで、女性で、ドイツ人 現代的イスラム教への私の道のり』という本を出版した

 

「私たちは民主主義のなかで生きており、男女の性の平等はイスラム教にも規定されています(あなた方は笑うかもしれませんがそう言います)。もちろんそれをまったく実行に移さないムスリムはまだまだいますが」

ZDFの[テレビ番組の]『金曜日フォーラム』での会話での
Lamya Kaddor

 

フェミニズムは『エンパワーメント』されるべきもので保護下に置かれるべきではない」

T-onlineのコラムでのKaddor

 

 

 

Seyran Ateş

  • 弁護士、作家、女性権論者、イマーム[礼拝時にお手本になる人]
  • トルコ人クルド人を親にもち、長年弁護士として働いている
  • 1984年の面談で彼女の依頼人の男が妻を射殺したときにAteşも撃たれた
  • Ateşは他の人たちといっしょにベルリンに、リベラルで世俗的なイブン-ルシュド-ゲーテ-モスクを設立し、そのために脅迫され警察の保護下に入った
  • 彼女のモスクでは女性のイマームや同性愛者のイマームに礼拝のお手本をさせている
  • しかし彼女は評価の別れる人物である。なかでも彼女はイブン-ルシュド-ゲーテ-モスクでベールで覆わない女性を許容しているためだ
  • 彼女はさいきん『Krier』紙のインタビューで、ドイツの女性はスカーフをかぶることで外国の政府から給料をもらっているかもしれないと主張した

 

「まだ確証はないが、その環境に入ればわかる。ドイツの清掃婦はスカーフを被っていると100ユーロ多くもらう。AKP(公正発展党)の支持者はトルコの女性を訪れてスカーフがつまった袋をわたして、『もし君が美容品サロンでスカーフをかぶり、君の女性客にスカーフをかぶるように促せば我々は給料を支払おう』と言う。

これは氷山の一角に過ぎない。女性の大学生には、裁判所前でスカーフをかぶる権利を訴える行進をしても支払われる。まだ証拠を出すことはできないが、いつかこの女性たちが話すだろう」
kurier.at(06.03.2018)のインタビューでSeyran Ateş 

 

証拠はないって書いてるけど本当なんだろうか。ブルカに報酬出てるって...。ちょっと気にして話題追っておこう。

 

 

Kübra Gümüşay

  • ジャーナリスト、ブロガー、ネット活動家
  • 社会的なテーマについて多く意見を述べており、twitterに一万八千人のフォロワーがいる


「女性は、ある宗教を信じても信じなくても、その理由の正当化をしなくてもいい」

Kübra Gümüşay 2016年のフリードリッヒ・エーベルト基金の講演にて

 

  • ケルンの大晦日の夜(2015/2016)のあと彼女は #ausnahmslos [例外なく] キャンペーンを開始した。そのなかで彼女は他の人たちと、性暴力はつねに話題にされるべきで、犯人が「よそ者」と推定されたときに限ってはいけないと主張した
  • ラッパーのLady Bitch Rayとしても知られるReyhan Şahinは2年前[2016年]にfacebookの投稿でGümüşayがエルドアンに親和的だと非難した
  •  Gümüşayは彼女のホームページでこの非難に対して声明を出して答えた

 

そこでたとえばこのように述べている。

「ここ数日間、さまざまな政党や組織について私がその支持者だという嘘を言ってくる人たちがいます。敵味方思考や無力が分断を許容するかもしれないという疑念は私を失望させます。しかしそれは私たちの現在について多くを語っています。私たちの社会や私たちについて。(...) 私は、個人の中でも仕事でも、いくつかのアイデンティティと理念を調和させています。それらは根本的に矛盾するわけではなくてもトルコのあらゆる政治的陣営で(他のところでもですが)、なにかしらひんしゅくを買います」

 

Şahinは再び反論した。

 

Reyhan ŞahinのGümüşayへの再反論を書いたfacebookの投稿のリンクが貼られている。Şahinのイスラム教とフェミニズムに関する意見は以前このブログの以前の投稿で紹介していた。Gümüşayのエルドアン支持にも触れていた。

元の記事

イスラムの立場からGümüşayを批判するドイツ緑の党なども問題にしていて、かなり公平な、というか率直な記事だと感じた覚えがある。ラッパーだったのは知らなかった。てっきり学者か記者だと思っていた。

Lady Bitch Rayの曲

 

Sineb El Masrar

  • ジャーナリスト、作家
  • 女性誌『Gazelle』の創刊者。この雑誌では2006年からすでにスカーフやベールをつけた女性が討論していた
  • 2010年に『Muslim Girls - Wer sie sind, wie sie leben[ムスリム・ガール 彼女らの素顔と生き方]』を出版。その中で彼女はたとえばメディアでのムスリム女性の受容について論じている。この本は2015年にタイトルを変えて再度出版された
  • 彼女の著書『Emanzipation im Islam [イスラム教内での解放]』はMilli Görüsという組織の訴えで新聞の大見出しになった
  • ムスリム女性やクィアムスリムの自己決定権のために尽力

 

「女性はユダヤ教徒ムスリムキリスト教徒、仏教徒、あるいはその他のなんでもなれるし、それと同時にフェミニストにもなれます」

frankfurter rundschauのインタビューでのEl Masrar


「私たちドイツのムスリム女性はついに立ち上がる。連盟やモスク会館や家庭の多くの男性たちといくらかの女性たちの好意と慈悲をもはやあてにしたくないなら、私たちは勇気を見せるべきだ。今や、私たちの解放の遺産を求め、きっぱりと自由を支持し排除に抗い、ふみだす時だ」

『emanzipation im islam』の帯の文句
 

 

 

Khola Maryam Hübsch

  • ジャーナリスト、記者、ブロガー
  • Ahmadiyya共同体で宗教間の対話に尽力
  • 2014年に彼女の著書『Unter dem Schleier die Freiheit – Was der Islam zu einem wirklich emanzipierten Frauenbild beitragen kann[ベールの下の自由 -真に解放された女性像のためイスラム教になにができるか]』で彼女は、性差化された社会に鏡をさしだして問う。これがじっさいどう解放されているのか。自由意思でスカーフをかぶることはフェミニズム的ではないのか
  • 彼女はなんどもブルカ禁止に反対の発言をしている

 

「程度はさまざまだが、宗教を利用している家父長制に彩られた文化はほとんどいたるところにある」

Edition f のインタビューでのHübsch

 

コーランは多くの節ではっきりと男と女は同じ価値があると強調している。たとえば『ムスリムの男性とムスリムの女性はたがいにもう一方の友である』などだ。神の前では両者は同じだけ報われるというのは繰り返し述べられる」

Edition f のインタビューでのHübsch

 

 

上に出たAhmadiyya共同体は前に読んだ記事で名前が出ていた。かなりリベラルなイスラム教共同体なようで、FEMENのメンバーが上半身裸で抗議したのがこの共同体に属するモスクだったのでその点について「ズレてるんじゃない?」というような指摘がされていた。

記事の終わりに、

どんな世界でムスリムフェミニストを知っている?コメントに書いてね

とあったけど、もうコメントはもう非公開になっていた。日本のムスリムフェミニストというとtwitterに、

彩サフィーヤ (@Agiasaphia)さんという人がいた。ほかあまり有名な人はいなさそう。

 

 

記事紹介:「これでおしまい!」と叫ぶシュヴァルツァー

Twitterで3日くらい前に"Alice Schwarzer"がトレンド入りしてたので、何かと思い検索すると、2019年11月26日の記事が見つかった。

オーストリアの大学でアリス・シュヴァルツァーが講演するのに対し、反レイシズムの立場から学生が抗議をしたが、けっきょく開催された。

それについて意見を書き込む人が多いのでトレンドに入ったというだけのようだ。この記事のページにもTwitterにもたくさんコメントがあるが、ちょっと見たかぎりあまり読むほどのものはない。この記事がすこし両論併記的なので意見したい人たちを刺激したのだろう。記事はいちおう訳しておく。

 

Österreich: „Jetzt ist Schluss!“, rief Alice Schwarzer Feministinnen zu - WELT

https://www.welt.de/politik/deutschland/article203825908/Oesterreich-Jetzt-ist-Schluss-rief-Alice-Schwarzer-Feministinnen-zu.html

「これでおしまい!」とアリス・シュヴァルツァーは叫んだ。

 

 

(アリス・シュヴァルツァーはもっとも有名なドイツの女性運動の代表者である。この76歳の女性は1977年に自身が創立した女性雑誌Emmaの発行者で編集長だ。作家やコラムニストとしても分極している。)
 

アリス・シュヴァルツァーはオーストリア単科大学で講演をしたという。何人かの女学生は、シュヴァルツァーが政治的イスラムを批判しているという理由でこれを阻止しようとした。にもかかわらず彼女は登壇した。そして騒動になった。

オーストリアで、応用技術の単科大学女学生会(Hufak)は『Emma』の発行者のアリス・シュヴァルツァーの登壇に反対した。この76歳の女性はドイツのもっとも有名なフェミニストで政治的イスラムの批判者として知られる。したがって応用学の学生代表にとっては、このジャーナリストが「フェミニズムを口実にした反ムスリムレイシズム」を広めていることは確実だった。

Facebookでの態度表明は、「差別のない討議を指示する学生代表として、Hufakは差別のない大学文化とすべての人が安心でき連帯し尊敬しあえる環境のために力を尽くします」と続く。シュヴァルツァーのやり方は時代遅れ受け入れがたいとし、「彼女の反ムスリム的な論評の事件はますます増えている」と書いた。

シュヴァルツァー自身はちょうど技術単科大学にいて、抗議に驚いた。しかしこの現象は拡大していると、ウィーンの週刊誌『Falter』のドイツ人ジャーナリストは言う。「ベルリンでも、パリ、ロンドン、ニューヨークでも、いわゆる『政治的正しさ』の枠内で活動していない私のような思想家たちは近ごろは『女学生』にではなく狂信的なマイノリティーに大声で妨害されます」

彼らにとって月曜の夜の登壇に対する抗議は「言論や思想の自由への攻撃」であり、その背後には政治的な戦略があるという。「このイデオロギーの信奉者たちは計画的に政治的イスラムへの批判をイスラム教への批判といっしょにする」しかしイスラム教は信仰の問題で個人の事柄だという。「たとえば私は今まで一度もイスラム教に意見したことはなく、政治化されたイスラムにだけ述べている。それは右派イデオロギーだ」

この態度表明のコメントのなかでシュヴァルツァーは支持を得ていて、あるユーザーは「君たちが、別の立場を代表するような、シュヴァルツァーに負けずにやり返せるような他の講演の場を要求するか、お膳立てすることに時間と労力を使えば、私としてはそっちの方がかっこいいと思う」とわめいている。
 

 

「論拠のある論争」を望むこと

 

また抗議を理解しない人もいる。「それなら、イベントに行って論拠のある論争をしてそれを彼女に言えばいい。大学にそういう安全な場所になることを求めるんじゃなくてね。大学は対立する意見の議論のための場だよ」と投稿にある。

日刊紙『Standard』の対談のなかで2人のオーストリア単科大学学生会(ÖH)の役員が反論している。シュヴァルツァーは何度も「セックスワーカー敵視、トランスジェンダー嫌悪、反ムスリムレイシズムの意見を述べている」という。差別については「見過ごしてはいけない。これらの闘いは互いに切り離すことができない」としている。

大学はまさに対立する立場の意見を交わすところではないのかという問いについてはこうある。「大学は他の立場も招かれるならばそういう場所であり得る」アリス・シュヴァルツァーはもっとも有名なフェミニストで」「フェミニズムの討議のなかでとても重要な人物だが、彼女の活動以来私たちの社会で、またフェミニズムでも多くの影響が生じている。ありがたいことだ。私たちはより包括的でインターセクショナルなフェミニズムの議論を望んでいる。まさに大学の討議のなかでまでこれを見過ごしたくはない」

他にも多くのフェミニストがいるが、いつもシュヴァルツァーに代表される立場しか招かれないという。「またもやひとり白人女性がこれについて何か述べるというのはあってはならない」フェミニズムの歴史は白人のものだけではないという。「私たちはより多くの声がいられる舞台を望んでいる」とÖHの代表は言った。ただし彼らはまた、「何らかの意見を禁止すること」が重要なわけではないとしている。

 

 

「シュヴァルツァーは考えを表明するだろう」と校長は言った

 

単科大学校長のGerald Bastは抗議に驚きを表した。もともと応用学の単科大学学生会はそのドイツのフェミニストとのイベントを取り止めることを要求していたが、これは彼にとっては問題にならないという。彼の返答は『Standard』によると、「大学は取り止めをしない。それは私たちには合わない。アリス・シュヴァルツァーはこの非難を積極的に取り上げ、考えを表明し、議論に向き合うだろう」

そして事態はそのように進んだ。キャンペーンの勢力に関するじっさいの会談の初めにシュヴァルツァーはÖH代表の表明した非難への声明で反応した。『Standard』が報じるように、彼女はとくに彼女の創刊した雑誌『Emma』と「政治的イスラムの十字軍」との長い戦いを説明した。

 

「これでおしまい」と舞台で叫ぶシュヴァルツァー

 

しかし「イスラム嫌悪は私にはかなり奇妙だ」という発言のさいには、即座に嘲るような高笑いが最後列から前まで押し寄せた。そこから数分間にわたり叫ぶような大声での反対論が起こった。『Standard』はさらに、その場の大多数が絶え間ない「これは反ムスリムレイシズムだ」というやじに苛立たされたと伝えている。
シュヴァルツァーはあるとき、「これでおしまいです!」と叫び、10人ほどがホールを去ると、最後のメッセージを残ろうとする人々に向け、「ここにこういうふうに連帯できない集団がいますね」と言った。

 

 

 

 

 

これだけ短い文だとしかたないけど、抗議してる人たちの主張を単純化しすぎていると思う。理想主義的なポリコレっていうステレオタイプをなぞるだけにとどまっている。右派の言説がヨーロッパのムスリムへの敵意を煽っていることや、それにシュヴァルツァーが加担していることに触れないと。