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ジェンダー学の論争について イスラム嫌悪と性暴力

『エマ』誌とレズビアン-ゲイのベルリンのクィア系出版社で出された『Beißreflexe』という著書で、ジェンダー学が移民による性暴力に関して言論統制をしていると批判されていました。植民地主義批判をふまえ性暴力や女性への抑圧をイスラム教とむすびつけることに慎重な立場をとっていることが問題とされているようです。

その記事に対して名指しで批判されたジュディス・バトラーとザヴィーネ・ハークが反論しました。それがこのリンク先の記事です。

Gender-Studies: Die Verleumdung | ZEIT ONLINE

以下ではこの記事を要約しながら吟味していきます。(ぼくのドイツ語力が未熟なので誤読も多いと思います。ご教授お願いします。)

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この反論の中でバトラーらは、最近メディアにヘイトスピーチが溢れていることを嘆いており、その背景のひとつがジェンダー学への不当な攻撃だとしています。そしてその傾向を「厳しさの文法」や「ありのままの市民性」(Wilhelm Heitmeyer)と形容しています。

(「厳しさの文法」はどういう用語なのか分からなかったのですが、検索すると新自由主義や社会的ダーウィニズム批判の文で「ケアの文法」と対比された形で出てきました。)

Beißreflexeはジェンダー学への偏見に基づいた批判をしていると述べられています。ジェンダー学は「バトラー信奉者」が多くテロに隠れた共感を抱いているなどと中傷しているそうです。しかし実際はジェンダー学は一枚岩ではなく自然科学寄りの研究者も含め色んな研究者がいると反論しています。

Beißreflexeの著者によるとジェンダー学は公正でない似非フェミニズムで、ジハーディズムを問題にできてこそ真のフェミニストだとしているようです。しかし上のような偏見に満ちた中傷をしているようでは実証性も客観性もないということをバトラーらは書いています。

検閲や言論統制が一部でも実際にあるのかどうかはあいまいに書かれていますが、中傷も悪意も何でもありは問題だろうとしています。それはトランプ主義だ、と。ここでトランプ主義の自由とヴォーボワールの自由の概念が対比されています。後者は責任と結びつきます。

ここでヘートヴィヒ・ドームの言う「集合化」のメカニズムという用語も出てきます。さきほどの「厳しさの文法」の基本法則で、社会的連帯を妨げるそうです。これは否定的なレッテルを貼ってひとくくりにしてその人その人の多様な経験を見ず、抽象化し、それによってその集団に罪を着せ自分たちを道徳的に上に置くようなこと、と僕は理解しました。

ここまでずっと論敵の論じ方に対する批判が続いていたのですが、こんな小競り合いをしている時間はないとバトラーらは言います。

「なぜなら、いやがおうでも今日のフェミニズムが一連の重大なジレンマに直面することは異論の余地がないからだ。」

そのあとようやく具体的な話題、ケルンでの大晦日の事件が出てきます。この事件をきっかけにフェミニズムの概念がイスラモフォビックな排除活動に利用されるようになったと続けます。人種差別にも性差別にも同時に反対できるような語りを可能にするために、両者を同じ枠内でフォーカスする方法を問うべきだと述べています。これはまったくその通りなのですが一般論に終始した印象をもちました。そのあとも大事なのは傲慢を放棄すること、差異の美徳、自分を宥めることや共生であり、また一般化に慎重になって二律背反を表現できる概念を選べと説いてアドルノの引用で締めています。

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ひとくくりにして「イスラムは、~」なんて語ることはほとんどできないので仕方がないとは言え、この記事は一般的なお題目に終始した印象が強くて肩透かしでした。

最後の「一般化に慎重で二律背反を表現できる概念を選ぶ」というのは、ポストモダンと言われる哲学者によく見られる傾向だと感じました。「今日のフェミニズムが重大なジレンマに直面する」というならば今のポストモダンの影響下にあるフェミニズムも何かしら変化を余儀なくされることもあるんじゃないかと思います。

何にせよ前世紀から積み重ねられた植民地主義批判の知見をなかったことにして先に進むわけにはいかないだろうなということ分かります。