if( localStorage['ga_exclude']!='1'){

ジュディス・バトラーへの批判の記事2

続きです。アリス・シュヴァルツァーの記事。

Seite 2/3: Ist das ein Missverständnis?

 http://www.zeit.de/2017/33/gender-studies-judith-butler-emma-rassismus/seite-2

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 2 これは誤解なのだろうか。

とりわけ自由に世界と天を見ることを夢みる何百万ものベールを強制されたイスラム世界の女性たちにとっては、このような学問界の知的階級によるブルカの正当化を単なる嘲りと感じられるだろう。このことはJudith Butler自身が女性と同性愛運動の自由のために戦い、その自由を享受して女性と結婚したという背景を考えるといっそう際立つ。Butlerの言う「他者性」の立場に立てば、これほど寛容に保護した異文化の中で彼女は最低でも排斥されるか、最悪の場合殺されるだろう。

それゆえ「他者」の受容は基本的人権に関わるところでは境界を設けなければいけない。そしてこの基本的人権は西洋のもでも東洋のものでもなく、人間のもので普遍的である(基本的人権の概念はここ数年、覇権的な干渉の際などのまったく違う分野で濫用されてはいるが。しかしそれはまた別の話だ。)。

ZEIT誌のJudith ButlerとSabine Hark(ベルリン工科大学の女性性差研究学際センターの長官)の文章では彼女らはよりによって、「抑制が効いていてよく考えられた確かな一般化」をしたいと述べ、また「二律背反を表現できる概念を選び。包括的で集列的な見方は拒否する」と論じている。要は彼女らは「他者の他者性を抹消することなく世界に参入」したいのだ。

いったい誰が他者を「抹消」したがっているのだろうか?エマ誌だ!これは誤解されているのだろうか?そうではない。これはそういう論法なのだ。つまり低俗なやり口のレイシストだと思われている批判者は、自分たちの高邁な思想にはついてこれない。そのような批判者はもはや口を開く必要はない。初めから片は付いている、というわけだ。

ButlerとHarkの論調はイスラムの話題になると激しさを増す。彼女らの支持者とともにイスラムの政治問題に対して、厳格な性による分断から残酷なテロまで、この十年間で啓蒙されたムスリムもまた普遍的に思考する西洋人のように戦ってきた。しかしそのことを当の「反レイシスト」とされた女性たちが故意に無視している。彼女らの「イスラム(正しくは"イスラム主義"と呼ぶべき)批判」への批判のときに彼女らの頭にあったのは迫りくる「西洋化」とスカーフやブルカをかぶる女性たちの「自由意思」だけだった。誰もが認める反レイシストたちは日頃好んで宣誓している「間違った側を支持すること」に懸念はなかったのだろうか?つまりイスラム主義者の側を。

実に首尾一貫はしているが、Butlerは2010年にベルリンのCSDの「市民の勇気賞」を拒否している。その主張ではCSDの責任者は「レイシスト」だと言う。なぜなのか?それは彼らのうち2、3人が思いきってアラビアやトルコのコミュニティの中の同性愛への敵意を主題にしたからだという。さらに日刊紙のインタビューでButlerは2010年にそれよりもむしろネオナチのホモフォビア的な攻撃を心配するべきだと答えている。「ホモフォビアと極右運動のつながりはどうするのか?」と非難する調子で彼女は問いかける。さてイスラム主義者もまた極右だということを度外視すると奇妙なことに思われるがかつてハイデルベルクで学んだバークレイの学者が、まさにその問題についてドイツとヨーロッパで半世紀の間探求されていたことにはまだ思いいたらないようである。つまり事実として、男性の結び付きとしてのファシズムイスラム主義とまったく同じように、同じところは他にもあるが、強度の男性性信仰であるということだ。

このような欠点が職業思想家としての名声を狭めることはなさそうだ。2012年にJudith Butlerはアドルノ賞を受賞している。これに対してとりわけユダヤ人団体が反対を表明した。Butlerは反ユダヤ主義者だと言う。なぜなら彼女はヒズボラやハマースに共感的でイスラエルが存在する権利を認めないからだという。実際に彼女の、原則としてまったく正当なイスラエル批判でも彼女は明瞭である。つまり理論と現実の溝だ。しかしButlerは事実には触れずに形式に対して教訓めいたことを言う。ユダヤ人女性にさえ彼女は、「自己嫌悪」の謗りに反対して、ZEIT紙(Nr. 36/12)にこう書いている。「私の本当の立場は私を中傷する者には聞いてもらえない。そしておそらくそれは驚くことではない。彼女の論法のやり口が聞くための条件まで破壊することにあるからだ。」

聞くための条件まで破壊すること。賢明な発言である。メモしておかないといけない。というのもこの手のやり口に関して私にとってはかれこれ40年前から馴染みのものだからだ、その方法を使われた者として。今やそれはButlerとHarkによってエマ誌に向けて使われている。

そのアメリカとベルリンの女性らはZEIT紙の文の中で、折よく大晦日のケルンについてのエマの報道のときに真剣に主張している。「エマ誌は、私たちに非西洋でムスリムの移民を厳しく非難することを提案している。それはレイシズムの高まりを懸念することは女性への性暴力のような実際の事件から目を背けることになるからだと言う。」

このようにここでもまたレイシズムと性差別が拮抗している。たしかに、フェミニズム系の雑誌である私たちにとって性差別との戦いが優先されてはいるが、同時にレイシズムに反対しフェミニストを支持する戦いもつねに当然のこととされてきた。19世紀アメリカのサフラジェットもはじめのうちは黒人の平等権に尽力し、そのあと女性のためにも行動の必要性があることを認識したのだ。

さらにButlerとHarkはこう書いている。「どのようなフェミニズムをエマ誌が想定しているにせよ、それはレイシズムを問題としていないし、レイシズム的な形式や権力の行使を非難する用意もないフェミニズムである。しかしこれは偏狭なフェミニズムで、不平等の根幹への理解を深めたり連帯のつながりを広げたりすることに努力をしない。」

Butler流の用語ではこれは「聞くことの条件自体を破壊すること」である。あるいはヘイイトスピーチでもある。

この女性たちはエマ誌(エマ誌の多くの評論家のもの)をまったく読めなかったか、あるいは偏狭でたちが悪いかだ。もしくは単にここ何年かエマ誌を「レイシズム」と呼ぶネットの(たいていは左派の)中傷者たちから書き写してきたのだろう。

なぜなのか?それはエマ誌が1979年から、つまりイランのロホラ・ホメイニによる権力の掌握以来、イランの政治的な攻撃を警告しているからである。警告したのはイスラム主義者の最初の犠牲者はムスリムだったし今でもそうだからだ。まずは女性、それから知的階級や芸術家、同性愛者、さらにはあらゆるひざまずかぬものたちである。ユダヤ人も忘れてはいけない。

私は何十年もドイツで、長らく一人で、イスラム教(信仰)とイスラム主義(イデオロギー)を厳密に区別する少ない論者の一人だった。しかし私の中傷者たちはそこを切り分けない。あまつさえ彼らはお題目のように私が「イスラム教批判者」だと言い張る(私は生まれてこの方一度もイスラム教に意見を述べたことはない)。彼らはペギーダやAfDと同じくらいイスラム教とイスラム主義をを区別しない。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~