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世界の秘密:ウンコは臭い

多くの人は大便が臭いということをちゃんとは知らない。大便、うんこ、糞である。いや、そんなことは誰でも知っていると思われるかもしれない。子どもでも知っている。しかし、実際に便の匂いをしっかり嗅ぐ機会のあるひとはすくない。たいていの人が日常目にする大便は多くは自分のもので、出てくればすぐ水の中に落ちて臭いはほとんど上がってこない。尻についたぶんはすぐ拭き取られるかウォシュレットで洗われる。大便の匂いを強烈に体験するのは、高齢者や障がい者の介護をしている人、バキュームカーによるくみ取りをしている人、あるいは便を弄ぶ趣味や行動傾向のある人だけだ。

僕自身は以前知的障がい者の介護の仕事をしていて頻繁に大便処理をしたので知っているのだが、大便は臭い。ほんとうに臭い。すぐに嘔吐感を催すし、ずっと嗅いでいると頭が痛くなってくる。大人の尿や大便は赤ちゃんのとは比べ物にならないくらい量が多く、臭いも強い。普段なにかをちょっと臭いと言うのとは質が違う、空気に粘度と色がついていてそれを吸引している感覚だ。処理を終えて消毒用の塩素水の匂いを嗅ぐとそれすらとても良い香りに感じられ、ほっとする。バキュームカーのタンクの内部清掃のバイトをしたことがある人の話を聞いたことがあるが、あれも大変な仕事で便臭が脳の襞にこびりつくらしい。

介護現場では単に身体的な事情のため自分で排便ができない場合の他に、心理的・行動上の理由で大便清掃の介護を必要とするケースがある。たとえば認知症をもつ人が大便をタンスにしまいこむ事例は教科書でもよく見る。知的障がいの人だと背景は認知症とは異なり、理由もさまざまだが、たとえば便を手で捏ねたり壁に塗りたくる行動をする人がいる。詳細は割愛するがとにかく便を使ってなにかするので介護職員がその度に掃除する。

以前、ある哲学の先生が、家事や掃除をシーシュポスの苦悩になぞらえているのを読んだことがある。シーシュポスというのはギリシャ神話の登場人物で、岩を山の山頂まで押し上げる労働を課された人だ。彼が岩を頂上近くまで運ぶと岩は重みで下まで転がり落ちる。際限のない徒労のたとえとしてよく引き合いに出される。片付けても片付けても物は散らかるし、日々の家事はいつか達成したりどこかで終わるということがないからシーシュポスのようだ、ということだろう。

大便の後始末を繰り返していると喩えが思い出され、初めのうちは、自分がシーシュポスのように思える。

しかし、なんでこの人はこんなわけのわからないことをするのか、いやそもそもなんで自分はしょうこりもなく掃除を続けているのか、そんなことを考えるまで延々と繰り返しているとやがて大きな勘違いに気づく。なぜ職員が掃除をするのかと言えば、それはそういう決まりだからだ。衛生観念、職務意識、日常業務、常識のためだ。岩が低い方へ転がり落ちるのと同じで頑強な法則であり、まったくわかりきっている。一方、弄便行為はそれへの反逆であり、理由は説明できないことはないが本当のところは不可知だ。われわれはシーシュポスではなくただの転がる岩だ。

世の中のほとんどの人は大きなこともしないかわりに毎日の最低限のことはちゃんとやっている。だから、そういう行為が実はいちばん深いんだよと哲学者に言ってもらえたら、多くの人はわかった気になるし嬉しくもなる。そのせいかその哲学者はとても多くの人に人気があり彼が書く一般書も売れている。

もちろん、家事は大事な仕事だし当たり前のことを当たり前にやっている人のおかげで社会は回っている。大事なことだ。でも、そういうことはただの惰性や決まりでやっているだけなのでシーシュポスみたいな意思を見いだすのは無理がある。だいたい家事は無意味な徒労だと思われていないし、むしろ奨励されている。カミュにしたってシーシュポスの喩えは世界の不条理に立ち向かい続けるあり方だったずだ。

普段われわれは大便をこねくりまわしたりしない。畳の上に生肉を置いてとりかえしがつかなくなるまで腐らせたりしない。ゴミ屋敷を作り上げたり、高速道路を逆走したりもしない。そんなことはまったくしなくていいのだ。みんながやっていたら社会は成立しなくなる。ただ、それらは見て見ぬふりをしていても可能な選択肢の一つとしていつも存在する。たとえばお尻のすぐ下に。