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記事紹介:ヒジャブとタブー| インターセクショナル・フェミニズム

「西欧フェミニストイスラム教の女性差別を批判しない」とドイツのフェミニストのアリス・シュヴァルツァーらがよくのべている。一方で、シュヴァルツァーらに対しては「多様な問題の原因をイスラム教徒に押しつけている」と反人種差別の立場から批判がある。

その中で、その中間の立場から書かれた記事を読んだ。

tazの2018年9月19日の記事、Intersektionaler Feminismus Kopftuch und Tabu だ。

記事中のKopftuchは、直訳すると「頭巾」だが、頭巾だとしっくりこないので、すべてヒジャブと訳している。しかしヒジャブやブルカの違いがよくわかっていないので不適切かもしれない。

以下が要約(+コメント)である。

 

Intersektionaler Feminismus

Kopftuch und Tabu

インターセクショナル・フェミニズム

ヒジャブとタブー(tazの2018年9月19日)

http://www.taz.de/!5533294/


f:id:Ottimomusita:20181019164429j:image

記事中の写真(ヒジャブ禁止反対パレード)

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この記事が書かれる前の週にライプツィッヒで連邦女性会議があり、そこでフェミニスト内での論争があったそうだ。この記事はそれをきっかけに書かれている。

ドイツ緑の党フェミニスト会派メンバーらが公開書簡で他のフェミニズムの意見を「言論封殺されたフェミニズム」などと批判したそうだ。そして第二波フェミニストvs第三波(インターセクショナル)フェミニストの論争になった。緑の党はアリス・シュヴァルツァーと同じ陣営で、第二波フェミニズム。「もっとイスラム女性差別を問題にしろ」という立場だ。

 

(他方、インターセクショナルまたは第三波フェミニズムというのがムスリムへの偏見や西欧中心主義に反対している。

説明しておくと、インターセクショナル・フェミニズムというのは、それ以前のフェミニズムが「女性」をひとくくりにして暗黙のうちに、「白人で中流階級でシスの異性愛者で健常者…etc」な女性のことしか考えていなかったという反省に立っている。なので反植民地主義クィア理論などを踏まえて、いろいろな状況の立場を考慮している。)

 

緑の党の人は、この会議に参加していたムスリムの女性ブロガーKübra Gümüşayという人も批判しているようだ。「ヒジャブフェミニズムは互いに対立的で矛盾している」「政治的イスラムの代表者はフェミニズムに属さない」と。

この記事の筆者は、この手のイスラム批判を「一方的で相手の主体性を認めないやり方で粗雑」とし「また無視してしまって問題なさそうだ」と一蹴している。ムスリムで移民の背景をもつ女性で、同様にこのタイプのイスラム批判をする人として、フェメンのメンバーのZana Ramadaniや社会学者のNecla Kelekを挙げている。

 

また筆者は、第三波・インターセクショナルの陣営も批判している。

 

現在のドイツにはもうムスリムの移民の三世や四世が暮らしているそうだ。彼らは自身をドイツのムスリムと認識していて、移民問題にも発言しているそうだ。筆者は、最大の問題は彼らの多くが政治的イスラムに批判的でないことだ、と言う。政治的イスラムとは、(宗教や文化としてだけではなく)女性や性的マイノリティやユダヤ人に敵対的で国家主義的で家父長制的な政治思想を含むイスラム主義のことを言っているようだ。ドイツ国内のイスラム教の連盟や組織(Ditib, IGMG や Atibなど)はモスクの建設などに関わっているが、彼らが若い世代を取り込んで政治思想も広めているそうだ。

そしてこの連盟の構造を究明することが重要だが、なされていないという。多くのムスリムの家庭が連盟に関わっていることや右派の排外主義を考えると、客観的にこの構造を批判するのは難しいとも書いている。先のGümüşayもこの連盟の一つのIGMGと近く、トルコのエルドアンを支持している。かつて筆者はそれらを批判していたらしい。

 

この政治的イスラムの構造を第三波フェミニズムが話題にしていないことを筆者は批判している。第三波はヒジャブについては、かぶる自己決定権を擁護し、解放の印だけ読み取っていて他の側面は無視か軽視しているという。だが具体的にどれだけ解放の印と見られているかは議論されていないそうだ。「ムスリムフェミニスト」というレッテルは持ち上げられているが中身がなく、メディアもそれに荷担しているという。

ヒジャブには多様な意味があるのに無視されている。たとえば、意思に反してヒジャブをかぶらされた女性、あるいは信条のためヒジャブを取り去った女性、ヒジャブをかぶっていて意識的に政治的イスラムの連盟から距離をおく人など。これらがタブーだという。解放と言ったときに誰の解放なのか明確にすべきだとも書いている。

第三波がモスク連盟を批判しても、それはマイノリティの連帯の否定にはならない、と筆者は言う。インターセクショナルの観点から言えば、一方で反イスラムの人種差別を批判し、他方でイスラム主義を批判することもできるはずだという。トルコでもドイツでも、過激なイスラム主義のために、クルド人、アレヴィー派、ヤズィーディー派などの宗教的マイノリティに対する差別が起きているそうだ。これらの人もムスリムだが議論の中で不可視化されている。

インターセクショナルのフェミニストがこれら政治的なイスラム主義を批判していないために、第二波の十把一絡げなイスラム批判が幅をきかせるし、これまでの第三波の堅固な活動や有益な知見にも悪い印象を与えるとしている。さらに右派ポピュリズムにも反論の余地を与え、反フェミニズムを助長するという。誰にとっての解放かを名指しせずにただヒジャブを称揚するのも、ともすればフェミニズムの迷信に都合のいいイスラムを利用しているとも解釈されかねないと述べている。これもまた無知な白人による相手の主体性を認めない干渉だという。

フェミニズムやインターセクショナルの観点から言えばほんらい複合差別の論点はムスリム連続体のすべての女性を可視化するべきで、ひとつの特定のイスラムの代表者だけではいけない。既存の境界はフェミニズムの議論を通してやぶり、足りない連帯を支援すべきだ。」

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似たような話題の記事を読んでいてもわからなかったことが具体的に書いてあった。ムスリムの大多数の人が属している団体についての情報は貴重だ。おおまかな情報だが、それすら目にしていなかった。モスクの連盟についてのフェミニズムの研究は見た限りではまだない、と筆者は書いているが、本当だろうか。

移民の団体というと、ジュディス・バトラーが紹介していたGLADTやLesMigraSといった移民のクィア団体の名を先に知った。こちらも注目すべきだけれど、その他大勢はどうなっているのかが疑問だった。移民のクィア団体というのはいかにも通好みで、西欧知識人が好きそうだ。そこだけ扱うのはやはり当事者軽視になりかねない。

インターセクショナル・フェミニズムのこれまでの知見を活かさないといけないというのも同意だ。もともとこういう問題を考えるための思想だったはずだ。インターセクショナルは、当事者を細かく分断するためのものではなく、それぞれ違う状況にいる前提で連帯の可能性をさぐるためのものだ。人種、植民地主義、宗教、階級、セクシュアリティ、発達など…、いろんな要因とその組み合わせから状況は成っていると考え、ひとつのレッテルでくくることを避けている。 ある面でマイノリティの人も別の面ではマジョリティだ。なので、イスラムをまとめて擁護するのはインターセクショナリティとは言えない。具体的な個人の話をしないといけない。

ぼくがこの話題に興味をもっているのはひとつは、イスラム教を儒教神道に換えれば、イスラム批判をさけるのと同じ論法で東アジアの女性差別も不問してしまえるのじゃないか、という懸念があるからだ。理屈ではそうなるだろう。裏を返すと、東アジアの男だから性差別的という偏見を維持することにもなる。

またしばらくこの話題をおってみる。