必要なダサさについて
ポストには箱に一本足のものと、円筒型のものがある。円筒型のポストは丸型ポストというらしい。丸型ポストは古いものと見なされていて、風情があるとされている。オシャレであると。
昔温泉地に滞在していたとき、この丸型ポストを飾りとして前庭においている家を見つけた。なかなか大きなお屋敷である。そのポストに貼り紙がありこんなことが書かれていた。
「このポストはインテリアとして置いています。手紙を投函しないようお願いします」
これを見たとき、ダサい、と感じた。それもこれ以上ダサいことがあろうかというほど強くダサさを感じた。いったいあの貼り紙の何がそれほどカッコ悪かったのだろう。
人が作るものには作った目的がある。ポストの目的は手紙を集めることだ。それがポストの役割であり機能である。丸いか四角いかは機能とはあまり関係がない。人工物の機能と関係のない部分はデザインや装飾である。(まったく使い途のない意匠だけの人工物は芸術と呼ばれたりする。) この場合、家の主はポストほんらいの機能はないものとして、その意匠だけに注目して装飾としてそこに置いた。しかし、ポストはほんらいの機能を発揮し、通行人に手紙を投函させた。
この単なる装飾、純粋な意匠とされたものが、ほんらいの機能や役割を取り戻してしまうことがダサさを招いたのだ。
また他に、オシャレで破れているジーンズをお祖母ちゃんが繕ってしまう、というのもダサい状況だ。ズボンの破れは機能や役割ではないが、もともとは劣化したことや損壊したことを意味している。しかしそれを、デザインとして、形だけ取り入れたのが「オシャレとして破れているジーンズ」である。
そしてその破れがデザイン化・形骸化を乗りこえほんらいの意味でとられてしまった。その点で飾りポストの場合と似ている。
デザイン、意匠といった形式が意味や機能といった内容に逆襲される。これがダサいのだ。手紙を入れた通行人や繕ったお祖母ちゃんがダサいのか、それともインテリアを理解されなかった屋敷の主やジーンズの孫がダサいのか、それは微妙なところだ。ただ状況がダサいのである。
ところで政治の話になるが、ぼくは左派として政治活動はなるべくダサいものを信用するようにしている。政治活動にはそもそもの目的があり、実現したい理想や主張の内容がある。いっぽうで政治活動のさいにはその表現のしかたもさまざまにある。カッコいいポスター、レトリックを駆使した演説、ネットを使った情報拡散、一見それとはわからないおもしろい映画や小説によるプロパガンダ…などなど。虚飾で中身をおおい隠すことはよくある。さらに審美的な価値を普遍的な他の価値に優先させるところまでいくとファシズムに近づく。
さいきんアーティストが日の丸や靖国を賛美した曲を発表して批判をこうむったというニュースを目にした。日の丸や神社というのは美しい。それが虐殺や植民地支配の肯定に結びついているという主張とは別に、単に表現としてあるていど美しいというのは認めざるをえない。その上で、そのほんらいの意味や役割を思い出させることが必要だ。芸術に目くじらを立てるのはダサいかもしれない。しかしカッコいいと思って日の丸を使ったらもとの意味にとられてしっぺ返しを食らったアーティストもダサい。そうやっておたがいダサい目にあわせてやらないといけない。それが芸術の政治化というものなのかはわからないけど。
真実を見抜かなければいけないという題目はもっともすぎてあまり役に立たないけど、ダサさというのはひとつの指標になる。ダサけりゃいいというものではないけど、カッコいいかダサいか、と正しいか間違っているかを切り分けるのは大事。なにせ庭の飾りやジーンズとちがって政治活動はダサくてもかまわない。