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記事紹介:metoo一年 市場と一致するフェミニズムの危険

Metooから1年ちょっと経った。今回紹介するのはMetoo一周年の記事である。

Ein Jahr #MeToo: Gefahr des marktkonformen Feminismus - SPIEGEL ONLINE

http://www.spiegel.de/kultur/gesellschaft/ein-jahr-metoo-gefahr-des-marktkonformen-feminismus-a-1231504.html

#Metooから一年:市場と一致するフェミニズムの危険

フェミニズムは今市場と一致している

 

フェミニズムはふたたび社交界に仲間入りした。#Metooのおかげだ。ようやく権利の平等は得られた。しかしその運動はほんとうに世界をよくするのか。

© DER SPIEGELEin Essay von Barbara Supp

Meinung

(前半略)

#MeTooはドイツで不快感を響かせる音響室となり、おりにふれて意見表明されたが大衆運動にはならなかった。あることがらがアメリカや、それに続いて世界で、認識されたことをつうじてはじめて重要視されるということが何度あったか。一年前『ニューヨーク・タイムズ』と『ニューヨーカー』誌に記事が載り、そこでハリウッドのプロデューサーのハーベイ・ワインスタインのハラスメントから強姦まで不当な侵害が非難された。そこでハッシュタグMeTooが女優のアリッサ・ミラノに拡散され、世界的な事件になった。"Me too!" ー「私も!」

それによって差別やハラスメントや虐待ときにはたんなるうれしくないお世辞までいろんなエピソードが集まった。ドイツでは(『ツァイト』誌で)ディレクターのDieter Wedelと(『シュピーゲル』誌で)テレビの演技主任のGebhard Henkeにたいする非難がおおっぴらになり、2人とも反論した。以来多くの男性や男性のふるまいについての話が語られた。

今は話されている。小声で匿名で、あるいは大声で。ときにはやかましく。これはちょっとした驚きである。「私はフェミニストではないけれど…」数十年間、この守りに入った話法で女性の権利を擁護する人たちがいた。フェミニズムの最新の波は80年代後半-90年代前半-にその水音を立てた。当時は多くの社会運動が終わり、「社会的」という言葉はポジティブな色あいを喪っていた。
 

フェミニズムは長らくクールでなかった
 

フェミニズムはクールではなかった。フェミニズムはいかがわしい言葉だった。社会主義がそう思われていたようにフェミニズムも恥ずべき過去の遺物と思われていた。それは、強い個人には克服できる主義(イズム)だった。自立的に自己責任的に、いわゆる「社会運動」に頼らずに。

古いフェミニズムの時代を知る者たちは突如ネットで荒れ狂う若い世代を、友好的にときはいささか慇懃に、見やった。若い世代はジェンダー公正な言葉のために戦い、むき出しのフェミニズムについて討議して「叫び」を解放した。それはFPD[ドイツの自由民主党]の政治家が胸の開いた服の奥を覗いたからだった。ああ、あなたたちが知ってくれれば。年配の女性らはそうため息をつく。かつてがどんなにひどかったかを、と。たくさんの廊下に、ヒエラルキーの階層に、会談の場にまだ女性がいなかったころ、ただの一人も、議事録をとるために座ってさえいなかったときのことを。

テレビでは男性がタバコを吸って発言の主導権を握っていた。大臣は男性で、財閥の長もそうだった。そして家では親たちは「そうね、あなたは女社長になるね」とは言わなかった。そうではなく「パートタイムの手工業教師かな」と言った。それでも女性にはすばらしいことだった。参加できない、口を挟めない。それがあまりに長い間ふつうだったのでちょっとした進歩でも大きく見える。

 

高い地位に参入する女性がいる

 

女性運動の最新の波は、前世紀の70年代にドイツに代議士の対等な地位、女性の割合、父親の育児時間、女性連邦首相をもたらした。そして人は「さすがにもうそれなりになった」と考えられるようになった。こんにちの若い女性のうるさがたはそうは考えず、女性がはるか高い地位に参入したことで自立したととらえる。Seehoferの男性チームのような絵面はこんにちでは世代を越えてグロテスクに感じられる。そしてこの光景を見て怒った人は世代を越えて同じことを自問しなければいけない。女性は上位で参加して何を望むのか?よりよいキャリアか。よりよい世界か。

Facebookの役員のSheryl Sandbergは西洋のフェミニズムの中で最も重要な一人と見なされている。彼女の著作は『Lean in』という。この本はドイツでも大きな成功をおさめている。『Lean in』とは、あなたへのはたらきかけという意味だ。参加せよ。外の世界ではなく自分を最善にせよ、さあ、落ち込んでないで自分を制圧せよ。Sandbergの本は女性が何かを想像すれば強制的でない進歩がもたらされると立証している。

重要なことは、あなたが舵をとること。これがメッセージだ。何を行うかは二の次だ。あなたは税の支払いを拒む財閥を率いるかもしれない。あなたは女性従業員を低賃金で雇う企業を経営するかもしれない。あなたは原子力や兵器の企業の女社長になるかもしれない。なんでもいい。これは物わかりのいいフェミニズムで、市場と一致している。それは「ダイバーシティ」を求めるグローバル資本主義の需要を満たす。とりわけ、研究が明らかにしているところによると、より多くの女性やより多様な民族出自の人が高い地位にいると企業の業績はよくなるという。

 

誰もがフェミニストを名のっていい
 

なぜ市場と相性のいいフェミニズムがこれほど強くなったのか?それについてイギリスの記者Susan Watkinsは持論をもっている。彼女はそれがある目的にかなっているのだと書いている。アメリカのフォード財団のような基金が市場自由主義で物わかりのいいフェミニズムを支援してきたという。それら財団は仕事や給料、連絡、質の高い知的な支援を提供したとWatkinsは言う。「そしてそうやって活動家の女性らが給料をもらう社員になったとき、生活費を失う不安から次第に保守主義的で自己検閲的になる。」

フェミニズムは登録された商標ではない。誰もSheryl Sandbergが「私はフェミニストです」と言うのを妨げることはできない。しかしそれがフェミニズムであるなら、苦労して生計を立てる女性にどう役立つのか?

フォルクスワーゲン監査役にポルシェの跡取り女性がいるならば、フォルクスワーゲンの下請けで働く女性はそのフェミニズムから何を得るのか?

もとの問いに戻ろう。ドイツではフェミニズムはどれだけ前進したのか?#Metooはよく啓蒙された中流階層の運動として、現実の一面を視界からそらしていないだろうか。#Metooの報道から半年後、ハンブルクのスーパーの従業員の男女の会話で、男がスマホを見る。「ヴァインシュタイン」彼はそう読む。「ヴァイシュタインって誰?」-「あー、なんかそういう変な人よ。女のお尻さわって、みんなが怒ってるっていう」と女は言う。何も重大なことはない、と彼らの口調が語っている。

このような会話を小耳にはさむのはためになる。この光景を見れば討論が社会全体を巻き込んだとは考えられない。これは中流階層論議を離れては何も起こらなかったということではない。きっと何かは起きたのだろう。

 

女性も権力構造を支配している

 

『南ドイツ新聞』は数週間前にほとんど誰からも話題にされなかった当の人たちに語らせた。看護婦、レジ打ちの女性、掃除婦、ウェイトレスだ。インタビューの記録では、あるものはようやく耳を傾ける人が現れたと喜び、他のものは興味をもつ人がいるのかと不思議に思った。それは明白に権利の侵害について伝えていた。一方で男性たちはかねてからインタビューを受けるのはふつうだったからだ。

この記録はこのような侵害を可能にする権力勾配を具体的に描き出している。これはたんに限界を気にかけない意欲が大事というだけの話ではない。問題は誰がゲームのルールを決めているかだ。たいていの場合それは男性だ。そして女性比率を上げる戦いの中で期待と、おそらく憶測も、ともにゆれうごく。女性がリーダーになれば今より思いやりのある人が訪れるはずだ、女性のキャリア向上はよりよい世界への一歩であるはずだ、という期待だ。

さてここで女優のアーシア・アルジェントを見てみよう。彼女はワインスタイン事件で訴えを起こした女性のひとりだが、俳優仲間に対する侵害で責められている。また脱構築主義の人文科学者のAvital Ronellがいる。彼女はその分野で高く評価されているが、博士課程の学生が彼女のひどい侵害を非難している。そしてドイツのマックス・プランク研究所には、部下だった科学者たちから侵害ではないがパワハラで責められている女性所長がいる。

フェミニズムは何を意味するのか、女性が我が道を行くこと?それによってふつうは男性しかしないことをすること?それならばこの3人も、非難が正しいとしても依然としてフェミニストだと言えよう。それなら、どんどん右傾化を続けるAfDの党首アリス・ヴァイデルもフェミニストだろう。彼女は女性で、男の世界で己の道を進み、さらにはレズビアンである。

自由という観点でのフェミニズム、それはひとつの側面だ。重要な側面だし常にそうだった。しかしどうしてもそれでは十分ではない。いつもきまって足りていないのは何か?節制だ。そうだが、それを言葉に出すと?倫理だ。あるいは階級性かもしれない。男性でも女性でもまったく異なる性でも関係ないもので、弱者に沿うものだ。たしかに似たようなものはすでにある。つまりヒューマニズムのことだ。それなら本当に現代的かもしれない。フェミニズムヒューマニズムに埋没してしまえるような社会。しかしそこにいたるまでにまだいろいろすべきことがある。

 

今権勢を誇るリベラルフェミニズムを、階級の観点から批判している。

欧米や世界の国々で話題になってからようやく大事なこととして取りあげる態度は日本でも同様だ。

ローカルな問題や俗っぽい(とされる)話題は軽視されることがおおい。twitterの一部や5chで話題になってても、インテリ層はしばらくそれに言及しないことがある。海外メディアがその問題を取り上げて、その英語記事を誰かが翻訳紹介してから、リベラルのインフルエンサーが拡散する、という光景はわりとよく見る。

Metooというとハリウッドの、白人の、グローバルな面だけにスポットが当たりがちだ。しかしよく知られているようにMetoo運動はもとは黒人女性の性暴力被害者支援のスローガンだったし、その時点ではローカルなものだったはずだ。日本でも(Wetoo等)Metoo運動に日本独自の動きがあった。多様なMetoo運動を反グローバルを根拠に切り捨てるのはもったいないと思う。よりローカルな側面も拾い上げないといけない。(他に大きな政局と関わる話題は注目されやすいというバイアスもある。こちらはポリティカル対パーソナルの差だろう。)

第四波フェミニズム(というのがあるとして)はSNSなどを効果的に使って情報を拡散し、支援者を増やしている。この手法は成功している。ここ十年でネット内のジェンダーをめぐる議論や広告、ドラマなどのジェンダー観は一変した印象がある。昔流行ったSNSmixiなんかはほんとうに女性蔑視がひどかったし、反論を書き込む人も少数だった。今やフェミニズムを大学で学んだわけでも活動家にオルグされたわけでもないふつうの人がフェミニズム的な意見を表明している。それ自体はよい変化だと思う。

社会格差を是正しようという視点も同じように広がっていかないものか。SNSクラウドファンディングなどの広告的手法では消費社会や資本主義には対抗できないのだろうか。