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記事紹介:ネオリベ・フェミニズム 統合のパラドックス

もう1つ、リベラリズムフェミニズム批判の記事。2007年のもの。ニュースとしては古すぎるが書かれている状況は何も変わっていない。

 

http://www.taz.de/!5194566/

Feminismus-Debatte

Paradoxie der Integration

Opfer und Ego (6): Der neoliberale Feminismus lässt eine Kritik an Ungleichheiten kontraproduktiv erscheinen und ordnet sich den Gesetzen der globalen Märkte unter.

 

統合のパラドックス 

犠牲者とエゴ(6)  :ネオリベラリズムフェミニズムは不平等への批判を逆効果だと思わせて法をグローバル市場の下位に置いている。
 

中産階級のメディアはもう数年前から、グローバル化するネオリベラリズムが独自のフェミニズムと独自のフェミニストを作り上げることを求めている。さいきん雑誌の『India Today』でさえ、西洋のお手本である『Time』や『 Financial Times』に負けじと、追い越し車線を踏む女性を描いた。つまり、女性企業家、女性経営者、女性投機家らを。その国を越えたメッセージは、グローバル市場のおかげで女性も業績が報われ裕福になり成功と権力を得られる、というものだ。

ニューデリーのネール大学の教授Jayati Ghoshによると、彼女のところの女子学生の4分の3は試験後すぐにマッキンゼイや他の有名な多国籍企業での仕事を見つける。彼女らはそこで高名な経済学者であるGhosh教授の3倍の給料を稼ぐ。インドのAlphamädchen[新しいタイプのフェミニストをあらわすドイツの新語。アルファ女子]は、Katja Kullmann[ドイツの作家]が言うように、「自発的で」「実践的で」「逆境に立ち向かう強烈な意欲」で行動する(taz誌 2007.8.30)。キャリア志向はその正当な権利だ。そしてキャリア志向を、新しいエリートであるFクラスの生来の女性特有の自己の利益関係として説明する。

同様にこれももっともなことだが、コールセンターの回線の向こうでアメリカの顧客に「ジェーン」と自己紹介するインドの若い女性は、インドの情勢からすると夢のような初任給でインドの文化的規範を取り払われたことを喜ぶ。これはいくらか報道番組のタブーを破っている。というのは、質のよい安い従業員が使えて、ヨーロッパやアメリカの営業時間、つまりインドの夜に働いてくれることがコールセンターにとっていくらか利点になるだからだ。社会的カテゴリーである性差はすでに比較的な利点の論理の下位に置かれている。つまり性差は市場の効率、採算、成長に資するならば利用される。

Jayati Ghoshが最近女性就業統計の分析で立証したところによると、ますます多くのインドの都市部の女性が安定した生業に従事し、北部や南部の地方での発展に対応する成果を生んでいる。加えて地方では小口ローンのために市場に組み入れられる女性が増えている。

しかしインドの女性は、未来市場をめぐる至福が期待されているのとはことなり、現代的な分野では仕事を得ていない。IT部門に従事する女性はたったの0.3%、銀行や保険では1.4%だけである。たいていの女性は私的な家事労働で、お手伝いやベビーシッター、掃除婦、家内労働者としてお金を稼いでいる。

このように古いヨーロッパやアジアの未来市場では女性の教育や就業統計からの構造的排除が克服されたように見える。しかし、労働市場の性差特有の分裂も差別を通じてしか説明できない収入格差も、まだ残っている。にもかかわらず市場に統合された女性は勝者として賛美される。決して出世した女性だけでなく、安い労働力として初めて輸出産業で仕事を得た数百万人の女性もだ。子どもや高齢者の世話をするグローバルなサプライチェーンで働く「違法な」移民の女性でさえ裕福層の収益の末端受益者と見なされている。

世界銀行は女性の経済的要求の先駆者のようにふるまって性の平等こそ「スマートな」経済だと宣言している。世界銀行は女性に不可欠な能力とチャンスと権利を備えさせ、それによって自由な市場の市民として競争力をつけ効率と成長を高めたいと思っている。すでに数年来、世界銀行はいくつかの国の経済と経済部門について、もしここまま「活用されない人材」である女性を差別しつづければどれくらいの成長を無駄にするのかを、ユーロとセントで試算して見せている。社会的統合は自身を計算する。小口ローンや自営業、ミニジョブ、(株)私、起業による「収入を得られる職」が女性の市場統合のアイコンである。

ネオリベラリズムの際限ない競争の規則をともなうグローバル市場の場では個人が自分自身の経営者となり、ケーキを焼いて分け合う場面で「一口乗る」ことができる。市場は機会均等の約束と最適な資源配分を用意して女性に開かれている。これは女性解放の関心と市場での活用力学との奇妙な意見の一致へといたる。

フェミニズムの模範は家父長制からの自由、自己決定、独立、自立した生計確保などだが、これらはいまグローバルな立地競争やネオリベラリズムの個人の自己責任への割り当ての原則とマッチしている。

Veronica Schildはチリの例を挙げて、女性団体の要請がネオリベ政権の個人への助成ののちに流動的な女性労働と自己責任的で自律的な市民性による競争能力という目的にすっかり取り込まれてしまった経緯を詳述した。

ここに統合の逆説がある。女性にとって参画や対等な立場という考えが解放に向けた大きな進歩であるが、それは不平等で不公平な市場と権力の構造をほとんど変えないのだ。なので伝統的な家父長制の女性労働の軽視と稼ぎ手という女性の定義は、雇用の情報化と不安定化、規制緩和とコストカット競争にとって非常に都合がいい。女性に多くのチャンスがあるが、それだけ平等があるわけではない。

機会の平等と同等の地位を求める女性運動の要請は経営者の地位に迎え入れられたが、フェミニズムというラベルは女性が含まれるところならどこにでも貼られる。第二波女性運動のフェミニズムでは支配の状況への批判が重要だったものだ。その目的は権力構造の変革であり、その構造の中での性の平等ではなかった。解放とは個人が束縛から自由になることだけでなく構造的暴力と差別の撤廃を意味していた。

それとは反対にKatja KullmannとThea Dorn[どちらもドイツの作家]と世界銀行を結びつけるネオリベラリズムフェミニズムのメロディーは、選択の自由、出世のチャンス、業績の正当性を奏でている。それはヒエラルキーと不平等への批判を逆効果に見せかけていて、それを愚かで知的価値が低いものとしている。

Barbara Ehrenreichは西洋のフェミニズムの好況に対して、平等が目的だと考えていると短期的にしか多くを手にできないと書いている。インドのフェミニストのDevaki Jainは先に進めてこう言っている。「私たちは毒のケーキは分けてほしくない。」

 

インドの若い女性にとって、今までの伝統的な社会よりグローバル市場に取り込まれたほうが豊かになるのならそちらを選ぶのは当然だし、周囲がそれを止めることはできないだろう。女性にとって職や生計が安定しないのはべつにグローバル市場の中だけではない。

革命を目指すマルクス主義フェミニズムというのはもう今はあまり聞かない。社会民主主義よりのフェミニズムネオリベと対立しているのだろう。労働組合などが地道に活動していくしかなさそうだし、じっさいそうしているのだと思う。

レイシズム、反植民地主義の立場からはどうとらえられるのだろう。「ジェーン」と英語名で呼ばれてよろこぶのは切ないが、インド人女性としての誇りとか言い出してもとってつけた感じしかしないしちょっと危なっかしいし。

もうすこしEUやドイツの話を紹介したいと思う。