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論文紹介: 移民とジェンダー│ 今フェミニズムは右派なのか(前半)

また以前紹介していた話題に戻る。主にイスラム系の移民の性差別に対し西欧のフェミニストの一部が批判せず沈黙している。他方で別のフェミニストらは、女性の権利を守るための主張をしながら右派の排外主義と足並みをそろえてしまう、という厄介な問題だ。今回はオーストリアの論文。

https://soziales-kapital.at/index.php/sozialeskapital/article/view/426/783

序文にこうある。

私の移民、ジェンダーフェミニズムという一連の主題をあつかう仕事にとって決定的な段階が来たのは、ある条件下で、フェミニストたちが性差別的なふるまいや言明に直面して沈黙しているのを目にしたときだった。つまり移民に関係するのが明らかになった場合にだ。驚いたことに、特定の形式の性差別が許されるか少なくとも好意的に見すごされたのだ。しかし同時に、まさに右派政党において、彼らがジェンダーの論題を横どりしはじめた様子を目にしたのも奇妙なことではない。急に右派が女性の権利を気にかけはじめた。これはあべこべな世界ではないか。

きっかけはやはりケルンの大晦日の事件らしい。

論文は主に右派の言説の分析に費やされているが、移民内の性差別を批判しないことも問題にしている。

今どのような立場からなら「右派」のレッテルを割り当てられずに性差別に反対する意見を言えるのか?誰かが以下のようなFacebookの投稿でそれを明確に述べた。「フェミニズムは今は右派なのか?」私はその問いをこのように定式化したい。

フェミニズムは今は右派と見なされたくないから何も言えないのか?」と。

 

右派が攻撃するジェンダー主義

右派はジェンダー平等やジェンダー主流化が伝統的家族を破壊すると批判している。このことは移民政策と直接関係ないのだが、移民とフェミニズムをめぐる議論でよく話題にのぼる。右派からは、ジェンダー平等を進めるのになぜイスラム系の性差別を黙殺するのかという文脈で引き合いに出される。

論文の筆者は、「ジェンダー主義」というのが右派や反フェミニズムの陣営の作り出した都合のよい仮想敵だとしている。この共通の敵に立ち向かうために団結しているそうだ。

ジェンダーテロ」が、この論理にしたがって新しい人間の類型を作り個々の人間の人格を奪うことを目指している、と右派は考えているという。ここにホッブスのリヴァイヤサンのようなまったくの政治的怪物が生まれるという(Bielefeld 2011: 8参照)。

この新しいタイプの人間をつくるとされているのが国連の掲げるジェンダー主流化だ。

【用語】ジェンダー主流化 | 基本概念・基本事項 | 比較ジェンダー史研究会

 

たとえばFPÖ(オーストリア自由党)は「ジェンダーの狂気ではなく家族に賛成」と宣言した(FPÖ 2015)。この例でとりわけ私に示唆的に思えるのは家族とジェンダーが矛盾するものとして構成されていることだ。もっというとジェンダーは家族にとって脅威とされている。

オーストリア自由党は極右政党らしい。オーストリア自由党 - Wikipedia 

このあとも何度か右派の傾向として挙げたことがこの党にも当てはまるという証拠を出している。

 

民族共同体

右派が伝統的な家族を守るのは「民族共同体」を守るためだという。またそうして、家族や共同体が破滅する危機感を煽って従わせる論法が使われていることが指摘されている。

Esther Lehnert (2013: 90)は極右を例にとって詳述したところによると、「民族共同体」の根拠を作るために右派のイデオロギーの中で性差とセクシュアリティの規格が作られていて、その規格はいかなる時代にも存在しなかったのに理想化された努力目標に仕立てられている。

民族共同体は性別役割分業に支えられているとされる。移民政策についての話でもこの分業が出てくる。

Lang (2015: 169)でさらにくわしく述べられているように、男らしさと女らしさは共同体の結びつきの中心的な役割をもつ。性別は相補的にデザインされていて人間に民族共同体内の責務やその領域を割り当てるので、この論理の中では男には一貫した民族の義務があり、それは生産領域、防衛、政治に当てられている。女の義務はその正反対に置かれているが、どちらも互いを補っていると考えられている。そして女は再生産領域内に制限され、そこで男の労働力の回復を気にかけ子どもを産む。

オーストリア自由党はどうやら反グローバリズムの右派のようだ。「多文化の単調さ」というのはどの地域も国際化して似たり寄ったりになってしまう、という考えからきている。そしてそれもジェンダー主義のせいらしい。

ジェンダーはこの観点からは個人が「多文化の単調さ」の中に方向を失って埋没することを意味し、「無差別平等主義」をへて、「社会的組織の粉砕」へと流れ込む (Lang 2015: 169内のWeißmann 2010の引用)。

この、男女平等によって相補的な性別役割分業や土着の文化が破壊されるという主張はイヴァン・イリイチの『ジェンダー』に似ている。影響はあるのだろうか。

 

リベラル化に対する右派の2つの態度について

オーストリア自由党は家族のあり方には国家が厳しく介入すべきとし、たとえば同性愛ペアが養子をとることに反対したりしている。しかし子育ては国家が面倒を見ずに家庭に任せるといしていて、非介入的になる。筆者はこれをリベラル化に対する矛盾した態度としている。

この見かけ上の矛盾に対する唯一の可能な説明は、右派の政党や組織のあからさまな反平等主義イデオロギーの中に見つかる。Lang (2015: 172-174)によると、国家は排他的に特定の生き方の特権を保護する。つまり他の複数の家族の生活形態よりも伝統的で異性愛とマッチした家族の優先権を保護し、移民よりも土着のもの、同性愛より異性愛、女性よりも男性を優先する。

 

概念解釈の主導権

右派がジェンダーという言葉を使っていてもジェンダー研究やフェミニズム運動に興味があるわけではなく、「ジェンダー」という概念の解釈を変えることで討議に参加するためだという。

ジェンダー主義の概念によってジェンダーという概念はいま決定的な意味の移行をこうむっている。Lang(同)は、概念の元の意味は破壊され社会の廃退の脅しを新しく負わせることは部分的に成功している、と断言する。

他に、オーストリア自由党が母親が子を育てることばかりを「選択の自由」と呼んだり、ペギーダがとくに異性愛を「性の自己決定」と呼んだりしている。

「選択の自由」や「自己決定」の新解釈は異性愛規範の生活形態の利益になる社会的不平等を促進するためのより広い重大な戦略として理解すべきである。

 

 

「文化的暴力」

ここでようやく移民の話になる。移民の話題になると右派は急に性の平等を「西洋的」な価値として擁護し始める。

なのでFPÖでも「私たちは自由な女性を守ります!」とポスターに書くし(Hausbichler 2010)、アリス・シュヴァルツァーの反ムスリムの立場を引き合いに出す(例えば Schwarzer 2010, 2016参照)。ポスターの副題には「SPÖ[オーストリア社会党]はヒジャブの強制を(保護している 筆者の注)」と書いている。

2004年ごろから、非西洋の文化の文化に基づく女性への暴力を「文化的暴力」と右派は呼んでいる。

それ以降、「Against Harmful Traditional Practices」ネットワーク (健康と女性のための連邦省 Bundesministerium für Gesundheit und Frauen 2006)のような、「文化的暴力」への一連の対抗措置があるという。Heinisch-Hosek (SPÖ)は「強制婚」や「女性割礼」の話題に重点を置いた。

 

暴力の文化化

他の文化を暴力的だと言うよりも、ヨーロッパ内の制度として行われる人種差別的な暴力を問題にすべきだと筆者は言う。

文化であるとされた性差別的暴力に対する叱責は国家的制度的な暴力の観点から正当化されているという。例としてMendel und Neuhold (2015: 40)は、2011年の「外国人法」の厳格化を挙げている。それによって移民にドイツ語クラスを強制できるようになった。この改正はÖVP[オーストリア国民党]だけでなくSPÖ[オーストリア社会党]にも称賛され、加えて「これでようやく移民女性が教育へのアクセスをもてるし少なくともドイツ語クラスの時間は夫に指図されないですむ」と指摘したそうだ(2011年4月29日の国民議会議事録、Mendel/Neuhold 2015: 40内の引用)。

 

つまり国家は強制措置を設け、それによって父権的身ぶりで移民男性から移民女性を保護することを標榜する。

 

文化原理主義

こういった自文化の優越性を信じて他の文化を遅れたものとして責めるやり方を「文化原理主義」と呼んでいる。これは右派だけでなく社会全体に見られるという。

解放、女性の権利、権利の平等は西洋の文化と見なされ、女性への暴力には「他の文化」が責任を負わせられる。民主主義、社会的公正、そして特定のフェミニズムなどの中心的価値の啓蒙は一体にまとまった過程と見なされている。「我々」はこれらの成果をすでに達成している。「他のものたち」はそこから遠く離れ我々の成果を脅かしさえする。この考え方をLiz Fekete (2009)は「文化原理主義」と表現している。

文化原理主義はポストフェミニズムを含むと筆者は考えている。ポストフェミニズムというのはフェミニズムはもう役目を果たした過去のものだとする考えだ。西洋の人間にとっては過去のもの、ということだ。

Mendel und Neuhold (2015: 50-51)によると、そこから覇権的な男性性の強固化が導かれる。なぜなら文化原理主義的なポストフェミニズムは「西洋」の男性らに対するイデオロギー的な申し出を含むからだ。すなわち西洋の男性は「他の」男性らに対する父権的権力請求権で勝るという優越性を確立できるというものだ。同時にMendel und Neuhold (同)は、これらのうぬぼれは女性にとってのじっさいの政治情勢の悪化からうまく目をそらしているという。たとえば女性のための暴力保護施設の予算削減や新しい保護規定などから。

 

とりあえずここまで。後半で残りとコメント追加する。