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論文紹介: 移民とジェンダー│ 今フェミニズムは右派なのか(後半)

前回紹介していた論文の続き。

http://ottimomusita.hatenablog.com/entry/2019/02/01/191718

右派はジェンダーを伝統的家族を破壊する脅威であると批判する一方で移民反対論ではフェミニズムを援用する。その際に移民を背景にした女性差別を「文化的暴力」と呼んでいる、という話だった。

 

https://soziales-kapital.at/index.php/sozialeskapital/article/view/426/783

 

生産条件の媒介としての「文化的暴力」

文化的暴力というレッテルを資本主義批判の文脈で分析している。まず従来の男性働いて女性が家事をするモデルが崩れてきている。その原因は女性運動のためと、経済変動のためと考えられている。

労働と生活条件の流動化と不安定化、[救貧的な]福祉国家から活発な社会福祉国家へのネオリベラリズム的な転換(同 Galuske 2007: 410)もまた再生産領域の危機につながった。その危機の経過の中で男性稼ぎ手モデルはますます成人労働者モデルにとって代わられる。成人労働者モデルとは、すべての成人には就業能力が当然あるべきだとする規範だ。労働市場の吸収力が落ちたためこの規範は個人の自己責任の意地の悪い書き換えのようになってはいるが。

ここでいう再生産というのは、子どもを産み育てたり、家事やケアをして生産活動である労働をまたできるようにすることだ。男性に関わらず大人は働かなければならなくなったのが成人労働者モデルで、著者はこれを一歩進めて人間資本モデルと呼ぶ。人間が主役でなく、担い手がどんな人間かも問題ではないような資本主義である。この傾向と女性の社会進出が一致していたという。

人間資本は比較的性差を問わず、ある意味で背後にいる担い手の人間にはもはや興味がないため、生産領域で女性が多く統合されることに貢献する。いわばぴったり調和しているのだ。つまり男性の個人的な権威に対する戦いをともなう女性運動は、資本が生活領域および再生産領域へと拡張するための、よい下ごしらえを果たした。

 

女性がますます広範囲で生産領域の労働市場に参加する一方で、対抗して男性が再生産領域へ向かう同様の運動はなかった(同 Haug 2009: 404)。しかし誰かがこの仕事をしなければいけない。Farrisはここで、再生産労働「文化的暴力」の概念の助けをかりて再生産労働を移民女性に振り分けていると主張する。

そのために移民の男性と女性を、女性解放を名目に分断している、と続く。

 

競争相手としての移民男性、支援者としての移民女性

移民の男性は潜在的な労働者として、現地の労働者の競争相手と見なされている。また景気が悪いとまっさきに解雇され景気の調節弁にされ、働きたい人が多いお陰で賃金を低く抑えられるという点でも利用されている。

この関連での重要な帰結は、就労予備軍の中で男性移民が果たす役割は、国際的な人口変動を通じて外因的にもたらされたものではなく、構造的で内因的な越境するデジタル資本主義での生産方式の結果であるということだ。この現象に選挙戦はおおいに関わっていて、いつも移民流入を通じた労働市場の危機が関心の的になっている(Farris 2011: 327参照)。

一方で移民の女性は育児や家事、高齢者介護などの仕事をして、現地の女性のフルタイム就業を助けることを期待されている。

 

ジェンダー公正な再生産労働の商品化

西欧の女性が外で働くようになったことに加え、育児や介護のための国による公共サービスが少ないため、移民女性が再生産労働をする需要が高まっている。

なので再生産労働は「市場にあう」ようになり私的な市場で供給され募集される。その供給は今は主に移民女性がしている。この分野で(安い)労働力を求める大きな需要がある(Farris 2011: 327参照)。

国による公共サービスが少ないだけでなく、そのサービスの性質も市場向きだという。現物支給よりも現金給付や税制上の優遇をしている。国も移民女性がそのために必要だとわかっている。

労働市場での男女平等も、生活領域の市場化を進める一因だという。

加えてこの動向を促進する更なる要因は、現地民の女性がより強固に労働市場に参加することを望むときに彼女らは家庭での再生産労働を「性差的に公正に交代」することを求めることである。

こういったことから移民女性の家庭での労働は不法でも特別に許され、他の不法労働のように迫害されない。

 

結論

しかし、職業生活に包括されるために他の女性が彼女らのために再生産労働をこなすことについてどう考えるべきだろうか。私はMendelとNeuholdに同意する。彼らはここで一部の女性が搾取されていてそれが「フェミニズム的に」正当化されていると述べる。出自や移民背景に関わらず女性がフェミニズム的に連帯することはこのようなヒエラルキーと権力関係を通じては難しい(Mendel/Neuhold 2015: 51参照)。

 

続いて私の導入での問い「フェミニズムは今は右派なのか」を解明するためにコメントを加えたい。フェミニズムは「右派」でもないし、左派の関係者がフェミニズム的なメッキを好んで使っても、今までの明らかな左派ではない。しかし明らかに起こっているのはフェミニズムが資本主義的に横領されていることだ。それによって女性で「非西洋」の人間が見捨てられている。

この立場にたつと、文化原理主義的でないフェミニズムの連帯がどのようなものになるのかはまだわからない。私の見解からこれに付け加えるなら、ジェンダー概念を積極的に「取り戻し」、それにポジティブな意味を付与することが賢明だろう。また差し迫って必要なのは再生産領域に対するあいかわらずの過小評価についての議論だろう。しかしその際に注意すべきなのは特定の集団や社会カテゴリーに置くよりも、むしろ社会全体の権力や生産条件に向けられるべきだ。

 

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マルクス主義フェミニズムの面目躍如と言ったところ。再生産労働の人手が足りない、そこで移民女性を保護する言説、とつながるところは目からうろこ。右派の主張の背景が経済とからめてよくわかった。

しかし、主張の理由や背景がわかっても主張の内容の真偽については何も言えないんじゃないか。「ジェンダー主義」と移民の性差別を両方批判しているのも、ちぐはぐだが矛盾というほどではない。トピックが変われば賛否も変わるのは当然だし、中庸を美徳とする保守からすれば2つの両極端をどちらも諌めているつもりなのだろうし。右派はこれを読んでも考えを変えないだろうと思った。

また、反人種差別の立場から非西洋の女性差別に何が言えるのか、どのように何かを言えるのか、にも触れていない。文化原理主義的でない連帯がどう可能なのかも未解決の問いだとしている。「出自や移民背景に関わらず女性がフェミニズム的に連帯すること」とあるが、人種差別を問題にするうえで出自の話題は避けられない。白人の側から「関わらず」と言われてもこちらには関係がある。足を踏まれている人は足の話をするものだ。かえって本質主義に陥る懸念もあるが、それはまた別の問題。

 

 

またほかの論文も読んでいこうと思う。もうちょっと短くまとめて紹介できたらいいと思う。これも全訳ほしい人おしえてください。

 

そう言えば先週くらいにBildのネット記事で『今ドイツでもっとも頭のいい10人』みたいな特集をやってて、その記事の写真に件のアリス・シュヴァルツァーが載っていた。反人種差別の人たちは失笑と困惑に襲われていた。頭は良いだろうけどね。