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論文紹介:フェミニズムと反人種差別:「文化的暴力」と連帯の可能性

また移民とフェミニズムに関する論文の紹介。今回は、

Iris MendelとPetra Neuhold(2015)の "Feminismus und Antirassismus –another unhappy marriage? Der Diskurs um »kulturelle Gewalt« und die Möglichkeiten transnationaler feministischer Solidarität"

フェミニズムと反人種差別 -もうひとつの不幸な結婚?「文化的暴力」の言説と国を越えたフェミニズムの連帯

 

という論文。「もうひとつの」というのはかつてマルクス主義フェミニズムについて「不幸な結婚」と形容されたことがあったからだ。筆者の答えは、もちろんノー。フェミニズムは反人種差別的でもないといけないとしている。

この論文もフェミニズム的な言説が右派の移民排除に利用されている問題について書いている。人種差別や啓蒙主義フェミニズムの関係を最近の移民関係の動向だけでなく、80年代くらいの植民地主義批判をふり返ってとらえている。また、Farrisの「文化的暴力」の言説への批判を踏まえながら再生産領域の中身をより詳しく見ている。

 

 

「文化的暴力」をめぐる言説の登場と批判

移民の文化を背景とした女性への暴力を反移民の陣営が「文化的暴力」と呼んでいる。その際にフェミニズムが利用される。

強制婚計画に反対しキリスト教に改宗し家族への殺害脅迫を防いだ、オーストリアに住むパキスタン出身の女性との出会いのあと、当時の黒青連合[国民党(ÖVP)と自由党(FPÖ)との連立政権]の女性大臣Maria Rauch-Kallat (ÖVP)はさらに5人の大臣といっしょに国際女性の日に公開討論を行なった。

この2004年の公開討論あたりからオーストリアで「文化的暴力」の言説が広まりだしたという。そして政策にも影響している。これは女性への暴力を他の文化に転嫁して西洋の日常的な性差別を見えにくくする。批判している団体が紹介されている。

なので、外国人女性の教育・相談施設の上部団体(現在のPeregrina会)は、1990年代の初めの定住法の草案への態度決定をするなかで当時の内務大臣Franz Löschnakの移民統合への一面的な理解へのはっきりした批判を表明した。

Peregrina会のホームページ。 http://www.peregrina.at

…2006年にも、移民女性による移民女性のためのフェミニスト団体(maiz)は女性への「法に基づく暴力を止める」ことを要求した(maiz, 2006)。Maizは、女性が、自分の住所(そのための家賃を払っていない)や特定の収入を自由にできないと、暴力的な(オーストリアの)男性と離婚するときに滞在権のよりどころを失いかねないことを批判した。それによって暴力にみちた関係から脱出することが深刻に困難になっているという。

maizのホームページ。 https://www.maiz.at

 

 

ひとつのフェミニズムか、複数のフェミニズムか 歴史的連続性:「女性解放」と植民地主義や人種差別

Liz Fekete (2005)は多くのヨーロッパの国で見られる「啓蒙された文化原理主義」を通じたフェミニズムの理念の援用を印象深く解明している。この文化原理主義では、啓蒙、そして民主主義や社会的公正、また明らかにある種の「フェミニズム」も含めた中心的な価値はもう完了したプロセスとして理解されていて、また「反動的な」イスラムのような「外部から」防衛しなければいけない原理だと考えられている。

この論文でもFeketeの文化原理主義の議論に言及している。しかしこの論文の著者はFarrisもFeketeもフェミニズムと人種差別の歴史的な関係を見落としているとして、植民地主義批判をふり返っている。もともと第3波フェミニズムは、この植民地主義批判を踏まえていたから反人種差別を含んでいたのだったはずだ。

さらにフェミニズム的かつ反人種差別的な連帯は不可能とされているか「新しい種類のフェミニズム」とのみ考えられている(Fekete 2005, 23)が、これは歴史的にも現代のフェミニズム政治に対しても正当な評価ではない。

フェミニズムと人種差別や啓蒙主義の結託も、それに対するフェミニズム的な抵抗も、昔からあったわけである。

ガヤトリ・C・スピヴァクとチャンドラー・T・モーハンティーは、植民地主義の遺産とフェミニズム的な異議が啓蒙と解放の名のもとに語り女性を「守ろう」としたことを明確にした。近代的で啓蒙されていて文明化している自由な社会(「ヨーロッパ」)を時代遅れなものとしてでっち上げられた「他者」と無理に区別して理念が作られるとき、そこで女性はしばしば「文明化の尺度」として機能する。

またサティ(未亡人の後追い火葬)が実際はごく一部のヒンドゥー教徒しか行っていなかったのに、なぜかインドの代表文化のように拡大解釈されたという。これと「文化的暴力」をイスラムの伝統とする議論が似ているとする。

スピヴァクは、活発に反植民地抗議をした若いベンガル人の女性の自殺をもとにして、その試みが家父長的な解釈のモデルから逸脱していてそぐわないことを示した。女性の体はそこでは植民地政府と保守的なヒンドゥー男性の間のイデオロギー的な闘争の場となり、女性の反抗する行為能力は見えなくされる。

これと同じように移民女性も闘いの場される。

そのさい移民女性が闘いの「開催地」となり、解放の受動的な対象となる一方で、他の者は解放者やある種のフェミニズムの担い手となる。そのフェミニズムはメディアから比較的多く注目され、実践的なしかたで政治組織や学問や政策でのキャリアと結びつく。自身の立場の正当化のため保護の政策はしばしばいわゆるAyaan Hirsi AliやNecla Kelekのような「信頼できる声」に基づく。それらの声は移民女性組織とはちがい討議の中でよく響く、もっともそれらがリベラリズムフェミニズムの言葉を話しているうちはだが。

そこで問題になるのはフェミニズムの悪用ではなく、植民地主義と地続きの「西洋のフェミニズム」の立場だという。

Mohantyは、いかに「西洋の観点から」「他の」女性の生き方や闘いを植民地化してきたかを批判していて、しかし同様に「西洋のフェミニズム」はフェミニズム一般と同等にあつかわれるべきではなく、また「西洋」にいるフェミニストたちすべてがそれを主張しているわけでもないことを強調している。

フェミニズムは「西洋のフェミニズム」やリベラリズムフェミニズムだけではない。狭い意味でのみとらえると国を越えた連帯を妨げるとMohantyを引用しながら述べている。

 

 

人種差別 ー 移民管理の周辺現象か、組み込まれた要素か

筆者は反ムスリムの風潮は社会全体の傾向だと考える。

ヒジャブを抑圧だとし同化政策が避けられないと主張する政治家の言葉を引用して、それは一見反人種差別的な人種差別だと言う。

まさにこの論法にBalibarのいう新しい人種差別の2つ目の側面がある。それは人種差別を説明する人種差別というメタ人種差別のように機能する(Balibar 1992, 30)。彼が言うには、文化が相容れないと「自然な」摩擦になり民衆の人種差別的なふるまいの形で噴出する。

ヨーロッパに広まる「文化多元主義の失敗」の言説にもこの傾向があるという。

移民によって利用され尽くしたヨーロッパの寛容さが最終的に争いと人種差別へとつながったとされ、そのことが厳しい移民政策と統合政策の論拠を形成している。これはとくにFeketeによってくわしく分析されている。

 

 

「文化原理主義」をめぐる言説の条件:ポストフォーディズムとケア危機

前回紹介した論文と同じく、この著者もFarrisの説にもとづいている。再生産労働の担い手が足りないので移民女性が必要になるという政治経済的な基盤から「文化的暴力」の言説を説明する説だ。

 

詳しくはこちらの論文、

http://ottimomusita.hatenablog.com/entry/2019/02/08/033730

または、早川敦さんの書評

Sara R. Farris, In the Name of Women's Rights
https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&url=https://tohoku.repo.nii.ac.jp/%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D125789%26file_id%3D18%26file_no%3D1&ved=2ahUKEwj1_J362M3gAhWD6aQKHZ9wCGQQFjAAegQIBRAB&usg=AOvVaw1IEI24YfKU6CFJWD9YBm13

を参照。

この著者は再生産をもう少し細かく見ていく。

(再生産という言葉は、子どもを産むという意味もあるし、再び生産労働をするのための準備となるさまざまな家事や感情労働のことを言っている場合もある。他に文化や規範を伝えて維持する役割を再生産と呼ぶ場合がある。アルチュセールイデオロギー批判で出てくる用語だと思う。こんな色んな意味になるややこしい言葉使わなければいいと思うのだけど。)

 

堆積した再生産 誰のための家族?

Farrisは社会的な再生産(生産と生活の回復と、掃除、料理、おむつを替えるなどの肉体的・感情的なすべての活動)と文化的な再生産(規範や価値や知の伝達と習得)と生物学的な再生産(子どもをもうけること)の間の区別をしていない。これらの中で移民は非常に異なる地位にいる。

この内、移民女性は社会的な再生産だけ容認されている。つまり、移民女性は賃金労働をサポートする仕事は期待されているが社会の中での文化の伝達や自分の子どもを産み育てることは期待されていないし、むしろ妨げられている、ということだ。

…解放された女性の理想はときに移民女性には与えられないままだ。経験的な調査では、女性の家事手伝いは私的な家事労働の中でまさに雇用者の側が被用者の「女性性」を否定することで機能していることがわかっている(z. B. Glenn 1992; Gutiérrez Rodríguez 2010)。

多くの家事手伝いの人も母だが彼女らはそれを隠さなければいけない。それは移民や労働立法では女性家庭労働者に関してたいてい束縛されていない個人を優遇するからでもある(Haidinger 2013)。

 

分断と連帯 さらに進歩的な連合に?

文化原理主義フェミニズムの価値との関連付けは、性差関係の悪化を不透明なままにして再生産領域の価値下げを不問にすることで性差関係の固定化につながる。

再生産領域の価値下げとは、ケア労働の賃金が低く不安定なことなどを指す。女性はそこでは階級や人種で分断され、社会全体の問題を女性間の問題にされているという。

Heidi Hartmannはそのテキストの中で、家父長制的で資本主義的情勢が結託する効果は労働者階級の分断を通じて反資本主義の抵抗をやわらげることであると述べている。それに続いて私たちは、人種差別はフェミニズム的な抵抗を弱めるので、場所、アイデンティティ、階級、仕事や信念の境界を越えた国際的でフェミニズム的な連帯がMohanty (2003, 530)が求めたようにいっそう重要になる。しかし解説したような矛盾と分断の背景の前での反人種差別的でフェミニズム的な連帯はどのようなに可能だろうか。

さしあたり私たちは、フェミニズム政策は「文化」と「文化的な違い」の関係に正面から取り組み、「西洋」の計画としてのフェミニズムの実態を調べるべきだと考える。国を越えた観点からは文化と歴史は常に絡み合ったものとしてとらえるべきで、啓蒙もフェミニズムもそれ自体は「西洋」的なものではない。平等のような成果は「西洋」の価値や輸出品として理解するべきではなく、むしろ政治的な戦いの結果であり、したがってそこには「西洋」の帝国主義に対する戦いも含まれる(Narayan 2000, 91)。

…女性の権利は移民女性の権利と対立させてそこから利益をえるべきでもない。そうではなくフェミニズム反人種差別活動家のスローガンにあるように「移民女性の権利は女性の権利である」(z. B.: LEFÖ)。

LEFÖのホームページ。 http://www.lefoe.at

今の国を越えた人種化された再生産労働の再分配は、あらゆる差異と搾取関係において、多くは親密な空間で、女性を調達する。Sedef Arat-Koç (2006, 87)は、これらの女性たち[訳注:移民女性と土着の女性]には共通点もあると指摘する。なぜなら、彼女らは賃金労働と再生産の責任を相容れないものとして経験し、後者を見えないものにしなければいけないからだ。つまり、それぞれ故郷の国と家で。

この文の題でも依拠しているHartmannにならい、フェミニズム的に別の社会のユートピアが重要である。

 

私たちが作り上げたい社会は相互の依存が恥ではなく解放を意味する社会だと主張しなければいけない。そこではケアは普遍的であり抑圧された実践ではない。そして女性はもはや男性の誤った具体的な自由を支持しない(Hartmann 1981, 114 [Übers. I. M., P. N.])。

 

そしてまた一部の女性の誤った具体的な自由も。

 

最後は重要そうなのでほとんど引用になってしまった。リベラリズム的なフェミニズムによって女性の就業が増えても、ケア労働が軽視されていればけっきょくそれをやる人たちが低い地位に置かれる。

反人種差別的なフェミニズムについては、前世紀の植民地主義批判で議論が蓄積されているはずなのだからちゃんと踏まえないといけない、というのもまったくその通りだ。

しかしこれも当のイスラム系移民女性の実態については何も触れられていないのが不思議だった。スピヴァクやインドの話は出てきたのに。もちろんまず西欧の側の問題を明らかにしないといけないだろう。「文化的暴力」についての、命題としての真偽ではなく、言説としての背景や機能を論じるなら別に移民の実態に触れなくてもいい。とはいえ。誰かが書いていたようにほんとうにほとんど情報がないのかもしれない。