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記事紹介:極右と女性の権利│右からのフェミニズム?

今日は、去年2018年の2月12日の南ドイツ新聞。ヨーロッパの右派の「アイデンティタリアン運動」について書かれている。その運動のフェミニズム的な側面に対しての批判だ。それほど踏み込んだ批判ではないが、ざっと右派界隈の流行りがわかる。

MeToo-Debatte: Feminismus von rechts außen? - Kultur - Süddeutsche.de

https://www.sueddeutsche.de/kultur/metoo-debatte-feminismus-rechtsextremismus-1.3862040

 

極右と女性の権利 

 

右からのフェミニズム

右派のグループがMeTooの議論に女性の権利を求める闘いを自分のものにしている。これは決してフェミニズムではなく、社会の中心からの偏見と結びついたものだ。

 

去年の6月に数百人の人がベルリンのヴェディングの「アンデンティタリアン運動」に参加した。[写真の説明]
 

Julian Dörrの文

やり口は古いが、即効性がある。ドラマチックな音楽、カメラの前で話す若い女性、自分のアパートの親密な空間から話している。「私の名前はミア。私の名前はマリア。私の名前はエッバ。」これらは暴力事件の犠牲者の名前だ。テキストにはこうある。「次の犠牲者は私かもしれない。あるいはあなたかも。」

ついこの間Youtubeにアップされたこの動画は民族的極右的な反主流文化の「アイデンティタリアン運動」周辺に由来する。右派はそこで女性保護を振りかざしているが、うわべだけである。そのあとに政治的なアジェンダはこう続く。「ドイツ、スウェーデン、イギリス出身のミア、マリア、エッダは移民、外国人、難民の犠牲者だ。」

動画の中で女性は文字通りにはそう言っていないが、彼女はようは「私はカンデルで刺し殺された。私はマルメで強姦された。私はロターハムで凌辱された。」と言っているのだ。誰にかは明らかにされていない。これらの事件についてドイツのメディアでも報じられていたが、一方でインターネット上の信憑性のないいかがわしいサイトについては、報道はほのめかしにとどまった。報道が共通して述べたのは犯人とおぼしき人は移民の背景をもつ人間だということだった。

 

 

レイシストは女性擁護を自己演出する

 

人にメッセージを伝えたい者は人にメッセージを感じさせないといけない。自分の体に、自分の生活の中で。「私の名前はミア。私はカンデルで刺し殺された。」個人的なものにすること。感情的にすること。政治活動の教科書の第一講、1ページである。

なので感情化のあとにはさっそくこれらの犯行の原因とされるものが続く。「なぜならあなたたちは国境を防備することを拒んだから。あなたたちは誰が入ってくるかを管理することを拒んだから。あなたたちは犯罪者を追放することを拒んだから。」と。声に出しては語られないが何が問題とされているかは明らかだ。つまりヨーロッパの女性はつきまとい、犯し、殺す、ムスリムによって脅かされているというのだ。
 表面ではこの動画はフェミニズム的な語りを用いている。暴力を可視化することや、沈黙を破ることだ。しかしこれらは「アイデンティタリアン運動」の人種差別を流布するために悪用されている。「女性はあなたたちに抵抗する!」と動画の下の行に書かれている。そしてそのそばに#120dbとある。120デシベルは、襲われた女性のための携帯防犯ベルの音量だ。#Metooへの右からの答えである。ドイツで沈黙されていたことがついに声に出して語られたというのだ。ジョギング中に公園で、仕事からの帰り道で、バス停で。彼女らはヨーロッパの娘たちと名乗る。彼女らは「あなたたちは私たちを忘れている」と言う。さらには「あなたたちは私たちを裏切った。私たちを生け贄にしている。」と。

この動画の主役はまた、「これがリベラルな社会だ。あなたたちの女性をもはや守ることができないのが。」と言う。「#120dbはヨーロッパの女性への真の脅威に対する真の叫び声だ。」と一人が言い、もう一人は「あなたたちはフェミニズムや女性の権利を説いてまわっていながら実際には女性の敵だ。」と言う。

 

 

フェミニズムにおいて重要なのは正反対のことだ
 

レイシストが自らを女性の擁護者にしたてている。これが今は新しいフェミニズムなのか。右からのフェミニズムが?「アイデンティタリアン運動」や他の右派周辺のヨーロッパのグループの若い女性は一見進歩的に見える。自負心があり、自己の権限で行動している。彼女らは権利の平等を擁護し、ヨーロッパの「イスラム化」や「旧態依然とした女性敵視の社会から来た多数の若い男たち」に反対することを望んでいる。

権利の平等はフェミニズムの中心的な概念だ。しかししかしここでの問題はフェミニズムでも権利の平等でもない。フェミニズムはすべての女性を守る。出自や肌の色や宗教に関わらず。それとは反対に右派はドイツの、ヨーロッパの女性の保護のために闘う。彼らは国家や文化について境界線を引く。彼らの世界観では脅威は外からしか来ないからだ。白人男性から白人女性への暴力はほとんど無視される。

したがって#120dbは#MeTooではない。社会の現実を否定しているからでもある。性差別と性的嫌がらせはドイツでは日常的にある。性的暴力はあらゆる階層と界隈にある。そしてあらゆる思想をもつ集団や民族に。性的暴力はもちろん宗教的な理由があることもあるし、男女がまったく平等でなく育つ社会のあり方から起こることもある。しかしその外側と内側の区別は、右派が行うようには、実際にはできない。性的暴力はまさにドイツの家や会社や家庭で起きている。議論の中で、移住者による嫌がらせや性犯罪にのみ話を限定するのはナンセンスである。極めて人種差別的な解釈である。そしてまた問題の解決にもならない。

 

 

抑圧に対する闘いだが、家父長制に対するものではない


「アイデンティタリアン運動」が本当に問題としているのは純粋なヨーロッパの血統つまりヨーロッパのアイデンティティの保護である。そしてそれに応じた彼らの、決してフェミニズム的ではない女性像である。それは「Just Nationalist Girls」のようなサイトを訪れれば明らかだ。そこにはアイデンティタリアンの女性が強い戦士として、弓矢やボクシンググローブをもった姿で描かれている。ここでもまた表面的なフェミニズムの語りの外観があるが、それはよく観察すれば崩れ去るものだ。それはナショナリズム革命を可愛く支持するPin-up-Girlでも同じだ。そこでは逆光が差すまばらな森林に心配げな母親が、民族の維持者として写っている。「戦争は国を滅ぼさない」「不自然に夫婦が子をもたないことはきっと国を滅ぼす」とそこに書かれている。自負心があるが結局は男の隷属的な同伴者としての女性だ。これはまさに時代に逆行する役割であり、新しい革命的なフェミニズムと宣伝して女性を右派に売るものだ。
運動内部の拡声器である女性代弁者は「Identitäre Mädels und Frauen」というグループだ。そのグループのシンボルは「アイデンティタリアン運動」の目印であるギリシャ文字のラムダ[Λ]に、長く編まれたブロンドのお下げの端にエーデルワイスの花をつけたものだ。それはラプンツェルのお下げのように硬い文字の縁取りに垂れ下がって、右派のイデオロギーへと這い昇るための誘いかけになっている。
このお下げの下のFacebookページを見た人はすぐに、この女性運動の核心には明確な反フェミニズムが潜んでいることに気がつく。たとえば去年の3月の投稿には「近代の第3波フェミニズムの問題はそれがもはやその関心事、その代弁者になりたがっているものを代表しなくなったことだ。つまり女性をだ。」その下には『ジェンダーガガ いかにバカげた理念が私たちの日常を征服するか』や『じゃあブラウスを閉めなさい 平等幻想に反対する叫び』などの著者のBirgit Kelleの写真が添えられたテキストの枠がある。Kelleの引用で「ドイツの女性運動の中ほど、真に女性であることに問題を抱える先駆者が多いところはどこにもない」とある。

「Just Nationalist Girls」のミーム画像はこういうの↓。ヨーロッパの伝統衣装を着ている。


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こういう服装、日本の保守というかオタクも好きそう。オタクがみんな保守じゃないけど。ちょっと前に流行った「童貞を殺す服」というのもたしかオーストリアの伝統衣装みたいなのじゃなかったか。ぜんぜんちがったかも。とにかく腹周り締め付けてていっぱい食べられなさそうな服。

「Identitäre Mädels und Frauen」のマークはこれ↓
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右派の女性にとってフェミニズムはエロティックの敵

 

「アイデンティタリアン運動」にとって真に女性であることとは、女性が男性の一歩前にひざまずき、彼女の目線は上を向いて、手は彼のズボンを下ろしている、というようなものだ。その写真の下には「フェラを愛せ。アンチファを憎め。」と書いてある。

このインスタグラムの投稿では、なぜ右派の女性的な自己に権限をあたえる身ぶり決してフェミニズム的でないのかという問いの答えを教えている。性的な自由と解放として宣伝されているものは二重の後退である。ひとつには女性をいっそう性的な対象に還元していて、さらにそれを政治的な敵対者を中傷するためにだけ利用している点だ。二つ目はフェミニズムは禁止と規制を望んでいるという完全に間違った見方を露呈している点だ。フェミニズムは潔癖でセクシーさに欠け、フェラを好まない、と。
しかしフェミニズムはまさにその反対を問題としており、セックスをタブーにせず互いを尊重した性の解放を重要だと考えているということが忘れられている。もちろん、まさにそれらの歪曲された描写は非常に受け入れられやすい。なぜならそれは、フェミニズムはエロティックの敵だという、社会の中心深くに固定された見方と結び付いているからだ。

右派の女性は抑圧と闘っている。しかし彼女らは家父長制による抑圧とは闘わない。彼女らは左派、リベラル、フェミニストの抑圧と闘っている。彼女らの人種差別的で性差別的な世界像の中で彼女らに挑戦するすべての者たちの抑圧と。嫌がらせをしてくる、その世界観の中ではもっぱらムスリムである男性たちとの闘いは単なる口実で、本当はこれは自由と寛容との闘いなのである。

 

南ドイツ新聞にはアイデンティタリアン運動についてPaula-Irene Villaのインタビュー記事があって気になるんだけど、有料会員しか読めない。論文探してみよう。