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ゼンケンベルクへの道

ドイツ語の練習をサボりがちになっては、Nに尻を叩かれ、また地道に単語を覚え、人と会話をする機会を作るように意識して、という日々が続いている。

Nと外を歩いていると花や鳥の名前が気になってNに尋ねることがよくある。そういうときにNはよく「知らない。鳥は鳥、花は花」というので、ぼくは自分で調べることにする。日本語名とドイツ語名をどちらも調べてわかるとすっきりするのだけど、Nはそんなことよりもっと人間への一般的な言葉かけを覚えてほしいと思っているようだ。

それはまったくもっともな懸念で、身の回りの生物の分類の体系はべつに人間世界の秩序の大事な部分ではないからだ。たしかに、ゴキブリが甲虫ではなくカマキリの仲間だという事実など、知っていていても知らなくても実生活や他人との付き合いになにも影響はない。しかし、そうは言っても自然には人間の文化や日常のごたごたよりも調和した秩序と意外性があり、無視するのはもったいない魅力がある。

カルヴィーノの自伝的小説『サン・ジョバンニへの道』では、いろいろな言語の動植物名に没頭し山へ向かう父と、人間の街へ向かう主人公が対比されているが、ぼくはどちらの道にも誘われ惹かれつつも、ものぐさに日々を過ごしている。

 

5月初めに、日本の友人2人がドイツに遊びに来てくれた。この2人はぼくよりずっと生物に詳しい。彼らとフランクフルトのゼンケンベルク自然史博物館に行った。
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ぼくは2回目だったけど、前に見られなかった箇所もゆっくり見ることができた。ここはなんといっても動物の剥製標本数が凄まじい。多様性の底知れなさや、それを収集分類する人間たちの執念にひたすら圧倒されて目が回る。

見終わって、夜にはNも連れて夕食をとりに近所のギリシャ料理レストランまで歩いていった。ぼくはNと並んで歩き、後ろをついて歩く2人が話しているのを聞くともなしに聞いていた。1人が樹上を指して「あれがElster」と言っていて、ぼくもこちらに来てすぐあのきれいな賢い鳥と、"Elster"と「カササギ」という言葉を結びつけ、心地よく収まった気分になったのを思い出した。

 

 

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生物の多様性の背後にある秩序は現代では進化論として知られるが、ダーウィン以前の時代にはもちろんまだ知られていなかった。それでも物理学で統一的な理論はとっくにうちたてられており、科学的な研究方法も、各生物についての情報も十分にあり、多くの科学者や哲学者が(生物学にもなにかあるぞ)と感じていた。(いまに一見バラバラの生物たちを結ぶとんでもなく壮大な思想が産まれるぞ)と予感が渦巻いていたんだろうなと思う。さぞワクワクしただろう。それが19世紀の中頃、進化論前夜だ。それでいろんな人がいろんなことを考えていた。あの辺り、ダーウィンの時代の科学史は八杉龍一さんの本に詳しく、べらぼうに面白い。

ドイツ的には19世紀中頃はダーウィンの時代ではなく、おしもおされもしないゲーテの時代だが、ゲーテも『形態学論集 動物篇』『植物篇』という博物史を書いている。これは一見異なる形の生物間や生物の部位間に似た形が見られることを記述し、背後の普遍性のようなものについて書いている本らしい。読んでいないけど。

それをもとにエルンスト・ヘッケルがゲーテを進化論の父の一人に加えようとしたそうだ。ヘッケルは進化論をドイツに広めた、賛否半ばするが面白い人だ。彼の生物画がとにかく精密で美しい。
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