if( localStorage['ga_exclude']!='1'){

記事紹介:アリス・シュヴァルツァーへの批判│イスラムのスカーフカンファレンス

先週、5月8日にフランクフルトで「イスラムのスカーフ」カンファレンスというのがあったらしい。近所でやってたのに内容まで確認していなかったのだが、どうも当事者からは批判が相次いだそうだ。登壇者にアリス・シュヴァルツァーがいたようなので、さもありなんだ。

日本ではアリス・シュヴァルツァーというとボーヴォワールのインタビュー本の著者として知られているようだ。名前を検索してもその本や他の講演の情報が出てくるだけで、イスラム批判についてはあまり情報がない。これでは彼女の主張が日本に輸入されたときに、フェミニストの大御所が移民差別にお墨付きを与えていると思われてしまう。いやじっさいそうだから問題なんだけど。彼女への批判も日本語で共有しておかないといけないと感じた。

以下は10日の記事とその訳だ。

Alice Schwarzer: Übergriff auf junge Muslima zeigt ihren Rassismus › ze.tt

https://ze.tt/ihr-uebergriff-auf-eine-junge-muslima-zeigt-wie-rassistisch-alice-schwarzer-ist/?utm_content=zeitde_redpost_zon_link_sf&utm_medium=sm&utm_source=facebook_zonaudev_int&wt_zmc=sm.int.zonaudev.facebook.ref.zeitde.redpost_zon.link.sf&utm_term=facebook_zonaudev_int&utm_campaign=ref

 

若いムスリマへの侵害はアリス・シュヴァルツァーがいかにレイシズム的かを示している。

フランクフルトでのイスラムのスカーフカンファレンスでシュヴァルツァーは若いムスリマをやり玉にあげて彼女を嘲笑った。彼女の態度はレイシズムを露呈している。

 

Katharina Alexander

2019年5月10日

「彼女はインターセクショナルでない白人のフェミニズムを推進している」、「もしあなたがフェミニストなら私たちが自由にスカーフをすることに賛成するはずだ!」と大学生が叫ぶ。彼らはフランクフルト大学の前で、そこで行われたムスリムがベールを被ることについて議論するカンファレンスに反対している。

カンファレンスの中心にはアリス・シュヴァルツァーがいる。かつてのフェミニズムの第一人者であり、今日ではとりわけトランスの人を排除する考えの持ち主として知られており、難民にひとまとめに容疑をかけ何度もイスラムに反対する議論をしている。フランクフルトの大学前でアリス・シュヴァルツァーは猛烈で、強情なまでの印象を与えた。彼女は若い女性たちの方に荒っぽい身ぶりをして「あなたたちは私への百ほどの賛意を何も読んでいない」と叫んだ。

Zuher Jazmatiが撮影して彼のInstagramアカウント@xanax-attaxで共有されたこの動画 はインターネットですぐに拡散された。カンファレンスでアリス・シュヴァルツァーはスカーフをすると決定した理由はさまざまありうると認めていると述べた。彼女のふるまいはその正反対のことを示している。なぜなら彼女はデモの女性たちを見下し、レイシズム的な侮辱をし、若い女性の身体についての自己決定権を否定したからだ。これはもはやフェミニズムと何の関係もない。

 

(ムスリム)批判者たちのカンファレンス

 

イスラムのスカーフ ー尊厳の象徴か抑圧の象徴か」と題したカンファレンスは予告後にすでに反論を呼んでいた。主催者の教授のSusann Schröter博士は過去にスカーフに批判的な考え方で耳目を集めていたグローバルイスラム研究所の所長だ。しかしカンファレンスにはスカーフが少ないのと同様にイスラムフェミニズムも少ない。講演者の選択も批判された。主としてイスラムに批判的な考え方で知られる人が招待されていたのだ。その中には女性団体のTerre des Femmesの幹部のNecla Kelek博士、元校長のIngrid König、そしてアリス・シュヴァルツァーがいた。

このカンファレンスと講演者のリストを支持できない大学生がいた。それももっともなことで、ベールを被ることについての議論は、女性がスカーフ強制に反対している厳格なムスリムの国々での状況とドイツでの状況をあまりにしょっちゅう混同している。民主主義的で自由な社会では女性はヒジャブをつけるかどうかを自己決定で決めることができる。なのでスカーフは抑圧の象徴ではなく個人的で宗教的な表現のあり方だ。スカーフが本当に自由意思でかぶられているかをいつまでも疑い続けることはたとえば右派ポピュリストのような立場を焚きつけるだけだ。そのためアリス・シュヴァルツァーはいつも彼女の意見に対してAfDから拍手喝采を受けている。ドイツでムスリムへの侵害が常態化している一方でスカーフのような衣類のリスクを優先的に論じることはすこぶる奇妙である。
 

 

大学教授Schröterへの反対キャンペーン

 

とりわけヒジャブ反対論者の学問的議論が組織され実行されたことへの怒りから、大学生は #schröter_raus キャンペーンを始めることを決めた。彼らはカンファレンスを取り止め、Schröter博士を免職することを要求した。その理由はカンファレンスが右派や右派ポピュリストの立場を強めるかもしれないことだ。それに加えて、生活の実態を議題にする大学の制度的なレイシズムにも注意を喚起した。

カンファレンスへの批判を意見の自由への攻撃や誹謗と表現するメディアもあり、多くの政治家がSchröterとの連帯を示した。キャンペーンを組織した人たちは「イスラム主義者」と呼ばれた。要求を載せたInstagramのプロフィールには批判と敵対意見と侮辱がつみかさなり、最後にプロフィールは削除された。

それにもかかわらず批判者らは水曜に、催しと講演者への批判を公にするためフランクフルトの建物の前に集まった。そこではスカーフをかぶった若いデモ参加者へのシュバルツァーの侵害も取り上げられた。
 

 

シュヴァルツァーの白人フェミニズム

 

シュヴァルツァーは数年前からレイシズム的な意見で注目され、スカーフに賛成するムスリム女性の自己決定権を否定している。彼女は「スカーフは女性を他方へ、二級階層の人間にするサインだ」と2006年にFAZ誌に対して述べて、そのすぐあとにスカーフをユダヤ人につけられた星マークにたとえた。

彼女はカンファレンス前でデモ隊にそのホロコーストの相対化について意見を求められたとき、どのような意見が問題になっているかわからないかのようだった。彼女は批判者たちが意見の文脈を知らないと述べた。今日でもシュバルツァーは、EMMA誌のある記事で述べたようにスカーフを「抑圧の象徴」と見ていて、それがカンファレンスの主旨であることを受け入れている。

シュヴァルツァーは「誤配置された外国愛」のような概念を使ってスカーフをかぶる女性への寛容を誤った寛容と呼んでいる。そこから明らかになるのはヒジャブを自己決定する女性を軽視する彼女の態度だけではない。彼女は、イスラムを外国のものと考え、ドイツの多元的な社会の一部として見ていないことが明確である。したがってデモの女性への否定的な態度はシュヴァルツァーのレイシズムで濁った世界を見る目を象徴している。

 

 

記事中のシュヴァルツァーの紹介で彼女がトランスジェンダーの人を排除したことが書かれている。

今、日本のネットのフェミニズムでもトランス女性を公衆トイレや浴場から排除しようという動きが目立っている。このいわゆるTERF(トランス排除のラディカルフェミニズムの略語)の人たちの主張は、ヨーロッパでのイスラム系移民排除の主張と似たところがいくつかあるように思う。たとえば、ある属性でひとまとめにしてその属性に入る人たちを犯罪予備軍のようにあつかうことや、特定の属性の女性を女性の連帯の輪から締め出すことなど、である。じっさいフェミニズム内でのトランス差別と人種差別は共通点が多いのかもしれない。

 

シュヴァルツァーは自分の著作に賛同する人が多いことを批判者に言っていた。それが励ましになっているのだろう。しかし、差別にはつねに賛同者がいるものなのだ。

ぼくのブログのアクセス数は雀の涙ほどだけど、ときどき不意にアクセスが増えることがある。それはどうやら、最初のころ移民反対の立場の記事紹介を更新してたときや、それがリンクされたときのようだ。記事ごとのアクセス数はわからないけど、体感で反レイシズムの記事の100倍くらいだと思う。これはかなり恐ろしいことだ。PVを稼ぐ目的で書いている人がヘイトを煽るデマ記事に傾倒していく、というよく聞く話もよくわかる。そりゃそうなる。google検索ってなんか、白雪姫に出てくる正直な鏡と正反対の、嘘まで用意して見たいものだけ見せてくれる窓みたいに機能してるんだなと思う。