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年の瀬と、二つの魔法のこと


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世界には二種類の魔法がある。仕組みがわかっても解けないものと、仕組みがわかると解けるものだ。
酒は第一の魔法で、サンタクロースは第二の魔法だ。

酒に酔う、その生理学的な仕組みがわかっても、酩酊の魔法は解けない。

いっぽうで、「サンタクロースはお父さん」みたいな身もフタもない真実とされるものを人は幼少期からいくつも突きつけられて、たくさんの魔法を解かれて大人になっていく。
 

潮干狩りの貝は漁師が浜にわざわざ撒いてるということや、ペットショップで売れ残った犬猫の行方や、着色料や添加物についてや、UFO映像に使われたCGや、ファーストフードの店員の笑顔の源なんかを知りながら歳を重ねる。

そうして幾度も学びと幻滅をくりかえし、なんとく抽象的なことも考えられるようになると、ショックを受ける前に(これは怪しいぞ)と鼻が利くようになってくる。身もフタもない真実がウラに隠れているぞ、と気づくようになる。

 

その点、科学、とくに自然科学は、世の中の裏返ったカードをみんなひっくり返して日の下に晒してくれるような安心感がある。小学校4~6年生くらいの子に科学や自然が好きな子が多いのもなにかそういう理由があるのかもしれない。
 

「真実は身もフタもないものだった」
 

たしかにそいうことはままありうるし、真実が残酷だったり下世話だったりすることもある。そういう場面は印象が強いし、記憶にも残る。ただしそれはあくまで印象にすぎず、

「身もフタもない。“だから“真実だ」

という推論はなりたたない。

なりたたないのだけど、身もフタもないもの、より幻滅を味わえそうなものを先回りして真実だと決めてしまうバイアスはある。露骨で夢がないという感じが、客観性を担保してくれる証拠のようにすら解釈される。

 

性欲やお金、利害や欲望、偽善や陰謀、政治や策略、そういう仕組みの存在を優先して真実と見なし、魔法を暴いてしまえば、傷つけられることはないだろう。もうサンタクロースに騙されたくない。まだサンタクロースを信じている友だちをバカにしてやりたい。これは何を切り落とすカミソリなのだろうか。

 

じっさい、魔法が解けた人たちはまだ魔法のさなかにいる人たちをとても冷静に見ていて、ときに辛辣だ。進化心理学の信奉者から見ると世の人たちは遺伝子の操り人形だ。フェミニズムを学んだ人からすればミソジニストは女性学の教科書どおりにふるまっている。占星術に無知なものは星の動きに従順である、という言葉もあるそうだ。

 

世の中の仕組みにはいろんな説明の仕方がありうる。統計を用いた説明、階級闘争としての説明、遺伝子の遺しやすさによる説明、物語のような説明、経済学的な説明、道徳を重んじる説明、精神分析の説明、ゲームの理論などなど。その中のひとつが誰かを幻滅させそうなものだからといってそれに飛びつかなくてもいい。


相手の手札の中にジョーカーがあるとわかっても自分がそれを引くと決まったわけではない。よくよく、選ばないといけない。いくつかのカードはいかにも引いてくれと言わんばかりに突き出してくる。他のカードは前のカードに隠れて引きにくい。

 

魔法や呪いを解いてくれる説明、それ自体が別の魔法や呪文だということもある。科学がオカルトの魔法を解いてくれたあと、科学至上主義という憑き物を科学史や科学哲学がお祓いしてくれるかもしれない。何がジョーカーなのかは場合によって変わりうる。

 

あるいは早めにババを引いてしまったほうがいいときもあるだろう。また早めに自分のもとを離れていってくれるから。手札を入れ替えているうちに、還元しすぎず特殊化しすぎない、現象に合った大きさのカードが見つかるかもしれない。あるいはいくつものあいだで迷っている状態がちょうどいいのかもしれない。

ある理論によって真実を知り、理論に対する批判を知ってその理論から距離を置き、また一周まわってきて再評価して...。解いては説かれ、説かれては解いて、そういうカード遊びに親しむうちにおちつくところにおちつくだろう。

 

いったいどこにおちつくのか。それはしばしば第一の魔法のもとである。仕組みを理解しても解けない魔法。それは弄んでいる手札ではなく、自身の体のほうにある陶酔と苦痛だ。比較行動学や愛着理論を学んでも、相変わらず子どもは可愛いし、恋愛もする。認知心理学で視覚の仕組みを学んでも、錯視が消えることはない。
 

ウンベルト・エーコの小説『フーコーの振り子』で、知的遊戯にのめりこんで危うげになる主人公を、その妻が諫めるくだりがある。そこで彼女はこの第一の魔法にも訴えていたのだと思う。身体感覚や親密な関係、日常生活の知恵から出発して思考すれば、抽象的で極端な思想に走らない。途方もない高さまで積み上がった理論に連れ去れそうな意識をお腹のまんなかあたりにひっぱりもどしてくれる。

 

「革命思想に殉じるべきだ」

「すべての現実は社会的に構築されている」

「個体は遺伝子の乗り物にすぎない」

でも、ほんとうに?そう問いかけて立ち止まらせてくれる。

 

とはいえ、思想のカード遊びに興ずるインテリにはいい薬なのかもしれないが、ぼくたち俗人にとってナイーブさは精緻な理論や高邁な思想以上の劇薬になる。解けないぶん間違っていても修正が効きにくいため危険だ。

 

「そうはいっても、気持ち悪いじゃない」

「わかっちゃいるけど、信じたいんだよ」

 

素朴な実感の前では百の言葉も空疎に響くし、現実の痛みに理屈は通じない。知識人と呼ばれる人たちでさえさいきんはすごく素朴な実感でものを言う。

 

ナショナリズムは幻想なんだってね。知ってるよ。でもね...」

「正しさばかり主張してもね...」

そいういう声があちこちから聞こえるのが情の時代といわれるゆえんなんだろう。今は原初の魔法こそ猛威をふるっている。2020年代はどうなるやら。
 

あらためてみなさん、メリークリスマス。サンタクロースが来る人も、来ない人も。年末年始、お酒の飲み過ぎには気をつけて。