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記事紹介: ドイツのTerf 不安のないトイレ

もうひとつドイツでのトランス排除フェミニズムの話題。

2019年5月2日の、Linus Gieseによる記事。

Toiletten ohne Angst – Ja, wir sollten darüber reden, wo trans Menschen willkommen sind - EDITION F

https://editionf.com/transfeindlichkeit-toiletten-dritte-option/

「不安のないトイレ」というタイトルだが、トランスの人にとって、という意味だ。

 

不安のないトイレ   ー  たしかに、どこならトランスの人たちが歓迎されるのか話し合うべきだろう。


トイレと性の多様性に関するたちの悪いジョークはさんざん作られてきた。そこで忘れられているのは、それらの発言に傷つけられ、トイレに行くような日常のことで何が起こりうるのかを無視されたトランスの人たちの事情である。


「すぐさま女子トイレに消え失せないなら、覚悟しろよ」

私たちは日に4,5回トイレに行き、人生のうち3年と6ヶ月をそこで過ごす。

私はトランス男性で、私もときにおしっこをしなければならない。公衆トイレが必要なときは男子トイレを使う。私は髭があり、紳士服を着ている。前に古い習慣のためうっかり女子トイレに足を踏み入れたとき、女性たちは驚いて拒絶的に私を見た。

人口の約0.2%はトランスである。表現を変えると、諸君の会う500人に1人統計的にはトランスだと言える。なので気づいていなかったとしても、諸君がすでに公衆トイレをトランスの人たちと共有した可能性はかなり高い。


トランス敵視のフェミニズム

数十年間、トランス男性は男子トイレを、トランス女性は女子トイレを使ってきた。このような日常的な出来事についてはどんな形の審議も必要ないと考えられる。しかしじっさいには公開討論がますます喧しくなっているのを私は大きな懸念をもって見ている。メディアからの注目がさいきんこの話題に向けられたのは、CDU(ドイツキリスト教民主同盟)党首のAnnegret Kramp-Karrenbauerがカーニバルの行事で、トイレについて「おしっこを立ってするか座ってするか決められない」と、からかったときだった。CDU政治家のStefan Ottは彼のFacebookページの投稿で、「『第三の性』の冗談を信じ込む権利があるが、冗談でしかない。我々は現状が続くことを懸念するべきだ。」と書いた。またSNSでもさかんにそれについて議論され、それらの議論にはとくにTERFと呼ばれる人たちが参加している。TERFとはtrans exclusionary radical feministの略語で、トランスの人を排除するフェミニズムのことだ。

中略。ご存じターフの説明。オーストリアの映画館で、ジェンダー中立のトイレが導入されたことなども。

 

私が何度も驚かされるのは、社会のあらゆる層にトランスへの敵意があり、一見啓蒙されているフェミニストにさえ見受けらることだ。しかしなぜ他の人を排除しながら、その世界を公正で良いものにするため戦っていると信じられるのか。

 

トランス女性は女性である

これらの議論の意地悪さは、議論のさいにトランス女性をつねに女性の服を着ただけの「男性」として描き出すことだ。なので私はこの立場でもう一度声を大にして強調したい。トランス女性は女性を自称する「男性」ではなく、あくまで女性である。

日刊紙WELTの政治部編集者のThomas Vitzthumは2月初めに「トランスセクシュアリティ: 第三の性のためのトイレは必要か」という見出しで書いた。そこで彼は「バイエルン州の3つ自治体で学校新設にあたりトランスやインターセクシャルの子ども用トイレを設置しようとしている。しかしこの措置は本当に意味があるのか。」と書いた。私はこの手の記事にはいつも「待て。やめろ」と叫びたくなる。これらは誤解を招きやすく有害だからだ。トランスと第三の選択肢は別の事柄だ。報道のために調査をして専門家と話すべきジャーナリストさえ誤りを犯すことは、性の多様性に対する知識と敬意がいかに欠けているかを強調している。

そのようにいうのは、第三のトイレは中間の性の人や二分法でない性の人のためにならたしかに意味のある改良だが、たいていのトランスの人は独自のトイレを必要としていないからだ。彼らが必要なのは自分の性に合ったトイレに行けるような、安全と社会的な受容である。トランス男性で作家のJayrôme Robinetは彼の自伝の中で初めて男子トイレに入ったときのことを書いている。「そこで何が待ち受けているだろう。顎をくだかれるか。顔を殴られるか」私が行くどの男子トイレでも私は個室が空いていることを期待する。男子小便器を使うのは不安が大きすぎるからだ。2、3ヵ月前にドライブインのトイレに行ったとき、ひとりの男が私に話しかけて言った。「すぐさま女子トイレに消え失せないなら、覚悟しろよ」


「トイレ論争」は不安を煽る

それでも私がこの「論争」に参加すべきなのはとくに次のような問いを立てるためだ。トランスの人が自分の性に合ったトイレに行くのをいったいどうやって妨げるのか。ドイツの公衆トイレすべての入り口に検問を設けたいのか。DNA使わないと入場できないようにすべきか。指紋認証が解決策になるだろうか。あるいはトランスの人に共通のマークを服に縫いつけてもらって、それによってシスの人と区別し、本人にとって正しい方のトイレから排除するか。そしてそのようなマークによってトランスの人は他にどんな場所から締め出され追い出されることになるだろう。更衣室か。病室か。

英語圏では現在とりわけ激しくトイレについて議論されている。大衆紙がそれを扱わない日はほとんどない。しかしTERFにとっての問題は、ほんとうにトイレに入ってくるために「男性」が女性を自称することなのか。私の印象では、トランスの人のアイデンティティを否定するためにトイレの話題が代わりに使われているように思える。私たちの世界は変わりつつあるが、トランスの人は昔からずっといたのだ。ただ彼らは今のように大きな声を上げられなかったし、目立たなかっただけだ。このように私たちの性のため多様性がますます利を得ているが、その変化のために多くの他の人は脅かされ肩身が狭くなったように感じているのだと私は思う。トイレという議題は、不安を煽りトランスの人の存在を問題視するために利用され、それによって彼らを排除し制限し生活を困難にしている。

 

どうすれば私たちはうまく受容できるか

私が望むのは私たちがそれを自重することだ。私たちは、どうすればトランスの人がある場所に入るのを妨害したり禁止したりできるかを議論すべきではない。もしそれでもトランスの人について議論したいのであれば、どうすれば社会全体でトランスの人のアイデンティティや存在を受け入れることを実現できるのかを議論してほしい。一番いいのは、それによって彼らの経験を知ることだ。

私はさいきんある若者と会った。彼は自分がほんとうにトランス男性なのか自問していて、私や私の人生についても多くの質問をした。私はトランス男性として男子トイレに行っていいのか。男子更衣室に入っていいのか。フィットネスクラブやプールにも男性として行けるのか。その会話は長く私の記憶に残っている。多くのトランスの人がすでにあらゆる日常の場面でもっている不安や懸念や不確かさが明らかになったからだ。そしてどのトランスの人もそんな不安を感じなくてもいい。トランスの人が、どこでも、彼らを受け入れ社会の一員になれるように助けてくれる他者に会えることを信じられるといい。

 

 

この話題を日本語、英語、あるいは韓国語圏で追っている人には、何も目新しい情報はなかったと思う。AKKがトランスを揶揄した話くらいか。

日本でのこの話題だと、トイレ、更衣室、シェルターに銭湯や温泉が加わる。ドイツにも公衆のサウナやテルマがあるけど、混浴だからか上の記事にも挙げられていない。

 

トイレの話題に始まり、トランスの存在を否定するところまで行くのはドイツでも同じなようだ。日本語でも、以前「私が今の心のままで男になっても違和感はないと思う」と書いているTwitterユーザーを見かけた。

脳の機能についてはまだ専門家でもわからないことが多いそうだが、たとえば相貌失認や受容性失音楽、半側空間無視をじっさいに自分が体験することがどういう感じなのかを知るのは難しい。それでもそういう症例も、関連する脳機能も存在するのだ。

それを考えると「心がそのままで性が変わったら…」のような思考実験の無意味さ、というか想像力の無力さを痛感する。性なんて育った環境や文化の影響を受けやすいからよけいに複雑だろうし。

しかし、じゃあどうすればいいのかというのはまったく明らかで、当事者の話を聞けばいい。上にも書いてある通り。