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論文紹介: FEMEN トップレスの抗議とムスリム女性

FEMENという国際的なフェミニスト団体がある。FEMENという団体名はそれほど有名でないがトップレスの抗議は世界中で報道されている。上半身裸で抗議行動をしている様子をネットニュースなどで見かけた人は多いと思う。

もとはウクライナの性産業、性ツーリズムを批判する団体だったがメンバーが増え、世界中で活動を展開する中で抗議の目的も多様化していったようだ。抗議の対象にはプーチンや仏の国民戦線のほかに、保守的なキリスト教イスラム教も含まれるようになった。

このブログでも以前何度かFEMENに言及していたが、それもFEMENがイスラム教に対して女性を抑圧する制度だとして批判しているという文脈だった。西欧のある種のフェミニストイスラム教を女性抑圧の象徴として批判するとき、その点ではイスラム嫌悪や移民排斥をする極右と一致してしまうという現象を何度か紹介してきたが、FEMENもその傾向が指摘されている。

 

イスラム教とフェミニズムの関連についても述べられている、FEMENについての5年前の論述を紹介する。

 

 

„I am God“ und „FEMEN Akbar“: Die Beziehung der aktivistischen Frauenrechtsbewegung FEMEN zu Christentum und Islam

2015

Lisa Breddermann

[https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&url=http://trace.tennessee.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=4565&context=utk_gradthes&ved=2ahUKEwiliKiA2vXsAhVQJBoKHRJZAf4QFjAAegQIAhAB&usg=AOvVaw0aAiE-npkhfe1Aecm_pXBA:title=[PDF]]

 

最初にこの論文ではポストフェミニズムに触れている。ポストフェミニズムは、フェミニズムはすでにその役目の大半を果たしたという前提で今までのフェミニズムとは違うイメージを演出したフェミニズムである。この名前自体は遅くとも1980年代前半からあるが、この論文ではその始まりを2000年代と設定している。

(このブロクでは以前ここ で紹介した潮流)

 

20世紀の終わりにフェミニズムは死んだと考えられてTime Magazinの「フェミニズムは死んだのか?」のような記事が出版されたが、21世紀の初めは新しいタイプのフェミニズムが生じた。いわゆるポストフェミニズムやポップフェミニズムである。これはとくにかつての女性運動とはっきり区別されるのが特徴だ。またフェミニズムの目的は政治から文化まで、宗教など、フェミニズムの言説内にさまざまな領域を含めるものに拡大した。

 

また、フェミニズムの対象領域が狭い意味での政治や社会進出だけでなく、文化や教育、宗教にも拡大したことを指摘する。

 

FEMENの活動は、反抗の焦点が反プーチンに向いているときのように政治的な分野だけでなく、社会、文化、そして宗教の空間にも関わっている。

 

ポストフェミニズムはしばしばフェミニズムの過去の形態から距離をとるタイプのフェミニズムである。ドイツでも、たとえばドイツ語圏の2つの著作が模範になる新しい形のフェミニズムがとくに21世紀に発展した。1つはSusanne Klingner、Meredith HaafとBarbara Streidlの『私たちアルファ女性 -なぜフェミニズムが人生を美しくするのか』と、もう一つはElisabeth RaetherとJana Henselの『新しいドイツの女性』だ。

 

こういった新しいフェミニズムには、しばしば有色人種やセクシャルマイノリティの視点が欠けていて、白人中産階級の女性中心だと指摘される。

 

Sonja Eismannは「Hot Topic 現代のフェミニズム」でポップフェミニズムを定義して、ポップフェミニズムにはまだ明らかに「女性と社会」のテーマに属するレズビアンや移民女性の視点が欠けているとしている。

 

フェミニズムのインターセクショナリティについての議論は、Hester Baerも述べるように、ポストフェミニズムで抑圧されるか無視されているようだ。「HenselとRaetherは、(…)インターセクショナリティの現代的な広がりで最高潮に達した数十年のフェミニスト理論を故意に無視している」。ポストフェミニズム的な言説における人種やマイノリティの無視の事例はドイツのフェミニズムの歴史ではこれ1つだけではなく、すでに80年代にもインターセクショナルな方法をとるフェミニストと白人中産階級フェミニストの間に緊張関係があった。

 

インターセクショナリティのフェミニストの例として1980年代にAudre Lordeに設立されたドイツの黒人女性のフェミニズム運動であるADEFRAがある。これはとくにこれまで無視されてきた女性の利益を中心に置こうとした。

 

FEMENはこの宗教敵視の観点で、今日しばしば宗教に対してされるような批判、つまり女性抑圧だという批判ををする。ドイツで拡大したPEGIDAの運動を見れば明らかなように、FEMENは単独で宗教批判、この場合はとくにイスラム教批判をしているわけではない。なのでFEMENはこの点で、つまり家父長制的な宗教への批判という点で、現代のドイツのメディアの関心を的確に捉えている。しかしそれでもここでは一般化は試みない。なぜならPEGIDAがイスラム教に抗議しているだけで彼らが女性のために戦っていることを意味しないし、同様に女性のための戦いはイスラム教に反対することと同じではない。

極右と一部のフェミニストイスラム敵視で足並みをそろえていて、どちらも批判すべきであっても、両者は同じものではないという指摘は重要だろう。

 

FEMENの組織

FEMENの初のメディアに効果のある行動について出版社のある記事はこの女性運動とその目的について、「その若い女性(Anna Hutsol)は横行する売買春との戦いを旗に記した女性学生組織『FEMEN』のリーダーだ。この女性たちの目的は政府がウクライナへの性観光の流入を禁止する法律を公布することだ」と説明した。

このあとメンバーが増え、活動地域や目的は拡大したという。

さらにメッセージが届く範囲を新しいメディアを通じてグローバルに広げることが可能になる。世界中のメッセージの受け手は画像やコメントをSNSに投稿するだけでFEMENの討議に参加できる。

FEMEN自身も公式オンラインショップ(www.femenshop.com)や他の公式サイトに載せている声明で、世界中ですべての女性の権利の平等を求めて戦う国際運動が重要で、彼女らの体はマニフェストで、胸は抗議だとされる。また目的は家父長制に対する非暴力的抗議だという。

 

裸の女性の体を通してまさにセクシズムを求めて戦うという矛盾が明らかにここにあり、それはFEMENによって意図的に先鋭化されている。裸の抗議を通じて家父長的なイメージを砕き、身体について家母長制のイメージを打ち立てようとしているからだ。

 

より正確なFEMEN像を描くために以下では運動の公式ホームページ(www.femen.org)を分析する。

 

指摘されているポイントは、

  • オンラインショップのような作りのホームページに、活動報告のほかにスローガン入りのFEMENの製品の宣伝がある。
  • 理念の文には「初めに身体があった」など聖書もじりが多用されている。
  • 活動家は強いアマゾネスと表現され、新規活動家のためのトレーニングジムもあり、警備員や警官に排除されるさいに抵抗する訓練をしている。
  • サイト上で中心的メンバー(Oksana Shachko)の誕生日が祝われ、メンバーが逮捕や起訴された経歴も書かれている。ある種の英雄崇拝、殉教者信仰のような扱いに見える。
  • 花の冠はウクライナ伝統のヴィノクだが「不服従」のシンボルと説明され、むしろ自由の女神、キリストの茨冠、英雄としてのローリエ冠を暗示。
  • 非暴力的なトップレスの抗議が女性解放の唯一の手段だとしている。

 

 

裸の抗議とインターネットメディア

 

さいきんの社会運動は、インターネットやソーシャルメディアをうまく活用して情報を瞬時に拡散し、活動に役立てているのが特徴だ。FEMENもそうである。

なのでメディア機構とFEMENの依存関係が生じる。たとえばモスク前での抗議はジャーナリストが抗議に興味をもってそれを報じたときのみ有効だ。

 

そのうえでメッセージとして画像はとくに重要だ。Henrike KnappeとSabine Langはこの可視化の過程を記事「声と囁きの間:英国とドイツでのオンライン女性運動アウトリーチ」で「組織化だけではなくコミュニケーションのための、機動性を高めて活動を広める運動レパートリーの転換が見られる。オフラインからオンラインへ、そして大規模な抗議からターゲットを絞った資金調達とキャンペーン活動へと転換する。」と説明している。

 

Gapovaによると、このようにメディアでの必要に迫られてしばしば、人気と視聴数を高められる個人的な関連をメッセージの材料にして、プライベートの公開が行われる。そこでは「人が生活している様子が演出される」。

 

この側面は明らかにFEMENの抗議行動にも認められる。たとえば上述の活動家の人となりを見せたり、Oksana Shachkoなどの活動家の誕生日を祝ったりする点だ。

FEMEN以外にトップレスの抗議をする団体として環境保護団体やスラットウォークを紹介している。環境保護団体は裸の傷つきやすさと自然さを結びつけているというが、フェミニズム的な抗議でもこの関連は考慮に入れるべきだという。

Judith Staceyは彼女の著作「The Empress of Feminist Theory Is Overdressed」で制度的でない「感覚的な肉体」を称揚しているが、著者は、

裸の体は依然としてセクシュアリティの象徴で、特定の特徴によって限定されて普遍的でないものではないのではないか

と、制度から解放された裸の肉体という概念に懐疑的である。

 

Stacy Alaimoは記事「The Naked Word 」で、裸であることは特定の真実や誠実さを表に提示し、裸の抗議の裏側にそれ以上のこと、すなわちメディアの注目を維持したいという意思を隠すことができる、と述べている。「これが知名度を得る簡単な方法であるという皮肉だがそれほどあてにならない感覚に反して、裸の体の理想的なビジョンがあり、共通の肉体性、共通の傷つきやすさを仄めかしている。」

FEMENはトップレスの抗議をタブー破りだと考えているが、ドイツではテレビにもよく裸の胸は映るのでタブーとは言えない。アメリカでは検閲されることが多く、地域によって違うそうだ。しかしFEMENの抗議の方法は文化や国に関わらずいつもトップレスだと指摘する。

しかし、それは文化的環境に応じて非常に多様な意味や解釈をはらみ、さまざまな反応を引き起こす。

 

また著者は、Gillian Roseの著作『Werk Visual Methodologies』から引用し、写真は単なる現実の反映ではなくすでに文化的解釈を経て呈示されたものだという。

身体は、FEMENの場合女性の身体は性別固有の言明内容をもっており、多くの意味伝えていて、それだけでサイズや人種、性別を介している。身体は「性別、人種、階級で分類され、正常/異常または有能/無効として特徴を表す。」

 

著者はFEMENに対する批判はさまざまだとして、Theresa O’Keefeによる批判を上げている。

O’Keefeによる批判は要約すると、

  • FEMENは資本主義を批判しながら、ホームページでは商品宣伝をして消費を求めている。
  • 抗議に裸の胸を使うことでセクシズムを強化している。
  • 若いきれいなモデルのような白人女性ばかりを動員し、他のタイプの女性を排除し、それによってジェンダー規範を強化している。
  • 裸になることを女性の自由と結びつけることで、裸の文化的な意味の多様性を見落としている。

などである。

 

Jessica Zychowiczは彼女の著作『2つの悪い言葉:独立ウクライナのFEMENとフェミニズム』の中で、彼女の焦点はFEMENの「煽動代理店」の分析に向けられていると宣言している。したがって彼女は問いを立てるさいに、FEMEN活動家が良きフェミニストかどうか考えるのではなく、彼女らが作り込んだ大騒ぎによってとくに一般世論や公衆の関連でどのような効果があるのかを問うべきだとしている。

 

Zychowiczの批判は、

  • FEMENの戦略は性観光を問題にする可能性が低い男性の視線をフェミニズム的な話題に向ける上で効果的である。
  • 白人の美しい女性ばかり集めているのは性規範のパロディとして機能している。
  • 主要メンバーの偶像化と、社会運動のブランド化、商品化を批判。

など。

 

今のFEMENはモデル体型の白人女性ばかり集めているわけではないそうだ。かつてFEMEN創設時に男性リーダーがいたときは彼が意図的に美しい女性を選び、ブランド化していたが今は組織はその男性から縁を切っているらしい。

FEMENの抗議行動の意図が誤解される一因は、裸の胸などの画像の多義性や複数の解釈の可能性だと著者は考える。さらに宗教や文化を越えるとFEMENの意図はいっそう通じなくなる。

 

 

抗議におけるFEMENの宗教への態度

 

フェミニズムと宗教 2つは対極にあるものか

FEMENは抗議の対象に宗教を上げており、基本的な家父長制機構としてイデオロギー的に打倒するべきものと名指されている。

たとえばジャーナリストのCath Elliotは宗教とフェミニズムの関係に関して、キリスト教はいつも女性の自由と平等に反対してきたのでキリスト教徒のフェミニストは形容矛盾だと主張する。

このような考えもあるがフェミニズムと宗教の関係は多様である。

 

たとえばWendy McElroyは『Religion and American Feminism』の中で、「幸いにして、宗教はフェミニズムの枠組に合わせてふたたび自己主張してきているようだ。私が『幸いにして』と言ったのは、宗教はおそらく近代のフェミニズム徐々に死にゆく状況を打破する数少ない力だからだ。その状況とは教条主義である。」と書いている。McElroyは宗教を、フェミニズムの進歩を阻む脅威ではなくフェミニズムが固定されたレールから逃れ新しい観点を発展させるチャンスだと考える。

 

RedfernとAuneは『Reclaiming the F Word』で「宗教改革主義者」、「宗教修正主義者」、「精神革命家」、「世俗フェミニスト」というフェミニズムの4つのグループを提示している。

 

重要なのは、フェミニズムと宗教はどうやら結びつくこともでき、原則として正反対というわけではないということだ。

 

RedfernとAuneのアンケートが示すところでは現代の多くの(イギリスの)フェミニスト無神論者を自認している。

一方で、一部のフェミニストは信仰とフェミニズムが調和でき、アイデンティティに不可欠だと考えているという。しかし、それらのフェミニストも教会から距離をおいているそうだ。宗教の概念が情動的で主観的なため、定義が人によって異なり、議論は複雑化するという。

 

 

イスラム教にはフェミニズムはないと古くから信じられている。Sariya Contractorは著作『Muslim Women In Britain』でムスリムフェミニスト数人に、フェミニズムの言説のどこに自分を分類するかのアンケートをしている。この若いムスリムの女性らは公共の場、とくに職業訓練、仕事、家族などの中での女性の地位を求めて戦っている。アンケートを受けたムスリム女性はContractorの質問に多様な概念でそれぞれのフェミニズムの形態を答えた。たとえば、「 『イスラムの目覚め』、 『復活するイスラム』、 『イスラム教徒の女性の権利』、 『イスラムの実践』、さらには 『ムハジャ・ベイベ』」などだ。目につくのは、どの概念もイスラム教から離れおらず、むしろ自分の運動と宗教を統合しているがフェミニズムの概念は避けていることだ。

 

 

ケルン大聖堂での抗議

FEMENとキリスト教の関係を表す出来事として、ケルン大聖堂での2013年のクリスマスの抗議を紹介している。2013年にFEMEN活動家Josephine Markmann alias Wittが、ケルン大聖堂でのMeisner枢機卿とのクリスマスのミサに上半身裸で乱入し、祭壇の上に乗ってFEMENの主祷文: 「私は人間の創造者地上にいる自由で平等な女性だと信じる。そして彼女が生まれもった彼女の体の不可侵性、尊厳と権利の自由と平等を信じる。」を叫んだ。

 

この事件はメディアに大きく取り上げられ、好意的な論調も批判もあった。Kölner ExpressはWittに同情的で、彼女が参列者の一人に平手打ちされたことを伝えている。また批判もあり、

 

教会などの保守的な界隈には注目だけでなく怒りをもたらす。興味深いのはそういう注目依存への反応としての意見で、ケルンのDominikus Schwaderlapp補助司教はシュピーゲル紙によると「過剰な公開で、そのようなものに価値を認めるべきではない」と述べた。この言明で彼は直接FEMENの戦略に反論している。なぜならFEMENの戦略はまさに抗議での過剰な公開を必要としているからだ。

tazのインタヴューでWittは、胸の露出は戦略としてやっていて性的な対象物にはなっていないのでためらいはないと話している。Wittは、

 

「私はタブーとされて極度に性的なものとされた女性像をそこで示したかった。私の信仰は、私は人間性の地上の創造者である自由で自己決定できる女性を信じるというものだ。」という。

 

Wittは信者と制度的な宗教の区別しているが、ミサを訪れた人たちは彼女の抗議で個人的に攻撃されたと反論している。

FEMEN活動家は裸での抗議のさいにスタッフや警備員などに無理やり排除されることが多いが、FEMENはこれによって家父長制の隠れた暴力性が暴かれることになると考えていて、意識的に挑発もしているらしい。

 

この抗議への批判は多かった。ドイツカトリック中央委員会の会長Alois Glückは、Wittの抗議行動は意見表明の自由とは関係がないと述べた。公の集会妨害の禁止や住居侵入罪に該当する場合は意見表明の自由も認められないからだ。また、

Grünenの宗教政策の広報Volker Beckは「私は§166 StBG(かつての冒涜罪)が削除されること、§§167StGB(宗教行為の妨害)を§§123StGB(住居侵入罪)に適合させることに賛成です。」

としつつ、

Volker Beckはさらにインタビューで「(…)裸の抗議はミサでの信者への敬意がなく不必要な妨害」だと述べた。

 

ハンブルク大司祭のWerner Thissenは、ハンブルク出身のWittのケルンの抗議を自分に関係があるとして彼女を対談に招き、しかしそこでは服を着るようにと述べたそうだ。

コメディアンのTom Gerhardは、貧しい人々に手をさしのべる教皇にくらべて、Wittは威張った恥ずかしいスープチキンで、注目依存性で偏狭な原理主義そのものだと書いた。筆者はこの意見は辛辣だがよくなされる批判の要点をついているとしている。

 

Wittは宗教行為の妨害のため罰金1200€の判決を受けたと2014年にいくつかの新聞が報じている。

 

その他に、キリスト教への抗議とイスラム教への抗議の違いも述べられている。キリスト教への抗議はドイツ国内への抗議捉えられやすいせいか、怒りを買いやすく、メディアの注目が大きい。

またイスラム教への抗議はイスラム教の女性抑圧的な性質が議論にのぼるが、キリスト教への抗議ではそういった議論はなく、意見表明の自由と集会妨害の関係などが論じられる。

 

後半→

https://ottimomusita.hatenablog.com/entry/2020/11/09/235649