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BTSへの差別発言炎上: Kpopと反レイシズム


twitterでしばらく #Bayern3Racist や#RassismusBeiBayern3 がトレンドに上がっていて、何のことかチェックしてなかったんだけど、Nhi Le @nhile_de さんのツイート見て知った。

 

発端はこれ。

Matthias Matuschik: Bayern-3-Moderator beleidigt K-Pop-Band BTS

 

2021年2月24日にドイツのラジオBayern-3の司会者Matthias Matuschikが生放送で韓国のバンドの防弾少年団に差別発言をして炎上したらしい。ラジオ放送局は声明を出して司会者を擁護した。

 

彼はBTSをコロナウィルスに喩えて「糞ウィルスみたいだ。これにももうすぐワクチンができたらいいな」と発言。

 

このバンドが好評なのが理解できないことは以前から口にしていたが話しているうちに怒りがこみ上げてきたようだ。

 

「しかもこの小さいションベンたれどもはColdplayの"Fix You"をカバーしたとまでのたまうじゃないか。「冒涜だ!」って言うとこだよ。ぼくは無神論者だけど。不敬行為だよ。このことで君らは今後20年北朝鮮で休業だよ」

 

 

ラジオ局による擁護の要点は、

「カバー曲への個人的な意見」

 

「忌憚ない意見が彼の持ち味」

 

「皮肉で尖った意見を大げさな憤慨で表現しようとしたが、言葉選びで度が過ぎてファンの気持ちを傷つけた」

 

「Matuschikは、難民支援に参加し極右に反対している。レイシストではない」

というもの。他にもMatuschikが「韓国嫌いではない。韓国の車をもってるし」と弁明している。

 

元の発言の問題点は、出自をウィルスと結びつけたことに始まる差別発言であって、辛口の音楽批評でBTSやファンの気持ちを傷つけたことではない。ファン自身が「BTSを低く評価されて傷ついた」と言っていてもそれはレイシズムとはまた別の話だ。

とはいえ音楽批評に関しても、人種的偏見を露呈したことでこのDJが評判を落とすなら、それはもっともなことだと思う。

ラジオ局が個人的な意見であることを繰り返したため、#RacismIsNotAnOpinion がいっしょにトレンド入りしていた。

 

アジア人に対するコロナ差別は未だにあるらしい。


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それに加えて「北朝鮮で休業」もマズい。以前ぼくは、ある韓国人がドイツで自己紹介したとき、ドイツ人が「北朝鮮から来たの?」と冗談のつもりで聞いたのを見たことがある。こういうこと、わりと頻繁にあるんじゃないかと思う。朝鮮民主主義人民共和国の体制を批判することと、朝鮮半島出身の人にこういうからかいをするのとは何も関係がない。

何より冷戦による国の分断を乗り越えたドイツの国民が「北朝鮮送り」を面白い冗談だと思って口にするのは、ほんとにガッカリさせられる。

もう一つの興味深い点は、彼が自分は無神論者(Atheist)だとしつつもアジア人が西欧の歌手のカバーをしたことについて比喩的に「神への冒涜(Gotteslästerung)」や「忌まわしい行為、高慢、冒涜(Frevel)」とキリスト教の擁護者のような表現をしているところだ。これは極右の活動家がよく、移民反対の文脈で「キリスト教徒のヨーロッパ(das christliche Abendland)」への支持表明を行なうことを思い出させる。普段どれくらい信心深いかはわからないが、外国人へ敵意を向けるときにはキリスト教が持ち出されるのだ。

 

BTSの人気もあいまって、この件でアジア人に対する差別に反対する動きが盛んになっている。アメリカでの寺放火事件などのヘイトクライムも話題になっていたらしい。

#StopAsianHate アジア系へのヘイトクライムが多発しNetflixやナイキなど企業も強く抗議 | HuffPost Life

#StopAsianHate や #ichbinkeinVirus (私はウィルスではない)や関連する他のハッシュタグがトレンドに上がっていた。英語と韓国語が多いが、日本語での発言もけっこうあった。

 

 

ドイツにもBTSのファンが多いらしく、発言直後からラジオ局を批判する勢いがtwitter上で高まっていた。ぼくはまずドイツ人が声を上げるべきところだと思っているが、「いいドイツ人もいます」というエクスキューズになるのを避けるため批判の例をここでいちいち紹介はしない。

かわりにtwitter上のどうでもいい派生事案を上げておく。

Shahak Shapira はユダヤ系ドイツ人の社会派アーティストでコメディアンだが、彼はドイツ語圏のBTSファンがあまりに熱心にBayern3を叩いているのを見て以下のツイートをした。

 

 

Wenn wir die AfD dazu bringen, sich mit der Twitter K-Pop-Community anzulegen, sammelt Beatrix von Storch ab morgen Pfandflaschen.

 

「もしAfD[ドイツ人のための選択]をTwitterK-popコミュニティと争わせたらBeatrix von Storch[AfDの政治家]は明日からデポジット瓶を集めることになる」

(デポジット瓶を集めるのは主に失業者の仕事)

ちょっとわかりにくい皮肉だけど、要するにドイツ人が普段からこれだけ熱心にレイシズムを許さない態度を見せていたら極右政党は議席をとったりしないだろ、という意味だ。

ぼくは、シニカルすぎるけどまあ確かになぁと思って見ていたんだけど、なんとこれが大炎上。ドイツのBTSファンに大量の批判リプライを受けることになる。

Shahak Shapira はまた皮肉で応戦して以下のツイートをぶら下げた。

 

Dear BTS Fans, if you are offended by my tweets and would like to contact me personally, please reach out to my management:

Alternative für Deutschland, Landesverband Berlin Kurfürstenstraße 79

10787 Berlin

Telefon: +49 (0) 30-2205696-22

EMail: lgs@afd.berlin

 

「親愛なる防弾少年団ファンの皆さん、私のツイートに腹を立てて個人的に私に連絡したいなら、私の事務局に連絡してください」

と、書いているが連絡先はAfDのもので、もちろんShapiraは党員ではない。ラジオ局の炎上を何とかAfDにけしかけようとした小芝居の延長だ。さらに「私の上司のAlice Weidel(AfD党首)に連絡ください」と続けると、ほんとうにAlice Weidelに「私の方がアーティストの才能あります。彼と入れ替えに雇ってください」とリプライを飛ばす人まで出る始末。

ドイツでAlice Weidelを知らないというのは、日本で小池百合子を知らない、くらいの感じ。最終的にShapiraはTwitterアカウントにハッキング未遂を受けたあとVISAカードの番号を晒されるところまで行った。

ポップカルチャーもいいけど、これきっかけに社会や政治の問題にも興味もってほしい。日本のKpopファンは、アジア人差別についてもうちょっと真面目に考えてるはずだと期待してる。

 

記事紹介: 移民反対と反フェミニズムの動向(ドイツ語圏の)

2000年にオーストリア自由党FPÖが連立与党になって、そのあともヨーロッパの他のいくつかの国で極右政党が台頭している。また反フェミニズムの運動も強まっている。

以下のインタビュー記事では、右翼が反フェミニズム運動していることや、反フェミニズムレイシズムが結びついている現象が説明されている。また、ヨーロッパ内の右翼政党同士の結びつきと、政党ごとに違いもあることが語られている。

 

„DIE STARKE VERKNÜPFUNG VON RASSISMUS, ANTI-SEMITISMUS, FRAUENHASS UND SEXISMUS WIRD UNTERSCHÄTZT.“

8. März 2020, von Marie Menke

 

政治学者 Birgit Sauerのインタビュー

 

レイシズム反ユダヤ主義、女性蔑視、セクシズムの結びつきは過小評価されている」

2020年3月8日 Marie Menke

(中略)

Sauerは2006年2月以来、ジェンダーとガバナンスに重点をおいてウィーン大学政治学研究所に勤めている。

(中略)

 

彼女のエッセイはとくにヨーロッパというスケールが反フェミニズム運動にとっていかに重要かを示すのに成功した。たとえば、彼女は多くの言語で利用できる保守系の請願フォームCitizenGoについて言及している。このようなサイトは、EU議会のメンバー提出した報告の多く、とくに中絶合法化や差別に配慮した性教育に反対する宣伝活動を実施した。  

 

treffpunkteuropa.de(インタビュアー):  ヨーロッパで私たちは今、反フェミニズム運動の隆盛と右翼ポピュリスト政党の成功を目の当たりにしています。これらに結びつきはありますか。

 

Birgit Sauer:  右翼政党は、昔からあった反フェミニズム運動に飛びつきました。それはもともとはとくにカトリック教会に主導されていました。ブラジルのジャイール・ボルソナーロからロシアのウラジミール・プーチンまで、右翼政党とその先導的人物は、性差の議題でなにか「コモンセンス」つまり一般の人の良識のようなものに訴えかけられると気づきました。そのため反フェミニズムはそれを、性二元論と子どもをもうけることを通じてのみ次の世代を作っていく民族についての彼らの非常に生得論的なイメージのために利用しています。

またそれらは反フェミニズムを彼ら独自の政治的な意思伝達のために動員しています。右翼ポピュリストは対立関係を用いて活動するので、たとえば政治的なエリートに反対し、移民に反対し、また平等を求める政治家やジェンダー学者に反対します。したがって多くの右翼政党が、移民反対で結集するためにケルンの2015-16年の大晦日の女性に対する暴行を取り上げました。つまり性差の議題は右翼政党にとって自分たちの主張内容か、少なくとも自分たちが対峙する敵を明確にする上で良い記事ダネなのです。

 

インタビュアー: 一方でこの運動は、権利の平等に対抗する態度をとっています。そして他方で自分たちをとくべつに平等だと主張し、それによって他者をとくにイスラム教徒の移民を権利平等が欠けているとして見下しています。この対比はどのように説明されるでしょうか。

 

Sauer:  右翼政党は二律背反と矛盾を用いて活動することが多いです。それは混乱が起きているように見える状況下で国民の代弁者を演じることに役立つからです。これは男性の移民に反対する論拠としても働きます。移民男性は右翼ポピュリストの目から見ると、社会や、ドイツやオーストリアではすでに達成された権利の平等を危険に晒すとされます。しかしまた同時に右翼ポピュリストは西洋諸国での権利の平等を求める尽力はこれ以上必要ないと主張します。「こちらの女性たちはすでに移民女性よりも権利の平等を得ているので私たちにはこれ以上は必要ない」と言っているようなものです。

 

インタビュアー: ドイツのハナウで2月19日にシーシャバーを訪れていた9人が暗殺犯に殺されました。犯人はさらに自分の母親を殺して自殺しました。彼書いた中傷文書にはとくに女性への憎しみが目立ちます。反フェミニズムがいかに命にかかわるということを私たちは過小評価しているでしょうか。

 

Sauer:  ドイツは、右翼の暴力のかなり特殊な事例です。警察や憲法擁護庁がその中でどのような役割を果たしているのかはまだまだ解明されていません。しかしそうですね、ドイツの右翼過激派は危険です。そしてそれと戦うはずの公的機関から支援や隠蔽も受けているかもしれません。

さらに過小評価されているのはレイシズム反ユダヤ主義と女性蔑視、セクシズムの強い結びつきです。ここでは、男性がレイシスト反ユダヤ主義者であると同時にセクシストや女性蔑視でもあり、「反ジェンダリズム」と名のり過激化していることが多いことが見落とされています。「反ジェンダリズム」や反フェミニズム、セクシズム的な意見をもっていることは、レイシズム反ユダヤ主義イデオロギーが強化されテロにつながりうるような過激化の度合の指標になります。歴史的に見ても19世紀以来、このような排除と拒絶の構造は密接に結びついてきました。たとえばナチスドイツでは、反ユダヤ主義は性の蔑視をともなって機能することが多かったのです。ユダヤ教の信仰をもつ人は女性的なものとして表現され、典型的に女性のものだとされる性質を割り当てることで低い評価をされました。これは、レイシズム反ユダヤ主義のさまざまな潮流を通じて維持されてきた思想パターンです。

(中略)

ハナウの犯人が母親を殺したことをメディアが小さく扱っているが、これはフェミサイドの典型例だとインタビュアーが指摘している。フェミサイドはしばしば家庭やパートナー間で起きる女性蔑視にもとづく殺人である。北欧は男女平等的だがそれでもフェミサイドがあるとSauerが言う。

 

インタビュアー: ヨーロッパ全体に目を向けたときそれらの運動は各国でどのような違いがありますか。それらはどれくらい強く結びついていますか。

 

Sauer:  まさにインターネット上でそれらは非常によく結びついていて、たとえば該当のチャットルームでグローバルに活動しています。ヨーロッパでは右翼政党はソーシャルメディアの外でもネットワーク化されています。部分的にEU議会にも共同で議席をもっています。反フェミニズムの動員でもしばしば不和になったり協力したりしています。そこでたとえばそこでは図版資料が取り交わされ、スローガンが翻訳され、スカーフの禁止など個々の要求で同盟を作ったりしています。

しかしその他に違いもあります。たとえばポーランドの与党「PiS(法と正義)」はドイツのAfDやオーストリアのFPÖよりもカトリック教会とより強く結びついています。これはPiSの家族観や同性愛の拒否に表れています。これはたとえば右翼の政党や組織の中に同性愛者の指導的人物がいる国々では珍しいことです。たとえばFPÖはこれまで公に同性愛嫌悪的だったことはなく、PiSと明確に異なります。

北欧諸国との違いもあります。FPÖのような政党はジェンダー主流化や平等政策に反対しています。それに対してデンマークスウェーデンの右翼政党は平等を攻撃する場合には非常に慎重になります。そこではそういうことが文化的に根づいていて、右翼は平等に疑問を呈しても誰も味方にできないことを知っています。他方で北欧では反フェミニズムの運動と右翼ポピュリストはより強く移民に反対しています。

 

移民排除とジェンダー学の両方を非難する傾向はフェミニストの中にも見られる。

アリス・シュヴァルツァーのようなフェミニストイスラム教内の女性抑圧を理由に移民に反対している。シュヴァルツァーはまたトランスジェンダーに対する差別的な発言も行なっている。そして移民反対とトランス排除の両方を同じ論者が主張し、その論者がフェミニストを名乗っているというケースがとても多く、ひとつの流行になっている。

移民反対とある種の反フェミニズムが結びついている点では、上で説明されている右翼と同じだ。しかし、シュヴァルツァーなどの論者はその他の点では男女平等を求めるフェミニストである。その点はたしかに異なる。

にもかかわらず、反移民フェミニストの議論は右翼ポピュリストととてもよく似ている点がある。たとえば、ジェンダー学者のエリートを敵とする点や、一見矛盾しているようにみえる状況を好んで取り上げる点だ。

以下の記事も、フェミニズムを支持するとされる立場から書かれた。反移民、反トランスの記事である。

 

NZZ.ch logo

GASTKOMMENTAR

Bist du mit uns, Schwester? – Der postmoderne Feminismus verleugnet die echten Probleme

 

姉妹よ、君は私たちといっしょか? ― ポストモダンフェミニズムは真の問題を認めない

 

百年前からフェミニストは路上に出た。それは小さな女の子として扱われないためだ。こんにち被害者の地位は高くかかげられ、それによって宣言された女性運動の目標は裏切られている。女性がどのように生きたいか自由に決めるという目標だ。

 

Birgit Kelle 2020年9月23日

 

 

あなたはフェミニスト?ためらえば疑われる。この問いは運動界隈のリトマス紙として発せられる。姉妹よ、君は私たちといっしょか?党派集団は、誰か列を離れようとするものがいればすぐに問い詰める。グループリーダーは容赦ない。そういう場面では、フェミニストとしての自分を責めることはぜったいに拒否するようにしてほしい。なぜなら、女性運動が何年も経てその見解を急進的に変え、ときにはその反対のものにもなっており、その運動を通じてフェミニズムの概念もいかがわしくなったからだ。

 

 (中略)

 

被害者の釜の中で

ポストモダンフェミニズムは、さまざまな現象の同時性があるときに際立つ。戦いの副次的な場面に集中することで同時に起きている真の問題から目を背けるのだ。新しいマイノリティの方へ注意を向けることでマジョリティを蔑ろにする。インターセクショナリティ、反レイシズム、反ファシズム的なフェミニズムの被害者の釜には、何らか不平等を感じている限りアイデンティティ集団やセクシャルマイノリティ、差別されたと感じる人々が参加を許される。

 

当然、多くの利害のすべてがあるとややこしく面倒になる。被害者のヒエラルキーを求めて最後まで戦いぬこうとするため、叩いたり刺したりがいたるところで行われている。白人で異性愛の主婦はかなり下の方に位置するが、バイセクシャルで黒人のトランス女性は被害者ポイントが多く抜きん出ることができる。トーク番組でも、女性、有色人種、子ども、ヒジャブをしたムスリム女性が配分にしたがって割り振られる。

(中略)

つまりこのジャーナリストは近年のフェミニズムレイシズムやトランス差別に反対していることについて、(大多数の女性を優先するはずの)フェミニズムが歪められた、異なる意見のフェミニストに不寛容になった、と主張している。

ちなみにドイツのトーク番組で話しているのは、たいてい半分は女性になっているが、白人が多く、子どもはめったにおらず、スカーフをしているイスラム教徒の女性もあまり見かけない。フランクフルトの街なかを歩いていて見かける人々の多様性と比べると、配慮しすぎているとはとうてい言えない。

次にこの著者は、「今や誰もが女性になれる」と主張している。これはトランス排除を目的としたポストモダン批判でよく出てくる言葉だが、たとえばシスジェンダーの男性が一貫して女性として生きることは実際には難しい。また、女性は団結しないといけないのに、トランスフォビアやTerfになることを恐れて女性を明確に定義できないと非難している。

 

DNAや染色体、生物学や自然や科学的事実が、感じられる性別や自分で定義したカテゴリーに屈したときにそう言えるのか。そうなれば女性性は中身のないただの言葉になるのは明らかだ。

(中略)

トランス排除の言説では、DNAや染色体と、解剖学的な特徴だけが生物学として引き合いに出されるが、神経系や内分泌の働き、行動や生態にはあまり言及されず、都合のいい生物学のつまみ食いという印象は否めない。

そもそもジェンダーアイデンティティという考え方が、染色体や性器だけでは性がきっぱり2つに分けられないため必要とされた概念だということが無視されている。

 

ジェンダー理論のアイコンであるジュディス・バトラーも女性を助けるつもりはまったくないが、この幻想はこんにちまで神話として維持している。彼女は女性性を文化的に形作られたお芝居のような「パフォーマンス」だとし、それが私たちを抑圧し従属させているので脱構築しないといけないという。脱構築というのは「破壊する」という意味の体裁をよくした言葉だ。バトラーは女性性の救世主ではなく、その決定的な廃棄のための棺桶の釘である。

楽観的で矛盾しているが、「女性のパワー」、「私たちは何でもできる」、「男よりずっといい」というのはずっと保証を約束されている。しかしこの同じ運動が、女性性が存在しないという主張から利点を得ようとするのに使われると瞬時に被害者の硬直に陥る。女性という生まれもった被害者の地位は、平等委員会やダイバーシティ専門家の機構全体にとっては福音である。それは、常に新しい被害者が生み出され仕事は終わらず、流行遅れになることはない。

(中略)

 

誰が真に男性原理的な社会を見ているか

しかし納得いかない理由からネオフェミニズムの視点からは、この家父長制システムは真に男性原理主義の社会を避けて通っているようである。インドでの集団レイプやイスラム教社会での女性への投石を非難することはそのつどレイシズムとされる。というのも文化に敏感なフェミニストはこれが女性への抑圧ではなく単なる「文化の違い」だと知っているからだ。

イランの女性にとってはなんと素晴らしいことだろう!それはそうと彼女らはもはや被害者になりたくない。彼女らの敵は年かさの白人の男性だけではなく、若い有色人種の血縁者もいる。それらは絶え間なく記憶を呼び覚ますことで、西洋の豊かな国のフェミニズムの体裁よく作られた敵のイメージを壊してしまう。そのことは歓迎されないので、西洋の女性運動党派集団は罰として支援を拒否している。

この部分は右翼ポピュリストとほとんど区別がつかないほどよく似ている。どちらもポストモダンフェミニズムが日常的な直観に反することや、アジアや中東の性差別を左翼が問題にしないことを非難している。

左翼のダブルスタンダード批判は一見説得力があるが、ここでインドやイランが持ち出されているのはヨーロッパ内での政治活動のためなので、実際にそれらの国の女性のことを考えているわけではない。

それらの国の個別の問題を考えるためにはもっと細かい事情を知った上で長くコミットしないといけないだろうし、啓蒙してやろうという態度で臨んでも解決にならないどころか別の問題を増やすだけだ。

 

 

 

その名はショコクス

今年はクリスマスマーケットは中止だ。

ほんとだったらあちこちの教会広場に市場が並び、ソーセージやホットワイン、ギュロスやランゴシュ、スープやお菓子、手袋、帽子などなどを売っているのだけど、今年はない。街は静かだ。

ドイツのクリスマスマーケットに日本人の友だちが来たら、妻(ナディ)が必ず勧めるものがある。それがショコクス。Schokoküsseというのはチョコレート·キスという意味で、泡のようなクリームが入ったチョコレート菓子である。


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彼女が言うには勧める理由はいくつかある。まず、日本になく輸出もできないのでドイツでしか食べられない。日持ちしないし、気圧が低いと割れるから空輸できないのだ。そして、ショコクスに似たお菓子はどこにもないこと。ほんとに無いかは知らないけれど食感がたしかに独特で、チョコの中に詰まっているのは、クリームというより、ものすごくきめ細かい泡としか言いようのないものだ。

そういうわけで彼女に言わせると、今食べなきゃ損!、なのである。

ショコクスは昔、ネーガクスと呼ばれていたが、Negerはniggerと同じ黒人の蔑称なので今の名前に変わった。Twitterでこんな画像が出回っていて、

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お店のショコクスのポップに、

「親愛なるお客様へ

かつてどんなふうに呼ばれていたかは私たちには関係ありません。こんにちこれはショコクスと言います」

と書かれている。「Negerはniggerとは違って、別に差別的なニュアンスはないよ」そんなふうに言うドイツ人もいるが、もちろんそんなことはない。アメリカほど黒人差別が表面化して、社会問題になってないからといって余所事にはできない。日本もドイツもそうだろう。


それはそうと、この画像、妻もネットで見たようである。そして彼女は思い出したようだ。(今シーズン、ショコクス食べてないじゃない) と。

クリスマスマーケットがあれば回ってるあいだに必ず一度は食べるのだけど、今年はなくて忘れていていたのだ。そういうわけで、その翌日の土曜日に製造元まで買いに行った。フランクフルトから車で40分。ハインブルクのKöhler Küsseである。


ハインブルクは小さな町で、マイン川の向こうのGroßkrotzenburgには大きな原子力発電所があり、そればかり目立っている。かつて米軍の駐屯地があった地帯はフェンスに囲まれて同じ形の大きな兵舎がずっと並んでいる。マンションに改築するようだ。Köhlerのチョコレート工場の近くに瓦工場があり、ビルのように積み上げられた瓦が塀の向こうに見えて、それがちょっと面白かったけど写真は取りそこねた。とにかくそれくらいしか見どころはなさそうな町なので間違って観光で訪れないでほしい。


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閉店まぎわに着いたのに、工場に併設された店の前には長蛇の列があった。たぶんみんな考えることは同じで、列も例年より長いのだろう。チョコレートもいろいろ売っている。夏はアイスクリームを売ってるらしい。


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これがショコクス。チョコレートも買った。


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いろんな味の種類を買った。ココナッツ、モカホットワイン味、ラム酒、などなど。ショコクスは、似たようなものがスーパーにも出回っているのだが(そしてぼくも妻にそう言ったのだが)、あれらはやっぱり別物らしい。工場で直接買うか、そしてできればクリスマスマーケットで買って食べるのがいい。観光で来た人はぜひ。

 

 

情けはハトの為ならず

駅の広場のベンチで、広場に集まるハトを眺めていた。

餌をやる爺さんを中心におおむね正規分布でハトたちが分布している。どのハトも思い思いに餌をつつき、一つの餌を2羽が狙って鉢合うと一方が他方を追い払う。

通りすがりの男が空き缶を蹴飛ばし、転がった缶がハトの群れに干渉すると、驚かされた2、3羽が飛び立つ。他のハトたちは地面に残って食事を続け、その2、3羽もすぐに引き寄せられるようにそこに戻る。

そこに、ハトを捕まえようとする子どもが走って乱入した。すると5、6羽が宙に逃れ、それに引っ張られるように群れ全体がもち上がり、一斉に大きな羽音と羽毛屑を残して飛び立った。今ここで誰かが集合写真撮ってたら全員顔が隠れたマグリットの絵みたいになろうという大群だ。ハトの群は全体がひとつの粘体生物のようにうねりながら広場の上空を一回りしたあとビルの向こうに消えた。

2、3羽ならつられて飛び立たないが、一定数の仲間が飛べばいっしょに飛び立つというルールでもあるようだ。好き勝手バラバラになって餌を食べていても、何かあって逃げるときは周囲の個体に影響されて一糸乱れず塊のようになる。集団のうねりは個にとって、ドミノ倒しみたいに避けがたいものなのかもしれない。


仕事の休憩中、そんなことを考えながら、いつものようにベンチでぼんやり休んでいた。ベンチは街路樹を囲んで円形であまり座り心地がいいとは言えないが、職場はやかましくて落ち着かない。駅の広場もうるさいが、話しかけてくる人あまりいないので他の人間と関わりになることなく安らいでいられる。とはいえ、完全に人々と関わらないことは難しい。宣教者、大麻売り、物乞い、タバコの火乞いなど、声をかけてくる人もたまにいる。


言い争う、怒鳴り声が聞こえた。毛布をまとった髭モジャの大男が、ブルカを被った女性2人と対峙して、大声を上げている。声が大きくなってから気づいて見物を始めたので何があったのかはよくわからない。

近くにいた別のモロッコ系の男が、

「ナチめ!」

と加勢し、大男を罵倒する。(この男もよく駅広場にいて、モロッコ出身というのは前に聞いたのだ)

「私はふだんは何ユーロか差し上げてますよ。今は手もちがないだけで」

女がそう言ってるのが聞こえる。おそらく、髭の大男はこの女性2人に物乞いして拒絶され、何か言っちゃいけないことを言ってしまって、それで口論になったんだろう。しばらく言い合いして大男は去り、モロッコ系の男と他の通行人が女性2人に慰めの声をかけ、「よい一日を」と彼女らも去った。

男は少し離れたところで猛然と立って、また物乞いを始めた。愛想の悪い人間は物乞いでも上手くいかんのだなと思うと気分が滅入って、ぼくはちょっと路上生活者の男に同情した。


ロッコ系の男がそのあと通行人の若い女に「よう、ねえちゃん」と声をかけ、会話しだした。その女は自分のダンスの仕事の話をしていた。ちょっとしたいざこざに居合わせたせいで何となくその場が知らない人に声をかける雰囲気になっていたのだと思う。その若い女が今度は僕に話しかけてきた。

スマホもってる?」

と聞いてくる。ライターを貸してくれとはよく言われるが携帯電話は珍しい。この辺りは盗難が多く、僕も以前ここでスマホをひったくられそうになったことがあったので警戒しつつも、彼女が自分の鞄を無防備に僕のベンチに置いたので、

(まあ、いいか)

と思って応じた。

電話をかけたい場所の住所を言うのでGoogleマップで番号を調べてやる。聞いたことのない小さな劇場のようだ。電話したいというので発信して渡す。

仕事の応募か売り込みかわからないが、ダンサーとしてそこで出演したいらしい。「世界一のダンサー」という言葉が何度か出てきた。かけ終わったあと、

「ダンサーのピナ・バウシュ知ってる?」

と聞いてくる。「知ってる。映画は観た」と答えると、

「知ってる人初めて会った」と。ピナ・バウシュにダンスを習ったのか、なんなのかよく分からなかったが、とにかくそのような現代舞踊を彼女もやっているらしく仕事を探しているそうだ。今はイベント関係の業界は苦しいだろうなと思う。そのあと少し話し、また携帯電話を貸してほしいと言うので貸した。

今度は親族にかけたようで、ずいぶん長く話している。途中から機嫌が悪くなり、電話の相手に不満を述べている。どうも彼女の叔父が亡くなったのを電話口で知らされたようだ。顔も知らない人の訃報が名も知らぬその姪に、僕のスマホを通じて伝えられたということだ。話は長引き、僕の休憩時間は残りあと少しになった。ようやく話が終わったので僕は、

Mein aufrichtiges Beileid! (ご愁傷様です)

が思い出せなかったので、

Tut mir leid! (お気の毒に/ごめんなさい)

で済ました。

若いダンサーはスマホを返し、「叔父さんが死んじゃった…」と鞄をベンチに置きっぱなしで、フラフラと広場の中央の方へ歩いていく。

僕はここでの自分の役目を終えたことを見てとり、「もう行かなきゃ」と急いで去った。広場ではドミノ倒しの連鎖はまだ続いていたのだろう。

 

茄子ピリピリ言わない派宣言

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茄子を食べたときに舌がピリピリするのは、アレルギー反応らしい。

ぼくは茄子を食べたとき、炒めた茄子よりも煮た茄子でとくに、辛いような味と舌がピリピリ傷むような感覚をもつ。誰でもそう感じるのだと思っていたのだが、そうではないらしい。アレルギーなので、ピリピリしない人とピリピリする人とがいるということだ。茄子がそういう山椒みたいな味にならないような調理法がないか検索していたときに偶然それを知った。

知らなかったとはいえ、それ自体は、

(あぁ、そうなのか)

と、とくだん意外な知識と思わなかった。けど、それにまつわる親子の体験談を読んで、長年のわだかまりを目の当たりにしたような気がした。エピソード投稿していたのは母親で、幼い娘が「茄子を食べると舌がピリピリする」と言ったというところから文は始まっていた。

そこでハッとした。

茄子で舌ピリピリを、ぼくは今まで誰にも言っていなかったことに気づいたのだ。家で食事に文句をつけるのはためらわれたし、茄子はそういうものだと思っていたこともあり、わざわざ言葉にすることはなかった。

この娘はピリピリすると言ったあとに、でも大丈夫、茄子は食べられるとつけ加えている。なのでこの子が無神経だから言葉にできたわけではない。自分の感じたことを素通りせずに拾いあげ、必要以上に拒絶的にはならないように人に配慮している。

同じことがあったとき、どれくらいの人がこういう言語化をできるのだろう。ぼくはたぶんかなり口に出さない方だ。自分の感性は事実の前ではとるにたらないもので社会的に共有するほどの価値はない、というのが基本姿勢で、よほど親しい人にしか話してこなかったように思う。

感じたことを素直に言葉にしない人たちも、少数派だろうが、ぼく以外にも確実にいるはずだ。自分の好みや感覚を、感じて自覚するところから言語化して他人に伝えるまでに、いくつかのドアがありいちいちポケットからそれに合う鍵を探さなければいけない人たちが。

「昼飯なに食べた?」

と聞かれて、本当はうどんを食べたのに何となくそれをそのまま言うのがためらわれて、

「蕎麦です」

と何の得にもならない嘘までついてしまう人がぼく以外にもいると思う。それが率直に言うより楽なのだ。

感じ方の違いというのは思わぬところに、思った以上にある。前に職場の友人が居酒屋で話していた。

「酒って苦くない?いや、ビールとか焼酎とかがちょっと苦いってみんな言うやろ。そうじゃなくて、チューハイとかカクテルも全部苦いねん。

これ、医者に言われたんやけど、何万人かに1人アルコールそのものの味を感じる人がいて、俺がそれらしいねん。」

医学的に何かの説明がされる特徴にせよ、好みにせよ、こういう違いは無数にあるのだと思う。しかし、たいていはみんなおおむね同じという前提で回っており、細かい齟齬はコミュニケーションで調節する。しかし、そこでぼくを含めた「茄子ピリピリ言わない派」の存在が躓き石になる。(そもそも「茄子ピリピリしない派」が多数派なのは置いといて)

 

言語化されない感性の違いはどこに行くのだろう。その一部は、頭の中だけで言葉にされたり、社会的な文脈を気にしなくていいところで文字にされたりするだろう。(このブログのように) もしくは言葉にされず十分に意識も向けられず、見えないすれ違いのリスクとして軋轢やディスコミュニケーションを招いていることも考えられる。

「これ、嫌いだったなら言ってくれればよかったのに」

「言うほどでもないと思ったんだよ」

自分を表現するのが苦手な人が、いたるところでそういうすれ違いを起こしているにちがいない。

他方で、さらりと言語化された感性はどこに行くのだろう。おそらくそういうものがコミュニケーションを円滑にし社会を豊かにしているのだろうと思う。

「でも、それが何だというのか」ピリピリ言わない派はそう反論する。「すんなりと、溜め込むことなく感性を共有して認められる。お前だけの世界は、そこで終わりじゃないか」

おそらく素直に感じたことを言えない僻みだろう。あるいは、とるにたらないものとして素通りされてきた自分の感覚たちの怨念か。長い逡巡で後回しにされて、ようやく言語化を許され日の目を見た感性こそ洗練されたものであるはず。そうあってほしい、というのが茄子ピリピリ言わない派の切望である。

 

 

論文紹介: FEMEN トップレスの抗議とムスリム女性(続き)

前回の続き。

http://ottimomusita.hatenablog.com/entry/2020/11/09/235556 (←前回)

 

ここでチュニジアの女性活動家のAmina Sboui (Amina Tylerとも)に言及されている。

Aminaはトップレスの抗議をしてチュニジアで騒動を起こした。彼女はfacebookにトップレス写真を公開し、すぐにグローバルに注目を受けた。彼女は胸にアラビア文字の文で自分の体の独立と自己決定権を支持し反抗した。Aminaは逮捕され、上述のFEMEN活動家Josephine Wittはチュニジアまで行き彼女の解放を求めて抗議した。FEMENはすでにこの抗議がムスリム女性のために必要と見なしており、Amina釈放のための公の抗議を招集していないことからも、イスラム女性が自身のために戦うことができないという印象をもっていたようだ。
 

FEMENはすべての女性の必要性と権利のために責任をもつことを望んでいて、フランスでのブルカ禁止に反対したと発言しているが、筆者はそれを疑わしいとしている。

 

女性の政治的解放を求める戦いはすべての女性におしなべて適応可能なわけではなく、文化的な周辺の条件はさまざまな側面での解放の望みがあることを示している。ここでは再度、インターセクショナリティの概念を援用しないといけない。この概念はたとえば肌の色など他の差異に注意を向けて、フェミニズムの言説にさまざまな手続き、とりわけ目的をもつことができる。

 

 

FEMENのトップレス・ジハードデイとイスラム教との戦い

 

ドイツ内でのFEMENのイスラム教に対する抗議はいくつかあるが、そのどれもケルン大聖堂での抗議のようにすべての新聞が報じるようなことはなく、あまり注目されなかったそうだ。

「Amina解放」抗議は比較的注目された。この抗議でWittは逮捕され、1ヶ月近く勾留されたそうだ。チュニジアでの行動の他に「トップレス・ジハード」という反イスラム教の運動があった。

 

FEMENはAminaの逮捕のあと2013年4月4日を「トップレス・ジハードデイ」として宣言し、世界中の女性に呼びかけて、裸の上半身の写真と「My Body Against Islamism!」「Fuck your morals!」の文言を公式ホームページに投稿し、これは世界で大きな反響を呼んだ。

 

保守的なムスリムはAminaをトップレスの抗議の罰として投石で殺すと脅した。YouTubeの動画にはShevchenkoと他の活動家がベルリンのモスク前での「トップレス・ジハード・デイ」を公開した。

 

「Fuck your morals!」、 「Free Amina」、「Fuck Islamism」のようなスローガンが最初はフェンスの前で若い女性から叫ばれ、Ahmadiyyaのモスクにさらに近づいてフェンスを乗り越えることになった。

 

ここでも暴力的な反応を引き出そうとする挑発が見られるという。この抗議に対する批判は以前のこのブログでも紹介した。

記事紹介:「イスラムのフェミニズム」 - Ottimomusitaのブログ

 

 

またFEMENは、2014年ベルリンのイスラム週間のさいに、「ベルリンーともに作る街」というテーマのパネルディスカッションでも抗議のために突入している。これはメディアの関心が低く、雑誌のVICE以外、ほとんどの新聞で報じられなかった。VICEによると、

活動家たちが裸の抗議によってパネルディスカッションを中断させたあと、VICEのジャーナリストのMatern Boeselagerは活動家たち部屋から出そうと穏便に試みたことを報告している。登壇者のひとりは「あなたがたの出動には感謝します(…)が、どうか部屋を出てください。たいへん有り難いですが、だからこそこのイベントを開いているのです。この出動は称賛に値しますが、あなたは抑圧されたと感じる人たちと話すことができるでしょう。」

 

Boeselagerは、FEMENの目的はよくわからないがムスリム女性との対話には失敗しておりムスリム女性が意見を述べる機会が奪われたと結論づけた。

 

パネルディスカッションでのFEMENの抗議はイスラム教への攻撃とみなされた。PEGIDAのようなイスラムへの排外主義は、すでにムスリムに支えられているドイツ社会では許容されない。

一方で特に2001年9月11日の攻撃後、イスラム教はテロリストという否定的なイメージと結びつけられた。また女性を抑圧する宗教として左派からも攻撃された。

Beverly Weberによるとこのイスラム教を軽視した見方はひとつの人種差別の形態となっている。

 

さらにWeberの主張では、ムスリムの女性は従属的で抑圧された女性だと認識され、そのことでとくに政治的な領域から締め出されることが多い。

 

FEMENは宗教に反対し、さらに女性は宗教に反対していると主張する。これによってムスリム女性はFEMENに賛同しなくなる。上述のチュニジアのFEMEN活動家Amina Tylerも、FEMENはイスラム嫌悪的だとして、最終的にFEMENから距離を置いている。

 

フェミニズム的なムスリム女性は裸の抗議の方法で「解放」されたくはなかったので、facebookに「ムスリマプライド運動」と「FEMENに反対するムスリム女性」が生まれた。

 

 

 

 

ムスリマ・プライド運動(FEMENに反対するムスリム女性)

 

多くのムスリム女性はFEMENが自分たちの自立性を認めていないと感じている。それは西洋が頼まれてもいないのに東洋をイスラムの独裁者から解放しようとするように響く。多くのムスリム女性は自分たちの宗教とフェミニズムの組み合わせの中で根本的な矛盾を感じていない。

 

たとえばムスリム女性のtwitterユーザーMehaはイスラム教はフェミニズム的な宗教だとすら述べていて、これはもちろん、女性はイスラム教から解放されるべきで抑圧的なものだとするFEMENの発言に反している。Mehaはさらにツイートで、自分の信仰はフェミニストとしてのアイデンティティの一部だと思うと述べている。

 

samirkuxは、FEMENが彼らに耳を傾けるべきであり彼らの代弁をすべきでないと投稿していて、BeBe_786は、このような抗議は彼らの生き方や宗教やものの見方に反していると宣言した。ここでは多くのムスリム女性が、FEMENが自分たちの願いや想定に適うように戦っているとは考えておらず、また助けを求めてもいないということが明らかでである。

 

 

Nadia Buttは、「女性に反対するムスリム女性」のFacebookページに彼女の写真を掲載し、FEMENの解放闘争に対するグループの態度について非常に明確な声明を発表している。「#muslimahpride#femenで、自分の服装をする女性の権利をサポートできます。 私の体、私の選択、私の宗教。」

 

 

FEMEN活動家たちはムスリム女性からのこの否定的な反応を認識しているが、彼女らが真実を抑圧していると主張している。Inna Shevchenkoは批判的にこう述べる。「人類の歴史の中ではいつも奴隷は自分たちが奴隷であることを否認している。(…)彼女らはポスターに彼女らは解放されなくていいと書いているが彼女らの目には『助けて』と書かれている」FEMEN活動家たちはムスリム女性が真実を否定しているか、自分を守れないほどに抑圧されているかだと非難した。

 

「トップレス・ジハード・デイ」への反対運動としてこのムスリム女性のグループは「ムスリム・プライド・デイ」を演出し、その前にはFacebookに「裸は私を自由にしない。私は救いを求めていない」や「私は自由だ」といったスローガンのついた数百の写真をアップロードした。

 

「特権のある女性が、西側からの支援を必要とする無力なムスリム女性という同じステレオタイプを広め続けているという事実にうんざりしている。」166

 

ジャーナリストでムスリムフェミニストであるKübra Gümüsayはtazの記事でこう書いている。「イスラム教の価値体系に反抗する『トップレス・ジハード・デイ』はAmina Tylerや他の女性のための連帯をしようとしていたかもしれない。しかしFEMENの女性たちはけっきょく反イスラム教のルサンチマンに陥ることしかできず、人種差別的でイスラム嫌悪的なステレオタイプを利用した。とりわけ彼女らは、何十年もイスラム教の国々で女性の権利のために尽力してきたムスリム女性すべてに大きな中指を見せている。」

 

Gümüsayは最後にこう考察を書いている。「主体性を認めず理解力を否定する。フェミニストはそういうもの反対して戦うのではなかったか。

 

長かったがまとめると、ムスリム女性の自立性を認めていないこと、裸を自由と結びつけて他の多様な女性の経験を無視していること、非暴力的な抗議と言いながら挑発がエスカレートしていること、資本主義を批判しながら消費を促していること、などが批判されているようである。

こういった団体は活動の資金繰りが難しいので商品を売るのはある面でしかたないのかもしれない。

セクシズムに反対しながら性消費的な広告の手法を利用していること、宗教批判をしながら宗教的な言い回しや偶像化を好むこと、などは危うさはあるがアイロニーとしてやっていることはじゅうぶん理解できる。この筆者は疑わしいと書いていたが、FEMENはフランスでのブルカ禁止に反対したと言っているので、ムスリム女性に対する不寛容も改善していける希望はあるんじゃないかと思う。

 

この論述は2015年のものだが、ホームページで誕生日を祝われていた創始者メンバーのひとり、Oksana Shachkoは2018年にパリの自室で亡くなっている。おそらく自殺と書かれている。

トップレス抗議の権利団体「FEMEN」創設メンバーが死亡、自殺か 仏パリ 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

 

さいきん胸元の大きく開いた服を着た胸の大きいアジア系の女性が、そのままでの美術館の入場を拒否された件に対してFEMENは抗議している。

【谷間で入館拒否?】フランスで約20名のトップレス女性らが美術館に集結し抗議活動! (2020年9月17日) - エキサイトニュース

 

あいかわらずおもしろニュース的なメディアの扱い方は気になるが、この行動は当事者のニーズとの乖離もなく時宜を得ており、成功していると言えるんじゃないかと思う。

 

論文紹介: FEMEN トップレスの抗議とムスリム女性

FEMENという国際的なフェミニスト団体がある。FEMENという団体名はそれほど有名でないがトップレスの抗議は世界中で報道されている。上半身裸で抗議行動をしている様子をネットニュースなどで見かけた人は多いと思う。

もとはウクライナの性産業、性ツーリズムを批判する団体だったがメンバーが増え、世界中で活動を展開する中で抗議の目的も多様化していったようだ。抗議の対象にはプーチンや仏の国民戦線のほかに、保守的なキリスト教イスラム教も含まれるようになった。

このブログでも以前何度かFEMENに言及していたが、それもFEMENがイスラム教に対して女性を抑圧する制度だとして批判しているという文脈だった。西欧のある種のフェミニストイスラム教を女性抑圧の象徴として批判するとき、その点ではイスラム嫌悪や移民排斥をする極右と一致してしまうという現象を何度か紹介してきたが、FEMENもその傾向が指摘されている。

 

イスラム教とフェミニズムの関連についても述べられている、FEMENについての5年前の論述を紹介する。

 

 

„I am God“ und „FEMEN Akbar“: Die Beziehung der aktivistischen Frauenrechtsbewegung FEMEN zu Christentum und Islam

2015

Lisa Breddermann

[https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&url=http://trace.tennessee.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=4565&context=utk_gradthes&ved=2ahUKEwiliKiA2vXsAhVQJBoKHRJZAf4QFjAAegQIAhAB&usg=AOvVaw0aAiE-npkhfe1Aecm_pXBA:title=[PDF]]

 

最初にこの論文ではポストフェミニズムに触れている。ポストフェミニズムは、フェミニズムはすでにその役目の大半を果たしたという前提で今までのフェミニズムとは違うイメージを演出したフェミニズムである。この名前自体は遅くとも1980年代前半からあるが、この論文ではその始まりを2000年代と設定している。

(このブロクでは以前ここ で紹介した潮流)

 

20世紀の終わりにフェミニズムは死んだと考えられてTime Magazinの「フェミニズムは死んだのか?」のような記事が出版されたが、21世紀の初めは新しいタイプのフェミニズムが生じた。いわゆるポストフェミニズムやポップフェミニズムである。これはとくにかつての女性運動とはっきり区別されるのが特徴だ。またフェミニズムの目的は政治から文化まで、宗教など、フェミニズムの言説内にさまざまな領域を含めるものに拡大した。

 

また、フェミニズムの対象領域が狭い意味での政治や社会進出だけでなく、文化や教育、宗教にも拡大したことを指摘する。

 

FEMENの活動は、反抗の焦点が反プーチンに向いているときのように政治的な分野だけでなく、社会、文化、そして宗教の空間にも関わっている。

 

ポストフェミニズムはしばしばフェミニズムの過去の形態から距離をとるタイプのフェミニズムである。ドイツでも、たとえばドイツ語圏の2つの著作が模範になる新しい形のフェミニズムがとくに21世紀に発展した。1つはSusanne Klingner、Meredith HaafとBarbara Streidlの『私たちアルファ女性 -なぜフェミニズムが人生を美しくするのか』と、もう一つはElisabeth RaetherとJana Henselの『新しいドイツの女性』だ。

 

こういった新しいフェミニズムには、しばしば有色人種やセクシャルマイノリティの視点が欠けていて、白人中産階級の女性中心だと指摘される。

 

Sonja Eismannは「Hot Topic 現代のフェミニズム」でポップフェミニズムを定義して、ポップフェミニズムにはまだ明らかに「女性と社会」のテーマに属するレズビアンや移民女性の視点が欠けているとしている。

 

フェミニズムのインターセクショナリティについての議論は、Hester Baerも述べるように、ポストフェミニズムで抑圧されるか無視されているようだ。「HenselとRaetherは、(…)インターセクショナリティの現代的な広がりで最高潮に達した数十年のフェミニスト理論を故意に無視している」。ポストフェミニズム的な言説における人種やマイノリティの無視の事例はドイツのフェミニズムの歴史ではこれ1つだけではなく、すでに80年代にもインターセクショナルな方法をとるフェミニストと白人中産階級フェミニストの間に緊張関係があった。

 

インターセクショナリティのフェミニストの例として1980年代にAudre Lordeに設立されたドイツの黒人女性のフェミニズム運動であるADEFRAがある。これはとくにこれまで無視されてきた女性の利益を中心に置こうとした。

 

FEMENはこの宗教敵視の観点で、今日しばしば宗教に対してされるような批判、つまり女性抑圧だという批判ををする。ドイツで拡大したPEGIDAの運動を見れば明らかなように、FEMENは単独で宗教批判、この場合はとくにイスラム教批判をしているわけではない。なのでFEMENはこの点で、つまり家父長制的な宗教への批判という点で、現代のドイツのメディアの関心を的確に捉えている。しかしそれでもここでは一般化は試みない。なぜならPEGIDAがイスラム教に抗議しているだけで彼らが女性のために戦っていることを意味しないし、同様に女性のための戦いはイスラム教に反対することと同じではない。

極右と一部のフェミニストイスラム敵視で足並みをそろえていて、どちらも批判すべきであっても、両者は同じものではないという指摘は重要だろう。

 

FEMENの組織

FEMENの初のメディアに効果のある行動について出版社のある記事はこの女性運動とその目的について、「その若い女性(Anna Hutsol)は横行する売買春との戦いを旗に記した女性学生組織『FEMEN』のリーダーだ。この女性たちの目的は政府がウクライナへの性観光の流入を禁止する法律を公布することだ」と説明した。

このあとメンバーが増え、活動地域や目的は拡大したという。

さらにメッセージが届く範囲を新しいメディアを通じてグローバルに広げることが可能になる。世界中のメッセージの受け手は画像やコメントをSNSに投稿するだけでFEMENの討議に参加できる。

FEMEN自身も公式オンラインショップ(www.femenshop.com)や他の公式サイトに載せている声明で、世界中ですべての女性の権利の平等を求めて戦う国際運動が重要で、彼女らの体はマニフェストで、胸は抗議だとされる。また目的は家父長制に対する非暴力的抗議だという。

 

裸の女性の体を通してまさにセクシズムを求めて戦うという矛盾が明らかにここにあり、それはFEMENによって意図的に先鋭化されている。裸の抗議を通じて家父長的なイメージを砕き、身体について家母長制のイメージを打ち立てようとしているからだ。

 

より正確なFEMEN像を描くために以下では運動の公式ホームページ(www.femen.org)を分析する。

 

指摘されているポイントは、

  • オンラインショップのような作りのホームページに、活動報告のほかにスローガン入りのFEMENの製品の宣伝がある。
  • 理念の文には「初めに身体があった」など聖書もじりが多用されている。
  • 活動家は強いアマゾネスと表現され、新規活動家のためのトレーニングジムもあり、警備員や警官に排除されるさいに抵抗する訓練をしている。
  • サイト上で中心的メンバー(Oksana Shachko)の誕生日が祝われ、メンバーが逮捕や起訴された経歴も書かれている。ある種の英雄崇拝、殉教者信仰のような扱いに見える。
  • 花の冠はウクライナ伝統のヴィノクだが「不服従」のシンボルと説明され、むしろ自由の女神、キリストの茨冠、英雄としてのローリエ冠を暗示。
  • 非暴力的なトップレスの抗議が女性解放の唯一の手段だとしている。

 

 

裸の抗議とインターネットメディア

 

さいきんの社会運動は、インターネットやソーシャルメディアをうまく活用して情報を瞬時に拡散し、活動に役立てているのが特徴だ。FEMENもそうである。

なのでメディア機構とFEMENの依存関係が生じる。たとえばモスク前での抗議はジャーナリストが抗議に興味をもってそれを報じたときのみ有効だ。

 

そのうえでメッセージとして画像はとくに重要だ。Henrike KnappeとSabine Langはこの可視化の過程を記事「声と囁きの間:英国とドイツでのオンライン女性運動アウトリーチ」で「組織化だけではなくコミュニケーションのための、機動性を高めて活動を広める運動レパートリーの転換が見られる。オフラインからオンラインへ、そして大規模な抗議からターゲットを絞った資金調達とキャンペーン活動へと転換する。」と説明している。

 

Gapovaによると、このようにメディアでの必要に迫られてしばしば、人気と視聴数を高められる個人的な関連をメッセージの材料にして、プライベートの公開が行われる。そこでは「人が生活している様子が演出される」。

 

この側面は明らかにFEMENの抗議行動にも認められる。たとえば上述の活動家の人となりを見せたり、Oksana Shachkoなどの活動家の誕生日を祝ったりする点だ。

FEMEN以外にトップレスの抗議をする団体として環境保護団体やスラットウォークを紹介している。環境保護団体は裸の傷つきやすさと自然さを結びつけているというが、フェミニズム的な抗議でもこの関連は考慮に入れるべきだという。

Judith Staceyは彼女の著作「The Empress of Feminist Theory Is Overdressed」で制度的でない「感覚的な肉体」を称揚しているが、著者は、

裸の体は依然としてセクシュアリティの象徴で、特定の特徴によって限定されて普遍的でないものではないのではないか

と、制度から解放された裸の肉体という概念に懐疑的である。

 

Stacy Alaimoは記事「The Naked Word 」で、裸であることは特定の真実や誠実さを表に提示し、裸の抗議の裏側にそれ以上のこと、すなわちメディアの注目を維持したいという意思を隠すことができる、と述べている。「これが知名度を得る簡単な方法であるという皮肉だがそれほどあてにならない感覚に反して、裸の体の理想的なビジョンがあり、共通の肉体性、共通の傷つきやすさを仄めかしている。」

FEMENはトップレスの抗議をタブー破りだと考えているが、ドイツではテレビにもよく裸の胸は映るのでタブーとは言えない。アメリカでは検閲されることが多く、地域によって違うそうだ。しかしFEMENの抗議の方法は文化や国に関わらずいつもトップレスだと指摘する。

しかし、それは文化的環境に応じて非常に多様な意味や解釈をはらみ、さまざまな反応を引き起こす。

 

また著者は、Gillian Roseの著作『Werk Visual Methodologies』から引用し、写真は単なる現実の反映ではなくすでに文化的解釈を経て呈示されたものだという。

身体は、FEMENの場合女性の身体は性別固有の言明内容をもっており、多くの意味伝えていて、それだけでサイズや人種、性別を介している。身体は「性別、人種、階級で分類され、正常/異常または有能/無効として特徴を表す。」

 

著者はFEMENに対する批判はさまざまだとして、Theresa O’Keefeによる批判を上げている。

O’Keefeによる批判は要約すると、

  • FEMENは資本主義を批判しながら、ホームページでは商品宣伝をして消費を求めている。
  • 抗議に裸の胸を使うことでセクシズムを強化している。
  • 若いきれいなモデルのような白人女性ばかりを動員し、他のタイプの女性を排除し、それによってジェンダー規範を強化している。
  • 裸になることを女性の自由と結びつけることで、裸の文化的な意味の多様性を見落としている。

などである。

 

Jessica Zychowiczは彼女の著作『2つの悪い言葉:独立ウクライナのFEMENとフェミニズム』の中で、彼女の焦点はFEMENの「煽動代理店」の分析に向けられていると宣言している。したがって彼女は問いを立てるさいに、FEMEN活動家が良きフェミニストかどうか考えるのではなく、彼女らが作り込んだ大騒ぎによってとくに一般世論や公衆の関連でどのような効果があるのかを問うべきだとしている。

 

Zychowiczの批判は、

  • FEMENの戦略は性観光を問題にする可能性が低い男性の視線をフェミニズム的な話題に向ける上で効果的である。
  • 白人の美しい女性ばかり集めているのは性規範のパロディとして機能している。
  • 主要メンバーの偶像化と、社会運動のブランド化、商品化を批判。

など。

 

今のFEMENはモデル体型の白人女性ばかり集めているわけではないそうだ。かつてFEMEN創設時に男性リーダーがいたときは彼が意図的に美しい女性を選び、ブランド化していたが今は組織はその男性から縁を切っているらしい。

FEMENの抗議行動の意図が誤解される一因は、裸の胸などの画像の多義性や複数の解釈の可能性だと著者は考える。さらに宗教や文化を越えるとFEMENの意図はいっそう通じなくなる。

 

 

抗議におけるFEMENの宗教への態度

 

フェミニズムと宗教 2つは対極にあるものか

FEMENは抗議の対象に宗教を上げており、基本的な家父長制機構としてイデオロギー的に打倒するべきものと名指されている。

たとえばジャーナリストのCath Elliotは宗教とフェミニズムの関係に関して、キリスト教はいつも女性の自由と平等に反対してきたのでキリスト教徒のフェミニストは形容矛盾だと主張する。

このような考えもあるがフェミニズムと宗教の関係は多様である。

 

たとえばWendy McElroyは『Religion and American Feminism』の中で、「幸いにして、宗教はフェミニズムの枠組に合わせてふたたび自己主張してきているようだ。私が『幸いにして』と言ったのは、宗教はおそらく近代のフェミニズム徐々に死にゆく状況を打破する数少ない力だからだ。その状況とは教条主義である。」と書いている。McElroyは宗教を、フェミニズムの進歩を阻む脅威ではなくフェミニズムが固定されたレールから逃れ新しい観点を発展させるチャンスだと考える。

 

RedfernとAuneは『Reclaiming the F Word』で「宗教改革主義者」、「宗教修正主義者」、「精神革命家」、「世俗フェミニスト」というフェミニズムの4つのグループを提示している。

 

重要なのは、フェミニズムと宗教はどうやら結びつくこともでき、原則として正反対というわけではないということだ。

 

RedfernとAuneのアンケートが示すところでは現代の多くの(イギリスの)フェミニスト無神論者を自認している。

一方で、一部のフェミニストは信仰とフェミニズムが調和でき、アイデンティティに不可欠だと考えているという。しかし、それらのフェミニストも教会から距離をおいているそうだ。宗教の概念が情動的で主観的なため、定義が人によって異なり、議論は複雑化するという。

 

 

イスラム教にはフェミニズムはないと古くから信じられている。Sariya Contractorは著作『Muslim Women In Britain』でムスリムフェミニスト数人に、フェミニズムの言説のどこに自分を分類するかのアンケートをしている。この若いムスリムの女性らは公共の場、とくに職業訓練、仕事、家族などの中での女性の地位を求めて戦っている。アンケートを受けたムスリム女性はContractorの質問に多様な概念でそれぞれのフェミニズムの形態を答えた。たとえば、「 『イスラムの目覚め』、 『復活するイスラム』、 『イスラム教徒の女性の権利』、 『イスラムの実践』、さらには 『ムハジャ・ベイベ』」などだ。目につくのは、どの概念もイスラム教から離れおらず、むしろ自分の運動と宗教を統合しているがフェミニズムの概念は避けていることだ。

 

 

ケルン大聖堂での抗議

FEMENとキリスト教の関係を表す出来事として、ケルン大聖堂での2013年のクリスマスの抗議を紹介している。2013年にFEMEN活動家Josephine Markmann alias Wittが、ケルン大聖堂でのMeisner枢機卿とのクリスマスのミサに上半身裸で乱入し、祭壇の上に乗ってFEMENの主祷文: 「私は人間の創造者地上にいる自由で平等な女性だと信じる。そして彼女が生まれもった彼女の体の不可侵性、尊厳と権利の自由と平等を信じる。」を叫んだ。

 

この事件はメディアに大きく取り上げられ、好意的な論調も批判もあった。Kölner ExpressはWittに同情的で、彼女が参列者の一人に平手打ちされたことを伝えている。また批判もあり、

 

教会などの保守的な界隈には注目だけでなく怒りをもたらす。興味深いのはそういう注目依存への反応としての意見で、ケルンのDominikus Schwaderlapp補助司教はシュピーゲル紙によると「過剰な公開で、そのようなものに価値を認めるべきではない」と述べた。この言明で彼は直接FEMENの戦略に反論している。なぜならFEMENの戦略はまさに抗議での過剰な公開を必要としているからだ。

tazのインタヴューでWittは、胸の露出は戦略としてやっていて性的な対象物にはなっていないのでためらいはないと話している。Wittは、

 

「私はタブーとされて極度に性的なものとされた女性像をそこで示したかった。私の信仰は、私は人間性の地上の創造者である自由で自己決定できる女性を信じるというものだ。」という。

 

Wittは信者と制度的な宗教の区別しているが、ミサを訪れた人たちは彼女の抗議で個人的に攻撃されたと反論している。

FEMEN活動家は裸での抗議のさいにスタッフや警備員などに無理やり排除されることが多いが、FEMENはこれによって家父長制の隠れた暴力性が暴かれることになると考えていて、意識的に挑発もしているらしい。

 

この抗議への批判は多かった。ドイツカトリック中央委員会の会長Alois Glückは、Wittの抗議行動は意見表明の自由とは関係がないと述べた。公の集会妨害の禁止や住居侵入罪に該当する場合は意見表明の自由も認められないからだ。また、

Grünenの宗教政策の広報Volker Beckは「私は§166 StBG(かつての冒涜罪)が削除されること、§§167StGB(宗教行為の妨害)を§§123StGB(住居侵入罪)に適合させることに賛成です。」

としつつ、

Volker Beckはさらにインタビューで「(…)裸の抗議はミサでの信者への敬意がなく不必要な妨害」だと述べた。

 

ハンブルク大司祭のWerner Thissenは、ハンブルク出身のWittのケルンの抗議を自分に関係があるとして彼女を対談に招き、しかしそこでは服を着るようにと述べたそうだ。

コメディアンのTom Gerhardは、貧しい人々に手をさしのべる教皇にくらべて、Wittは威張った恥ずかしいスープチキンで、注目依存性で偏狭な原理主義そのものだと書いた。筆者はこの意見は辛辣だがよくなされる批判の要点をついているとしている。

 

Wittは宗教行為の妨害のため罰金1200€の判決を受けたと2014年にいくつかの新聞が報じている。

 

その他に、キリスト教への抗議とイスラム教への抗議の違いも述べられている。キリスト教への抗議はドイツ国内への抗議捉えられやすいせいか、怒りを買いやすく、メディアの注目が大きい。

またイスラム教への抗議はイスラム教の女性抑圧的な性質が議論にのぼるが、キリスト教への抗議ではそういった議論はなく、意見表明の自由と集会妨害の関係などが論じられる。

 

後半→

https://ottimomusita.hatenablog.com/entry/2020/11/09/235649