記事紹介: ドイツのアイデンティティ政治をめぐって
アイデンティティ政治が話題である。
たとえばこんな話↓
“Us Too!”のポピュリズム: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
これは長いけど↓もともとアメリカの話なのかな。
忘れ去られた異端者らの復権: トランプ政権誕生の思想史 (< 特集> 2016 年大統領選挙とアメリカの現在) 会田弘継 - 立教アメリカン・スタディーズ, 2017
アイデンティティていうとエリクソンの心理学が思い浮かぶのだけれど、「アイデンティティ政治」と言うときにはこの言葉は、それとはかなり違う意味で使われているようである。そのため、ドイツ社会民主党(SPD)の政治家Wolfgang Thierse は下に紹介する文で「社会はどれだけ多くのアイデンティティに耐えうるか」と問うているが、アイデンティティはそもそも定義上人の数だけあるのではないのかと、しっくりこない印象を受ける。
アイデンティティ政治というときのアイデンティティは、属性とか所属のような意味で使われている。もとの意味でのアイデンティティならば、一人の人間が自分のアイデンティティを一つの属性で表すことはまずないだろう。たいていの人は色んな役割や性質や属性の集まりとして自分をとらえていると思う。
そのうちの一つの属性を強調しないといけない場面というのは、差別とか侮辱とかでその属性のために攻撃されたり不利益を被ったときだろう。これが、(左派やリベラルの)マイノリティのアイデンティティ政治と呼ばれている。
差別を受けることが、エリクソンの言うアイデンティティの危機と同じものなのかというと何か違う気がするし、特定の属性に関して集まって政治的な運動をするのもアイデンティティというほど個人的で内省的なものではないように思える。
マイノリティに属する個人にしてみれば、「この属性をもつ人はこういうものだ」という確固たるアイデンティティのようなものはむしろ個人の自由を制限する偏見として避けたいものなのではないか。
「日本人のアイデンティティ」とか「ドイツ人のアイデンティティ」のような用法はまだ理解できる。これを守ろうとするのが(右派の)マジョリティのアイデンティティ政治なのだろう。
そういう、この用語がまだよくわかっていない状態を出発点としてこれからちょっとずつアイデンティティ政治なるものについて調べていきたいと思う。例によってドイツでの右翼ポピュリズム関連の話題で、アイデンティティ政治はさいきんよく出てくるのでちょっと追ってみてここで紹介する。
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SPDの政治家Wolfgang ThierseがFAZ紙に寄稿した文をSPDがネットで公開している。
FAZ-Beitrag von Wolfgang Thierse - "Wie viel Identität verträgt die Gesellschaft" Identitätspolitik darf nicht zum Grabenkampf werden, der den Gemeinsinn zerstört: Wir brauchen eine neue Solidarität
Wolfgang ThierseのFAZ寄稿文 「社会はどれだけ多くのアイデンティティに耐えうるか」アイデンティティ政治は共同体を壊す塹壕戦になってはいけない。新しい連帯が必要だ。
「かつては宗派であり、のちにイデオロギーであったものが、こんにちではアイデンティティだ。それは所属を知らせる便利な手段になっている」とSimon Straußは数週間前にこの雑誌に書いた。「宗派」や「イデオロギー」が過去にあまりに苛烈で血なまぐさい争いにつながったことを同時に思い出させる的確な見立てだ。今また別の規範概念のもとで歴史をくり返すのだろうか。いずれにしても文化的な所属というテーマは、分配政策上の公平性という問題としていま私たちの西洋社会をかき乱し分断しているようだ。民族的、社会的、性的なアイデンティティの問題は勢いを増し、人種差別、ポスト植民地主義、ジェンダーについての議論は激しく攻撃的になっている。これはおそらく多元化する社会や社会的な確執を書き表す上で避けられない議論だろう。これは社会的関心や注目、影響力や承認、つまりは文化的な分け前をめぐる争いとしてとことん戦い抜かれる。
多様性を平和的に実践するには、民族や文化、宗教が多くあるだけでなく、法の尊重や言語などの共通性も必要だという。
さらにそれだけでなくつねに新しい理解が求められていることは、自由、公正、連帯、人間の尊厳、寛容といった概念、つまり私たちの自由で開かれた社会を支える価値観、そして歴史的に形作られた文化的規範、記憶、伝統において、何が互いに異なる私たちを結びつけ、何が私たちに課されているか、である。このような仕方で定義されたアイデンティティは、右派やときには左派が目指すアイデンティティ政治とは反対のものである。
右派のアイデンティティ政治の不寛容や憎悪や暴力を批判しつつも、故郷や郷土愛、国民文化は重要だとしている。
それらは過ぎ去った過去の反動的な残滓ではない。ヨーロッパの近隣や地球儀を眺めても国民の歴史的意義は終わっていないことがわかる。そして今またパンデミックがこの連帯する共同体、つまりは国民福祉国家がいかに必要かが示された。激動の時代に社会的、文化的な故郷を定めることへの需要は大きい。この需要へのひとつの答えは国民だ。それを認めようとしないのはエリート的で傲慢な愚かさだと思う。
たしかに私たちが経験している変化は、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーの伝統の中の均質な国民文化という幻想をけっきょくは廃れさせた。しかしそれにもかかわらず、文化は、単なる文化や文化間のマクドナルド化した世界や文化プラズマ状態ではない。
文化は変化し続けるものだが、生活様式や芸術や記憶などの合奏として今も重要だとしている。そして、マイノリティの権利を求める左翼のアイデンティティ政治の問題は、マジョリティ文化を求める権利を認めないことだと言う。
これらがたんに保守や反動やまったくの人種差別だと非難されるべきではないことを受け入れられないという危険がある。
さらにキャンセルカルチャーはコミュニケーションや議論が足りないせいだとする。
他の逸脱した見解をもつ人や指定されたものと違う言葉を使う人を、メディアの公開議論や大学から排除することは、私には左翼的とも民主的な政治文化だとも思えない。
自分が驚き呆れたということや主観的な経験は根拠を示す議論に取って代わるべきではない。個人の経験の側面は、胸が痛むものでも、共感できない反対意見の評判を落としたり議論から排除する口実として利用してはいけない。犠牲者の話は聞かなければいけないが、それ自体が正しいわけではなく、判決を下して議論を決してもいけない。
白人の優位性のイデオロギーへの批判は白人男性の原罪神話になってはいけない。構造的で私たちの社会のどこにでもある人種差別という話は、白人ならばすでに有罪だというモットーにしたがって、避けられないものを付与する。
そのため、文化盗用批判や言葉狩りで不要な混乱と反発を生むとしている。
そうするとなおさら人種差別の非難が正しかったことになる。悪循環だ。
ジェンダーや差別的な駅名の変更についても、
ジェンダーに配慮しマイノリティ全般にも配慮した言語を要求することはどんな場合も共同体のコミュニケーションを容易にするとはかぎらない。大学教員が、彼らの学生がどのように呼びかけられたいか、「Frau」か「Herr」か「Mensch」か、「er」か「sie」か「es」かを怯えて不安げに問い合わせたなら、それはもはや無害とは言えない。そしてそれをやり過ぎだと思う人は反動的ではないし、命令や禁止による言語規制に反対する人も同様に反動的ではない。
私たちは新たな偶像破壊を経験している。名前の抹消や記念像の倒壊、知の巨人の密告はたいてい革命の血塗られた転覆に属するものだ。こんにち問題となるのはむしろ重くのしかかる厄介な悪い歴史からの象徴的な解放である。そのさい主観なショックは、名前や記念碑や人物の意義の歴史を詳細に見ることよりも重視される。これはMohrenstraßeやOnkel Toms Hütte[地下鉄の駅名]の例でわかる。この名前は不快で私は傷ついた。だから変えてしまわなけれいけない。これは決定的な行動原理である。歴史の浄化と清算は、これまでは独裁者や権威主義的体制や宗教や世界観の狂信者のすることだった。
社会的、文化的な苦労を増やすことを目的にするのは左翼アイデンティティ政治の問題だと私は思う。むしろ目標は受け入れられた多様性を平和的に生産的に実践することであるべきだ。これを達成するには個々のアイデンティティや個人や集団の利益を認知させ実現するために労力をかけるだけでは足りない。さらにより大きな範囲で、自分自身を共同、共通善と関連させて考え実践し、したがってまた自分自身を相対化させる意欲と能力が必要である。かつてRalf Dahrendorfが「所属している意識」と名付けたものはますます重要になっている。いずれにしても多様性を担う人は同時にコミュニティを担う人でないといけない。
多様性と他者性への敬意がすべてではない。それはむしろ規則と責務の尊重、そしてまた多数決の受容に組み込まれていなければいけない。そうでなければ過激な意見の温床や認識の深い溝や競合するアイデンティティ集団の主張によって、とくにデジタル世論では、社会的結束は危険にさらされるか、すっかり破壊される。なぜなら多様で社会的、文化的に断片化した「特異点の社会」(Andreas Reckwitz)では社会的結束はもはや当たり前ではなく、それは民主主義的な政治と文化的な尽力と、とりわけ社会民主主義の目的にならないといけない。それらに欠かせない文化についての提案は、重要なのは連帯であり、連帯は一方的な関係や他者に反して要求する関係ではなく、それは相互の関係と包括的な社会全体を目指すものだということだ。
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政治活動は対立を生むから、相互理解と連帯を求めるというのが要旨だろう。
しかし、そういうコミュニティオーガナイジング的な活動はすでに各地域で行われているのではないか。異文化交流のためのイベントとか、宗教間のダイアログとか、LGBT関連の読書会とかは、該当の協会や個人によっていろんな規模で定期的に行われている。
コミュニティオーガナイジングにはいくつか利点がある。対面だとネットほど不穏だったり無礼になったりしにくいだろう。また主体的で個人的な発言は誰かに、代弁してもらうのと違って、属性でひとくくりにして擁護したり糾弾したりすることも少ない。
そういう活動は言われるまでもなく大事だから、じっさい各々が実施している。でも興味がある人しか参加しないからあまり大きな話題にはならないし、注目もされないのかもしれない。
だから別の場面では不公平や対立を明確にする政治活動も必要になる。「そんなやり方では理解を得られない」とアドバイスする人は、「そんなやり方」でない取り組みに関しては注意を向けてすらいない。というのはよくあることだ。
上の文で出てきた「文化のプラズマ」というのはMichal Schindhelm の造語である。
Schindhelmの「文化のプラズマ」について書いた文を見てみる。
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https://www.degruyter.com/document/doi/10.14361/9783839435120-009/pdf
MICHAEL SCHINDHELM
Neubeginn oder Übernahme? 1
Die Erosion des öffentlichen Kulturauftrags und die Entstehung des Kulturplasmas
新しく始めるか、継承か
公的な文化的使命の風化と文化プラズマの出現
彼は劇場支配人として国の文化政策に携わっていた。(右派の)マジョリティのアイデンティティ政治が求めるものが仮に自国の伝統文化の保護と促進であれば、該当するのは文化政策である。
ドイツで前に、ドイツ国民としての文化や伝統のあり方が問題になったのは30年前の再統一のあとである。その頃は旧東ドイツが無くなるため東側の劇場や美術館が衰退しないよう補助金注ぎ込まれていたそうだ。しかし今は多くの劇場が衰退しつつあるという。
最近のベルリン国民舞台の劇場主についての人事は、ロストックやデッサウ、Halberstadtや Gera/Altenburgの劇場の緩慢な死よりもかなり大きな注目が集まっている。あたかも同じような悲劇が増えすぎてこれ以上関わりきれないというように。今の文化政策関連の不足はドイツ統一25周年でとくに注目された。今ではこれまで以上に懸念されている同じ機関が、かつては多額の費用で没落から救済されていたからだ。
1990年11月に連邦政府はいわゆる新しい連邦州の文化施設のための資産維持とインフラの計画を決めた。1991年から93年に、チューリンゲン州とメクレンブルク=フォアポンメルン州の数百の劇場、オーケストラ、美術館が合計で350万ドイツマルクを受け取って、予算の均衡を取ることか老朽化した建物の復旧に充てられた。これはいくつかの西側の州には文化政策の主権への干渉と捉えられ、計画への意見訴訟も検討されたが、その支援金のおかげで、ワイマール国民劇場からドレスデンの緑の丸天井まで、ドイツ民主共和国(DDR:旧東ドイツ)のほとんどの中規模および大規模の文化施設がドイツが統一した最初の数年の混乱期を乗り越えることができた。
この頃、文化の保護は社会的使命だとされていたという。
とくに文化は、1. 文化はアイデンティティ作成に寄与すること、2. 国民や宗教の遺産を守ること、3. 独立した批判的な集合体になること、4. 教育的な任務を果たすということについて合意があった。Hilmar Hoffmannの言葉では文化は「すべての人に」開かれているべきだった。
文化政策の対象はそれ以来、そして今でも文化的景観である。つまりある都市や地域の文化的機関や活動の地誌だ。その機関の多くは周知のようにドイツではその存在を、たとえば小邦分立や帝国など、かつての時代区分に負っている。それらのもともとの目的は、たとえばこんにちでもフランクフルトの旧オペラ座の正面装飾で読めるように、真善美に資することだった。このようなカテゴリは大多数の人からはとっくに疑わしいものとして拒絶されている。しかしそれは1989年に擁護された一連の使命にも当てはまるのではないだろうか。文化が開かれているようにするべき「すべての人」とは誰なのだろうか。
公的な文化的使命の終わり
したがって文化は2015年にはもはや公的な課題や最終目的ではなくなった。そのかわりその機関や実施者や内容はとうに、グローバル化やデジタル化の魔法にもそのテロにも屈してしまった。都市が世界市民のプラットフォームに発展し、デジタル世界が公共のコミュニケーションを一方でねじ曲げて他方で多様化させた。伝統的な文化的景観はフランクフルトの旧オペラ座のように不規則な塊として近代的社会から浮いている。際限なく拡散する空間が出現し、その中で消費者と生産者がオンラインとオフラインを行き来し、考えられる限りあらゆる様式や内容や地理がからみあい変形している。文化的景観は文化プラズマになった。
↑ぼくが撮ったビル街にあるフランクフルト旧オペラ座の写真
おそらく私たちはみな文化プラズマが何を意味するかの概念をもっている。つまりそれはたとえば、創造性が開花できるもっとも好都合な条件をもとめることを意味する。創造性は、とりわけ故郷をもたない、そして必ずしも愛国的でないグローバル化時代の資本である。
地域主義はジェントリフィケーションと戦っているが、こんにち都市計画をする者は国際資本なしにどうやって自分たちの自治体を住む価値のある公共団体として維持するのだろう。文化プラズマはまた、国民や領土政策はポスト国民的な文化実践の要請と矛盾していることを意味する。芸術家はもはや国民アイデンティティに縛られず、機関は他の機関と連合とネットワークを作り、政治的な公共団体には適合せず、芸術生産と生産物の流通と評価はますます制御されなくなっている。
文化プラズマの例として著者はYoutubeを挙げる。
Youtubeはその視聴者の製作物である。彼らによって現在一秒ごとに60分の映像材が新たにアップロードされている。TIME誌は、Youtubeには1ヶ月でアメリカのテレビ会社の最大手3社が60年の歴史で作成した映像材の3倍以上が生じると試算した。
個人的にあまり評価しない文化的な出来事も認めなければいけない。YouTube現象で興味深いことは、消費者と生産者がつねに役割を交換することである。これによってこの役割は厳格さを失い、時流にしたがってその意味さえ失う。ある種のプロシューマーと言ったほうがいいかもしれない。インターネットの中だけでなく現実世界でもここ数年、各種のフェス、クラブ、出版、展示など、ますます多くのフォーマットが出現し、そこでは職業として芸術家でも知識階級でもない人が公に自己表現し創造性を見せつけている。
もし、たとえば良し悪しを決めて「価値」を伝える当局がもはやないのなら、趣味の無政府状態がはびこる。Youtubeはおそらく文化プラズマの正確な写し絵である。それがいっそう商業的な利益に役立つというだけでも疑わしいものに思えるかもしれない。
「すべての人のための文化」から「すべての人の文化」へ
文化的景観が文化プラズマの中に沈めば、公共文化や対応する文化政策の古典的な考え方も時代遅れになるだろう。ジャン・ボードリヤールはすでに2007年に短い文章で、なぜデジタル化の時代にも価値や機関や最終目的といったすべてが消えていないのかという問いを立てた。芸術に関して彼の答えは、芸術は消えたことに気づいていない、というものだ。彼はまたそれらの物は完全に消えるのではなく痕跡を残すことを指摘した。それは初期のキリスト教で悪魔の役割を引き継いだ古代の神々に似ている。
実際ドイツでは文化的事業はいまだ上り調子である。グローバル化やデジタル化の変容の強襲で文化や文化政策が消えてしまったようには見えない。ボードリヤールは、それらは気づいていないのだと言うだろう。そして依然として文化政治家は使い途のない人のままだと言うだろう。しかし、それよりもプラズマの中で悪魔になった死後の生を想像する方が興味深いだろう。それはこれまで以上にアウトサイダーであり、文化プラズマの中での真善美の解釈がどのようなものなるかを明らかにする政治上の伝統をあとにした。この文化政治家にはもう明確な社会的な課題はない。文化政治家はそれでもそれを達成する仕事に取り組むだろう。
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論文紹介: AfDの投票者、描かれ方
前の投稿が長すぎたので2つに分けた後半をこちらに。前半はこちら。
以下の論文は、Robert Vehrkampの定量的な有権者の世論調査についての研究で、2017年の連邦議会選挙を前に、AfDに投票する人たちがどのていど右翼ポピュリズム的と言えるのかを検討している。結論としてはAfD投票者の多くは右翼ポピュリズム的だった。
Rechtspopulismus in Deutschland
Zur empirischen Verortung der AfD und ihrer Wähler vor der Bundestagswahl 2017
Robert Vehrkamp
ドイツの右翼ポピュリズム 2017年の連邦選挙前のAfDとその投票者の実証的な位置づけ
アメリカ大統領のドナルド・トランプの当選依頼、多くの衆目が新しい「ポピュリズムの時代」について話している。彼らは西欧のリベラルな代議制民主主義にポピュリズム的な未来を予言している。ポピュリズムは21世紀の民主主義を象徴するようだ。
ポピュリズムの定義と測定
ポピュリズムの定義として、ここでも反エスタブリッシュメントと反多元主義の2つの側面が用いられる。
ポピュリズム的な政党や政治家や投票者には、綱領やレトリックや意見の中で支配的な政治の無力化を求めることで国民の意志の影響力を強めようとする特徴がある。彼らは、とくに腐敗政治との戦いのためや市民の政治への影響力を高めるために政治体制の改革を求め、自分たちだけが真の市民の意志の代表者だと主張する。
これに、イデオロギーに右翼か左翼かの基準を加えている。
右翼ポピュリズムを測定するためにしばしば、移民やマイノリティーや男女平等への反対や、強力な法治国家の支持などの具体的な考え方が利用される。それに対して典型的な左翼ポピュリズムの立場は再分配の強化や大きな財産の接収を主張し、福祉上冷遇された層の人々の参加を求め、武器輸出の禁止など平和主義を求める。
政策的に右翼にも左翼にも位置しないポピュリズム運動全般の顕著な例は、ポーランドのNowoczesnaやスペインのシウダダノスである。それに対して多くのラテンアメリカの運動の左翼ポピュリズムのパターンと似ているのはスペインのポデモスやギリシャのシリザ[急進左派連合]だ。右翼ポピュリズムの例としてはフランスの国民戦線やイギリスのUK独立党(UKIP)が知られる。しかしドイツでも(右翼)ポピュリズムは見られる。とくに2013年に新しく設立されたドイツのための選択肢(AfD)は設立以来、世論やメディアの議論の中で右翼ポピュリズム政党と呼ばれている。
綱領や政策では右翼ポピュリズムに分類されると確定したが、AfDの投票者(有権者の10%)はどうなのか。筆者はそれを定量的に調べている。
この問いに答えるために、Bertelsmann財団の委託の[ドイツの世論調査の]Infratest dimapの代表アンケート調査を分析評価した。期間は2017年の3月13から30日で、2013年の連邦議会選で投票した人しなかった人が合計2371人が、政治的な立場と2017年の連保議会選挙の予定を質問された。そのうち合計364人がAfDに投票すると答えた。AfDの投票者がどのていどポピュリズム的なのかはアンケート対象者の以下のポピュリズム全般の発言への同意(「完全に賛成」、「どちらかと言えば賛成」、「どちらかと言えば反対」、「まったく同意しない」)にもとづいて測られた。
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重要な問題は議会ではなく、国民投票で決めるべきだ。
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国民は一致しているが政治家はまったく異なる目的を追っている。
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政治家よりも素朴な市民が政治的に代表になるほうがいい。
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政党は投票者の票が欲しいだけでその意見に関心がない。
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連邦議会の政治家はいつも市民の意志に従うべきだ。
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ドイツ市民の信条は政治上まかり通ることについて意見が一致している。
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市民と政治家の間の違いは市民同士の違いよりも大きい。
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政治での「妥協」と呼ばれるものはじっさいは自己の信条の裏切りに他ならない。
この回答によってポピュリスト、準ポピュリスト、非ポピュリストに分けている。
右翼指向性の測定のために
アンケート対象のAfD投票者の自己評価に左翼‐右翼尺度が援用される。これによって0点(左翼)から10点(右翼)の間に個人の立ち位置が定位される。それに加えて個別の政治的テーマに対して典型的な右翼的な命題が質問される。
AfD投票者のほぼ10人に9人は、ポピュリストまたは準ポピュリストだった。
したがってAfD投票者は明らかに全有権者の平均よりもポピュリズム的だ。ポピュリストの割合だけでAfD投票者においてはすべての有権者(29%)の約2倍である。
政党間の比較でも、
ポピュリスト的なAfD投票者は56%なのに対し、SPDでは29%、左翼党では23%、CDU/CSUでは14%、緑の党では10%である。
AfD投票者の左翼/右翼尺度(0=左翼、10=右翼)の自己評価でも似たような結果だ。3分の2以上(67%)が自身を中央よりも右に置いていて、その内4分の1ははるかに右(評点8から10)である。他の42%は中道右派に位置づけられた。
AfD投票者の左翼/右翼の指向性の中央値は6.6点で、FDP(5.5)、CDU/CSU(5.3)、SPD(4.2)、緑の党(3.4)、左翼党(2.2)などよりも明らかにずっと右だった。
具体的な政治的テーマについて典型的に右翼的な考えの分析はこの見解を裏付けた。AfD投票者の85%と明確に全有権者の平均(55%)より多くが「移民はドイツの文化に合わせるよう義務付けられるべきだ」という命題に同意した。ほぼ同じくらい多くのAfD投票者(85%)が、「法律に違反した者はもっと厳しく罰せられるべきだ」という命題に完全に同意した。一方全有権者の平均は64%だった。さらに明確な違いがあったのは「ドイツはこれ以上危機地帯からの難民を受け入れるべきではない」という命題で、AfD投票者のほぼ4分の3が完全に同意した。全有権者平均は30%だ。
要約すると、AfD投票者の10人に9人がポピュリストで、3分の2以上が中央より右翼であることがわかる。有権者がAfDに投票する可能性は右翼指向性とポピュリズム傾向の程度が高まるほど高くなり、左翼の非ポピュリストのほぼ0%から強い右翼のポピュリストの60%以上まで上がった(図で比較)。したがって典型的な右翼ポピュリストは平均よりずっと多く6倍もAfDに投票する蓋然性が高い。逆に表現すると、典型的なAfDの有権者は右翼ポピュリストであり、AfDは、投票者の観点からも明白に右翼ポピュリスト党である。
しかしここで用いられた定義での「右翼ポピュリズム」は必ずしも「極右」や信条的な「民主主義敵視」を意味しない。AfDの極右の投票者の割合がどのくらい大きいかはここでの測定計画では明確に測れない。また依然としてAfDの投票者の10人中8人は「民主主義は、総合的に見てもっともよい政治体制である」という命題に「完全に同意」(37%)か少なくとも「どちらかと言えば同意」(47%)としている。「どちらかと言えば反対」は14%、「まったく同意しない」は2%のみである。
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2015年の移民危機や基本綱領の採決以前には、右翼ポピュリズムであるかも意見が分かれていた。しかし、メディアでは当初からナチスにたとえて極右台頭を警戒していた。
Lorenz Klumppの「NPDとAfDは国民社会主義とナショナリズムの亡霊か 雑誌の表紙の画像分析」という2020年の記事では、雑誌『シュピーゲル』の表紙の絵を図像学や図像解釈学という政治学研究としては新鮮な感じがする方法で分析し、NPDとAfDがナチスと関連づけられていたことを明らかにしている。
NPD(国民民主党)は旧西ドイツの右翼政党である。この党とAfDの他にドイツ全体で成功をおさめたCDUより右の党はないので比較されている。
↑当時のAfDの連邦広報のペトリー、後ろの男性はガウラント。背景は、ニュルンベルクのナチ党党大会会場のツェッペリン広場の中央演壇。背景のドイツ国旗、ザクセン旗、ワイマール国旗からは観衆の人だかりがPEGIDAの支持者であることがわかる。
ペトリーが新聞のインタビューで述べた、政治は緊急時には難民を国境で留めるために「銃も使用」 (シュピーゲル紙 2016, p.13から引用)しなければいけないという文に対する反応としても見なせる。「憎悪の伝道者」(Hassprediger)という題名もこれに関連して理解すべきである。
それ[ナチスにたとえること]は聴衆の憤激を呼び起こし、さらなる注目を集める。かつて歴史家のUlrich Herbertが、とくに過去数十年のシュピーゲル紙の多くの表題記事との関連で、「ヒトラーセールス」(Herbert 2015)という言葉で描写した商法戦略としてヒトラーの主題化がヒトラーやナチ党の比喩でも広まっている。
「国民社会主義党の独裁者についてさまざまなに参照するときの背後にある動機を共有していても、過去についての発言として真面目にとるならそれは多くの場合疑わしいことが明らかになる」(Steuwer 2017, S. 191)。右翼ポピュリストや右翼過激派政党と国民社会主義との間の視覚的に演出した比喩は、ナチスの独裁政権を軽視するリスクと常に密接に関連している。
↑左はNPDの時代の表紙。黒白赤のドイツ帝国の国旗を背景に19世紀から国民社会主義の時代までのドイツナショナリズムへの連想を呼び起こすような組み合わせで作った架空の制服が描かれている。
↑右がAfDについての表紙。ヘッケ、フォン・シュトルヒ、ガウラント、ヴァイデル(左から)がAfDのロゴの矢印に乗ってドイツの諸都市の上を漂う魔女と魔法使いのように描かれる。
魔女の絵はさらに、合理性のゲームのルールを逸脱する神秘的な力を思わせる。その点でこの描き方は、理性的な議論を犠牲にして意義を増す、AfDの扇情性やそれにともなう非合理性を指し示している(Gadinger und Simon 2019; Korte 2015)。
タイトルの「そして明日は州全体?」は、ハンス・バウマンの歌『Es zittern die morschen Knochen』の物議を醸した一行「今日はドイツは私たちのもの、そして明日は全世界」から借用している。Abb. 3bの「州全体」は2017年9月にAfDがバイエルン州とヘッセン州の州議会入りが予期されること意味している。
↑右がAfDについての表紙。メルケルはうつむいている。左後ろがヴァイデル、右後ろがガウラント。ガウラントは頭を少し傾けて攻撃的な顔つきで聴衆を眺めている。
頭の姿勢と表情は、選挙の夜に彼が発した「メルケル首相を狩る」という言葉に対応している(zit. nach Diehl 2018a, S. 89)。
„überrollen“「(転がるように)押し寄せる、轢く」という言葉がその下に書かれていて、これは車輪、つまり「車輪の下に行く(零落れる)」を連想させる。このように画像は既存政党に対するAfDの優位の視覚フレームを与えているが、AfDの得票数12.6%に対してCDUは26.8%、SPDは20.5%だった。
„Sie sind da“「彼らが来た」というタイトルは2015年に映画化されたTimur Vermes の小説『Er ist wieder da(帰ってきたヒトラー)』(2012)を暗示している。
つまるところこの見出しは、上下の配置と結びついて「私たち」と「他者」の想像上の二分法を作り出す。「彼ら(Sie)」という言葉でヴァイデルとガウラントは「他者」すなわち外部集団の成員になる(Tajfel und Turner 1986)。はっきり言及されていない「私たち」すなわち内部集団はいわゆる既存政党とその支持者で、暗に読者もそこに含まれている。この集団は画像の中では代表してメルケル首相に体現されている。これを「私たち民主主義者」と「彼ら右翼ポピュリスト」のグループ分けとして理解すると、肯定的な民主主義者の概念ともっぱら否定的に暗示されたポピュリズム概念を区別しようという長い間政治学の議論になっていた問いが透けて見える(Canovan 1999; von Kielmansegg 2017, S. 272 ff.)。民主主義の観点からはこのような問いは問題が残る。「彼らの存在」は代議制民主主義という意味で一部の有権者の意志の表れだからだ。
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さいきんポピュリズムについていい本を読んだ。
『ポピュリズムとは何か - 民主主義の敵か、改革の希望か』 中公新書 水島治郎 著
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2016/12/102410.html
ポピュリズムの起源になったアメリカの人民党や、西欧や南米のさまざまなポピュリズム政党の例を紹介しながら、一筋縄ではいかないポピュリズムの多様な側面を明らかにしていく良い入門書だ。
ただポピュリズム政党の支持者像について、この本が出たあと新しい見解が出されていたのを見たことがあったので指摘しておきたい。
トランプ支持者が衰退地域の白人労働者層としていたが、実際は収入が高いほどトランプ支持者が多かったとわかったんじゃなかったか。これにも書いてる。
あと維新の会の支持者が既成政党に失望していたと書いてあったが、維新支持と政治的・社会的疎外は関連がないと実証されていた。収入も高いほど維新支持傾向。
まとめ: ドイツのムスリム移民とフェミニズム
以前から書き溜めたことをブログ案内として紹介しつつ、ドイツ語圏でのムスリム移民とフェミニズムに関する議論を概観する。
「フェミニストはイスラム教の女性差別や同性愛者差別を批判しない」
「フェミニストはイスラム教徒や移民による犯罪に口をつぐんでいる」
「そのわりに欧米社会の中ではときに過剰なジェンダー平等を求める」
こういう言説を目にしたことがあるかもしれない。もしくはこういったリベラルの矛盾を突くような言説を見たくてネットを探し、誤ってこのブログを開いてしまった人もいるかもしれない。今、もっともらしい正論の欺瞞を暴くことが一大ブームになっていて、たいへん需要が高い。そういうものを求めているあなたも少し我慢して先まで読んでほしい。
外見上の矛盾の下にはさまざまな事情がある。ざっと読んでそのことを感じてもらって、あなたが地に足をつけて考える上でのよすがになれば幸いである。
右翼的な主張をするフェミニスト
西欧のリベラルやフェミニストがイスラム教の中の女性差別や同性愛差別を批判しない、またイスラム教の国からの移民による性暴力に口をつぐんでいる、という批判は右翼だけでなく同じフェミニストからもなされている。
こういったフェミニストは、第二波とされるラディカル・フェミニストやリベラル・フェミニストが多い。女性を抑圧する価値観をもったイスラム教徒の移民が増えて、西欧の女性まで脅かされるというのが彼らの主張である。(ただし、第二波フェミニストのすべてが移民反対というわけではない)
たとえば、ドイツの著名なフェミニストのアリス・シュヴァルツァーは、ジュディス・バトラーがスカーフを擁護したことを批判している。またシュヴァルツァーは、同性愛者で女性と結婚する自由を享受したバトラーはイスラム教の国なら最悪の場合殺されるだろうと書いている。
この反移民・反イスラムの主張をするフェミニストの多くは同時にトランスジェンダーの女性にも敵対的であることが多く、ジェンダー学も批判対象にしている。
このフェミニストの一派の主張の中心にあるのは、移民やセクシュアルマイノリティの権利を擁護することで「普通の女性」がないがしろにされるという意識である。この、マイノリティ尊重で「普通の人々」が割を食うという考えは、最近の日本や欧米のポピュリズムとも共通する。
もちろんこういった陣営とは違うフェミニストの流派もある。交差性(インターセクショナリティ)を重視する一派である。
フェミニズム的な主張をする右翼
移民に批判的な右翼も、移民の議論でリベラル批判やフェミニズム批判をするときには、男女同権などのフェミニズム的な価値観を擁護する主張をしている。
ほかにも、右翼政党のオーストリア(FPÖ)は「私たちは自由な女性を守ります!」と書いたポスターを選挙に用いたり、アリス・シュヴァルツァーの反ムスリムの立場を引き合いに出している。
つまり、この話題ではフェミニストの一部と右翼が非常に似た主張をしている。ただし、移民反対派のフェミニストと右翼がまったく同じ意見というわけではない。右翼は他の点では、伝統的な家族観を重視していて男女平等には消極的だからだ。
右翼のフェミニズム的な主張は「ポストフェミニズム」のかたちを取ることも多い。ポストフェミニズムというのは、フェミニズムはもうその役目を終えたという見解である。この場合は、西欧では男女平等が達成されてフェミニズムの必要性は過去のものになったが、イスラム教の国々やそこ出身の人々の中ではまだ実現していないと主張される。こういった自文化の優越性を信じて他の文化を遅れたもの、あるいは外からの脅威として責めるやり方をLiz Feketeは「文化原理主義」と呼んでいる。
論文紹介: 移民とジェンダー│ 今フェミニズムは右派なのか(前半)
ムスリム女性の反応
このように右翼や移民反対のフェミニズム右派は、イスラム教徒の男性を批判して女性が解放されることを求めているが、当のイスラム教徒の女性の反応はどうだろうか。これはあまり芳しくないようだ。
西欧の論者や政治家が、スカーフをかぶることに反対するとイスラム教徒に対する差別が助長される。日頃から当たり前にスカーフをしている人からすれば大きなお世話だろう。
また、当のムスリム女性の意見を聞かないまま女性解放の名のもとに衣類に口出しをすることはパターナリズムと見なされる。それは、本人の主体性を認めずに保護的な干渉をすることだ。
そもそも第二波にかぎらずフェミニスト自体、中東の一部で女性からもあまり良い印象をもたれていない。それは2001年9月11日のテロのあとアフガニスタンのタリバンへ軍事攻撃するさいに、イスラム教社会の女性抑圧が口実のひとつにされたためだ。
以下の記事のように、アリス・シュヴァルツァーはムスリム女性から歓迎されていない。
記事紹介:アリス・シュヴァルツァーへの批判│イスラムのスカーフカンファレンス
また宗教の女性抑圧にトップレスで反抗するフェミニスト団体のFEMEMもムスリム女性から抗議されている。
論文紹介: FEMEN トップレスの抗議とムスリム女性(続き)
ドイツでのスカーフ禁止をめぐる議論は以下。
さまざまなムスリム女性とそのフェミニズム
しかし、一概にムスリム女性はシュヴァルツァーのような意見に反対していると言うことはできない。イスラム教の社会といっても国や地域によってさまざまで、その中にも保守的な人や革新的な人がいる。またムスリム女性の中にはフェミニストもいるし、その意見も多様である。
Seyran Ateşのようなスカーフをしない権利を認める人もいれば、Khola Maryam Hübschのようなスカーフ禁止反対に尽力する人もいる。
スカーフを強制されれば脱ぎ去ることが自由の象徴になるだろうし、頭を覆うことを禁止されればスカーフが解放の証にもなりうる。
一般化して何が正しいとは言えず、個々の人が置かれている状況を考えること、上から指図しないことが求められるだろう。
そういう意味で、スカーフで顔を覆うことを「慎み深さ」の象徴として称えたジュディス・バトラーも問題があると思う。過度に一般化して、自分の西欧批判の議論に都合のいいムスリム女性像を利用しているからだ。Reyhan Şahinが同じようなことを書いている。
記事紹介:ヒジャブとタブー| インターセクショナル・フェミニズム
ムスリム男性移民の犯罪?
スカーフと同様によく議論されるのがムスリム男性の性暴力である。
2015年のケルンで大晦日に起きた移民を中心とした男性による集団暴行事件は、象徴的な事件としてくり返し話題に上っている。とくに2015,2016年は一時的に難民が増加したことで社会混乱があったため、いっそう注目された。
この事件についてたとえばKübra Gümüşayは、#ausnahmslos [例外なく] キャンペーンを開始し、性暴力はつねに話題にされるべきで、犯人が「よそ者」と推定されたときに限ってはいけないと主張した。
そうは言っても移民が増えれば犯罪も増えるのではないか。そう考える人もいるかもしれない。以下の記事では、社会混乱のあった2015, 2016年以外はドイツの犯罪率は減少傾向にあると示されている。
【検証】「ドイツで犯罪が大幅増」 トランプ氏のツイートは事実なのか 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
また移民が関わる犯罪を詳しく述べた論文によると、犯罪統計では難民の犯罪率は自国民の比較集団より高くはない。また犯罪には、滞在資格での違反、難民収容施設でのいざこざ、ドイツに慣れていないために起きる切符などの違反も含まれる。
少しこの論文を詳しく見てみよう。
難民について、外国人の見た目の人は通報されやすくその分犯罪の暗数はより少ないこと、難民は福祉が十分でない若い男性が多く、そういう人たちは犯罪傾向がより強い人口集団のひとつであることが指摘されている。
外国人の犯罪一般については、難民より短期滞在の移民が有罪になっている場合が多いことと、組織犯罪があることが指摘されている。東南欧のマフィアやアラビアのクランなどの国際犯罪組織がドイツでも活動しているからと言って、かたぎの外国人に疑いをかけるのはお門違いだろう。
外国籍だから犯罪率が高いということはないと結論づけられている。また防犯には、外国人のドイツ社会への統合が不可欠であり、ムスリムの移民にとってはモスク共同体に属することも統合に重要だとしている。モスク共同体はすべて法令遵守の団体で、これに属していれば若者が過激派にリクルートされることもない。
偏見や過度の不安はこれらの統合を妨げるだけである。
外国人の犯罪に対するドイツ人の不安、歴史、政治的な動き、犯罪報道などについても論じられている。
競争相手の移民男性、支援者の移民女性
上述のように、移民に反対している人々は、移民男性を女性抑圧のリスクと見なし、ムスリムの移民女性を保護すべき対象として扱っている。このような言説が生まれた背景をドイツの社会的、経済的な条件から分析した研究がある。
ドイツでは、ますます多くの女性が賃金労働をするようになり家事や介護などのケア労働に時間をかけられなくなった。一方で男性がその分のケア労働を担うようにはならなかったので、ケアの人手不足が起きている。
また日本と同じく、福祉国家の見直しによる民間セクターの負担の増大も起きている。国は、介護給付を現物ではなく費用で負担したり税制優遇のかたちで保障することで、民間の福祉施設や業者を利用することをうながしている。
こういった背景から家族以外のケア労働者が必要になったが、そこでケア労働に従事する人々は移民女性の割合が多いのだ。つまり移民女性労働者の需要は高い。
これに対して移民男性は、景気が良ければ経済発展の原動力として必要とされるものの、景気が悪化して働き口が減ると土着の労働者の仕事を奪う競争相手と見なされる。多くの場合、土着の労働者よりも雇用を守られず景気の調節弁にされてしまう。つまり、移民男性労働者の需要はつねに高いわけではない。
Sara Farrisは、こういったジェンダーや生産条件を背景に生まれたのが、「ムスリムの移民男性は抑圧的、ムスリムの移民女性は守られるべきだ」という分断の言説だと論じている。Farrisの説は、下のぼくの論文紹介や、早川敦さんの書評で詳しく読める。
論文紹介: 移民とジェンダー│ 今フェミニズムは右派なのか(後半)
書評 Sara R. Farris, In the Name of Women's Rights 早川 敦
ドイツ語圏の移民ケア労働者
西欧女性の就労で男女の役割を平等にしたように見せて、けっきょくは別の女性にケア労働者を負わせることになっている。そして外国でケア労働をする女性は自分の家族のケアが十分にできないという問題もある。さらに出稼ぎケア労働の労働条件は不安定で負担が大きい。
このことはフェミニズムの内部でも批判されている。詳しくは以下。
論文紹介: 西欧家庭での移民女性によるケア労働 スイスの場合
リベラルの矛盾?右派の二枚舌?
ふだんは伝統的な性役割を擁護している右翼がフェミニズム的な主張をする。その一方で、左翼やフェミニズム左派がイスラム教内部の伝統的な性規範と関連しそうなものを擁護している。
こういった右派と左派がひっくり返ったかのような議論の様相は、移民問題ではよく見られる。
ぼくは右翼と左翼というものを、個とシステムに対する態度で捉えている。つまり社会の中である問題が見つかったときにその解決策として、個人を変えて社会やシステムに適合させる立場が右翼、逆にシステムを変えて個人の多様性に対応させようとするのが左翼だ。ぼくは日本で福祉畑にいた人間だけど、これはソーシャルワーク的な考え方だと思う。
移民問題の議論で左右ひっくり返ったように見えるのは、移民の社会がドイツ内のイスラム教徒の共同体のように一種のシステム内システムを形成しているためだろう。ドイツという社会全体を見るとムスリム共同体はシステム内のひとつの構成要素だが、ムスリム共同体内部から見るとその中に個人がいるひとつのシステムだ。
インターセクショナリティ
大事なのは、複数の属性を同時に考えることと、どの立場からそれを主張するかを明確にすること、だろう。
たとえばぼくは移民という面ではドイツではマイノリティだが、中産階級出身で健常者で男性だという点ではマジョリティだ。移民の立場からスカーフ禁止に反対しているが、イスラム教伝統社会に生きる女性の立場からスカーフ強制に反対している人の意見は理解できる。
こういう作業がよく聞くインターセクショナリティというものなのだと理解している。
社会に関することで、どこでも普遍的に通用する正義や正論というのは存在せず、必ずどこかで破綻する。そういう矛盾や欺瞞を暴くのもひとつの知的な作業だが、それだけでは正しさなどどこにもないという相対主義に陥る。そういうとき考えるよすがになるのは、マクドウェルという人がそういう言い回しをしたそうだが、どこでも(everywhere)やどこでもない(nowhere)でもない、どこかある場所(somewhere)だ。
論文紹介: AfDについて。極右?右翼ポピュリズム?
AfDについて調べたことをまとめておく。
AfD(ドイツのための選択肢)は2013年に設立されたドイツの政党である。ドイツの右翼ポピュリズムの党として知られる。
簡単な党史
2013年、AfD(ドイツのための選択肢)が創設される。創設時はこの党は、経済学者の多い「教授の党」として登場し、経済学の観点からEUを批判するのが主な目的だった。2009年に財政危機が発覚したギリシャをEUが救済していたことや統一通貨などに不満を訴えていて、国民保守や反移民はまだ表に出ていなかった。
2013年の連邦議会選挙では4.7%の票を獲得した。ドイツでは5%を超える党だけが議席を獲得できるため(阻止条項)、辛くも議会入りには至らなかった。一方、2014年のEU議会選挙では議席を獲得し、同年にザクセン、ブランデンブルク、チューリンゲン州の州議会で5%を超えて議会入りした。
2015年にペギーダ(PEGIDA、西洋のイスラム化に反対する欧州愛国主義者)に対する態度で党内に不一致が生じる。ペギーダは2014年にドレスデンで始まった反イスラム運動である。ドレスデンのAfD党員がこれに参加し、AfDザクセンのティルシュナイダーが管理する愛国者プラットフォームもこれを支持し連邦党指導部にも支持を求める。さらにA. ガウラントとF. ペトリーもペギーダを支持する。一方で、主に西側の州や連邦党本部はあいまいな態度をとりつつもペギーダとは一定の距離を保とうとしていた。
旧東ドイツのチューリンゲンのヘッケや、ザクセンアンハルトのポッゲンブルクらがエアフルト決議を採決する。これによって党に、ジェンダー主流化や多文化主義に反対するような一層保守的な立場を求め、党本部を批判した。この決議にはガウラントも署名した。
2015年7月のエッセンでの臨時党大会で、党首選挙が行われた。ペギーダを支持していたペトリーとそれまでの党首のルッケが争い、ペトリーが勝利した。これは党内のより保守的な潮流が、経済リベラルの勢力に勝った結果とみなされた。しかしこの後もペギーダとは微妙な距離をとり続ける。
2016年、FPÖ(オーストリア自由党)の党首とシンポジウムで会談するなど協力を強める。2016年、シュトゥットガルトでの党大会で初めての基本綱領が採決され、広い範囲の議題に党の立場が示された。
極右?右翼ポピュリズム?
AfDは登場以来ずっとメディアや識者から右翼ポピュリズムの政党と見なされて、ときには極右とも解釈され、そのように語られてきた。現在では学術的にもAfD=右翼ポピュリズムとほとんど確定しているが、2015年以前では右翼ポピュリズムと言えるかもかなり微妙なところだったようだ。
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以下のMarcel Lewandowskyの論文は、2015年のペトリーが党首に変わる前に書かれた論文で、AfDが右翼ポピュリズムと呼びうるかについての世論や政治学上の議論を検討している。
実証的な研究では、ポピュリズム的ではあるが、右翼的であるかについてはまだ保留していたそうだ。ドイツではCDUより右の政党は極右と見なされ、ナチス的という烙印を押される。AfDは経済リベラルやEU政策を全面に出してこの烙印を避けていた。AfD内の方針上の争いは党の独自色と烙印のジレンマだったと著者は考えているようだ。
AfDは創立後初めの一年はEU懐疑主義の立場の党とみなされていたが、右翼ポピュリズム政党に当たるかは不明確だったという。変化の兆しは2014年にあった。
2014年初めにAfD内の路線変更の兆しが表れ、それによってこれまでは重要な位置を占めていなかった社会政治的な立場が視野に入ってきた。2014年1月のAschaffenburger での党会議で、文化や家族政策の議題をめぐるユーロ・アジェンダの拡張が顕著になった。そのさい、この党は「右翼保守で社会批判の勢力に」なるべきで、「あらゆるものに反対し、ヨーロッパの中のいろいろなものにも反対する」(Amann 2014; Ankenbrand 2014も見よ)党とされた。
ドイツでは、右翼ポピュリズムについての研究は盛んだが他のヨーロッパの国のような安定した右翼ポピュリズム政党の台頭がこれまでなかった。そのためAfDの議会入りは「とうとうきた」という印象で迎えられたそうだ。
そもそも「右翼ポピュリズム」という概念は何かについて概説している。すでに先行研究は多い。
この新しい諸政党には共通点があるが、イデオロギーや綱領の外観は国の文脈によって大きく異なる(Mudde 1996)。
Muddeという人は国際的なポピュリズム研究で最小限の定義を定めたことで知られているらしい。ポピュリズムとは、一元化された国民と、その声を聞かない政治的エリートという対立関係を主張していることである。この定義は右か左かは関わらない。
それでもDecker (2004: 29)は、現実にポピュリズム的と見なしうるほとんどの政党は同時に右翼ポピュリズム的であると述べている。
なので著者はポピュリズムの定義に、自分たちと同じ国民や民族と見なされない人たちへの排除傾向を付け加えて右翼ポピュリズムとしている。この、「一元化された国民」「反エスタブリッシュメント」に加えて右翼傾向を測るという右翼ポピュリズムの基準は他のいくつかのAfDの研究でも用いられている。
しかし右翼ポピュリズムに当てはまる政党でも非常に多様で概念で捉える難しさがあると著者は言う。
たとえばオランダのピム・フォルタイン党 (Lijst Pim Fortuyn: LPF)はイスラム教敵視をこの同種の他の政党と共有しているが、フォルタインはLPFのカリスマ指導者的な人物で快楽主義的なライフスタイルと同性愛者であることをメディア出演の場で大いに活用する。これはフランスの国民戦線やオーストリアのFPÖ(自由党)では考えられない。
カリスマ的リーダーの存在の他に、内部の組織化がゆるく政党というより運動としてふるまうこと(Decker 2006 a: 17 f.)、敵を設定して単純な言葉を好むこと、果敢なタブーを演出することなどの特徴を挙げている。
では、AfDは右翼ポピュリズムと言えるのか。この時点ではまだ一致する見解はなかったそうだ。政治学には、データに基づく実証的な研究と、「あるべき」形を問う規範的な研究があるという。テキストデータの内容分析も実証的な研究である。AfD=右翼ポピュリズムについて、主に実証的な研究では否定的か慎重な立場で、規範的研究では肯定的な答えを出していたようだ。実証的な研究では、ポピュリズム的ではあるが右翼的であるかについては保留していた。
たとえば Simon Franzmann (2014)は、この党の創設と達成の過程が依然として完了しないことに言及し綱領に関して、とくに彼らの反エスタブリッシュメントのレトリックにもとづいて「議題も様式もAfDが似ているのはヨーロッパの右翼ポピュリスト政党と確定され(うる)が、本当に合致している点はない」(ebd.: 122)と結論づけた。
Kai Arzheimer (2015)も過激さが欠けているとした。Marcel Lewandowsky (2014 b)はAfDをpro運動との比較でポピュリズムだとしたが、SNSでもイスラム教流入を扱っておらず、右翼的かは保留としたそうだ(Berbuir/Lewandowsky/Siri 2015)。イスラム嫌悪と外国人敵視の意見表明は、この頃はまだ(当時の)「二軍」のメンバーによるものだったという。
たとえば広報担当者でブランデンブルク州と会派の議長であるAlexander Gaulandは、早い段階からユーロ反対だけでなく、「ジェンダーのたわごと」や多文化社会にも反対する立場を取る発言をしていた(Gauland 2013)。
Arzheimer (2015)の規範と実証の混合的な手法の研究では、連邦議会入りしている政党の中では最右派だが内容的に「過激」とは言えないとされた。
一方で、規範的な研究では当初から新右翼の文脈で捉えられていた。Alexander Häusler (2013, 2014; Häusler/Roeser 2015)は、
AfDについての最初期の仕事のひとつでもある彼の最初の研究で、この良識ある党が「党周辺の多くの発言から確かな右翼ポピュリズム方針がある」(ebd.: 92)と考えられると結論づけた。
David Bebnowski (2015)は、AfDは罵倒表現は使わずポピュリズムは目立たない形で機能しているという。
彼は、特殊なAfDのポピュリズムは「経済競争の論理と新自由主義のモデル」の中に表れていて、「競争論理の努力を通じて不安を煽り、他者の価値を下げることができる」。
Gerhard Freyのドイツ民族同盟(Deutsche Volksunion: DVU)やSchill党のようなこの種の典型的なリーダーがAfDにはいないという。また「教授の党」であり、
(…)「ブルターニュの若者」として「素朴な民衆」に親しまれるJean-Marie Le Penの国民戦線のような自己イメージの党とは根本的に異なることがわかる。
しかし、運動全体を見て党を支える人脈まで考えると、
少なくとも一時的に個別にはAfDがペギーダ運動と協力したことも、この党の保守団体や場合によっては極右との接点を示唆している(Geiges/Marg/Walter 2015: 152 ff.)。
こうのように捉えられていたAfDは、ドイツの政党制の中で新しい役割をもった党になりうるとしている。ドイツではCDUとCSUよりも右に位置する政党は、ナチス的なのではないかという疑いをかけられるという(Decker 2005)。
過去には、州レベル(NPDやその前のDVU)や二三の自治体レベル(pro運動)で成功した党がこのイメージに当てはまる(Lewandowsky 2012: 398 ff.)。
ヘルト•ウィルダースやルペンがゴールデンタイムに政治のトーク番組に参加しているオランダやフランスといった他のヨーロッパの国は違い、右翼政党の登場はナチスの嫌疑というダモクレスの剣の下にありめったにないことである。
AfDも登場直後からネオナチの烙印を押されそうになったが、EU批判を全面に出して公に外国人敵視をしないことでこの烙印をかわしてきた(Lewandowsky 2014 b)という。この論文が出たのはまだルッケがペトリーに負けて離党する以前で、党内の方針上の争いに決着がついていなかった。この争いについて、著者はこう述べる。
これはAfDの基礎を成すジレンマを表している。一つの面では穏健でユーロ懐疑的な路線では党にユニークな売りがなくなりCDUやCSUと競合する立場に近くなりすぎる。別の面では、生き方やパートナーシップのモデルの多様性に反対し強固な統合政策を支持する政党では政治的な烙印付の犠牲に陥る危険がある。
2013年の連邦議会選挙以来すべての選挙での投票者の推移を見ると、無投票者の他にはとくにCDUやCSU、FDP、左翼党に入れていた人から票を得ている(Zeit Online 2013)。
広い範囲の陣営から票が推移することから投票者の共通の反抗の方向性であることを支持しているため、AfDはその意味で選挙でも「ポピュリズム的」である(Korte/Leggewie/Lewandowsky 2015)。
多様な層から反エスタブリッシュメントの受け皿になっていて、この時はまだどちらの方針に向かうかわからなかったということだ。
しかし、党の支持者は別としてAfDの投票者層は比較的一様で、EUへの懐疑と移民増加の拒否に関連している(Köcher 2014)。
熱心な支持者同性愛ペアの養子受け入れやイスラム教を拒否する態度がユーロ懐疑主義よりも目立つという研究(Berbuir/Lewandowsky/Siri 2015: 172)もあるそうだ。
この頃の投票者像は日本語のWikipediaでも詳しく書かれている。
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以下で紹介するJ. Rosenfelderの研究では、2016年に採決されたAfDの基本綱領やアジール(難民の庇護)に関する文書を、それ以前の選挙綱領と比較して内容分析を行ない、公式にもAfDが右翼ポピュリズムに変遷したことを実証的に示している。
この寄稿論文では2015年1月から2016年3月の間のAfDの発展を扱う。
この期間には4つの重要な出来事があった。つまり、党の分裂、ヨーロッパの難民危機、2016年春のAfDの州議会選挙での成功、2016年の2016年3月の第一版党綱領の採決だ1。
2015年の党の分裂と難民危機で、AfDはそれまでよりも移民反対の党と見なされることが増えた。それによってユーロ救済のテーマは後景に退く。
それに関連して2015年9月に批判的な「アジール議題文書」3を公表した。
そしてバーデン•ヴュルテンベルク、ラインラント•プファルツ、ザクセン•アンハルトなどの州議会選挙で成功を収めたという。
政治学では初期のAfDはユーロ懐疑主義の政党と見なされていたという。
Kai Arzheimerはこの党をイギリス独立党(UKIP)やフランスの国民戦線、オーストリア自由党などよりも、イギリスのトーリー[王党派]と比べられるとしていた4。Robert Grimmも、AfDの考え方はとくに経済や通貨での連盟に対する経済政策批判で知られるため、この分類に従った。つまり、党の立場はオルド自由主義的経済の原則にもとづいているので、「親ヨーロッパだが反ユーロ」5である。
AfDは設立以来ずっと一枚岩の党ではなかった。Alban Wernerはふり返って初めに特徴的だった、経済リベラル、国民保守、右翼ポピュリズムという3つの異なる潮流について話している8。
経済リベラルの一翼は、(…)Bernd Luckeや Joachim Starbattyのような中心人物の脱退で今では大幅に影響力を失った。
※オルド自由主義や社会的市場経済は、(ぼくはよくわかっていないけど)、ドイツやオーストリアの経済リベラルを形容してそう呼ばれることが多い。
州ごとの違いもあり、おおむね旧東ドイツの州連盟は右翼傾向が強いそうだ。
州連盟内部の多様性もあり、
たとえばバーデン・ヴュルテンベルク州の議員Wolfgang Gedeonの反ユダヤ主義の発言をめぐる事例でよくわかる。この事件は、AfD会派の分裂につながり、会派が再び合併した後でも州連盟に大きな課題をもたらした。
AfDが右翼ポピュリズムであるかについては、やはり意見が分かれているとしている。たとえば、
Oskar Niedermayerは2013年の連邦議会選挙をふり返って右翼ポピュリズムだと言わない。AfDは「他者」を低く評価することで文化的な所属を示すという特徴が欠けていると言う14。
著者Marcel Lewandowsky、Heiko GieblerとAiko Wagnerらは定量分析から、AfDは他のドイツの政党と比べて明確に右翼ポピュリズム的といえると結論付けた18。
Andreas KemperはAfDの政治家Björn Höckeのジェンダー政策の立場をNPDの家族政策と比較している19。
しかし連邦の党公式綱領は、2013年の連邦議会選挙と2014年のEU選挙の選挙綱領に表れているようにこれまで右翼ポピュリズムとは格付けされていなかった21。
新綱領でどうなったのかをこの論文で検討している。右翼ポピュリズムの定義について、
ポピュリズムの定義として、
Jan-Werner Müllerの反エスタブリッシュメントの態度と「真の国民」への呼びかけという2つの基準にもとづき定義する27。
反エスタブリッシュメントの態度は、政治的エリートは腐敗し利己的で権力を得ることにしか向かっていないという考えである28。
それに加えてもう一つ、自らをエリートに対峙する国民に結びつける立場を区別しなければいけない。「真の国民」への呼びかけは「道義的に唯一の代表者であるという主張」を導く29。
さらにとくに右翼ポピュリズムであるかをみるため、右翼の基準として、排他性を挙げている。
Karin Priesterは右翼ポピュリズムと左翼ポピュリズムを排除と包含の概念に基づいて区別した。それにしたがうと、前者はアジール希望者や少数民族などの人々を排除するため、排他的である30。右翼ポピュリストの考える世界ではエリートは、既成勢力と同じく「真の国民」には加えられない「社会に寄生する下層」とけしからぬ結託を結んでいるとされる31。
筆者は党の公式文書の内容分析を行なっている。メイリングの手法を用いたそうだ。対象は、新しい基本綱領と、アジールについての文書2つ、アジール決議とアジール議題文書だ。さらに2013年の連邦議会選挙綱領と2014年のEU選挙綱領を以前のAfDの文書として分析している。右翼ポピュリズムとユーロ懐疑主義の程度の変遷を見ている。
ユーロ懐疑主義の強化
新しい基本綱領では、国民国家の主権と補完性原理を理由にEUを批判している。
彼らはその代わりに、「EUを、もともとの意味で主権があってゆるく結びついた個々の国家の経済と利益の共同体に戻すこと」37 を要請する。抜本的なEU改革の開始が実現しない場合、党は「ドイツの脱退か、ヨーロッパ連合の民主的解散とヨーロッパ経済共同体の再設立」を目指すという38。
※補完性の原理とはなにか。↓ここで丁寧に説明されている。
ポスト主権の政治思想 ---ヨーロッパ連合における補完性原理の可能性!--- 遠藤乾
一方で伝統や文化面ではヨーロッパというまとまりを評価しているらしい。また外国の銀行へのドイツの態度や、債務リスクをヨーロッパで共同にもつことを批判しているという。
また基本綱領では、EUによって国民国家の主権が奪われたとしているそうだ。
基本綱領の多くの個所でヨーロッパの権限の再国民化がはっきり求められ、権限が国民国家に返されるべきだとされる。党は「政治的エリート」を「ひとつの国家に引き返せないようEUを発展させたこと」で非難し、その努力の中に「ヨーロッパ大国の幻想」54を見抜いている。
EU内の政治機構は民主的でないとしつつ、外交面ではヨーロッパの利益は団結しないといけないとしている。しかしそこでも国民国家の主権は守られるべきだとしているという。
したがって党は、GAPSによる形式化された共通の外交・安全保障政策や、欧州対外行動局を拒否し、そのかわりに複数の相互的な合意を擁護する。この文脈において、党は「すべてのヨーロッパ諸国がその力に応じて参加できるヨーロッパ諸国の柔軟なネットワーク」について考えている58。
以前の綱領では、
AfDが主権と補完性を求めるのは2013年にもすでに認められる。
党は、当時のイギリスのキャメロン首相の政治的要請と並行して、ブリュッセルの官僚機構の解体を望んでいた59。
AfDは2016年の基本綱領の中で、非ヨーロッパの国のEU加盟を文化的・地理的な理由から拒否している。たとえばトルコの加入はそれ自体が問題外である61。
さらに移民の制限も訴えている。
以前の綱領では、
2013年のEU選挙綱領では党は、「開かれた外国人に友好的なドイツを支持し」、「定住の自由も就労者の自由交通も」65肯定していた。具体的には、党は「高資格の移民」を求め、カナダのポイント制度の手本を賞賛した。
以前から統一通貨ユーロの廃止やEUの改革を求めていたが、新しい基本綱領ではドイツのEU脱退や経済共同体に戻すことを求めたり、より厳格なユーロ懐疑主義になったとまとめている。
右翼ポピュリズムの傾向について
反エスタブリッシュメント
基本綱領で党は、とくに自身の権力維持や物質的な富に関心がある政治運営の少数集団は「隠れた専制」や「政治上のカルテル」だとしている。以前の綱領でも反エスタブリッシュメントの傾向はブリュッセル(EU官僚機構)批判で一部見られたが、反エスタブリッシュメントの傾向はずっと強まっている。
基本綱領の前文でAfDは自分たちが「政治階級が私たちに『対案はない』と信じさせられると思っていることへの対案」67と考えている。それに関連してこの党は、「国家とその機関を再び市民に仕えさせる」ことを約束する。なぜならそれらが今では好き勝手をしているためだという68。
「党員手帳経済[党閥]」や「官職の後援[縁故主義]」を批判しているそうだ。
EUも視野に入れて党は、その計画を「明白な国民の大多数の意志に逆らって、EUの中で何が何でも実行」71したがる政治的エリートを批判する。さらにAfDはEUをよそからの過干渉な保護だと見なす。
アジール議題文書でAfDは、連邦政府のアジール政策の過程で移送事業から利益を得る「統合産業」73について話している。似たようなやり方でこの批判は基本綱領でなされている。「大量移民の結果、多くの場所で価格の決定権を握るカルテルのような移民産業が現れた」74。
エネルギー政策も利権だとして批判し、政治的正しさも批判しているという。
以前の綱領でもEU批判の文脈で「古い政党」や政治的エリートを批判をしていたようだ。
EU選挙綱領ではこの党はすでに2014年に、EUは「上から強制」されてはならないと述べ78、「EU内のあふれんばかりのロビーイング」をせき止める措置を求めていた79。
また党はすでにこのとき「過度に官僚主義的な市民の干渉的保護」84と称するものを批判していた。
「真の国民」への呼びかけ
基本綱領では政治的エリートが明白な国民の大多数の意志に反していると主張されている。また文化やアイデンティティを強調して国民を均質なものをして提示しているという。
ひとつ重要な関心事として書かれていることは、文化的、宗教的な伝統を守ることである。アジール決議でもAfDは、国家の任務は「国民のアイデンティティを守るため働くこと」にあると指摘している85。
また基本綱領でも伝統家族や高い出生率を指示し、「イスラム教の国々」からの移民に反対しているという。
この拒絶的態度の根拠として党は、ムスリムの移民はドイツでは教育や就業で平均以下の水準にしか達していないだろうという過去数年の体感値を示す。
AfDによるとドイツは大きなヨーロッパ文化の国民に属するので、党はドイツの「主導文化」への支持を表明して、この文化はキリスト教の伝承と、科学や人文学の伝統と、ローマ法の理解に根拠づけられており、文化多元主義のイデオロギーにおびやかされているという。さらにドイツ語はドイツ人のアイデンティティの中心的な要素と解釈され、一般的な意識の中で維持され守られるべきものだとしている88。
反多元主義
AfDの新しい基本綱領には、連邦議会選挙綱領とEU選挙綱領とは違い、明らかな反多元主義的な態度が含まれる。以前のEU選挙綱領ではイスラム教の議題については完全に沈黙していた。
イスラム教に対しては、
またイマームの許可制や公共の場でのスカーフ禁止を求め、ミナレットとムアッジン呼びかけなどはイスラム支配の象徴として反対しているという。
それは「キリスト教の教会が現代に実践している寛容な宗教の共存に逆らう」91からだとしている。
教育政策ではAfDは、学校の授業で同性愛やトランスジェンダーを一面的に強調することを批判している。
すでにアジール決議でAfDは、アジールの権利は個別の権利であるべきで「集合的で一括に団体や民族全体に与えられてはいけない」と、制限的な立場だった。この党は、家族の後追い移民の制限するか、停止か完全廃止することを求めていた。この措置は、ドイツのアジール希望者数が大すぎるという党の前提が根拠にされている94。
アジール議題文書でもアジール申請はドイツではなく本国のドイツ大使館で済ませることを求めているそうだ。基本綱領でも「大量移民」は福祉制度と低賃金労働への移民流入につながると批判しているという。
さらに党綱領では移民流入と犯罪が結びつけられる。「組織犯罪の分野でのかなりの数の犯人が外国人である」98
2013年の連邦議会選挙綱領ではまだこの党は統合政策に関してドイツには高資格の移民流入が必要だという意見だった。しかしそれは「福祉制度への秩序のない移民流入」であってはならず、したがって当時からカナダを手本とした移民法を支持していた。さらに「切実に政治上迫害された者」はドイツのアジールを得て仕事も見つけられなければいけないとした102。政治方針ではAfDは同様にアジール権を支持し、戦争難民を受け入れることは義務だと考えていた。
2014年のEU選挙綱領でも、戦争難民への人道支援は無条件に保証されるべきで、可能ならば「故郷の近くで」なされるべきだとした104。
まとめ
右翼ポピュリズムを問う観点から、どの程度党の右翼ポピュリズム的な要素が増したかを調査する必要がある。その結果、3つの基準(反エスタブリッシュメント、「真の国民」への呼びかけ、反多元主義の見方)すべてを満たし、この党を綱領にもとづいて右翼ポピュリズムと分類することができる。
この新綱領で全面的に右翼ポピュリズムの政党と見なせるようになったという。それ以前は一部にその傾向が見られるだけだった。しかし右翼過激主義や極右とまでは言えないそうだ。
明確に権威主義的な態度は欠けていて、たとえばCas Muddeによるポピュリズム的で過激な右翼の概念化にしたがって格付けされたり、それによって国民戦線やオーストリア自由党と同類の政党に属したりするほどではない106。
ただしそちらに向かう可能性もある。
バーデン・ヴュルテンベルクの州会派内の反ユダヤ主義的立場の人の処遇をめぐる争いや、Alexander Gaulandの「Boateng発言」、Björn Höckeのドイツの記憶文化に異論を唱える演説のような現在の動向は、党がさらに極右への向かうことを分析するきっかけになる。
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記事紹介: ドイツのスカーフ論争、最近の話題
またTwitterのトレンドなのだが、先週くらいまで kopftuch がドイツのトレンドに上がっていた。イスラム教徒の女性がよく髪を隠すためにするスカーフのことで、これを職場で禁止してもいいのかというのがドイツでは90年代からたびたび話題になっている。
スカーフ論争の過去の大まかな流れは以下の飯島祐介さんの論考を参照してほしい。
スカーフ論争とドイツの規範的自己理解の現在 飯島祐介 - 社会学評論, 2008
これによると、ドイツでのスカーフの禁止は、宗教や世界観における中立性を保つために行なわれる。フランスのように徹底した政教分離を採用しておらず、公共空間から宗教的なものをなくそうとするわけではない。
そのため、キリスト教を擁護している保守派の政治家が世俗主義の行き過ぎを牽制するためにあえてスカーフ禁止に反対したりする。スカーフ禁止の賛成派・反対派の内実は単純ではないらしい。
フェミニズムの内部でもスカーフ禁止に賛成・反対で分かれていて、それぞれの主張はこのブログで紹介してきた。
それでなぜ先週トレンドに上がっていたのか?最近のニュースをいくつか漁ってみた。
まずtagesschauの2021年2月25日のニュース。
EuGH-Gutachten: Kopftuch-Verbot am Arbeitsplatz ist zulässig | tagesschau.de
ムスリム女性の教師が職場でスカーフの着用を禁じられてもよいか?よい、そのような禁止は認められる、というのが欧州裁判所の見解だ。しかしこれは宗教的シンボル全般に適用されるわけではない。欧州裁判所の見解では、雇用者はイスラム教のスカーフのような比較的大きい宗教的シンボルは禁じてもよい。
この見解の発表がEU裁判所で2月25日にあったらしい。Twitterのトレンドに上がったのもこれのせいか。以前2017年にEU裁判所でこの件について決定があり、当時話題にのぼっていたそうだ。
[EU裁判所の]法務官は、先立っての2017年の欧州司法裁判所が行なった、他の世界観に関わるあらゆる標識も禁止するならば企業はスカーフを禁止できるという決定を参照するよう示した。
「経済的不利益の具体的な危険性」
法務局はさらに、EU加盟国が信仰の自由を守るためにさらなる規定をもうけることができると述べた。なのでドイツでは企業は「十分な経済的不利益の具体的な危険性」が存在すればスカーフのような特定の標識を職場で禁止できる。
保育園とドラッグストアでの例
背景にドイツでの2つの例がある。宗教を問わない保育園のムスリム女性の労働者はスカーフをして仕事に来たため何度も警告された。それに基づきハンブルクの労働裁判所は、人事記録の記載を削除すべきかどうかを審議した。欧州裁判所の通知によると、労働裁判所はこの手続きを直接の差別に分類する傾向があった。
ニュルンベルク地方の事例では、連邦労働裁判所は2019年に欧州高等裁判所に意見を求めた。ドラッグストアのMüllerでひとりのムスリム女性がスカーフ禁止に対して訴えを起こしていたのだ。この従業員は自分の信仰の自由を制限されたと感じたが、ドラッグストアチェーンは企業の自由を引き合いに出した。
この2つの裁判の判決がどうなったのかは書いていない。まだ決着がついていないのかもしれない。だがEU裁判所の見解に従う場合が多いと最後に書かれている。
次にNDRの2021年3月4日の記事。
Streit um Kopftuch: Amtsgericht verurteilt Fitnessstudio | NDR.de - Nachrichten - Hamburg
スカーフ論争: 区裁判所はフィットネススタジオに有罪判決
区裁判所ザンクト・ゲオルグは火曜日に、スカーフを理由にトレーニングできないというハンブルクの女性の訴えを聞き入れた。フィットネススタジオは彼女に補償金1000ユーロを支払うことになった。
フィットネススタジオでトレーニングのコースを修了したかった女性が、スカーフを理由にスタッフに阻まれた。
「安全上、健康上の理由」と説明されるが、野球帽で筋トレする男性もスタジオにはおり、これはイスラム教徒差別だと感じた。
苦情の手紙をオーナーに送ったが取り合われず、裁判になり女性が勝訴、ということらしい。
またこの女性は、 Hamburger Antidiskriminierungsberatung Amira という組織に訴訟手続の援助をしてもらったようで、こういったケースをよく扱っているそうだ。
最後にAachener Zeitungの2021年3月3日の記事。ノルトライン・ヴェストファーレン州(NRW)の新しい法律についての記事。
Kreuz, Kopftuch, Kippa: NRW-Gesetz untersagt religiöse Symbole für Justiz
NRWの法律が司法官庁に対し宗教的なシンボルを禁止する
司法官庁の職員は裁判所や行政職の活動時に宗教的な特徴をもつシンボルや衣服、たとえば十字架やスカーフ、キッパをつけてはいけない。これは、デュッセルドルフ州議会が水曜日の夜に可決した法律によって規定されている。
禁止には世界観的な立場を表現するシンボルや服装も含む。この新しい規則は業務中の裁判官、検事、法務候補生や他の裁判所職員に適用される。司法に関わる者は外見上、偏った見方をしている印象を少しでも与えるべきではないとNRW州の法務大臣Peter Biesenbach (CDU) は討論の中で強調した。
この法律の発議は2018年の黒緑[CDUと緑の党の連立]州内閣のときからだ。専門識者はいくつかの点で一部にかなりの疑念を呈していた。事実上この規則はとくにスカーフをかぶったムスリム女性に適用されることになる。
さらにこの法律は顔を覆うことの禁止にも拡大する。
上のようなEU裁判所の見解、各州の法律、企業の規則はどれも少なくとも名目上は、イスラム教徒の女性のスカーフだけを標的にして禁止しているわけではない。そんな差別的なルールは大っぴらには作れないし、じっさいフィットネススタジオの事例のように明らかな不平等があれば差別と認定される。
しかし、目立つ大きさの物だけという条件や、顔を隠すことへ規制が拡大することなど、問題の中心にあるのがスカーフなのは明らかだろう。
教育や司法など、中立性が求められる職場で宗教がひと目でわかる服装を一定制限するのは理解できないわけではない。しかし一方でムスリム女性の視点から見ると、スカーフは別に宗教性を主張するアイテムではないらしい。
この人は、 #GegenKopftuchverbot (スカーフ禁止反対)のハッシュタグをつけて、
「高齢の金持ちの男たちが成人女性に指定した衣類を脱ぐように強いていると想像してみて。考えられなくない?まったく非進歩的だと思わない?」と書いている。
コーランに書かれているのは「美しいところを隠せ」という意味のことだけで、これが「性的な部分を隠せ」と解釈されるらしい。ムスリム女性でも、どこが性的と思うかの範囲などによってスカーフをしたりしなかったり、人によって異なるのはそのためだ。たとえると、短パンを穿くか、長ズボンを穿くかという選択と同じようなことだろうか。
それが外部から見ると「スカーフ=イスラム教の象徴」になってしまうのは、馴染みがないゆえの単純化だろうし、それはやはり偏見だ。
外に出ている間ずっと当たり前にスカーフをしているなら外すのは難しいだろう。
逆に、仮にイスラム主義者が宗教的・政治的な示威行為を企んでいても、いつもつけているのが当たり前のスカーフでは喧伝の道具として成り立たないはずだ。スカーフだけでは、穏健なムスリムと外見上の差別化が図れないし、いつどこで意思表示をするかの調整もできない。
スカーフを取りたいと望んでいる人が、周囲のコミュニティや親族から強制されているという場合以外は、介入はどうしても不当になると思う。
BTSへの差別発言炎上: Kpopと反レイシズム
twitterでしばらく #Bayern3Racist や#RassismusBeiBayern3 がトレンドに上がっていて、何のことかチェックしてなかったんだけど、Nhi Le @nhile_de さんのツイート見て知った。
Was steckt hinter #RassismusbeiBayern3 #Bayern3Racist? Ein On Air-Ausraster von @MMatuschik.
— Nhi Le (@nhile_de) 2021年2月26日
Die südkoreanische Band BTS seien "kleine Pisser", er verglich sie mit dem Coronavirus, gegen das es Impfung benötige, wünscht ihnen Urlaub in Nordkorea. Was?https://t.co/HPJG3zzO5m
発端はこれ。
Matthias Matuschik: Bayern-3-Moderator beleidigt K-Pop-Band BTS
2021年2月24日にドイツのラジオBayern-3の司会者Matthias Matuschikが生放送で韓国のバンドの防弾少年団に差別発言をして炎上したらしい。ラジオ放送局は声明を出して司会者を擁護した。
彼はBTSをコロナウィルスに喩えて「糞ウィルスみたいだ。これにももうすぐワクチンができたらいいな」と発言。
このバンドが好評なのが理解できないことは以前から口にしていたが話しているうちに怒りがこみ上げてきたようだ。
「しかもこの小さいションベンたれどもはColdplayの"Fix You"をカバーしたとまでのたまうじゃないか。「冒涜だ!」って言うとこだよ。ぼくは無神論者だけど。不敬行為だよ。このことで君らは今後20年北朝鮮で休業だよ」
ラジオ局による擁護の要点は、
「カバー曲への個人的な意見」
「忌憚ない意見が彼の持ち味」
「皮肉で尖った意見を大げさな憤慨で表現しようとしたが、言葉選びで度が過ぎてファンの気持ちを傷つけた」
「Matuschikは、難民支援に参加し極右に反対している。レイシストではない」
というもの。他にもMatuschikが「韓国嫌いではない。韓国の車をもってるし」と弁明している。
元の発言の問題点は、出自をウィルスと結びつけたことに始まる差別発言であって、辛口の音楽批評でBTSやファンの気持ちを傷つけたことではない。ファン自身が「BTSを低く評価されて傷ついた」と言っていてもそれはレイシズムとはまた別の話だ。
とはいえ音楽批評に関しても、人種的偏見を露呈したことでこのDJが評判を落とすなら、それはもっともなことだと思う。
ラジオ局が個人的な意見であることを繰り返したため、#RacismIsNotAnOpinion がいっしょにトレンド入りしていた。
アジア人に対するコロナ差別は未だにあるらしい。
im so tired, yall piss me off pic.twitter.com/k3yL24BdXF
— eli !! (@reinersgirl) 2021年2月17日
それに加えて「北朝鮮で休業」もマズい。以前ぼくは、ある韓国人がドイツで自己紹介したとき、ドイツ人が「北朝鮮から来たの?」と冗談のつもりで聞いたのを見たことがある。こういうこと、わりと頻繁にあるんじゃないかと思う。朝鮮民主主義人民共和国の体制を批判することと、朝鮮半島出身の人にこういうからかいをするのとは何も関係がない。
何より冷戦による国の分断を乗り越えたドイツの国民が「北朝鮮送り」を面白い冗談だと思って口にするのは、ほんとにガッカリさせられる。
もう一つの興味深い点は、彼が自分は無神論者(Atheist)だとしつつもアジア人が西欧の歌手のカバーをしたことについて比喩的に「神への冒涜(Gotteslästerung)」や「忌まわしい行為、高慢、冒涜(Frevel)」とキリスト教の擁護者のような表現をしているところだ。これは極右の活動家がよく、移民反対の文脈で「キリスト教徒のヨーロッパ(das christliche Abendland)」への支持表明を行なうことを思い出させる。普段どれくらい信心深いかはわからないが、外国人へ敵意を向けるときにはキリスト教が持ち出されるのだ。
BTSの人気もあいまって、この件でアジア人に対する差別に反対する動きが盛んになっている。アメリカでの寺放火事件などのヘイトクライムも話題になっていたらしい。
#StopAsianHate アジア系へのヘイトクライムが多発しNetflixやナイキなど企業も強く抗議 | HuffPost Life
#StopAsianHate や #ichbinkeinVirus (私はウィルスではない)や関連する他のハッシュタグがトレンドに上がっていた。英語と韓国語が多いが、日本語での発言もけっこうあった。
ヘイトの恐ろしさは口には出さなくても似た感情を持つ人に「この感情は正しい。行動に移していい。」と思わせること。新型コロナ以降、欧米ではアジア人ヘイトが激しくなっている。本人がいくら「差別的な意図はなかった」と誤魔化しても無意味だと思う。 #RacismIsNotAnOpinion #RassismusBeiBayern3
— ᴮᴱ中林 香🇩🇪⁷ (@kaokou11) 2021年2月27日
ドイツにもBTSのファンが多いらしく、発言直後からラジオ局を批判する勢いがtwitter上で高まっていた。ぼくはまずドイツ人が声を上げるべきところだと思っているが、「いいドイツ人もいます」というエクスキューズになるのを避けるため批判の例をここでいちいち紹介はしない。
かわりにtwitter上のどうでもいい派生事案を上げておく。
Shahak Shapira はユダヤ系ドイツ人の社会派アーティストでコメディアンだが、彼はドイツ語圏のBTSファンがあまりに熱心にBayern3を叩いているのを見て以下のツイートをした。
Wenn wir die AfD dazu bringen, sich mit der Twitter K-Pop-Community anzulegen, sammelt Beatrix von Storch ab morgen Pfandflaschen.
— Shahak Shapira (@ShahakShapira) 2021年2月26日
Wenn wir die AfD dazu bringen, sich mit der Twitter K-Pop-Community anzulegen, sammelt Beatrix von Storch ab morgen Pfandflaschen.
「もしAfD[ドイツ人のための選択]をTwitterのK-popコミュニティと争わせたらBeatrix von Storch[AfDの政治家]は明日からデポジット瓶を集めることになる」
(デポジット瓶を集めるのは主に失業者の仕事)
ちょっとわかりにくい皮肉だけど、要するにドイツ人が普段からこれだけ熱心にレイシズムを許さない態度を見せていたら極右政党は議席をとったりしないだろ、という意味だ。
ぼくは、シニカルすぎるけどまあ確かになぁと思って見ていたんだけど、なんとこれが大炎上。ドイツのBTSファンに大量の批判リプライを受けることになる。
Shahak Shapira はまた皮肉で応戦して以下のツイートをぶら下げた。
Dear BTS Fans, if you are offended by my tweets and would like to contact me personally, please reach out to my
— Shahak Shapira (@ShahakShapira) 2021年2月26日
management:
Alternative für Deutschland, Landesverband Berlin
Kurfürstenstraße 79
10787 Berlin
Telefon: +49 (0) 30-2205696-22
EMail: lgs@afd.berlin
Dear BTS Fans, if you are offended by my tweets and would like to contact me personally, please reach out to my management:
Alternative für Deutschland, Landesverband Berlin Kurfürstenstraße 79
10787 Berlin
Telefon: +49 (0) 30-2205696-22
EMail: lgs@afd.berlin
「親愛なる防弾少年団ファンの皆さん、私のツイートに腹を立てて個人的に私に連絡したいなら、私の事務局に連絡してください」
と、書いているが連絡先はAfDのもので、もちろんShapiraは党員ではない。ラジオ局の炎上を何とかAfDにけしかけようとした小芝居の延長だ。さらに「私の上司のAlice Weidel(AfD党首)に連絡ください」と続けると、ほんとうにAlice Weidelに「私の方がアーティストの才能あります。彼と入れ替えに雇ってください」とリプライを飛ばす人まで出る始末。
is this real life pic.twitter.com/PR9FSaAqYP
— Shahak Shapira (@ShahakShapira) 2021年2月26日
ドイツでAlice Weidelを知らないというのは、日本で小池百合子を知らない、くらいの感じ。最終的にShapiraはTwitterアカウントにハッキング未遂を受けたあとVISAカードの番号を晒されるところまで行った。
ポップカルチャーもいいけど、これきっかけに社会や政治の問題にも興味もってほしい。日本のKpopファンは、アジア人差別についてもうちょっと真面目に考えてるはずだと期待してる。
記事紹介: 移民反対と反フェミニズムの動向(ドイツ語圏の)
2000年にオーストリア自由党FPÖが連立与党になって、そのあともヨーロッパの他のいくつかの国で極右政党が台頭している。また反フェミニズムの運動も強まっている。
以下のインタビュー記事では、右翼が反フェミニズム運動していることや、反フェミニズムとレイシズムが結びついている現象が説明されている。また、ヨーロッパ内の右翼政党同士の結びつきと、政党ごとに違いもあることが語られている。
„DIE STARKE VERKNÜPFUNG VON RASSISMUS, ANTI-SEMITISMUS, FRAUENHASS UND SEXISMUS WIRD UNTERSCHÄTZT.“
8. März 2020, von Marie Menke
政治学者 Birgit Sauerのインタビュー
「レイシズムと反ユダヤ主義、女性蔑視、セクシズムの結びつきは過小評価されている」
2020年3月8日 Marie Menke
(中略)
Sauerは2006年2月以来、ジェンダーとガバナンスに重点をおいてウィーン大学の政治学研究所に勤めている。
(中略)
彼女のエッセイはとくにヨーロッパというスケールが反フェミニズム運動にとっていかに重要かを示すのに成功した。たとえば、彼女は多くの言語で利用できる保守系の請願フォームCitizenGoについて言及している。このようなサイトは、EU議会のメンバー提出した報告の多く、とくに中絶合法化や差別に配慮した性教育に反対する宣伝活動を実施した。
treffpunkteuropa.de(インタビュアー): ヨーロッパで私たちは今、反フェミニズム運動の隆盛と右翼ポピュリスト政党の成功を目の当たりにしています。これらに結びつきはありますか。
Birgit Sauer: 右翼政党は、昔からあった反フェミニズム運動に飛びつきました。それはもともとはとくにカトリック教会に主導されていました。ブラジルのジャイール・ボルソナーロからロシアのウラジミール・プーチンまで、右翼政党とその先導的人物は、性差の議題でなにか「コモンセンス」つまり一般の人の良識のようなものに訴えかけられると気づきました。そのため反フェミニズムはそれを、性二元論と子どもをもうけることを通じてのみ次の世代を作っていく民族についての彼らの非常に生得論的なイメージのために利用しています。
またそれらは反フェミニズムを彼ら独自の政治的な意思伝達のために動員しています。右翼ポピュリストは対立関係を用いて活動するので、たとえば政治的なエリートに反対し、移民に反対し、また平等を求める政治家やジェンダー学者に反対します。したがって多くの右翼政党が、移民反対で結集するためにケルンの2015-16年の大晦日の女性に対する暴行を取り上げました。つまり性差の議題は右翼政党にとって自分たちの主張内容か、少なくとも自分たちが対峙する敵を明確にする上で良い記事ダネなのです。
インタビュアー: 一方でこの運動は、権利の平等に対抗する態度をとっています。そして他方で自分たちをとくべつに平等だと主張し、それによって他者をとくにイスラム教徒の移民を権利平等が欠けているとして見下しています。この対比はどのように説明されるでしょうか。
Sauer: 右翼政党は二律背反と矛盾を用いて活動することが多いです。それは混乱が起きているように見える状況下で国民の代弁者を演じることに役立つからです。これは男性の移民に反対する論拠としても働きます。移民男性は右翼ポピュリストの目から見ると、社会や、ドイツやオーストリアではすでに達成された権利の平等を危険に晒すとされます。しかしまた同時に右翼ポピュリストは西洋諸国での権利の平等を求める尽力はこれ以上必要ないと主張します。「こちらの女性たちはすでに移民女性よりも権利の平等を得ているので私たちにはこれ以上は必要ない」と言っているようなものです。
インタビュアー: ドイツのハナウで2月19日にシーシャバーを訪れていた9人が暗殺犯に殺されました。犯人はさらに自分の母親を殺して自殺しました。彼書いた中傷文書にはとくに女性への憎しみが目立ちます。反フェミニズムがいかに命にかかわるということを私たちは過小評価しているでしょうか。
Sauer: ドイツは、右翼の暴力のかなり特殊な事例です。警察や憲法擁護庁がその中でどのような役割を果たしているのかはまだまだ解明されていません。しかしそうですね、ドイツの右翼過激派は危険です。そしてそれと戦うはずの公的機関から支援や隠蔽も受けているかもしれません。
さらに過小評価されているのはレイシズムや反ユダヤ主義と女性蔑視、セクシズムの強い結びつきです。ここでは、男性がレイシストや反ユダヤ主義者であると同時にセクシストや女性蔑視でもあり、「反ジェンダリズム」と名のり過激化していることが多いことが見落とされています。「反ジェンダリズム」や反フェミニズム、セクシズム的な意見をもっていることは、レイシズムや反ユダヤ主義のイデオロギーが強化されテロにつながりうるような過激化の度合の指標になります。歴史的に見ても19世紀以来、このような排除と拒絶の構造は密接に結びついてきました。たとえばナチスドイツでは、反ユダヤ主義は性の蔑視をともなって機能することが多かったのです。ユダヤ教の信仰をもつ人は女性的なものとして表現され、典型的に女性のものだとされる性質を割り当てることで低い評価をされました。これは、レイシズムと反ユダヤ主義のさまざまな潮流を通じて維持されてきた思想パターンです。
(中略)
ハナウの犯人が母親を殺したことをメディアが小さく扱っているが、これはフェミサイドの典型例だとインタビュアーが指摘している。フェミサイドはしばしば家庭やパートナー間で起きる女性蔑視にもとづく殺人である。北欧は男女平等的だがそれでもフェミサイドがあるとSauerが言う。
インタビュアー: ヨーロッパ全体に目を向けたときそれらの運動は各国でどのような違いがありますか。それらはどれくらい強く結びついていますか。
Sauer: まさにインターネット上でそれらは非常によく結びついていて、たとえば該当のチャットルームでグローバルに活動しています。ヨーロッパでは右翼政党はソーシャルメディアの外でもネットワーク化されています。部分的にEU議会にも共同で議席をもっています。反フェミニズムの動員でもしばしば不和になったり協力したりしています。そこでたとえばそこでは図版資料が取り交わされ、スローガンが翻訳され、スカーフの禁止など個々の要求で同盟を作ったりしています。
しかしその他に違いもあります。たとえばポーランドの与党「PiS(法と正義)」はドイツのAfDやオーストリアのFPÖよりもカトリック教会とより強く結びついています。これはPiSの家族観や同性愛の拒否に表れています。これはたとえば右翼の政党や組織の中に同性愛者の指導的人物がいる国々では珍しいことです。たとえばFPÖはこれまで公に同性愛嫌悪的だったことはなく、PiSと明確に異なります。
北欧諸国との違いもあります。FPÖのような政党はジェンダー主流化や平等政策に反対しています。それに対してデンマークやスウェーデンの右翼政党は平等を攻撃する場合には非常に慎重になります。そこではそういうことが文化的に根づいていて、右翼は平等に疑問を呈しても誰も味方にできないことを知っています。他方で北欧では反フェミニズムの運動と右翼ポピュリストはより強く移民に反対しています。
移民排除とジェンダー学の両方を非難する傾向はフェミニストの中にも見られる。
アリス・シュヴァルツァーのようなフェミニストがイスラム教内の女性抑圧を理由に移民に反対している。シュヴァルツァーはまたトランスジェンダーに対する差別的な発言も行なっている。そして移民反対とトランス排除の両方を同じ論者が主張し、その論者がフェミニストを名乗っているというケースがとても多く、ひとつの流行になっている。
移民反対とある種の反フェミニズムが結びついている点では、上で説明されている右翼と同じだ。しかし、シュヴァルツァーなどの論者はその他の点では男女平等を求めるフェミニストである。その点はたしかに異なる。
にもかかわらず、反移民フェミニストの議論は右翼ポピュリストととてもよく似ている点がある。たとえば、ジェンダー学者のエリートを敵とする点や、一見矛盾しているようにみえる状況を好んで取り上げる点だ。
以下の記事も、フェミニズムを支持するとされる立場から書かれた。反移民、反トランスの記事である。
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GASTKOMMENTAR
Bist du mit uns, Schwester? – Der postmoderne Feminismus verleugnet die echten Probleme
姉妹よ、君は私たちといっしょか? ― ポストモダンフェミニズムは真の問題を認めない
百年前からフェミニストは路上に出た。それは小さな女の子として扱われないためだ。こんにち被害者の地位は高くかかげられ、それによって宣言された女性運動の目標は裏切られている。女性がどのように生きたいか自由に決めるという目標だ。
Birgit Kelle 2020年9月23日
あなたはフェミニスト?ためらえば疑われる。この問いは運動界隈のリトマス紙として発せられる。姉妹よ、君は私たちといっしょか?党派集団は、誰か列を離れようとするものがいればすぐに問い詰める。グループリーダーは容赦ない。そういう場面では、フェミニストとしての自分を責めることはぜったいに拒否するようにしてほしい。なぜなら、女性運動が何年も経てその見解を急進的に変え、ときにはその反対のものにもなっており、その運動を通じてフェミニズムの概念もいかがわしくなったからだ。
(中略)
被害者の釜の中で
ポストモダンフェミニズムは、さまざまな現象の同時性があるときに際立つ。戦いの副次的な場面に集中することで同時に起きている真の問題から目を背けるのだ。新しいマイノリティの方へ注意を向けることでマジョリティを蔑ろにする。インターセクショナリティ、反レイシズム、反ファシズム的なフェミニズムの被害者の釜には、何らか不平等を感じている限りアイデンティティ集団やセクシャルマイノリティ、差別されたと感じる人々が参加を許される。
当然、多くの利害のすべてがあるとややこしく面倒になる。被害者のヒエラルキーを求めて最後まで戦いぬこうとするため、叩いたり刺したりがいたるところで行われている。白人で異性愛の主婦はかなり下の方に位置するが、バイセクシャルで黒人のトランス女性は被害者ポイントが多く抜きん出ることができる。トーク番組でも、女性、有色人種、子ども、ヒジャブをしたムスリム女性が配分にしたがって割り振られる。
(中略)
つまりこのジャーナリストは近年のフェミニズムがレイシズムやトランス差別に反対していることについて、(大多数の女性を優先するはずの)フェミニズムが歪められた、異なる意見のフェミニストに不寛容になった、と主張している。
ちなみにドイツのトーク番組で話しているのは、たいてい半分は女性になっているが、白人が多く、子どもはめったにおらず、スカーフをしているイスラム教徒の女性もあまり見かけない。フランクフルトの街なかを歩いていて見かける人々の多様性と比べると、配慮しすぎているとはとうてい言えない。
次にこの著者は、「今や誰もが女性になれる」と主張している。これはトランス排除を目的としたポストモダン批判でよく出てくる言葉だが、たとえばシスジェンダーの男性が一貫して女性として生きることは実際には難しい。また、女性は団結しないといけないのに、トランスフォビアやTerfになることを恐れて女性を明確に定義できないと非難している。
DNAや染色体、生物学や自然や科学的事実が、感じられる性別や自分で定義したカテゴリーに屈したときにそう言えるのか。そうなれば女性性は中身のないただの言葉になるのは明らかだ。
(中略)
トランス排除の言説では、DNAや染色体と、解剖学的な特徴だけが生物学として引き合いに出されるが、神経系や内分泌の働き、行動や生態にはあまり言及されず、都合のいい生物学のつまみ食いという印象は否めない。
そもそもジェンダーアイデンティティという考え方が、染色体や性器だけでは性がきっぱり2つに分けられないため必要とされた概念だということが無視されている。
ジェンダー理論のアイコンであるジュディス・バトラーも女性を助けるつもりはまったくないが、この幻想はこんにちまで神話として維持している。彼女は女性性を文化的に形作られたお芝居のような「パフォーマンス」だとし、それが私たちを抑圧し従属させているので脱構築しないといけないという。脱構築というのは「破壊する」という意味の体裁をよくした言葉だ。バトラーは女性性の救世主ではなく、その決定的な廃棄のための棺桶の釘である。
楽観的で矛盾しているが、「女性のパワー」、「私たちは何でもできる」、「男よりずっといい」というのはずっと保証を約束されている。しかしこの同じ運動が、女性性が存在しないという主張から利点を得ようとするのに使われると瞬時に被害者の硬直に陥る。女性という生まれもった被害者の地位は、平等委員会やダイバーシティ専門家の機構全体にとっては福音である。それは、常に新しい被害者が生み出され仕事は終わらず、流行遅れになることはない。
(中略)
誰が真に男性原理的な社会を見ているか
しかし納得いかない理由からネオフェミニズムの視点からは、この家父長制システムは真に男性原理主義の社会を避けて通っているようである。インドでの集団レイプやイスラム教社会での女性への投石を非難することはそのつどレイシズムとされる。というのも文化に敏感なフェミニストはこれが女性への抑圧ではなく単なる「文化の違い」だと知っているからだ。
イランの女性にとってはなんと素晴らしいことだろう!それはそうと彼女らはもはや被害者になりたくない。彼女らの敵は年かさの白人の男性だけではなく、若い有色人種の血縁者もいる。それらは絶え間なく記憶を呼び覚ますことで、西洋の豊かな国のフェミニズムの体裁よく作られた敵のイメージを壊してしまう。そのことは歓迎されないので、西洋の女性運動党派集団は罰として支援を拒否している。
この部分は右翼ポピュリストとほとんど区別がつかないほどよく似ている。どちらもポストモダンフェミニズムが日常的な直観に反することや、アジアや中東の性差別を左翼が問題にしないことを非難している。
左翼のダブルスタンダード批判は一見説得力があるが、ここでインドやイランが持ち出されているのはヨーロッパ内での政治活動のためなので、実際にそれらの国の女性のことを考えているわけではない。
それらの国の個別の問題を考えるためにはもっと細かい事情を知った上で長くコミットしないといけないだろうし、啓蒙してやろうという態度で臨んでも解決にならないどころか別の問題を増やすだけだ。