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記事紹介:ドイツで自己決定法(セルフID)が否決。現行法の問題点

 

ドイツには、トランスセクシュアル法を改めようという登記上の性別やファーストネームを変更する手続きを定めた法律がある。これには問題点が多く、緑の党ドイツ自由民主党が「自己決定法」というより当事者の意志を尊重した法案を出していた。

しかし、今年の5月にこの法案は反対多数で否決。CDUやAfDだけでなく、革新政党SPDも多くが反対に回った。その際、トランスジェンダーの人を敵視する人々によるデマキャンペーンも事前に行われていた。

前回の記事↓

記事紹介: 自己決定法、否決。ドイツの反トランスジェンダー - Ottimomusitaのブログ 

トランスジェンダーの当事者で政治学者のFelicia Ewertがインタビューに答えている。

 

 

Transsexuellengesetz: "Die Message ist: Eure Existenz ist nicht genug wert" | ze.tt

 

"Die Message ist: Eure Existenz ist nicht genug wert"

Von Muri Darida

21. Mai 2021, 10:52 Uhr210 Kommentare 

 

「これは、君たちの存在にはそれに足る価値はないというメッセージだ」

Muri DaridaによるFelicia Ewertへのインタビュー 2021年5月21日

 

(前略)

Felicia Ewert: …2日前に同性愛、インターセックストランスジェンダーへの敵意に反対する国際デーでレインボーフラッグを降っていたSPDまで反対した。彼らのモットーは「君たちが差別されているのを残念に思うが、この差別は維持します」だ。この件ではこの法律はトランス敵視を支持しているだけだ。それに今これは、自分たちは正しいと思っていいんだというトランス敵視の人への合図になっている。私はこのバカげた法律を自分で経験したし、だからこそ他の誰もそれを強いられないでほしいと思う。

 

ze.tt: その時はこの法的手続きは君にとってどんなものだったか。


Felicia Ewert: その手続きの前に私はとても不安だった。2016年の4月に私は区の裁判所で、自分のファーストネームと性別を訂正してもらうために法的身分変更を申請した。それから二人の専門家に委ねられた。問診はそれぞれに2、3時間かかり、私は知らない人たちに自分の人生を開示しなければいけなかった。私は子ども時代について話し、家族メンバーとともに職業も並べたて、他の人たち私がトランスであることについて他の人たちがどう思っているかを述べることになった。とくに微に入り細を穿ったのは過去の性的あるいはロマンチックな関係を聞く質問だった。


ze.tt: たとえば何を聞かれたのか。

 

Felicia Ewert: その人々はどの性別だったか。なぜ私がその他の性別の人と関係をもたなかったか。私の性生活は現在どのようであるか、性交は可能かどうか。これらの質問の背景にあるのはトランスの人は性生活を経験経験できないだろうという考えだ。なぜなら彼らは自分の体がそのようにあるのを拒否しているはずだから、と。しかしこれは、一部の人には言えるが、すべてのトランスの人に当てはまる仮定ではない。そのように私たちは証拠を出さなければいけないという重圧にはまり込み、性交が身体違和があっても良く感じられるようにするためにその最中に行なったことを、知らない人に詳しく晒さなければいけない。さらに専門家たちは私の髪、メイク、服、声域、身振りなど、私の立ちふるまいに事細かに気をかけた。専門家の一人は私の前ですべてを録音機に話していた。「申請者は女性的な服装をしている」というふうに。その状況で私は本当に心細く、されるがままになった気がして、ついにはそれだけ多くのことをこの二人の決定任せにしてしまっていた。同時に私は嫌な気持ちだった。「私がまだわからないことなのに彼らは今何を知りたいの」と思った。多くの人はこういう専門家は相談をしてくれていっしょに解明するのだと思うだろうけれど、じっさいは違う。彼らはただ聞いて、彼らがあなたが本当にあなたの言う性別だと思うかどうかを考えるだけだ。その際ステレオタイプにとらわれた見た目とふるまいが想定されている。


ze.tt: それからはどうだった?

 

Felicia Ewert: それから私は比較的2016年12月には書類をもらい、そこには「申請者のEwert氏は今後は女性に割り当てられることになる。彼は今後はFeliciaという名前をもつ」とあった。私の場合はそのとき合計1300ユーロかかった。法的身分と名前の変更にかかる費用の大部分はこれらの専門所見ために必要になる。この手続きは非係争とされている。つまり自分で費用をもたなくてはいけない。もちろん資金の理由からできない人や、その重荷を負いたくない人もいる。しかし、不正確な文書を持ち歩くのも同様に負担だ。たとえば別の性に割り当てられる名前が書いたクレジットカードをもっていると、レジ係や誰にでも説明しなければいけない。


ze.tt: トランスセクシュアル法は法的身分変更後もトランスの人に関わるのか。

 

Felicia Ewert: まず大事なのはトランスセクシュアル法には法的手続きしか記述されていないということだ。つまり、扱われているのは訂正、あえて訂正と言うが、名前と性別登録の訂正だ。医療的な介入はこれとは関係がない。しかしこの法律は法的身分変更後も私たちの生活に食い込んでくる。たとえば両親と子の関係というものについてだ。つまり子どもが生まれたときに出生証書に親の性別分類を書き留めなければいけないということだ。なので私は自分の現在の出生証書に女性での記入をしているにもかかわらず、私の子どもの出生証明には存在しない男が父として登記されることになる。この慣行に反対する訴訟が連邦裁判所であった。訴えは棄却された。それは、子どもに二人の母親や二人の父親がいる事態は、証明に片方の親がトランスセクシュアルであることを明らかにしなければいけないため、許容できないという理由だった。これはまったくばかげている。私が自分の子どもの出生証書を見せるたびに毎回自分をさらさなければいけないことになるからだ。この理屈にしたがえば子どもは差別から守られない。


ze.tt: 代替案になりえたのは自己決定法だった。これはどの程度その名の通りのものなのか。

 

Felicia Ewert: トランスセクシュアル法の擁護者は、自己決定法を通じて未成年が容易に手術的介入を受けることができると思っている。これはたわ言だ。自己決定権で規定されているのは、ファーストネームと性別登録を行政手続きの壁を減らして訂正できるようにして少ない費用で早く行うようにすることだけだ。今のところ手続きにこれほど時間がかかっているのは申請を厳格で綿密に審査しているからではなく、役所の過負荷のせいで申請がいつまでもデスクに置いたままになっているためだ。さらに自己決定法にもとづくと私がさっき話したような両親と子の関係も廃止される。またこれはすべてのトランスの人が医療的な備えを整える権力を保障する。


Felicia Ewert: これが施行されればトランスの人は診断がある場合は治療の費用立替を請求できるようになる。今は健康保険は医療的所見や診断にもかかわらず拒否されるのが現状だ。自己決定法ができれば、14歳以上の青少年も自分で意思表示文書を作成できる。しかし、これは未成年者が簡単にホルモンやホルモン遮断薬を手に入れることができるという意味ではなく、両親が反対しているとしても、原則として彼らの名前と性別を表明する機会があるということだ。

 

ze.tt: すでに6度、連邦憲法裁判所はトランスセクシュアル法の個別規定に違憲の宣告をしている。なぜこの法律の廃止に反対する人がこれほど多いのか。


Felicia Ewert: 抵抗活動がこれほどうまく行っているのは絶え間なく危機感を演出しているためだ。ソーシャルメディアでは、自己決定法反対派の主な主張が子どもの保護や暴力防止を根拠にしているのがよく見受けられる。子どもは今列をなして「性別を変えよう」としている。子どもたちは自分の両親がトランスであることには耐えられないのだと。たくさんの男性が気づかれずに保護スペースに入ってきて女性に暴力を加えると主張している。Beatrix von Storch[AfDの政治家]は例として女子刑務所を引き合いに出した。あたかも今シスジェンダーのある種の人が、日常のあらゆる場面で変更した身分証明書をもって歩き回るために役場の法的身分課に行きたがっていて、いつでも自己表明するに違いないとでも言うように。


ze.tt: カミングアウトしていないトランスの人に言いたいことはあるか。


Felicia Ewert: あなたは一人ではない。どうか耐えてください。

 

 

 

 

 

記事紹介: 自己決定法、否決。ドイツの反トランスジェンダー

ドイツでトランスセクシュアル法を改め、自己決定法を導入しようという動きがあったが反対の方が多く連邦議会で否決された。

発案したのは緑の党やFPDで、今回はCDUは反対、SPDは意見が分かれた。2021年5月の記事。

 

Selbstbestimmung: Warum FDP und Grüne im Bundestag gescheitert sind


自己決定権: なぜFPDと緑の党は連邦選挙で失敗したのか


大規模なフェイク情報キャンペーンはCDUの議員を不安にし、SPDでは野党の法律案は保留になった。

 

Joane Studnik, 22.5.2021 - 16:51 Uhr

 


FDPの連邦議員Jens Brandenburgは、旧態依然としたトランスセクシュアル法を自己決定法で改正する圧力を高めようとしている。

 

ベルリン: トランスおよびインターセックスの人は自己決定で人生のあらゆる側面を決めることができるべきだ。そのためついては党の垣根を超えて賛成があるが、水曜の連邦議会の採決では議員の過半数に達しなかった。緑の党の動議に賛成する唯一の票はSPDの党派からあり、同盟(CDU)からはなかった。以前、内務委員会と居住委員会から、FPD[ドイツ自由民主党]による同内容の発議を拒否する勧告があった。

 

ラディカルフェミニストは事前の策として大規模なフェイク情報キャンペーンである「トランス列車を止めよ」を開始していた。FDPの議員のJens Brandenburgは、この改正が子どもへのホルモン介入を後押しするという主張がその例だとしている。「私たちの法案はどのような立場でもホルモン治療は扱っていません」むしろこれには、インターセックスの子どもを医学的に不要な手術から守る条項も含まれている。

 

トランスの人々が病気で危険だという考え方


CDUの議員のMarc Henrichmannは議論の中で、ベルリンの検査師がトランスの人々を幼児性愛者とあいまいに結びつけた、どうとでもとれるような発言を引用している。この悪質な連想の特筆すべき点は、当事者にとって不適当な検査にこのようなこじつけをする心理学者がいることだ。なのでトランスの人々が病気であり潜在的に危険なものと表現する考え方はAfDにだけ当てはまるわけではない。

 

連邦議会の他のすべての政党は一年前、さしあたっては非公開で、部分的に違憲であるトランスセクシュアル法(TSG)の遅すぎた改正を進めることで合意していた。Jens Brandenburgは野党の課題として「このような議論と抵抗を世論にもたらすことだと考えている。私たちは政治的な圧力を高めて、できるだけ喫緊に改革を実現したい」とした。


Brandenburgは、自分の草案は「健康上の配慮や、個人の法的地位についての問題、望まぬアウティングからの保護まで、性別の自己決定権を強める法的な基礎を作る枠組み法」だと考えている。

 

連邦議会の議員候補のRia Cybill Geyerは、SPDクィアの連邦理事でもあり、「この発案者たちは、法案によって議員に中核テーマといっしょに問題のある決定を滑り込ませようとした」と党員の保留を明言した。もし法的に登録されたファーストネームや家族簿上の身分の変更に焦点が当てられていなければ、否決は避けられていたかもしれない。


急進的な活動家たちも、法的な登記上の性別の変更は性別適合手術への無料チケットだとして批判している。しかし両者には何の関係もないとJens Brandenburgは明言している。「医療的介入は法的身分を変えなくても可能だ。逆にまた、法的な登記上の性別の変更は手術介入の解禁ではない。議論の中で、2つの異なるものがごっちゃにされて偏見を煽っている」

 

トランスジェンダーの人々に対する偏見は根強く、それを強めるトランス排除派のデマは相変わらずひどい。この記事で少し紹介されていたデマはおそらく一部はすでに日本語に翻訳されて拡散されていることだろう。

それらのデマは、一見政治的な動きに懸念を示しているものとして提示されるが、じっさいにはトランスの人々が潜在的な脅威であるかのような偏見をばら撒くことになる。

 

 

上の記事ではトランスジェンダーインターセックスを並列に挙げて、自己決定権について書いていたが、これは誤解を招く可能性がある。インターセックスという呼び方もあまりよくない。

この記事がわかりやすかった。

インターセックスとは?DSD(性分化疾患)との違い【日本の現状から有名人まで総まとめ】 | LGBT就活・転職活動サイト「JobRainbow」

インターセックス」の正式名称は、DSDです。Disorders of DevelopmentまたはDifference of Developmentの略で、「体の性の様々な発達」という意味になります。

従来のステレオタイプな性別判定が対応できない身体的な性の発達の多様性で、性自認には曖昧さがあるわけでも移行しているわけでもない。身体的な発達を理由に性別がはっきりしないかのように言うのは失礼にあたる。

なのでトランスジェンダーの人々に対するように「本人の自己決定を尊重する」と言うのは的外れだ。下は信頼できるサイト。

nexdsdJAPAN | DSDs:体の性の様々な発達(性分化疾患)総合情報サイト

 

 

 

 

 

記事紹介:反差別か学問の自由か

学問の世界でも政治的な正しさや反差別の姿勢は求められるが、一方で学問の自由もある。どのように両立するのだろう。それを議論したドイツの記事を見つけたので紹介する。

以前、日本でも某学者が別の学者にSNSで偏見にもとづく発言をして問題になったことがあった。以下の記事で話題にされているのは、授業の中での学生同士や教員から学生への差別や抑圧になりうる発言である。

 

 

Streitgespräch ǀ „Ein schmaler Grat, auf dem wir gehen“ — der Freitag

 

 

„Ein schmaler Grat, auf dem wir gehen“

Streitgespräch 

Was zählt mehr? Rassismusverdacht oder Freiheit der Lehre? Die Politikwissenschaftlerin Gudrun Hentges und Sandra Kostner vom Netzwerk Wissenschaftsfreiheit diskutieren

 

Michael Angele | Ausgabe 02/2021 51

 

「私たちの歩む切り立った稜線」

論争

より重要なのは何か。人種差別の嫌疑か、学説の自由か。政治学者のGudrun Hentgesと Sandra Kostnerがオンラインで学問の自由について議論した。

 

政治的な正しさ、キャンセルカルチャー 

研究の自由が危機にさらされていると新しく設立された学問の自由ネットワークは主張している。大学では何を言ってもいいというわけではない。その対価が人種差別ならば。ケルン大学の異文化学研究所(FiSt)の声明の主旨はそういうものだと政治学者のGudrun Hentgesは共同提唱している。移民研究者のSandraKostnerは、このような介入は都合の悪い研究を排除するのが目的だとFAZで批判した。そういうわけで、この二人を対談に招待した。

 

大学の授業で学生に「あなたはどこの出身ですか」と尋ねるのは、昔はむしろ相手への礼儀や関心をもっていることの徴だったが、今はセンシティブになっているそうだ。

 

(前略)

 

Hentges: 私は「君はどこから来たの」という問いへの批判は正当だと思います。あまりにもしょっちゅう、外国の特徴や異なる特徴にもとづいて、しつこく「本当の出自」を問われる経験をしています。とくに有色の人は。彼らは暗に、ドイツ連邦共和国の国民の一人ではないと言われており、この経験は排除されているという感覚を強めます。

 

der Freitag(インタビュアー): オンラインゼミには明らかに他の国出身の学生が参加していて、それらの国々の議題はコロナでした。そこで初めにされた質問が出自を問うものでも必ずしも悪意があるとは思えませんが。

 

Hentges: しかしその後に続いたのはOKとは言えません。「あなたは異国的に見えるけど発音でドイツで育ったとわかります」と講師が言ったそうです。私はこれはエキゾチシズムの響きがともなうため大きな問題だと思います。文化間の専門知についてのゼミでは、講師が「最先端」を指向していると学生は期待していいはずです。

 

その女学生が出自についての質問で自分が軽んじられたと感じたのはもっともなことです。Kostnerさん、彼女には自分の意見を聞いてもらう権利はなかったのでしょうか。

 

Kostner: もちろん誰にでも意見を聞いてもらう権利はあります。しかしここで問題なのは関係性の節度です。それが守られていません。これは目の高さでの意見交流ではありませんでした。私の印象ではそれとは正反対で、直接講師と明確にしておくべきだった状況が即座にスキャンダラスなやり方で公にされました。なぜこのようなことをするのかと私は考えています。

 

それでなぜとお考えですか。

 

Kostner: おそらく、彼女はソーシャルメディアでならすぐに支援があると知っていたからでしょう。そのことは彼女のInstagramの投稿に54000回のクリックがあったことからも推察されます。加えてHentgesさんのような政治学者からの支持もあります。最終的には州政府での嘆願です。このなりゆき全体が私には、女学生とその支持者が講師の意見を絶好の機会として利用したかのように思えます。それによって大学と州政府を道徳的に圧力下に置き、反レイシズムの特殊主義的な理想を実現するためです。

 

Hentgesさん、あなたは自分の動機をどうお考えですか。

 

Hentges: Kostnerさん、あなたはこれが目の高さでの意見交流を大事にしていないと言います。たしかに私もそれが決定的に大事とは考えません。私たちは制度的なレイシズムに取り組んでいると思います。どういう仕組みで包摂や排除が起きているのか。どんな形態のエキゾチズムがあるのか。この女学生が私たちに言いたいことは、私たちがドイツ連邦共和国の社会の一部であり、日常場面で何度も肌の色やステレオタイプな特徴へと押し返されていることです。私たちはそれを真剣に受け止めなければいけない。そのための嘆願です。

 

Kostner: しかし、このやり方は学問の自由にどんな影響があるでしょうか。教員は、活動家の標的にならないように頭の中にハサミ[自己検閲]をもって行動するようになるのではないですか。とくにレイシズムの議題を取り上げる場合に、この女学生の気持ちがすべての基準になるなら教員はどれだけ自由に多様で学問的なレイシズムの概念を扱えるでしょうか。

 

学問的な関連で、具体的には何が人種差別的なため受け入れられない発言になるでしょうか。Hentgesさん。

 

Hentges: 「イスラム教はドイツに属さない」などです。もしくは、犯罪的な外国人や犯罪的な難民などの話です。移民の背景をもつ若者の暴力性を問うこと。これは一般にステレオタイプの再生産です。

 

イスラム教はドイツに属さない」は学問的な仮説ですか。

 

Hentges: このケースではある男子学生が女性講師に、イスラム教はドイツに属さないと繰り返しお題目のように唱えたことがきっかけでした。そのため学生たちは、じゃあ私たちもドイツの一員じゃないのと聞きました。彼らは攻撃されたと感じました。

 

このゼミで重要になるのは何ですか。

 

Hentges: ポスト植民地主義理論とケルンの大晦日です。

 

ケルンの大晦日はこの文脈ではどう関係していますか。

 

Hentges: ケルンの大晦日は今や、反イスラム教徒のレイシズムイスラム教徒への敵意についての多くの研究が研究対象にしているため大学研究の対象でもあります。もし学問的な会でイスラム教はドイツに属さないというような立場をとるなら研究にもとづいてそれを立証できなければなりません。それをその女性講師はその学生にわからせました。

 

Kostner: 大学で論じられる言明のすべてが研究を通じて証明できるわけでも、しないといけないわけでもありません。大学がアイデアのマーケット広場と見なされるのにはそれなりの理由があります。「イスラム教はドイツに属する」あるいは「属さない」という文を考えてみましょう。どの宗教共同体がドイツに存在するかに注目する人はこの問いには「属する」と答えるでしょう。それに対して歴史的な研究をすることで、イスラム教がドイツでどれだけその発展に影響を与えたかを示す人は、イスラム教が影響力をもつことを発見するのは難しいでしょう。また、どのような価値が私たちの平和的で民主的な公的機関の素質をなすかという問題に取り組む人は、イスラム教が私たちの価値の基礎を成しているのかという問いに「イエス」で答えることはほとんどできないでしょう。私はそのゼミに同席していませんでしたが、学生の視点から、その男子学生が排除されたと感じたと示唆するものとして記事を思い起こすこともできます。排除には多様な形式があります。

 

Hentges: その人もその立場も排除されていません。その男子学生はじっさい学問的に情報を得ることを要求されました。膨大なイスラム教やイスラム教徒についての研究があり、トルコ系移民についてのSinus研究があります。なのでその学生は前回のミーティングに出るまでにもゼミに参加していました。そしてたくさん学んだとさえ言っていました。

 

それでは、私はここで文化学のゼミの講師をやるつもりはありませんが、…こちらには排除、あちらには学説の自由と…。

 

Hentges: 私が講師として行動するときに歩むのはさながら切り立った稜線です。たしかに大学は学生たちが何かを試してみることができ、ときに学問の枠組みで際どい議題を言葉に表現してもいい場所です。しかし同時に私には脆弱な集団を守る責任もあります。

 

脆弱な集団とは以前にマイノリティと表現されていたものですか。

 

Hentges: マイノリティの概念はもっと広い意味です。「脆弱な集団」はある人たちが傷つけられやすいことを指しています。つまりレイシズムに見舞われる人たちで、言語的、身体的な攻撃に晒されているということです。難民は、出身国や亡命時のトラウマ的な経験のためとくに脆弱な集団です。複合的な差別もあります。なのでレイシズムとLGBTIQはともに論じられなければいけません。

 

Kostnerさん、差別と闘うのは良いことではないですか。

 

Kostner: そうですが、私にはこれはパターナリズムが過ぎるように思われます。もし私がある集団を脆弱だと呼んで、彼らが議論に対処できると信じずに彼らが議論で傷つくかもと考えれば、それは自立できない子どもに最善のものは自分がちゃんと知っているというつもりの過干渉な母親のようなふるまいです。そうではなく学生の立ち直る力を強めるべきです。それは気に入らない議論は何でも自分の人格への攻撃と見なさないようにするためです。

 

Hentges: はい、個人を強めて立ち直る力を発達させることは大事です。じっさいはそれは幾度ものワークショップや対話や訓練の中で培われます。キーワードはエンパワーメントです。これは差別され排除され傷つけられる状況にいる人たちが行動できるようにします。しかしそれを差し引いても、私は脆弱な集団が再びトラウマになる経験を単に避けるように彼らを守ることがことが正しいと思っています。

 

具体的にはどのようなことですか。

 

Hentges: たとえば、トリガー・ワーニング[トラウマ想起の警告]を使います。Kosnterさん、あなたが著書の中で批判的に考察しているものです。特定の画像を見せることは必要不可欠ではない場合が多いです。奴隷性の重大さを教えるために、アメリカ南部の州で起きたリンチ殺人を見せなければいけないでしょうか。私はそうは思いません。しかしじっさいは画像提示されています。講堂には、ショックを受けたり、最悪の場合トラウマを再発する人がでるという結果をともないます。

 

Kostner: トラウマ再発について話すのは私は問題だと思います。自己経験したトラウマを前提とする臨床概念は、保護する必要を強調するために、お気持ちが困惑させられたことなら何にでも安易に適用されるでしょう。

 

Hentgesさん、私はケルンのあなたのところで「映画における恐怖の美学」についてのゼミを提供と思います。そこではおぞましい画像が提示されます。あなたは私にどんな助言をしますか。

 

Hentges: では説明しますと、「映画における恐怖の美学」は義務が生じる授業ではありませんし、それで問題ないという人だけが履修するでしょう。もちろん崖歩きになることも多いです。映画『ショア』を扱うことを考えてみてください。何を見せていいか、何を見せないといけないか。答えはそれぞれの教員の責任の中にあります。

 

私の大学研究について考えると、困惑は私たちに影響を与えたものではありませんでした。むしろ特定の思想的な一派と結びついていると感じ、それに応じた学科を選び、他を避けていました。

 

Hentges: それは私の記憶とも一致します。しかし、困惑が前面に出ていないなら、多くの授業で質問してきたことですが、いったい女性の観点はどこに残っているのでしょうか。つまり私たちはその観点を強めることを求めて闘って来たのです。その成果もありました。反対にレイシズム批判や脱植民地化はほとんど主題ではありませんでした。これらの議論は1990年代の初めにようやく、かなり遠慮がちにフランス語や英語の翻訳から始まりました。

 

そして今ようやく議論が本当に大きくなったのですね。

 

Hentges: はい。今回挙げた事例は最近の三学期のものです。その意味で私たちがこれを過大評価することは避けたいと思います。毎週のすべて授業でレイシズムが議題や問題になるわけではありません。むしろ普通は議論に開かれた学習で、「悪魔の代弁者」の役回りをする人もいます。

 

Kostnerさんは今反論したいことはありますか。

 

Kostner: いいえ。私は開かれた議論の場はとても重要だと思います。それは折に触れて何度も擁護されなければなりません。その理由は、人間には知的に感情的に心地よい空間を設えたがる傾向があるためです。教員としての私たちの使命はこの心地よい空間から学生を連れ出して、居心地悪い立場に立ち向かわせることです。

 

しかし、その時のあなた自身の考えは明確なのではないですか。

 

Kostner: どういう考えでしょうか。私の普段の授業をある例で説明してみましょう。少し前、学期末に学生が私にこう言いました。「普通なら講師についてどういう位置にいるのかわかりますが、あなたについてはわかりません。これは束縛されない感じがしますが、不安でもあります」と。これは私にとっては称賛でした。称賛、というには私は意識的に教育内容を中立的に評価して学生を操らないように努めているからです…。

 

Hentges: …それはたしかに良いことですが、中立性の概念には危険も待ちかまえています。たしかに、私たちは教員として学生に教義を注入したり圧倒したりするべきではないでしょう。しかしそれは私たちが中立である義務があるということではありません。これはAfDの隠語です。かれらの通知プラットフォームの「ハンブルク中立学校」を見てください。そして彼らは1976年のボイテルスバッハ合意を解釈して…

 

…講義における政治的原則を定めた合意ですね…

 

Hentges: …それを、教師は政治的に中立である義務があるというように誤って解釈しました。正しいのはその反対です。公務員法を見れば書いてあることですが、公務員は、つまり大学教員も自由と民主主義の基本秩序という意義の価値を支持する義務があります。人権や市民権、法治国家、宗教上の寛容を支持し、レイシズムや差別に反対することです。

 

Kostner: 私は教員が中立である義務があるとは言っていません。私が教育内容を中立的に伝えるようにしていると言ったのです。これは別のことです。

 

仮に私が、独裁者の方が民主主義者よりもパンデミックにうまく対処できると論じる政治学の論文で学位を取りたいと思ったとします。それは可能ですか。

 

Hentges: もちろん。

 

しかし私のその論文は市民権と法治国家は危機の克服に際しては場合によっては妨げになるという結論に達していますが。

 

Kostner: それは学問の自由の範囲内です。

 

Hentges: それは非常に簡潔にまとめられた問いです。どの国家形態がパンデミックとの闘いに関してより効果的か。これは何も三権分立や集会の自由や男女平等について何も原則的なことは言っていません。

 

しかしこのアプローチは順応していません。私は少し大勢順応主義の抑圧という概念が気になっています。そのような抑圧は自由な研究にとって致命的ではないですか。

 

Hentges: 「自由な研究」というもの自体が幻想だ、とピエール・ブルデューなら言うでしょう。学問の中には権力構造や支配構造が浸透しています。そこからしか、そもそも何が「研究テーマ」や問題として認識されるかは導出されません。

 

同調圧力はまったく見られませんか。マイノリティからマジョリティにも、マジョリティからマイノリティにも。

 

Hentges: 同調圧力というのは誤った表現だと思います。むしろ私は社会科学の観点から不平等な言説の力について話したいです。また、ここでマジョリティとマイノリティが固定した団体として対峙しているわけではありません。そうではなくポスト植民地主義の観点から、マイノリティは特定の文脈での権力と分配をめぐる闘いにもとづいたときのみマイノリティになるということを認識するのが重要です。

(後略)

 

学問の世界も政治と無関係ではない。

SNSでの炎上のような結果にまで発展するのは、狭いゼミの中での問題の解決として適切とは思えない。

しかし、そこまで至ってしまうのは、その場で反論するのが難しかったり事なかれ主義でウヤムヤにする空気があったり教授の権威に逆らえなかったりそこでもマイノリティだから発言しにくかったり…、色んな事情があるのだろう。

 

 

記事紹介: Haltungsform ドイツの動物福祉の認証

去年くらいから妻に、「肉はHaltungsformの3か4を買ってね」と言われている。「その方が動物が幸せだから」と。

Haltungsform?何それ。そんなん前からあったっけ。

と思っていたけれど、どうやら2019年から食肉業界で導入された動物福祉に関わる認証だそうで、各スーパーの精肉のパッケージにその表示がある。


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Bioのマークは有機畜産で育てられた家畜だが、それとは別で動物福祉に配慮した飼育形態のグレードを1〜4で評価したものらしい。3や4はちょっと値がはる。

僕は、あんまり友達が多くない外国人の常として、身近な妻をドイツ人の代表であるかのように思っているが、たぶん当たらずとも遠からず。妻はそれなりに教育を受けた西部のリベラルなドイツ人の平均にわりと近いと思う。

その彼女が動物福祉に配慮しなきゃと急に言い出したということは、ドイツ社会でもその機運が高まっているのだろうと考えていた。ぼくは食品業界に興味を持とうとしているので一応自分で調べてみた。

 

 

この記事によると大手スーパーチェーンのAldiは2030年までこのHaltungsform(飼育形態)のグレード3と4の肉しか売らないように改革すると発表したらしい。

 

Kette will tiergerechter werden: Aldi verbannt das Billigfleisch | tagesschau.de

 

Aldi verbannt das Billigfleisch

Stand: 25.06.2021 14:45 Uhr

 

Aldiは安い肉を撤廃する

ディスカウントスーパーのAldiは2030年から最高の飼育形態でできた精肉だけを売ることを発表した。動物福祉連盟はこの前進を歓迎し、グリンピースは「一里塚になる」としている。

 

(中略)

飼育形態の重要性

Aldiと他の大手食料品小売業者は2019年に畜産認証マークの四段階制を導入した。この認証は食料品業界が独自に開発した精肉の分類で、1番下のグレードの「小屋飼い」が満たすのは法的要件だけだ。第2のグレードの「小屋飼い+」では家畜にとりわけより大きな敷地と追加の敷料がある。グレード3の「外気」では、動物にさらに広い敷地と新鮮な外の空気に触れることが保証される。グレード4「プレミアム」では、家畜はさらに屋外で走ることもでき、有機肉もこの段階に分類される。さらにたとえば家畜の飼料や敷料、健康チェックにも基準値がある。

 

よい飼育条件の肉は今のところ少ない

消費者および動物保護団体は何度も、高いグレードの畜産での肉がほとんど買えないと批判していた。たとえば去年の12月には、ハンブルクの消費者センターが市場調査を公表した。その結果によると、精肉供給の半分以上(51.1%)は、そのほとんどは豚牛で、畜産形態の最下段に標識づけされるという。このグレードは法定の最低基準に相当すると消費者センターは書いている。それによると最高基準の畜産形態4からは約10%しか供給されていない。

 

この分類は有機認証ではない

消費者保護派はこの4つ目のグレードに分類されることは有機肉の認証にはならない点を指摘している。肉は今まで通りに生産されることもあると消費者センターは書いている。またこの商取引の四段階認証は動物福祉ラベルでもなく、小屋の中のもっと多くの動物福祉にまで包括的に気を配ることはない。消費者センターの見解によると、動物福祉についての信頼できる情報提供のためにはほんらいなら、家畜飼育施設や食肉解体所での跛行、咬傷、内臓検査などの行動と健康に関する関連項目を体系だてて集計し評価しなければいけない。

 

(中略)

しかしまたAldiの攻勢は「政治の怠慢」も明らかにしている。畜産形態の3と4は早く法定標準にすべきである。

 

緑の党の政治家のRenate Künastは、この発表は連邦農業省大臣のJulia Klöckner(CDU)の不作為とCDUの農業政策の証拠だと評価した。CDU政治家らは食料品業界によってまたも「追い抜かれる」だろうとこの元連邦農業省大臣(Künast)は述べた。CDUとCSUはここで農業者と共に新しい展望を作り上げることをせず、現実から目を背けた。Aldiの計画は「明瞭な示唆という以上のもの」だとKünastは述べた。

 

 

 

Aldiはドイツの南北でAldi süd とAldi nordに分かれているが、どこにでもある有名チェーンだ。ここは品数は多くないし置いてあるものも日によってまちまちだけど他のスーパーよりも安い。思いついたようにちょっとした電化製品が置かれていることもある。一定した品揃えよりその時々で安く提供できるものを、というタイプの店だ。だから必要な品がはっきり決まってないときに行ったり、他のスーパーに行く前にとりあえず寄ったりする。

 

僕はスーパーでHaltungsformの3と4だけを選ぶようになってから、肉はあまりAldiでは買わなくなっていた。もともと品数が少ないので欲しい肉がグレード3や4で見つかることがほとんどないのだ。その代わりに他の大手スーパー、肉屋のカウンターや市場で買っている。他にもそういう人はいるだろうし、たぶん2019年以降Aldiの肉の売上が落ちたのだと思う。それでいっそ3と4だけ、と。

 

ドイツはヨーロッパの他の国より肉が安いらしく、ダンピングされているという話もある。食生活も、肉やチーズを採る量がすごく多い。僕が肉屋のカウンターで「300gくれ」と言って300gの塊を切ってもらうとちょっと怪訝な、ときには嫌な顔をされることがある。誰もそんな「細切れ」で肉を買わないのだ。僕の料理では300gでも多すぎるんだけどそれより少なく買う気にはならない。

若い世代でビーガン化が進んでいるのもドイツの特徴だそうだけど、むしろ年配の人たちがよくあんなに重たいものばっかり食べられるものだと思う。そう言えば妻が先日「週に1回ビーガン食にして」と言ってきた。僕は大歓迎だ。こういう制限レシピ考えるの好きだし。

 

 

 

下のサイトがHaltungsformの公式ページだ。

 

Home Haltungsform - Haltungsformen

 

 

「私たちについて」のところには、

動物福祉の改善は複雑な社会全体の課題です。それは価値を付与する一連の部門、つまり畜産業、食肉産業、最後に食品小売業、そして消費者も含めた事業活動全体がともに具体的な変化を起こさなければうまくいきません。

とある。

 

細かい基準も書かれている。たとえば豚について、グレード4プレミアムでは、

豚の肥育業の基準を定める綱領のための最低基準

 

必要面積: 法定(一頭あたり1.5㎡)の2倍以上の敷地。

飼育: 常に運動場に出られる小屋、または露地飼育。

敷料: 有機敷料、藁、もしくは同等の土台。

飼料: 遺伝子組み換えでない餌。餌の20%以上は自身の農地かその地域のものである。

プログラム参加義務: この飼育形態で登録されているプログラムへの参加。

動物健康モニタリング: 2022年からは食肉解体場での鑑定データの捕捉と資格をとって行う抗生物質モニタリング。それまでは抗生物質モニタリングを含めた事業への文書での動物健康モニタリング。

という感じ。鶏や七面鳥については品種の指定もあり、ブロイラーのような早く育ちすぎる品種は育てる速度を制限されている。

他にアヒル、ウサギ、牛について定められている。乳牛についても基準値が書かれているが牛乳パックにこのマークがついているのを見たことがない。何のためだろう。

Haltungsformには鶏卵用の雌鶏についてはとくに書いていないが、卵のパッケージには鶏の飼育条件について大きく表示があるのが常だ。良い順に(値段が高い順に)、Bio (有機)、Freiladhaltung (放し飼い)、Bodenhaltung (小屋飼い)がある。小屋の広さと有機かどうかは別の話に思えるが、鶏同士が近いと感染予防のために抗生物質に頼らざるをえなくなるらしい。つまり有機であれば自動的に飼育条件も良い。

 

Haltungsformには屠殺のし方や動物の扱い方についてあまり書かれていないが、屠殺の際に麻酔をしないといけないのはドイツの法律で決まっている。この点がコーランに基づくハラール肉と相容れないらしいということを以前このブログで書いた。

 

記事紹介:ドイツでのハラール

 

ハラールでも、方法は違えど殺される動物の安息を目指しているのは同じなので何か妥協点があればいいなと思う。日本でも一時、仏教的な慈悲にもとづいて食肉を控える文化があったし、動物福祉は現代やヨーロッパに限定されない普遍的な試みなのかもしれない。

 

 

 

記事紹介: アイデンティティ政治3つの元ネタ

 

アイデンティティ政治という概念はいくつか起源があるようだ。それについて解説した2018年10月1日の政治学者Thomas Meyerの記事を訳した。短くまとまっていて分かりやすい。

 

Identitätspolitik – worum es geht - Neue Gesellschaft Frankfurter Hefte

 

Identitätspolitik – worum es geht

Von Thomas Meyer

アイデンティティ政治 何が問題になっているのか

 

アイデンティティ政治」という概念は、ほとんど何もないところから、ちょっとの間に急に政治の議題のトップに躍り出るという経歴をたどった。この概念には3つの起源があり、今でもこの概念に含まれている3つの主な意味をもっている。それらすべてまとめると特定の集団への文化的な所属とその利益だけを代表する政治という概念である。この概念は、ひとつには他の集団に対する優位を得ようとする文化的なアイデンティティ集団の政治のことで、民族に基づく右派のアイデンティティ政治が明確にこれに当てはまる。しかしまたこの概念は、(同性愛者などの)文化的なマイノリティの平等を求める動きも指すので、基本的に多様な意味がついていてそれは使用される文脈の中で初めて解明される。しかしこの概念はあらゆる関連において、経済的、政治的な関心ではなく文化的な関心に力点を置くことで目を引く特徴をもつことになっている。アイデンティティ政治の争いは分配を勝ち取る戦いよりもまず承認を勝ち取る戦いになるが、現実にはこれら3つの次元が溶け合っていることが多い。アイデンティティは(結びつけることはできても)分割することはできないので、アイデンティティ政治はどの種類のものでも二極化し妥協を許さなくなりがちだ。

 

アイデンティティ政治という概念の3つの起源のうちひとつは、1989年にソヴィエト共産主義が崩壊したことでにわかに、失効した世界規模のイデオロギーの立場に対立軸として何が現れるのだろうかという議論が集中的に行われるようになったことである。アメリカの政治学フランシス・フクヤマの、今や「歴史の終わり」が到来しており自由主義資本主義は歴史の解けない謎であることがわかったという状況解釈は有名になったが、この説は長続きしないだろうということがすぐに明らかになった。その代わりに彼の同僚サミュエル・ハンチントンの説が、すぐに多くの人に知られるようになり、今でも多くの人に支持か少なくとも利用されている。彼の説によると、今始まったアイデンティティ政治の時代、つまり文明の衝突の中で、妥協できない宗教でかたまったアイデンティティの要請が大きな政治的争いの中心原因になるという。争いは第一にそれらを通じて分類された国々の間で、そしてそこから派生して、たいていは他国の内部のそれらに所属する集団間で起こる。

 

政治に関して21世紀は避けられない世界の文化衝突の時代になるだろう。なぜならそれら文化は多様な世界観の制約を超えて、人の共存においてけっきょくいつも重要になる中心問題に関して原則的に理解し合えないからだ。しかし文化に囲まれた人間にとっては文化は意味をもつと感じられる所属の最後の可能性であるという。私たちの世紀の終わりに初めて、このような望みのない状況になって、この解釈に似た状況になった。なぜならそれらは、文化を覆う大きなイデオロギー同士の衝突のあとで、初めてまったくむき出しで対立することになったからだと1993年の対話でハンチントンは述べている。気分や苛立ちや恐れ、予言を自分たちに都合よく利用する好機はかなりの程度それに合致した。


この観点から21世紀は文化闘争の闘技場になり、その性質上相互理解のチャンスを拒まれている文化覇権を求める者同士の決戦として、ありそうにない大きな世界大戦の最盛期を迎えるまで至るという(Huntington 1996)。世界は、あらゆる文化の中で権力を握っている原理主義の標的になる。これはもっとも有力なアイデンティティ政治の模範だ。文化はこの見方の中では互いに理解し合い分かり合うことができなくなるほど内部で多様なものになって、イデオロギーで取り繕うことも地理的距離で守られることもなくなる。イデオロギーの戦争のあとには文化の戦争が来る。それは初めは冷たい戦争であっても世界が気づかないうちに思ったより早く熱い戦争に移行しかねない。


近代世界にずっと不穏さが続くことを宣告する、グローバルなアイデンティティ政治の時代のモデルは、事実において適切でない場合でも現実を形作るあらゆる展望をもっていた。宗教、文化、政治のアイデンティティ実業家がすぐに乗り気になって自分たちの実践を正当化するためにこのモデルを受け継ぐ。そして他の多くの人はこのモデルが適切であるかのようにふるまう。なぜなら誰もが他の人の都合のいい実践をあてにして、いい助言を得たと考えるからだ。したがってここモデルは初めから世界中で自己成就する予言となる最良のチャンスがあった。それは、それに強いられた承認の争いが、社会経済的な階級闘争や他の分配の争いに覆いかぶさり圧倒する可能性を秘めていた。これは、あらゆる色合いの宗教的・政治的原理主義に典型的に見られ、イスラム原理主義だけでなく、米国で最も強力な政治的影響力のあるグループとなったプロテスタント原理主義にも見られる。これらすべての文化と宗教が基礎にあるアイデンティティ政治運動において政治権力を得るために宗教的伝統を政治利用することが問題になる。これはそれらが信仰の実践から政治イデオロギーに変遷するということだ。世界規模の比較研究によると、既知の宗教はどれもこのような仕方で政治の道具にされており、そのうちのどれかがもともと原理主義的というわけではない。


二番目に影響力が持続しているアイデンティティ政治の引用元は、フランスの知識人で活動家のアラン・ド・ブノワに作法を与えられた新右翼である。彼の考えが元になっているアイデンタリアン運動と政治の構想は、民族的に純粋で直接的な政治共同体を目指す国民計画である。民族多元主義というのはヨーロッパ中に広がっている右翼ポピュリズムイデオロギーであり、それが特定の民族文化として人種の純粋さの戒律を少し近代的な形にしてよみがえらせている。民族や諸国民の「混合」は、彼らの文化や社会的な結合が衰退した原因だとしている。他の文化からヨーロッパ諸国への移民の受け入れは、民族と文化の自己防衛のための自然権を侵害するだけでなく、移民自身も同様に民族と文化のアイデンティティが損なわれるとする。


一見するだけでもハンチントンの文化同士の衝突の理論と驚くほど近似が見られるこの「民族多元主義」という盲目的な国粋主義の考えは、新右翼によって「アイデンタリアン運動」としてヨーロッパで彼らの政治的な理想像にされた。政治的な信念と意図は両者の場合でまったく異なっているかもしれない。しかしそれらの帰結が収束し、政治上の効果が同じ印象を与えるのは偶然ではない。それらは本質主義的で自然主義的な文化概念から生じ、どちらも似たような考察を基礎においていて、これらの概念を実践的・政治的に使用すると、個々の論者がこの観点で何を政治的に望ましいと考えているのかにかかわらず同じ帰結をともなうのだ。


まず多様な文化は、右派の古い伝統の中の高級と低級の階級付けからは解放されている。これは極右思想のレパートリーを近代化して見せる一つのやり方である。それらの文化はそういうものとしてどんな内容でもまったく同価値であるとされる。さらに文化は自然のものとされ、その結果人間の文化の多様性は、自然の中の種や属のように自然の光を当てられ明確に区分けされたアイデンティティと差異のように見なされる。この論法の結果、人間の文化が文化のままで生物学的な過程のような形をとるため、ファシズム以後の時代にはタブーになっている生物学主義に立ち返る必要がなく、そういった仮定や意図や効果は自分にはないと主張しなくてもすむ。自然のものと見なし民族のものとすることにより、民族多元主義のラベルを貼った文化間の差異の絶対視がおのずと生じ、それらを混ぜ合わせようとすること、つまり実質的に変化させることは人間共同体の文化的生存条件の致命的な退廃のように見えてくる。


したがって文化の民族自然主義的な具体化が前提とされ、まさに文化の平等が「よその」文化は西洋に定着して広まるべきではないという急進的な要求の根拠になる。そしてこれはもちろん新右翼についての事の真相でもある。それらの文化の代表者たちは元いたところに帰るべきだとされるが、それは今はもう外国人を遠ざけるという「地元民」の利益のためだけではなく、彼ら自身の文化の利益と権利のためだとされる。一見すると平等志向の分離の正当化だが、光を当てるとすぐに古い人種差別的な国粋主義であることがわかる。


ヨーロッパの新右翼の思想の中で民族多元主義は、古いタイプの極右におけるあからさまな生物学主義的な人種差別とまったく同じ位置を占めている。しかし、民族多元主義のネオ人種差別の教義は支配や抹消の代わりに民族・文化が互いに分離することだけを要求することで、民主主義や人権と両立可能である印象を与えている。したがってアイデンティティ政治のこの右派の変種の基本原則はアパルトヘイトである。東欧の一連の国々、とくにポーランドハンガリーでの民族・文化を強調するアイデンティティ政治の台頭は少し弱まった形だがまさにこのパターンに従っている。


アイデンティティ政治概念の3つ目の源泉は他の2つとは反対に政治状況の左派の領域でもっとも激しく湧き出ている。これははじめはアメリカでもっとも盛んだったが今ではほとんど世界中に広がっている。そこで重要になるのは排除することではなく包摂である。60年代のマルチン・ルター・キングJr以来のアフリカ系アメリカ人の平等運動がこのタイプのアイデンティティ政治の標識灯となっているのは、この差別された大きな「民族的な」集団がアメリカ社会の主流に組み込まれることが重要になっているからに他ならない。世界のあらゆる地域で社会的・政治的な主流の中では排除されている文化的なマイノリティは増えつつあり、彼らの自信や平等と認められることのアイデンティティ政治は、アメリカの哲学者のジュディス・バトラーが非常に効果的な国際的参与をしたおかげで、根本的な衝撃と大きな注目を集めている。


文化的マイノリティの承認と権利のために左派あるいはリベラルのアイデンティティ運動がそのつど動員されるが、そこでは非常に多様だが、いつもまず第一に文化的に定義されていて社会的には定義されていない集団が重要になる。現在そこに含まれるのは、発展の段階やとくにそれぞれの国の特定の状況に応じ、アメリカインディアン、アフリカ系アメリカ人、ヒスパニック系アメリカ人、女性、ゲイ、レズビアントランスジェンダーインターセックスの人々、高齢者、ホームレス、元精神病患者、障害者などの民族的なマイノリティである。


左派のアイデンティティ政治で特徴的なのは、第一の矛先がはっきりと不利な立場にある集団の平等と解放に向いていて、原則として終結しない点である。なぜなら平等な地位が達成されるたびに必ず、まだ未解決の承認を求める要求が残っていることが明らかになるからだ。戦後の数十年に西洋世界で資本主義を飼いならすことに成功したように見えたがその後、アメリカと、のちにヨーロッパ各国で承認をめぐる戦いとしての左派アイデンティティ政治の議題と運動力は、古典的な左派の社会的・経済的分配の対立を凌いだようである。同性婚やそれに続いてすぐ同性愛者の養子受け入れが世論で議論され、それらは社会的な不平等や経済強者の制御よりも重要になっているようである。問題は、アイデンティティ政治の新しい議題に左派が固定しすぎていることがどのていど左派の弱体化やポピュリズム的な右派の強化の原因になっているかであり、それは現在リベラルや左派界隈の内部での激しい議論の争点になっている。

 

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上の記事で1つ目に紹介されているハンチントンアイデンティティ政治の概念についてはアマルティア・センが批判を加えていたと思う。下のブログ記事で読書案内がされていて分かりやすかったので貼っておく。

アマルティア・セン『アイデンティティと暴力』 - 西東京日記 IN はてな

 

 

 

2つ目に解説されているヨーロッパ新右翼アイデンティティ政治がよくこのブログで話題にしている問題と関わる。文化多元主義という名目で文化を本質的なものとみなし、文化が混ざらないよう守るというていで移民排斥を行うものだ。これは一見してレイシズムには見えないという点で、意外性があって巧妙だ。

文化の違いを尊重するつもりでけっきょくレイシズム的になるという例は以前他のところでも紹介していた。

論文紹介:移民相談所の性差別と人種差別

「異文化について理解しましょう」という題目がレイシズムをなくすのではなくむしろ強めてしまう場合があるらしい。文化の違いを固定したものと見なし、それに基づくレイシズムが行われている。それをÉtienne Balibarは「人種なきレイシズム」と呼んでいる(Balibar 1998: 28)。

これは右派の分離主義ではなく、移民統合を目指すソーシャルワーカーが陥りがちなレイシズムである。

想定された移民の異質性の強調が前面に出る一方で、構造的なレイシズムと「主流文化」(Rommelspacher 1995)の特権は問題にされないままに終わる。

 

 

3つ目の起源を広めたのはジュディス・バトラーらしいが、これだけは誰が言い出したアイデンティティ政治概念なのか書かれていなかった。これはたぶんフェミニスト学者バーバラ・スミスが考案したものだ。

バーバラ・スミス

3つ目のものは平等を目指しているのでまったく賛成できるが、それでもそれをアイデンティティと呼ぶことに少し違和感が残る。

 

 

たとえば、同性愛者に対して「四六時中性愛のことを考えている」とかバイセクシュアルの人に対して「性に奔放」といった偏見がある。これらは偏見なので、じっさいにはそんなことはない。パートナーがいない人でも、もう何年も恋愛していないという人でも、同性愛者は同性愛者であり、それは異性愛者と変わらない。

ある異性愛者が男好き/女好きであることを自らのアイデンティティだとして強調する場合、その人は恋多き女だったりドンファンだったりするだろう。

そのことと、同性愛者が権利運動で自分の属性を強調するのはまた違う文脈の話に思える。こちらは、ある属性が差別を受けているから、その社会的な状況に応える形で、該当する自分の属性のひとつを選び取って掲げることだ。足を踏まれている人は足の話をするだろうが、別にもともと足にこだわりがある人だとは限らない。

それを分けて考えたい。これはスピヴァクの「戦略的本質主義」という考え方が近いのかもしれない。

 

 

 

そう言えば最近、友人が書いた

元橋 利恵 著『母性の抑圧と抵抗――ケアの倫理を通して考える戦略的母性主義』

という本を読んだ。

母になると、育児の負担が大きいだけでなく、母であることを口実に社会から色々な理不尽を押しつけられる。だからフェミニズムはほんらい母であることを強調することに対して警戒しがちだ。

しかし、反原発反戦運動など母親としての政治活動は昔からとても盛んで、見過ごせない政治的意味がある。また育児やケアを建前上ジェンダーレスなものと表現するさいきんの風潮のせいで女性に負担がかかる構造も見えにくくされている。

こうしたことから著者は「戦略的母性主義」というのを提唱している。この戦略的というのも、社会的な状況に応える形で母である自分を選び取るというニュアンスだろうと思う。

 

 

 

 

記事紹介: アイデンティティ政治と東ドイツ

前回ここで紹介したSPDの政治家Wolfgang Thierseによるアイデンティティ政治批判にいくつもの反応&反論があったので紹介する。


記事紹介: ドイツのアイデンティティ政治をめぐって

https://ottimomusita.hatenablog.com/entry/2021/04/21/000102


Thierseはここで「アイデンティティ政治」の行き過ぎに警鐘を鳴らしている。右派のアイデンティティ政治は、不寛容や憎悪や暴力にまでいくことは批判しつつも国民の歴史や文化は重要だとしている。一方で、左派のアイデンティティ政治とされるマイノリティの権利擁護は行き過ぎると不要な反発や混乱、分断を生むとしている。

一応は左右両方を批判する形をとっているが、右派に対しては憎悪や暴力を諌めながらも国民文化は重視しているだけだ。なので、実質は左派のアイデンティティ政治への批判になっている。

こういう意見が左翼の政治家から出てきたので反応も大きかったようだ。

 

 

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まずジャーナリストのKlaus WalterのTAZの記事。2021年4月1日。

 

Identitätspolitik in linken Szenen: Das Normale ist politisch - taz.de

 

Thierseはジェンダー関連の政治についていけない普通の労働者層の支持回復を狙う。今は「普通さ」のルネッサンスだ。政治運動が盛んだった68年以降しばらくは普通であることは権威主義的でカッコ悪いと思われていたが、そのあと毛沢東主義の左翼の一派が普通の労働者にアピールしていたという。

 

VON KLAUS WALTER

Identitätspolitik in linken Szenen

:Das Normale ist politisch 


左翼界隈のアイデンティティ政治: 普通は政治的である

アイデンティティ政治は多くの人にとって不快である。なぜなら彼らには関わりがなく「普通」と見なされているからだ。左翼の文化環境と普通さの関係について。

 

 

色のある服はKグループではタブーだった。ベトナム戦争反対のデモ。[写真の説明]

 

「普通の人々が私の勇気に感謝していることをご存知ですか」とWolfgang ThierseはZeit誌で尋ね、大規模なマジョリティ叩きに反対した進撃を自分で讃えた。

かつてDDRの独裁に反対して戦ったThierseは、こんにち私たちの自由を脅かすものが何かを知っている。それはジェンダー・ニュースピークを用いた言論警察と風紀テロリストだ。

普通であることはいつも静的だと考えられていて、変化を妨げ、他方を非普通あるいは「他者」と名指すために持ち出される。

「AfDは見られなかった人たちを可視化した」と12月に社会学者のKlaus DörreはTagesspiegelで述べた。この党は労働者に「普通さの尺度である」意見をもっている感覚を与えた。

 

Cora Stephanは新チューリッヒ新聞[NZZ]で彼らの側にある真実の普通勢力について書いていた。

「普通の人は静かに暮らし、しょっちゅう煩わされたくないだけだ。彼は自分の仕事をし、税を払い、趣味と少し地域の一体感に耽る。彼は日々自分を新しく発明する必要はないし、いつもすべてに頭を悩ましていたくはない。日々の革命?いいえ、けっこうだ。個人的なことは政治的である?やめてくれ」

 


普通さをアピールするのは保守だけではなく、伝統的な左翼からも受けているという。普通の人というとき、たいてい暗に外国人ではない男性が想定されていると指摘する。

tazも「ゲイで都会の移民としての経歴の方がEisenhüttenstadtの普通の人としての存在よりも注目市場で多くの資本を生み出せる」とNワード[Normal]を使っている。

しかしまた、ゲイの都会の移民はEisenhüttenstadtの普通の人々の中に入れば彼は自分の身の安全を心配しないといけない。

歴史的に見れば普通の人々のルネッサンスは驚くべき現象だ。1968年の左翼には普通の人々はかっこよくないと思われていた。権威主義的性格であり、適応的でお堅くて息苦しいと。それは革命の分裂過程から生じたいくつもの毛沢東主義政党の大流行とともに変わった。

Kグループの男たち(女はほとんどいなかった)は、彼らの革命の主体(客体の方が正確だろう)つまり労働者階級を怖がらせないためにはっきり普通であるように見せた。長い髪やカラフルな服装、ロック音楽やドラッグとは、ドイツのワーキングクラスは関わりたくなかった。普通さをこれみよがしに見せてKPD, KPD-ML & KBWの政治将校らは革命のためにプロレタリアートの支持を勝ち取れると信じていた。

西ドイツの共産主義同盟では、Winfried Kretschmannも数年の普通主義訓練を修了し、彼は今もその恩恵を受けている。この元毛沢東主義者はとくに極めて普通に見える性質のおかげで人気がある。緑の党は選挙戦をKretschmannのことだけを指す「あなたは私を知っている」という3語のポスターで勝利した。農民は知らない物は食べないという知識の賢い応用である。

「キャンセルカルチャー」とくくられたもの用いたいわゆる「アイデンティティ政治」に対する防衛戦で、Kretschmann、Thierseと仲間たちは普通さに訴え、昔ながらのパターナリスティックな左翼のように「小市民」や「労働者」を引き合いに出す。普通の人は戦略の中で役割を果たす。当然それも極度にアイデンティティ政治的なものだ。ただし上から1つだけ取り上げたアイデンティティだ。伝統的なわかりやすさや、ジェンダーや移民の面倒のない秩序としての役割だ。


「普通」の他に「流行の」というレッテルも再びよく使われているという。これはかつて左翼が資本主義や消費社会を批判するときネガティブな意味で好んで用いた形容詞らしい。今は「流行りのアイデンティティ主義」のように使われているそうだ。

このように、昔ながらの左翼までもが架空の普通さを引き合いに出し、非政治的な普通の人々という新しい標的集団を設定することで、反差別運動を妨げようとしていることを著者は批判している。

 

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マジョリティの(右派の)アイデンティティ政治に関しては東ドイツがよく取り上げられる。東ドイツ人はマジョリティである白人ドイツ人の中では、学歴、所得、地位などが低い傾向にあり、相対的にマイノリティであるという微妙な立場にいる。

アメリカだと南部の白人、イギリスだとチャヴと呼ばれる労働者階級にあたる、マジョリティの中の置き去りにされたと感じているという人々だ。

こういう人々がポピュリズムの支持層になるとよく言われる。実際そうなのかは実証研究を見ないとわからないが。

 

 

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以下は2021年3月のZEIT紙の記事で、これもThierseに応答する形で主に東ドイツについて5人の論者が書いている。

 

Identitätspolitik: Wer wir sind. Sind wir wer? | ZEIT ONLINE

 

Identitätspolitik

:

Wer wir sind. Sind wir wer?

AUS DER ZEIT NR. 11/2021

 

Von Jana Hensel, Martin Machowecz, Steffen Mau, Katharina Warda und Anne Hähnig

14. März 2021, 11:07 UhrZEIT im Osten Nr. 11/2021, 11. März 2021

アイデンティティ政治

私たちは何者か。私たちは何者かなのか

 

Wolfgang Thierseは個別集団の利益への固定化社会の話し合いを壊すことを批判した。では東ドイツについての議論はいくつのアイデンティティ政治に耐えうるのか。5つの回答。

 

 

Endlich raus aus der Isolation

Wer sich mit anderen vergleicht, lernt etwas über sich selbst

Von Jana Hensel

 

ついに孤立から出た

自分を他者と比べる者は自分について知る

 

 

Jana Henselはアイデンティティ政治の議論で東ドイツの人々は周辺的にしか扱われていないとする。

しかしどの範囲まで東ドイツの議論がアイデンティティ政治問題の一部をなすのかという疑問がある。

アイデンティティ政治は確固たる政治運動というよりも(左派の)思想方針である。それはとくにさまざまな民族、性、文化、社会的な部分集団を考慮することで、差別を指摘し、それぞれの集団の成員がいる状況を改善し、それらにもっと承認と影響力をもたらそうとする。たしかにアイデンティティは決まった大きさではなく常に開かれたもので生成過程で理解され、絶え間ない変化ととりわけ話し合いに晒されている。

 

東ドイツ人という集団のまとまりはアイデンティティ政治という言葉が流行る以前から意識されていたという。しかし東ドイツ人は白人という点では移民に対してマジョリティでもあり、アイデンティティ政治との関係を定義するのが難しいという。

 

東ドイツ人を本質化して固定して捉えずに、データや価値観から他の集団と比較して明らかにしないといけないとしている。しかし、ドイツの再統一のような出来事は歴史的に珍しく比較も難しいという。

 

東ドイツ人の中の世代間の違いは移民と似ているという。詳しく書いていないが、若い世代の方が適応しているということだろうか。

 

再統一の過程は周辺化と副次化の過程として描かれる。つまり、東ドイツ人は古典的なアイデンティティ政治の基準とは少しずれているが、この集団を矛盾から逃れられない役割交代として説明することはきわめて意義がある。

 

 

 

 

 

Wir mischen doch längst mit

Unsere Haltung sollte lustvoll sein, kräftig und frech

Von Martin Machowecz

私たちはとっくに関わっている

私たちの態度は貪欲で力強く不遜であるべきだろう

 

 

アイデンティティをもたない者は何かが欠けている。しかし自分のアイデンティティを何より中心に置く者も何か欠けている。

東ドイツは奇妙な化学結合である。一方で東ドイツ人は歴史に誇りをもっているが、他方で歴史との付き合いに恥ずかしさを感じている。一方で東ドイツ人は地域愛が強いが、他方でミュンヘンやニューヨークにいると急に激情に燃え上がる。

 

東ドイツ人は自信のなさゆえに方言を隠したり、かえって自分たちの価値を誇張したり、被害者意識から傲慢になりがちだという。

 

私たち東ドイツ人はまた不利な歴史をもつことも明白だ。ドレスデンで育った人はエッセンやバイロイトの市民よりも四十年長く独裁政権下にいた。ライプツィヒで育った人は過去30年間、困難を脱することで過ごし、ときには嘲笑されるままになり、ときにはペテンにかけられた。エアフルトやデッサウの今の若い人さえ遺産や富の見込みが少ない。そしてそのことを私たち東ドイツ人はあまりに長い間議題にしてこなかった。

そう、それについて話すことは東ドイツ人の新しい自意識の一部だ。

 

東ドイツ人である彼は、東ドイツ人ができることや歴史に自信をもたないといけないという。そして西ドイツ人は東と争うことを恐れて引っ込んではいけないという。東ドイツ人が他者に自分のことについて話されるのを嫌がるのは統一の反対のモデルであり、ドイツの二元制で、何も産み出さないと書いている。

 

 

 

 

Ossismus gibt es nicht

Über Ungleichheit müssen wir trotzdem reden

Von Steffen Mau

オッシー差別は存在しない

それでも私たちは不平等について話し合わなければならない

 

Steffen Mauによると、東ドイツ人はアイデンティティ政治をよく知らないし、むしろ反対しているという。それは、この言葉が都会のインテリのもので馴染みが少ないためと、DDR時代の思想統制を連想させるためだそうだ。

 

一方で、東ドイツ人はなぜマイノリティとして自己主張しないのかと自問する。東西の不平等は相変わらず大きいし、アンケートでも東ドイツ人の半数が自分たちを二級市民だと感じているという。

 

しかし、東ドイツ人はどのようなアイデンティティ政治の態度に出ることができるだろう。

東ドイツ人は民俗学的なやり方で探り出される集団にはなりたくないし、まして西部の常識からの逸脱の中にしか捉えられない集団にはなおさらなりたくない。

このように東ドイツ人を捉えるのは難しい。どのアイデンティティ政治動員にも差異が必要だ。差異は他の人と共有しない経験に依存するからだ。そこからは当事者性だけでなく、ときにはよりよく知っているという情熱ももたらされる。東部の経験をもたない人はそれについてとやかく意見してはいけない。右翼ポピュリズム的な政治家は東部のマイノリティ感情を資本にしようとする。「[再統一後の]転換の完全な終わり」や「DDR 2.0」はアイデンティティ主義者が東部人を打ち立てたり政治的に動員したりする目的のための歴史を歪曲した僭称だ。

東ドイツアイデンティティ政治は、むしろアイデンティティにほどよく資源を扱わせる障害物に置き換わるだろう。本質主義的な集団主張はたいてい誤りに陥る。「東ドイツ人」を指すどの言葉も該当集団の多様性を隠してしまう。

集団に対する差別としての「オッシー差別」は存在しない。だからといってアイデンティティは重要ではないとか、関心とアイデンティティがときに乖離しているということではない。そうではなく、先験的にアイデンティティが関わっているわけではないということだ。利害を調整するために文化的あるいはアイデンティティ政治的な上部構造は必要ない。

一方で西ドイツ人には耳を傾ける義務があるとする。アイデンティティ政治で、マジョリティは負い目を感じさせられ苛立ちやすい。説得には、属性を固定化するより論拠の提示が重要だとしている。

 

 

 

Ich bleib lieber Jammerossi

Wieso für Schwarze Ostdeutsche Identitätspolitik wichtig ist

Von Katharina Warda

私はオッシーの嘆き節のままでいい

なぜ黒人の東ドイツ人にはアイデンティティ政治が重要か

 

私は独りではないと理解するために私は36年間を要した。私はおそらくずっと独りではなかった。誰が知るだろう。私の同胞たちはこの社会では不可視の存在だ。

 

私の言わんとする所は私の経歴をもとにするともっと明らかになるだろう。1985年に私はヴェルニゲローデに生まれた。母はドイツ人の工場労働者で父は南アフリカの学生だった。彼とは私は一度も知り合えなかった。それは私の両親の関係はDDRではよく思われておらず、連絡も疎遠になった。1989年に私は5歳で、幼稚園で眠る子で初めてブニーのノートを読もうとし、パイオニアになることを夢見た。それから壁が開き、他の東ドイツ人のように私の人生は完全にひっくり返った。

 

初めの数年の幸福感と夢の消費社会の後、「転換」として私の記憶に残る数年が来た。失業率はとくに女性において膨大に増えた。私の母と継父も失業した。

 

その後、継父はアルコール依存症になり自殺、母親は鬱で長期失業に。

子どもだった私にとって転換の数年は地獄だった。私は実存的不安と感情的な怠慢の中で育った。さらにテレビの中では私の家族のような人生は普通ではないことが映し出されていた。そこにはとくに没落の経験がある東ドイツ人はせいぜいジョークキャラとして登場するだけだ。現在も多くの東ドイツ人の状況は同じか似たようなものだ。多くの人にとって転換の数年は成功の歴史ではない。当時議論に上らなかったか「オッシーの嘆き」のような名前で軽んじられた経験である。

 

私の子ども時代の地獄はさらに別の面もある。黒人の子どもとして私は直接にレイシズムと90年代に爆発的に拡大した極右の被害にあった。私がRostock-LichtenhagenやHoyerswerdaなどのテレビ番組で迫害を追って見ているとき、その憎悪や殺害に及ぶ暴力が間接的に自分にも向いていることを知っていた。Gubenやマクデブルクでのようなレイシズム的な狩猟は死の不安をともなって認識された。鉤十字の落書きとナチスの行進と右翼の若者グループのあるWernigeröder通りでは、危険は日々手が届くほど近くにある。二級階級で私は帰り道に職業学校の女学生たちからNワードで非難され石を投げられた。放課後に私にとっては真の授業が始まった。逃げて隠れて次第に無感覚になった。私はすぐにこの地獄の故郷に出口がないことを学んだ。

 

当時、私は自分の経験で、東ドイツ人としてもレイシズムの被害者としても無限に孤独を感じた。しかしとくに両者の組み合わせ、黒人の東ドイツ人として孤独だった。私の歴史は世論の中でほとんど代弁されなかった。この生活世界の不可視性はそれ自体が地獄だった。家でも東ドイツの軽視や人種差別の経験については語られなかった。私の両親は自分の問題にかかりきりだった。私はすべてを恥と不安と内なる孤独の中に埋めた。

 

彼女は今でも黒人であるために本当の東ドイツ人として認められないという。

あたかもすべての東ドイツ人は白人で彼らのイメージの中で同じだと言うように。しかしDDRが灰色でも白黒でもなかったように、東部は一つの物語で十分に語れるほど均質な場所ではない。東部は私が知るように人と歴史に多様性のある複雑なところだ。そしてその中には東ドイツ有色の人々や黒人の東ドイツ人の多くの歴史もある。

 

彼女は「Dunkeldeutschland」というプロジェクトでさまざまな出自の東ドイツ人に焦点を当てたそうだ。

それには、多様性との議論と、自身の経験と、そしていかにそれらが構造的に社会的な権力構成に分類されるかが必要だ。それはこの多様性の可視性を必要とする。そしてそれゆえ、今は強い逆風にあっていてとくに「嘆き」のような言葉で軽視されているアイデンティティ政治が必要である。好きなように名づければいい。私や他の人がこのまま不可視でいるよりは私は嘆き節のオッシーでいたい。

 

 

Reden wir den Osten nicht nur schön!

Wir bräuchten mehr Selbstkritik – und Streit mit den Älteren

Von Anne Hähnig

東部をいいようにばかりは言わない

私たちにはもっと自己批判と上の世代との論争が必要だろう。

 

近年、東ドイツ人のアイデンティティが注目され、東部出身の有名人がよく経験を語っているそうだ。アイデンティティ政治の隆盛もその一因だという。しかし西ドイツを批判するばかりで、十分に自分たちの歴史と向き合っていないと著者は指摘する。

映画監督のDörte GrimmとSabine Michelは、去年著作のために東部の家族に過去についてインタビューしたときに、これを明確に述べている。MichelはZEIT紙に「私は長い間この対話が欠けているという感覚を抱いている」と話した。

 

もちろん今もかつても(財政的なものも含め)対処があった。シュタージ書類機関、処理財団、多くの記念地、連合がそれをした。しかし、真の自己確認や世代を超えた討論は東部には未だ欠けている。

 

家庭で子どもが親にDDRや転換の時代について尋ねることはあったが公に議論はされなかったという。

さらにこんにちまで東ドイツ人の自己英雄化もある。東ドイツ人たとえばいくどとなく、転換後の時代が彼らにある種のアヴァンギャルドをなす「変革の力」をもたらしたと主張する。

 

現実にはこれは立証されない。東ドイツ人が時代の変わり目に対応する特別な能力をもっているとは知られていない。反対にむしろ、またもや新しい社会の変動を迎える意欲をもっていない印象を与えている。ではなぜ変革の力について語られるのだろうか。それはアイデンティティ政治もまた、マイノリティはいくらか進歩的で親しみやすく完結していると表現されることで促進されているからだ。 

 

後者についてはまた、東ドイツの社会は(12年間のナチス独裁のあとの)40年間のSED[ドイツ社会主義統一党]の独裁から何らかの形で強くなったという含みがある。それはありえるだろうか。あるいは私たちはそう言うことで、独裁が必然的に長期に渡って東ドイツ住民を害しているという事実を無視しているのだろうか。

 

「強い男」への憧れ、レイシズム的な世界観への傾倒、国家制度やエリートに対する拭いがたい不信感、これらは東ドイツでとくによく目にする。もしかしたらそれも独裁の結果なのではないか。

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東ドイツのイメージというと、『グッバイレーニン』『善き人のためのソナタ』『 僕たちは希望という名の列車に乗った』『ある画家の数奇な運命』などの映画で聞き知っているつもりでいるけど、これらの映画も一面的なのかもしれない。

Katharina Wardaさんの"Dunkeldeutschland"(ダークドイツ)は媒体が何なのかもわからないけれど、興味を引いた。5人の中で彼女だけがアイデンティティ政治に肯定的だが、すでにステレオタイプ化した東ドイツ像ではなくさまざまな背景を含む東ドイツ人に光が当たることを目指している。

 

Henselはアイデンティティを本質化せずに他集団との比較で自らを知るべきだとしている。Machoweczは、劣等感からアイデンティティ固執するよりも、堂々と対等に関わるべきとしている。Mauは東ドイツアイデンティティが右翼に政治利用される危険性を指摘する。Hähnigは東ドイツアイデンティティとされるものがポジティブなものだけで歴史と向き合っていないという。

 

 

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アイデンティティ政治の議論を見ていてぼくが思い出すのは、「診断名の卒業」という言葉だ。昔、不登校関係のボランティアに行っていたときに支援者の人がその話をしていた。

自閉症スペクトラム発達障害の人は、初めて病院で診断を受けたときにしばしば、何か救われたような、認められたような気がするという。それは自分の行動特性を自閉症ADHDの障害理論で説明できると、自身を理解する上でも他人にわかってもらう上でも都合がいいからだ。

しかし、それで生きづらさや人付き合いの難しさがすべて解消されるわけではないし、同じ障害をもっていても色々な人がいることがわかってくる。そして、障害特性こみで自分自身の個性を理解するのにもなれると、「私は自閉症だ」というのをそれほど強く意識する必要がなくなる。

それを「診断名の卒業」と形容していたのだと思う。昔に聞いたので少し違うかもしれない。

診断名を「卒業」した人であっても、たとえば発達障害者の権利を主張する場面では「私は自閉症だ」と改めて公言した上で意見を言うかもしれない。同じ属性をもつ人と連帯したり、自分の立場を明確にしたりするために必要になるからだ。

この場合も「アイデンティティ政治」と呼ばれるのだろう。しかし、自分自身が何者かを考える上でその属性がもはや大して重要でなくなっている人でもアイデンティティの活動のように言われるのは少し違和感がある。

特性の属性がイコール自分自身ではないし、アイデンティティの中でその属性がどれくらいのウェイトを占めているかも人それぞれ。社会でその属性が不平等に扱われているから、反対する都合上その属性を掲げないといけない。それを他人がアイデンティティという言葉で形容するのは、何か私秘的なところに土足で踏み込むような厭な感じが、ぼくはする。

記事紹介: ドイツのアイデンティティ政治をめぐって

アイデンティティ政治が話題である。

たとえばこんな話↓


“Us Too!”のポピュリズム: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)

 


これは長いけど↓もともとアメリカの話なのかな。


忘れ去られた異端者らの復権: トランプ政権誕生の思想史 (< 特集> 2016 年大統領選挙とアメリカの現在) 会田弘継 - 立教アメリカン・スタディーズ, 2017

 


アイデンティティていうとエリクソンの心理学が思い浮かぶのだけれど、「アイデンティティ政治」と言うときにはこの言葉は、それとはかなり違う意味で使われているようである。そのため、ドイツ社会民主党(SPD)の政治家Wolfgang Thierse は下に紹介する文で「社会はどれだけ多くのアイデンティティに耐えうるか」と問うているが、アイデンティティはそもそも定義上人の数だけあるのではないのかと、しっくりこない印象を受ける。


アイデンティティ政治というときのアイデンティティは、属性とか所属のような意味で使われている。もとの意味でのアイデンティティならば、一人の人間が自分のアイデンティティを一つの属性で表すことはまずないだろう。たいていの人は色んな役割や性質や属性の集まりとして自分をとらえていると思う。


そのうちの一つの属性を強調しないといけない場面というのは、差別とか侮辱とかでその属性のために攻撃されたり不利益を被ったときだろう。これが、(左派やリベラルの)マイノリティのアイデンティティ政治と呼ばれている。

差別を受けることが、エリクソンの言うアイデンティティの危機と同じものなのかというと何か違う気がするし、特定の属性に関して集まって政治的な運動をするのもアイデンティティというほど個人的で内省的なものではないように思える。

マイノリティに属する個人にしてみれば、「この属性をもつ人はこういうものだ」という確固たるアイデンティティのようなものはむしろ個人の自由を制限する偏見として避けたいものなのではないか。


「日本人のアイデンティティ」とか「ドイツ人のアイデンティティ」のような用法はまだ理解できる。これを守ろうとするのが(右派の)マジョリティのアイデンティティ政治なのだろう。


そういう、この用語がまだよくわかっていない状態を出発点としてこれからちょっとずつアイデンティティ政治なるものについて調べていきたいと思う。例によってドイツでの右翼ポピュリズム関連の話題で、アイデンティティ政治はさいきんよく出てくるのでちょっと追ってみてここで紹介する。

 

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SPDの政治家Wolfgang ThierseがFAZ紙に寄稿した文をSPDがネットで公開している。

 

https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&url=https://www.thierse.de/startseite-meldungen/22-februar-2021/&ved=2ahUKEwjuzb2tiY3wAhXGgP0HHTsHCHcQFjAAegQIBRAC&usg=AOvVaw3BDK7w3EBhEyhjjhv7Hlqy

 

FAZ-Beitrag von Wolfgang Thierse - "Wie viel Identität verträgt die Gesellschaft" Identitätspolitik darf nicht zum Grabenkampf werden, der den Gemeinsinn zerstört: Wir brauchen eine neue Solidarität

Wolfgang ThierseのFAZ寄稿文 「社会はどれだけ多くのアイデンティティに耐えうるか」アイデンティティ政治は共同体を壊す塹壕戦になってはいけない。新しい連帯が必要だ。

 

「かつては宗派であり、のちにイデオロギーであったものが、こんにちではアイデンティティだ。それは所属を知らせる便利な手段になっている」とSimon Straußは数週間前にこの雑誌に書いた。「宗派」や「イデオロギー」が過去にあまりに苛烈で血なまぐさい争いにつながったことを同時に思い出させる的確な見立てだ。今また別の規範概念のもとで歴史をくり返すのだろうか。いずれにしても文化的な所属というテーマは、分配政策上の公平性という問題としていま私たちの西洋社会をかき乱し分断しているようだ。民族的、社会的、性的なアイデンティティの問題は勢いを増し、人種差別、ポスト植民地主義ジェンダーについての議論は激しく攻撃的になっている。これはおそらく多元化する社会や社会的な確執を書き表す上で避けられない議論だろう。これは社会的関心や注目、影響力や承認、つまりは文化的な分け前をめぐる争いとしてとことん戦い抜かれる。

 


多様性を平和的に実践するには、民族や文化、宗教が多くあるだけでなく、法の尊重や言語などの共通性も必要だという。

さらにそれだけでなくつねに新しい理解が求められていることは、自由、公正、連帯、人間の尊厳、寛容といった概念、つまり私たちの自由で開かれた社会を支える価値観、そして歴史的に形作られた文化的規範、記憶、伝統において、何が互いに異なる私たちを結びつけ、何が私たちに課されているか、である。このような仕方で定義されたアイデンティティは、右派やときには左派が目指すアイデンティティ政治とは反対のものである。


右派のアイデンティティ政治の不寛容や憎悪や暴力を批判しつつも、故郷や郷土愛、国民文化は重要だとしている。

それらは過ぎ去った過去の反動的な残滓ではない。ヨーロッパの近隣や地球儀を眺めても国民の歴史的意義は終わっていないことがわかる。そして今またパンデミックがこの連帯する共同体、つまりは国民福祉国家がいかに必要かが示された。激動の時代に社会的、文化的な故郷を定めることへの需要は大きい。この需要へのひとつの答えは国民だ。それを認めようとしないのはエリート的で傲慢な愚かさだと思う。

 

たしかに私たちが経験している変化は、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーの伝統の中の均質な国民文化という幻想をけっきょくは廃れさせた。しかしそれにもかかわらず、文化は、単なる文化や文化間のマクドナルド化した世界や文化プラズマ状態ではない。


文化は変化し続けるものだが、生活様式や芸術や記憶などの合奏として今も重要だとしている。そして、マイノリティの権利を求める左翼のアイデンティティ政治の問題は、マジョリティ文化を求める権利を認めないことだと言う。

これらがたんに保守や反動やまったくの人種差別だと非難されるべきではないことを受け入れられないという危険がある。


さらにキャンセルカルチャーはコミュニケーションや議論が足りないせいだとする。

他の逸脱した見解をもつ人や指定されたものと違う言葉を使う人を、メディアの公開議論や大学から排除することは、私には左翼的とも民主的な政治文化だとも思えない。

自分が驚き呆れたということや主観的な経験は根拠を示す議論に取って代わるべきではない。個人の経験の側面は、胸が痛むものでも、共感できない反対意見の評判を落としたり議論から排除する口実として利用してはいけない。犠牲者の話は聞かなければいけないが、それ自体が正しいわけではなく、判決を下して議論を決してもいけない。

 

白人の優位性のイデオロギーへの批判は白人男性の原罪神話になってはいけない。構造的で私たちの社会のどこにでもある人種差別という話は、白人ならばすでに有罪だというモットーにしたがって、避けられないものを付与する。


そのため、文化盗用批判や言葉狩りで不要な混乱と反発を生むとしている。

そうするとなおさら人種差別の非難が正しかったことになる。悪循環だ。

 

ジェンダーや差別的な駅名の変更についても、

ジェンダーに配慮しマイノリティ全般にも配慮した言語を要求することはどんな場合も共同体のコミュニケーションを容易にするとはかぎらない。大学教員が、彼らの学生がどのように呼びかけられたいか、「Frau」か「Herr」か「Mensch」か、「er」か「sie」か「es」かを怯えて不安げに問い合わせたなら、それはもはや無害とは言えない。そしてそれをやり過ぎだと思う人は反動的ではないし、命令や禁止による言語規制に反対する人も同様に反動的ではない。

私たちは新たな偶像破壊を経験している。名前の抹消や記念像の倒壊、知の巨人の密告はたいてい革命の血塗られた転覆に属するものだ。こんにち問題となるのはむしろ重くのしかかる厄介な悪い歴史からの象徴的な解放である。そのさい主観なショックは、名前や記念碑や人物の意義の歴史を詳細に見ることよりも重視される。これはMohrenstraßeやOnkel Toms Hütte[地下鉄の駅名]の例でわかる。この名前は不快で私は傷ついた。だから変えてしまわなけれいけない。これは決定的な行動原理である。歴史の浄化と清算は、これまでは独裁者や権威主義的体制や宗教や世界観の狂信者のすることだった。

 

社会的、文化的な苦労を増やすことを目的にするのは左翼アイデンティティ政治の問題だと私は思う。むしろ目標は受け入れられた多様性を平和的に生産的に実践することであるべきだ。これを達成するには個々のアイデンティティや個人や集団の利益を認知させ実現するために労力をかけるだけでは足りない。さらにより大きな範囲で、自分自身を共同、共通善と関連させて考え実践し、したがってまた自分自身を相対化させる意欲と能力が必要である。かつてRalf Dahrendorfが「所属している意識」と名付けたものはますます重要になっている。いずれにしても多様性を担う人は同時にコミュニティを担う人でないといけない。

多様性と他者性への敬意がすべてではない。それはむしろ規則と責務の尊重、そしてまた多数決の受容に組み込まれていなければいけない。そうでなければ過激な意見の温床や認識の深い溝や競合するアイデンティティ集団の主張によって、とくにデジタル世論では、社会的結束は危険にさらされるか、すっかり破壊される。なぜなら多様で社会的、文化的に断片化した「特異点の社会」(Andreas Reckwitz)では社会的結束はもはや当たり前ではなく、それは民主主義的な政治と文化的な尽力と、とりわけ社会民主主義の目的にならないといけない。それらに欠かせない文化についての提案は、重要なのは連帯であり、連帯は一方的な関係や他者に反して要求する関係ではなく、それは相互の関係と包括的な社会全体を目指すものだということだ。

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政治活動は対立を生むから、相互理解と連帯を求めるというのが要旨だろう。

しかし、そういうコミュニティオーガナイジング的な活動はすでに各地域で行われているのではないか。異文化交流のためのイベントとか、宗教間のダイアログとか、LGBT関連の読書会とかは、該当の協会や個人によっていろんな規模で定期的に行われている。

コミュニティオーガナイジングにはいくつか利点がある。対面だとネットほど不穏だったり無礼になったりしにくいだろう。また主体的で個人的な発言は誰かに、代弁してもらうのと違って、属性でひとくくりにして擁護したり糾弾したりすることも少ない。

そういう活動は言われるまでもなく大事だから、じっさい各々が実施している。でも興味がある人しか参加しないからあまり大きな話題にはならないし、注目もされないのかもしれない。

だから別の場面では不公平や対立を明確にする政治活動も必要になる。「そんなやり方では理解を得られない」とアドバイスする人は、「そんなやり方」でない取り組みに関しては注意を向けてすらいない。というのはよくあることだ。

 

上の文で出てきた「文化のプラズマ」というのはMichal Schindhelm の造語である。

Schindhelmの「文化のプラズマ」について書いた文を見てみる。

 

 

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https://www.degruyter.com/document/doi/10.14361/9783839435120-009/pdf

 

MICHAEL SCHINDHELM

Neubeginn oder Übernahme? 1

Die Erosion des öffentlichen Kulturauftrags und die Entstehung des Kulturplasmas

新しく始めるか、継承か

公的な文化的使命の風化と文化プラズマの出現


彼は劇場支配人として国の文化政策に携わっていた。(右派の)マジョリティのアイデンティティ政治が求めるものが仮に自国の伝統文化の保護と促進であれば、該当するのは文化政策である。

ドイツで前に、ドイツ国民としての文化や伝統のあり方が問題になったのは30年前の再統一のあとである。その頃は旧東ドイツが無くなるため東側の劇場や美術館が衰退しないよう補助金注ぎ込まれていたそうだ。しかし今は多くの劇場が衰退しつつあるという。

 

最近のベルリン国民舞台の劇場主についての人事は、ロストックやデッサウ、Halberstadtや Gera/Altenburgの劇場の緩慢な死よりもかなり大きな注目が集まっている。あたかも同じような悲劇が増えすぎてこれ以上関わりきれないというように。今の文化政策関連の不足はドイツ統一25周年でとくに注目された。今ではこれまで以上に懸念されている同じ機関が、かつては多額の費用で没落から救済されていたからだ。

 

1990年11月に連邦政府はいわゆる新しい連邦州の文化施設のための資産維持とインフラの計画を決めた。1991年から93年に、チューリンゲン州とメクレンブルク=フォアポンメルン州の数百の劇場、オーケストラ、美術館が合計で350万ドイツマルクを受け取って、予算の均衡を取ることか老朽化した建物の復旧に充てられた。これはいくつかの西側の州には文化政策の主権への干渉と捉えられ、計画への意見訴訟も検討されたが、その支援金のおかげで、ワイマール国民劇場からドレスデンの緑の丸天井まで、ドイツ民主共和国(DDR:旧東ドイツ)のほとんどの中規模および大規模の文化施設がドイツが統一した最初の数年の混乱期を乗り越えることができた。

 

この頃、文化の保護は社会的使命だとされていたという。

 

1990年は、1871年[ビスマルクドイツ統一]以降5度目の新しい社会建設の試みとして刻まれる。

 

とくに文化は、1. 文化はアイデンティティ作成に寄与すること、2. 国民や宗教の遺産を守ること、3. 独立した批判的な集合体になること、4. 教育的な任務を果たすということについて合意があった。Hilmar Hoffmannの言葉では文化は「すべての人に」開かれているべきだった。

 

文化政策の対象はそれ以来、そして今でも文化的景観である。つまりある都市や地域の文化的機関や活動の地誌だ。その機関の多くは周知のようにドイツではその存在を、たとえば小邦分立や帝国など、かつての時代区分に負っている。それらのもともとの目的は、たとえばこんにちでもフランクフルトの旧オペラ座の正面装飾で読めるように、真善美に資することだった。このようなカテゴリは大多数の人からはとっくに疑わしいものとして拒絶されている。しかしそれは1989年に擁護された一連の使命にも当てはまるのではないだろうか。文化が開かれているようにするべき「すべての人」とは誰なのだろうか。

 

公的な文化的使命の終わり

したがって文化は2015年にはもはや公的な課題や最終目的ではなくなった。そのかわりその機関や実施者や内容はとうに、グローバル化やデジタル化の魔法にもそのテロにも屈してしまった。都市が世界市民のプラットフォームに発展し、デジタル世界が公共のコミュニケーションを一方でねじ曲げて他方で多様化させた。伝統的な文化的景観はフランクフルトの旧オペラ座のように不規則な塊として近代的社会から浮いている。際限なく拡散する空間が出現し、その中で消費者と生産者がオンラインとオフラインを行き来し、考えられる限りあらゆる様式や内容や地理がからみあい変形している。文化的景観は文化プラズマになった。

 


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↑ぼくが撮ったビル街にあるフランクフルト旧オペラ座の写真

おそらく私たちはみな文化プラズマが何を意味するかの概念をもっている。つまりそれはたとえば、創造性が開花できるもっとも好都合な条件をもとめることを意味する。創造性は、とりわけ故郷をもたない、そして必ずしも愛国的でないグローバル化時代の資本である。

地域主義はジェントリフィケーションと戦っているが、こんにち都市計画をする者は国際資本なしにどうやって自分たちの自治体を住む価値のある公共団体として維持するのだろう。文化プラズマはまた、国民や領土政策はポスト国民的な文化実践の要請と矛盾していることを意味する。芸術家はもはや国民アイデンティティに縛られず、機関は他の機関と連合とネットワークを作り、政治的な公共団体には適合せず、芸術生産と生産物の流通と評価はますます制御されなくなっている。


文化プラズマの例として著者はYoutubeを挙げる。

Youtubeはその視聴者の製作物である。彼らによって現在一秒ごとに60分の映像材が新たにアップロードされている。TIME誌は、Youtubeには1ヶ月でアメリカのテレビ会社の最大手3社が60年の歴史で作成した映像材の3倍以上が生じると試算した。

個人的にあまり評価しない文化的な出来事も認めなければいけない。YouTube現象で興味深いことは、消費者と生産者がつねに役割を交換することである。これによってこの役割は厳格さを失い、時流にしたがってその意味さえ失う。ある種のプロシューマーと言ったほうがいいかもしれない。インターネットの中だけでなく現実世界でもここ数年、各種のフェス、クラブ、出版、展示など、ますます多くのフォーマットが出現し、そこでは職業として芸術家でも知識階級でもない人が公に自己表現し創造性を見せつけている。

もし、たとえば良し悪しを決めて「価値」を伝える当局がもはやないのなら、趣味の無政府状態がはびこる。Youtubeはおそらく文化プラズマの正確な写し絵である。それがいっそう商業的な利益に役立つというだけでも疑わしいものに思えるかもしれない。

 

「すべての人のための文化」から「すべての人の文化」へ

 

文化的景観が文化プラズマの中に沈めば、公共文化や対応する文化政策の古典的な考え方も時代遅れになるだろう。ジャン・ボードリヤールはすでに2007年に短い文章で、なぜデジタル化の時代にも価値や機関や最終目的といったすべてが消えていないのかという問いを立てた。芸術に関して彼の答えは、芸術は消えたことに気づいていない、というものだ。彼はまたそれらの物は完全に消えるのではなく痕跡を残すことを指摘した。それは初期のキリスト教で悪魔の役割を引き継いだ古代の神々に似ている。

 

実際ドイツでは文化的事業はいまだ上り調子である。グローバル化やデジタル化の変容の強襲で文化や文化政策が消えてしまったようには見えない。ボードリヤールは、それらは気づいていないのだと言うだろう。そして依然として文化政治家は使い途のない人のままだと言うだろう。しかし、それよりもプラズマの中で悪魔になった死後の生を想像する方が興味深いだろう。それはこれまで以上にアウトサイダーであり、文化プラズマの中での真善美の解釈がどのようなものなるかを明らかにする政治上の伝統をあとにした。この文化政治家にはもう明確な社会的な課題はない。文化政治家はそれでもそれを達成する仕事に取り組むだろう。

 

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