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論文紹介:移民相談所の性差別と人種差別

今回は、ソーシャルワーカー(社会福祉士)の移民相談支援についての論文。社会福祉にかかわる分野でもレイシズムやセクシズムは存在する。それについて自身もソーシャルワーカーの学者Tina Füchslbauerがソーシャルワーカーの相談員にインタビューして書いている。インタビューを受けた相談員は女性で移民女性の相談も受けている。また移民の背景をもつ女性相談員も含まれる。

soziales_kapital wissenschaftliches journal österreichischer fachhochschulstudiengänge soziale arbeit  Nr. 18 (2017) / Rubrik "Sozialarbeitswissenschaft" / Standort Wien

http://www.soziales-kapital.at/index.php/sozialeskapital/article/viewFile/544/988.pdf

Tina Füchslbauer:

„Über die Schwierigkeit, nicht rassistisch zu sein“

Zur Intersektion von Rassismen und Sexismen in der Migrantinnen*beratung

レイシズム的にならないことの難しさ」移民相談所のレイシズムとセクシズムの交差に向けて

ソーシャルワーカーというのは、さまざまな理由で困っている人の相談にのり、国や民間の支援組織やサービス、地域などとの関係を仲立ちする仕事で、日本では社会福祉士として資格化されている。この資格はぼくも日本で働いているときにとった。以下から内容。

 

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困っている人が困っている理由には、貧困や病気、障害や高齢などの他に、セクシズムやレイシズムといった社会の仕組みにかかわる背景もある。ソーシャルワーカーはそういったことにも理解がないといけない。筆者も働いていたオーストリア社会福祉相談支援の分野では、セクシズムやレイシズムはそれぞれ別には論じられているがその交差(Intersektion)は十分に研究されていないそうだ。

しかしこれは移民女性を相手にする仕事には必要なはずだ。なぜなら彼女らはインターセクショナルの考え方の枠組みでは少なくとも2種類の観点から排除や不平等、暴力を経験しているからだ。

研究の主な問いは、レイシズムとセクシズムの交差や、ソーシャルワークレイシズムとセクシズムの仕組みへの組み込みにもとづいて生じる矛盾を相談員たちがどう扱っているか、である。筆者はインタビューの他にソーシャルワークの、とくにナチス期の歴史とソーシャルワーク内のレイシズム、女性運動での非白人などの排除の歴史を概観している。

 

 

1.ソーシャルワークの歴史

ソーシャルワークはその始まり以来、他者と見なしたものに関する知の生産と、それによって行われるステレオタイプレイシズム、セクシズム、階級差別や障害者差別に貢献してきた。それは今も昔も国家の規範化の装置である(Bratić 2010: 204参照)。

ソーシャルワークは今も昔も社会の差別の影響を受けていて、国民の監督と教化の手段(Kuhlmann 2012: 89参照)だという。

とりわけナチスの時代にソーシャルワークはそのような権力の地位と結びついた。NSDAP[ナチス政党]のメンバーでベルリンの「社会女性学校」の校長のCharlotte Dietrichは、1943年の講演で国民介護人の仕事の目的を次のように要約した。「異国分子に対する考えにおけるドイツの人々の強化」。(Alice Salomon Archiv der ASH Berlin 2012: 11)「到達点としての健全な国民の身体」(同)を手にし、それ規範に指定することは、実践する上では、「遺伝的に健全」で政治的に信用できる"アーリア人"(Kuhlmann 2012: 94)のための「予防と家族保護の支援」(同: 95f参照)に国民福祉の支援を限定することを意味した。

非"アーリア人"とされたユダヤ人やロマ(ジプシー)、ジンティ(ドイツのジプシー)は迫害された。他に中毒患者やセックスワーカー、いわゆる問題児や犯罪者やホームレスのような人々も規範から逸脱するとして排除されたという。(Wallner 2008: 38参照) その際に福祉職従事者の家庭訪問で収集した情報が利用されたそうだ。

Stefan Michelerは「男性に欲情する男性」(Micheler 2005)の迫害について、異性愛規範から逸脱する者についての判断に際しても裁判所は国民介護人の報告を起用し、「ソーシャルワーカーは刑法上の評価に関わる判断を差し控えることはなかった」(同.:334)。

国民介護人の判断の結果によって、「逸脱」の形式から判断して、権利剥奪や結婚禁止、強制断種に関わる能力別の措置から、扶助訓練施設や労働所、刑務所や精神病収容所や、果ては集中収容所への国外追放まで行われた(Lehnert 2005: 57, Limbächer/Merten 2005: 17, Lienhart 2008: 19f参照)。その結果として起きる"反社会的"と烙印を捺された集団の公共空間からの消失は、ショッキングなことに、今日まで多くの歴史の証人たちにとって重要な瞬間であり「ポジティブ」なものとして記憶に残っている(Kuhlmann 2012: 95参照)。

ナチスに抵抗した職員は少なく、福祉士女性たちの加担が問題にされることも少ないという。

 

 

2. 歴史的な連続性と現代のレイシズム

歴史からわかるようにソーシャルワークは決して罪のない仕事ではなく、それは現代でも同じで、歴史的な連続性があるという。

しばしばナチス時代に抑圧され殺された人々は今日再び、あるはずっと続けて差別を受けている。たとえば現在の物乞い禁止についての議論は反ジプシー主義的な偏見と共鳴している(Teidelbaum 2014: 11f参照)。また国籍は現在も特権の割り当てで重要な役割を果たしている。

オーストリアの国籍や安定したビザをもたない人は不可欠な福祉サービスを受けられず多くの福祉施設の利用権もないといという。

私たちの職域はたえまなく他者を名指しし他者としてでっち上げることでしか存在しえない。(Mecheril/Melter 2010: 124, 128参照)

ソーシャルワークには、強制的にスティグマ化された差異や逸脱を作り出すことが含まれる。それらだけが内部の論理にしたがって支援する価値があると思われるからだ。

本当に支援必要な人かどうかを差別的に決めているということだ。その点でソーシャルワークは政治的だと筆者は言う。

2.1擬装したレイシズム

「人種」というカテゴリーは「レイシズムを通して初めて作られる」(Hornscheidt/Nduka-Agwu 2013: 13)という知識はソーシャルワークの理論でも通用しているが、それ以外にレイシズムを再生産する文化概念が形成されている。

これは意外なことだったが、「異文化について理解しましょう」という題目がレイシズムをなくすのではなくむしろ強めてしまう場合があるらしい。文化の違いを固定したものと見なし、それに基づくレイシズムが行われている。それをÉtienne Balibarは「人種なきレイシズム」と呼んでいる(Balibar 1998: 28)という。

ソーシャルワークの専門学校でも異文化間の学習があり(FH Oberösterreich 2016, FH Vorarlberg 2015, pro mente akademie o. J.参照) 、それが他者を知るのに役立つとされる。(FTは筆者自身)

しばしば異文化間トレーニングの中で参加者の先入観と偏見が追認されるだけで(Schirilla 2014: 165参照)、まさにそれを疑うことを学ぶことはない(Castro Varela 2007: o. S.)。想定された移民の異質性の強調が前面に出る一方で、構造的なレイシズムと「主流文化」(Rommelspacher 1995)の特権は問題にされないままに終わる。

他者についての言説の生産はエドワード・サイード(1995: 1)に依拠した植民地主義批判で「オリエンタリズム」と呼ばれている。そこで重要になるのは人間の集団の「本質化と均質化」を通じた「理性的な自己をうちたてるための非理性的な他者」の構成だ(Castro Varela 2010: 256)。

2.2 善意にもかかわらず、善意にもとづくレイシズム

ソーシャルワーカーは好むと好まざるに関わらず「レイシズム的な言説に巻き込まれ」(Rommelspacher 2009: 33)ている。それに従事することは快適ではない。移民女性設立組織のmaizのRubia Salgadoは「第二言語としてのドイツ語」というテーマの集会の際に、移民相談にも向けてこう述べた。

「この分野ではうわべでは移民の立場に立っているとされ、反レイシズムを自称してレイシズムを内省する機会を逸している。」(Salgado 2014)

maizは以前紹介した。相談支援も批判されていて、善意のレイシズムがあるという。インタビューから、移民がレイシズムを経験していてもそれを言わずに我慢していることが多いという。

彼女はその理由を「移民の人が相談員の立場をオーストリアに属すと見なしている」ためだと推定した(I3: Z. 346ff)。

移民女性は偏見で見られることを意識して家庭内の問題も話しづらくなり、子どもを外国籍にされることを心配して青年福祉相談を受けにくくなる。(Prasad 1996参照) 差別や偏見のためソーシャルワーカーに勇気を出して頼るのが難しくなっているという。

ソーシャルワークの専門文献の文章内には「典型的な」移民の家族構造のレイシズム的で十把一絡げな意味付けと説明が多くある。(El-Mafaalani/Toprak 2013: 57参照)

さらに以下のインタビュイーの発言でも示されるように、女性の移民は自己決定ではないものとして表され病理化されることが多い。

「ええ、もちろん、女性はそれに非常に悩まされている。彼女らはたいていはここへ家族で集まるために来ているし、夫のために来ていて夫らは事情に通じているけど妻たちはそうではない。彼女らは[…]何でも学ばないといけないし、夫らは妻たちの助けにならないこともある。」
(I5: Z. 214ff)

2.3 白人中心の制度体質

社会福祉施設内のチーム構成にもレイシズム的な社会構造が反映されている。(Raburu 1998: 213ff参照) ドイツとオーストリアでは依然として女性相談員の大部分が優勢な社会集団に属している。

移民の人のもっている技能は軽視される。

インタビューをした移民の女性相談員は、以前の大学教育でソーシャルワークの専門能力を身につけて来たが(I2: Z. 704ff参照)、それは低く評価されたことを詳しく話した。そのときに彼女は「私は一番初めは何ももっていなかった」(同: Z. 698)と言った。彼女は、移民としてオーストリアの職業学校で自分の能力適性をわかってもらえない事態に直面し、それを部分的に内面化しているようだった。

一方で移民は自分の出身地の文化の専門家と見なされ、それについて情報提供することは強く期待される。スピヴァクの言う「ネイティブインフォーマント(現地調査協力者)」(Spivak 1999: 6ff)のことだそうだ。 

Gutiérrez Rodriguezによると、このような意味付けはインフォーマントがその故郷あるいは故郷だろうとされた国とどういう繋がりがあるのかとは無関係に行われるという。(Gutiérrez Rodriguez 1999: 91参照)

 

 

3. 女性運動関連での排除

移民女性の相談支援の分野はソーシャルワークの排除の歴史だけでなく女性運動の歴史にも影響を受けている。女性相談支援は移民女性相談支援と同じくソーシャルワークの領域で、女性や移民女性が行為主体として正当に認められることを求める闘いと密接に結び付いているため、別々のものとは見なせない。

Audre Lorde (1981)、Patricia Hill Collins (2000)、Angela Davis (1982)やbell hooks (2015)ブラックフェミニストがインターセクショナリティの概念の学問的な確立のずっと以前にすでに、セクシズムとレイシズムが交差するところで特別な形態の差別が行われ、単体でヒエラルキーにまとめることはできないということを指摘していた。

19世紀アメリカの選挙権運動では、黒人女性は白人のサフラジェットからも黒人の選挙権運動の男性からも排除されたという。

イギリスでは女性選挙権の闘士は性にもとづく共有の抑圧を引き合いに出し(Burton 1994: 173参照)、植民地化された「インドの姉妹」(同)に責任を感じた。

Antoinette Burtonはそこに、良い意図にも関わらず、帝国主義的で父権的な性質があることを見抜いた。(同 参照) イギリスのサフラジェットは、インドの女性が自分でものを言えず「政治的な影響力とフェミニズム的なお手本」を頼りにしていると決めつけていると彼女は述べた。

20世紀中頃の市民権運動でも黒人女性は軽視された。

1960、70年代の女性運動でもこの状況は続いた。

(セクシズム以外の差別は)均質な女性という主体に関係することやすべての女性の「同一の苦痛」(hooks 2015: 121)から出発するのに都合のいいよう外に置かれた。レズビアンや障害をもつ女性も自分たちが代表されていないと感じ、自身らのグループを組織した。(Klapeer 2007: 80参照) 多くの白人女性はこれに対しレイシズムの謗りにあって侮辱されたと感じた。

この歴史は今日まで主体の構成に影響しているため相談支援場面にも及び、白人の女性相談員が移民女性に対面している。移民女性もソーシャルワークの仕事の中でよく他者として表され、多くの女性相談員がフェミニズム的な手本にならなければいけないと言う。

 

4.レイシズムに批判的でフェミニズム的なソーシャルワークのための示唆

ソーシャルワークが政治的な次元を占めていることははっきりと指摘しておきたい。それは簡単に言うと権力者の利益に奉仕するか、平等な権利を擁護するという意味での反抗をするかのどちらかしかない。

レイシズムとセクシズムの共通点を筆者は2つ挙げる。「生まれもった」違い作るために似非科学を援用することと、自らを理性的・男性的・西洋的な白人と規定し他者を感情的で非理性的とみなすこと、である。

したがってこれは複数の支配関係の交差としてあつかわなければならず、それに反対する支援はフェミニズムと反レイシズムの実践を組み合わせなければならない。

しかし筆者のインタビューでは、ほとんどの女性相談員は所属機関をフェミニズム的だとするだけで、移民女性の相談員だけが施設を反レイシズムにも位置づけていた。(I1: Z. 532, I3: Z. 1301ff参照)

インターセクショナルな支援は、個人の失敗のせいにせず問題社会全体の文脈に当てはめるという。これは自己責任論を強める新自由主義への批判も含む。

構造的な形式の暴力が個人の人生のありように影響しているので相談場面でも考慮にいれなければいけない。

他にフェミニズム的取り組みとレイシズム批判的な取り組みに共通するのは、立場の置き方だ。

それは性暴力の被害者との仕事にもレイシズム的な侵害の犠牲者との仕事でも(また両方の暴力の犠牲者の支援でも)中心的な意味をもつ。両方のケースで重要なのは女性相談員は仕事の対象である女性の側に身を置いていることだ。そして、何が起きたかを決める権限はいつも被害者にあるということが両方の形態の差別への闘いに不可欠である。性暴力やレイシズム被害を受けた人は依然として信頼されないことがあまりに多い。

相談員個人の素質やレイシズム問題への関心だけでなく施設の方針も重要だという。内省や共感だけでは不十分で、社会構造の中でどう他者を作り出して排除しているか考える必要があるとしている。

したがって私はPaul Mecheril(2010: 191)やmaiz(verein maiz 2014: 7参照)の使う意味での反射性(Reflexivität)の概念の方がよいと思う。それは自身の知の生産と「知の不足」(verein maiz 2014: 7)に批判的な視点を向けることである。

カテゴリー形成を疑問視することでMecherilは反射性の理解に必要な脱構築主義的な要素に言及する。(Mecheril 2010: 186ff, verein maiz 2014: 6参照) レイシズム的でセクシズム的なシステムへの組み込まれていることの自覚は自身の特権を利用して差別に反対するための前提条件である。

また女性の相談には女性相談員を当てているわりに、移民の相談に移民背景の人を当てておらず雇用も少ないことも挙げている。

さらに単にそういう配置をするだけでなく、移民女性やマジョリティに属す者への本質的な意味付けを避けチーム内で2つに別れて対立しないことが重要である。

他にソーシャルワーカーは忙しく生活が不安定なのでレイシズムについてじっくり学ぶ余裕がないことも問題だとしている。ソーシャルワークは社会変革を目指すことも任務に唱われているので、その観点が重要と締め括っている。

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日本の社会福祉士の綱領にもたしか社会変革やソーシャルアクションについては書かれている。しかし資格取得過程で、制度上の問題や一般の人の差別がはっきり指摘されることはあまりない。それらは事例を通して察せられるだけだ。フェミニズムレイシズムについてはその言葉自体、教科書にほとんど書いていない。日本に移民が増えたらどうなるんだろうか。現場ではセクシズムとレイシズムの問題を意識して仕事している人はいるはずだと願う。

もちろんソーシャルワーカーの仕事は第一に当事者個人の支援であって政治活動ではない。しかしそもそも政治参加はソーシャルワーカーに限らず全市民がやるべきことだろう。目の前の当事者のことだけで仕事はめいっぱいあるけど、上に書かれているように個別の支援にも政治的視点は不可欠だと思う。

発言力のあるソーシャルワーカーの一部は広報もロビー活動もしている。そういう人さえ活動家に対して「福祉がわかってない」とか「政治利用だ」とか、くさすのを見てゲンナリしたことがある。政治嫌い・活動家嫌いは福祉畑にもある。