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ニューロ・ダイバーシティからみた「不要不急」

東京新聞:<新型コロナ>発達障害児、窮地 在宅でリズム崩し自傷 親もストレス懸念:社会(TOKYO Web)


https://amp.tokyo-np.co.jp/s/article/2020042590135019.html?__twitter_impression=true

 

https://youtu.be/fiqT2RDOOpM


f:id:Ottimomusita:20200513022518j:image

https://twitter.com/vA3MU4RWCWTsQr7/status/1257394448868270080?s=19

 

ちょっと大げさなタイトルにしたが自閉症の人の支援の仕事をしていた者として今の感染症政策について書きたい。

上の記事で話題になっているように、コロナのためいつもの活動ができない知的障害者、または自閉症者が不調をきたし、その人々のいる家庭にも負担がかかっている。そして行政や専門家会議はそれに対応できておらず、その上できていないことをはぐらかしているという現状である。


なぜ、知的障害者、とくに自閉症をもった人はふだんの活動ができないと窮地におちいるのか。直接当事者と関わったことのない人にはピンとこないかもしれない。介護を必要としている人ならともかく、健康な人の日中活動であれば「不要不急」ではないのか。そう思うかもしれない。


自閉症の特徴のひとつとして、彼らは先の見通しを立てるのが苦手だ、ということが言われる。目に見えるものをもとに考えるのが得意な彼らは、時間という目に見えないものの管理がうまくできない場合がある。そのため支援者は絵で分かるスケジュール表などを作成し、彼らが自分の活動を作っていく手助けをする。それが自閉症者支援の大事な部分のひとつで視覚支援と呼ばれる。

日頃からこのように分かりやすい提示をして地道に作ってきたスケジュールが成り立たなくなると、何をすべきかの手がかりを失い、同じ行動を繰り返して時間を過ごしたり、ときにはパニックになったりする。


この辛さは想像するしかないが、たとえば、何もない真っ白な部屋に閉じこめられそこで理解できないことばかり起こる中、それでも何か対処しなければいけない、という状況になれば定型発達の私たちも同じような苦しみを味わうかもしれない。

このような仮定の状況を表現したような演劇がある。ハロルド・ピンターの『料理昇降機』(The Dumb Waiter おとなしい給仕)だ。二人の暗殺者が部屋で待機しているが、なぜか部屋には料理を運ぶ小さなエレベーターがあり、料理の注文が来るという不条理劇だ。もしやってたらぜひ見てほしい。演劇の常識というか、人間の当たり前のあり方を揺さぶるような不穏さがある。


今、コロナの感染拡大防止のためさまざまな「不要不急」の活動が自粛されている。規制ではなくあくまで自粛だそうだ。

不要不急とされる活動は主に、音楽のライブ演奏や飲み会、スポーツイベント、演劇などで、文化的な活動が多い。

緊切で必須なエッセンシャルワークとされるのはたとえば、病院、スーパーマーケット、入所の介護施設など直接生命維持に関わる仕事、家事や家庭を支える配達やメンテナンスなどの仕事だ。

この区別は、人間に2つの側面があることを前提としている。人間は文化をもつ社会的な存在で、人と会い、物を創造し、議論したりする。他方で人間は生物でもあり、食べたり寝たりしないといけない。そのために掃除や料理、洗濯をしないといけない。そういう生命維持の労働も必要としている。

今は人が集まる活動はコロナのためお休みして、後者の生命維持の労働に専念しよう、と言われている。そして、でも社会的文化的な活動も人間にとっては不可欠なんだよ、と教養を重んじる立場の人が前者を擁護する。

 

「不要不急」の行動の必要性はヒト以外にもある。

動物行動学では、知能は「新奇な問題を一定の時間内に解決する能力」と操作的に定義されているが、これは目的を達成したかどうかを基準にした方が客観的に観察できるためだ。しかし実験場面以外で観察していると、知能の高い動物の行動はむしろ目的のない行動の方が特徴的なものとして目につく。カラスは食べ物でないものを拾って隠したりするし、イルカは食べない海藻を鰭に引っかけたり咥えたりして泳ぐ。こういう行動はよく遊びと見なされる。遊びのような、直接生命維持や繁殖に関係のない幅のある行動が知能の高い動物に宿命づけられているようである。


自閉症の人も普段から、生命維持に必須ではない活動や余暇の過ごし方というものをもっている。しかし、そのいくつかは定型発達の私たちから見て、文化的社会的に不適切と見なされ、「問題行動」と呼ばれ、怒られたり止めさせられたりする。そこで自閉症の支援者は、少しでも社会のフォーマットに合致した活動を考え、当事者に提案し、社会との関係を調節する。それも支援者の仕事のひとつである。


定型発達者の文化的社会的なフォーマットは、とくだん文化的と呼ばれる活動だけでなく、食事の食べ方や時間、服装や着替える場所など、日常生活のあらゆる分野に及んでいる。このフォーマットから逸脱すると奇異の目で見られるため、やり方の習得が必要になる。

習得すべきことをひとつひとつ見ていくと、定型発達の私たちはこういう常識や決まりを挙げはじめればキリがないほどもっており、まるで四六時中台本通りに演技をしているかのように生活していることがわかる。ちょっとした物にも書割による場面転換や舞台装置のような意味があり、小さな行為にも台本がある。自閉症の人は、こうした意味や台本を汲み取ることが苦手で、どちらかといえば個々の物をそのままに見ることを得意としている。これは優劣ではなく観点の違いだ。


人間の生活は、不可欠な生命維持の労働の上に、文化的社会的な活動があって成り立つと考えられている。これはおおむねその通りだが、生命維持の労働もじつは文化的社会的なフォーマットにもとづいて行なわれている。そしてそのフォーマットは定型発達者を中心に作られている。それに基づいて「今は仕事の時間、今は食事場面、今は食後のリラックスしたひととき」と場面が区切られ、時間の管理はほとんど意識せずにできるほど容易になる。


このフォーマットが自分に合っていない人の場合、まるで事情が違う。習得した第二言語のようなフォーマットが食事、仕事、余暇のすべてに及び、それが崩れると時間の管理が困難になる。そこに不要不急な文化的活動とエッセンシャルな活動という区別はない。日中活動を不要不急として中止させられることがより大きな打撃になるのはそのためだ。


文化は余剰ではない。そしてそれは文化と教養を重んじる人たちが、「人生には不要に思える文化活動こそ大事なのだ」というのとは意味や深刻さの度合いが違う。文化はそれ自体は善い物でも悪い物でもなく、生活のあらゆる場面に入り込んでいる。余剰としての教養も大事だろうが、神経発達の多様性(ニューロ・ダイバーシティ)を考慮に入れた人間観には、文化や社会についてこういう人文主義とは違った見方が必要になるのかもしれない。