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まとめ: ドイツのムスリム移民とフェミニズム

以前から書き溜めたことをブログ案内として紹介しつつ、ドイツ語圏でのムスリム移民とフェミニズムに関する議論を概観する。

 

フェミニストイスラム教の女性差別や同性愛者差別を批判しない」

 

フェミニストイスラム教徒や移民による犯罪に口をつぐんでいる」

 

「そのわりに欧米社会の中ではときに過剰なジェンダー平等を求める」

 

こういう言説を目にしたことがあるかもしれない。もしくはこういったリベラルの矛盾を突くような言説を見たくてネットを探し、誤ってこのブログを開いてしまった人もいるかもしれない。今、もっともらしい正論の欺瞞を暴くことが一大ブームになっていて、たいへん需要が高い。そういうものを求めているあなたも少し我慢して先まで読んでほしい。

外見上の矛盾の下にはさまざまな事情がある。ざっと読んでそのことを感じてもらって、あなたが地に足をつけて考える上でのよすがになれば幸いである。

 

 

 

 

右翼的な主張をするフェミニスト

 

西欧のリベラルやフェミニストイスラム教の中の女性差別や同性愛差別を批判しない、またイスラム教の国からの移民による性暴力に口をつぐんでいる、という批判は右翼だけでなく同じフェミニストからもなされている。

 

こういったフェミニストは、第二波とされるラディカル・フェミニストやリベラル・フェミニストが多い。女性を抑圧する価値観をもったイスラム教徒の移民が増えて、西欧の女性まで脅かされるというのが彼らの主張である。(ただし、第二波フェミニストのすべてが移民反対というわけではない)

たとえば、ドイツの著名なフェミニストのアリス・シュヴァルツァーは、ジュディス・バトラーがスカーフを擁護したことを批判している。またシュヴァルツァーは、同性愛者で女性と結婚する自由を享受したバトラーはイスラム教の国なら最悪の場合殺されるだろうと書いている。

 

ジュディス・バトラーへの批判の記事1

 

この反移民・反イスラムの主張をするフェミニストの多くは同時にトランスジェンダーの女性にも敵対的であることが多く、ジェンダー学も批判対象にしている。

 

記事紹介:ドイツのTerf シュヴァルツァーへの批判

 

このフェミニストの一派の主張の中心にあるのは、移民やセクシュアルマイノリティの権利を擁護することで「普通の女性」がないがしろにされるという意識である。この、マイノリティ尊重で「普通の人々」が割を食うという考えは、最近の日本や欧米のポピュリズムとも共通する。

 

もちろんこういった陣営とは違うフェミニストの流派もある。交差性(インターセクショナリティ)を重視する一派である。

 

 

 

 

フェミニズム的な主張をする右翼

 

移民に批判的な右翼も、移民の議論でリベラル批判やフェミニズム批判をするときには、男女同権などのフェミニズム的な価値観を擁護する主張をしている。

 

記事紹介:極右と女性の権利│右からのフェミニズム?

 

ほかにも、右翼政党のオーストリア(FPÖ)は「私たちは自由な女性を守ります!」と書いたポスターを選挙に用いたり、アリス・シュヴァルツァーの反ムスリムの立場を引き合いに出している。

 

つまり、この話題ではフェミニストの一部と右翼が非常に似た主張をしている。ただし、移民反対派のフェミニストと右翼がまったく同じ意見というわけではない。右翼は他の点では、伝統的な家族観を重視していて男女平等には消極的だからだ。

 

右翼のフェミニズム的な主張は「ポストフェミニズム」のかたちを取ることも多い。ポストフェミニズムというのは、フェミニズムはもうその役目を終えたという見解である。この場合は、西欧では男女平等が達成されてフェミニズムの必要性は過去のものになったが、イスラム教の国々やそこ出身の人々の中ではまだ実現していないと主張される。こういった自文化の優越性を信じて他の文化を遅れたもの、あるいは外からの脅威として責めるやり方をLiz Feketeは「文化原理主義」と呼んでいる。

 

論文紹介: 移民とジェンダー│ 今フェミニズムは右派なのか(前半)

 

 

 

 

ムスリム女性の反応

 

このように右翼や移民反対のフェミニズム右派は、イスラム教徒の男性を批判して女性が解放されることを求めているが、当のイスラム教徒の女性の反応はどうだろうか。これはあまり芳しくないようだ。

 

西欧の論者や政治家が、スカーフをかぶることに反対するとイスラム教徒に対する差別が助長される。日頃から当たり前にスカーフをしている人からすれば大きなお世話だろう。

また、当のムスリム女性の意見を聞かないまま女性解放の名のもとに衣類に口出しをすることはパターナリズムと見なされる。それは、本人の主体性を認めずに保護的な干渉をすることだ。

 

そもそも第二波にかぎらずフェミニスト自体、中東の一部で女性からもあまり良い印象をもたれていない。それは2001年9月11日のテロのあとアフガニスタンタリバンへ軍事攻撃するさいに、イスラム教社会の女性抑圧が口実のひとつにされたためだ。

 

以下の記事のように、アリス・シュヴァルツァーはムスリム女性から歓迎されていない。

 

記事紹介:アリス・シュヴァルツァーへの批判│イスラムのスカーフカンファレンス

 

記事紹介:「これでおしまい!」と叫ぶシュヴァルツァー

 

また宗教の女性抑圧にトップレスで反抗するフェミニスト団体のFEMEMもムスリム女性から抗議されている。

 

論文紹介: FEMEN トップレスの抗議とムスリム女性

 

論文紹介: FEMEN トップレスの抗議とムスリム女性(続き)

 

ドイツでのスカーフ禁止をめぐる議論は以下。

記事紹介: ドイツのスカーフ論争、最近の話題

 

 

 

 

さまざまなムスリム女性とそのフェミニズム

 

しかし、一概にムスリム女性はシュヴァルツァーのような意見に反対していると言うことはできない。イスラム教の社会といっても国や地域によってさまざまで、その中にも保守的な人や革新的な人がいる。またムスリム女性の中にはフェミニストもいるし、その意見も多様である。

 

記事紹介: ドイツのイスラム教徒フェミニスト5名

 

記事紹介:「イスラムのフェミニズム」

 

Seyran Ateşのようなスカーフをしない権利を認める人もいれば、Khola Maryam Hübschのようなスカーフ禁止反対に尽力する人もいる。

スカーフを強制されれば脱ぎ去ることが自由の象徴になるだろうし、頭を覆うことを禁止されればスカーフが解放の証にもなりうる。

一般化して何が正しいとは言えず、個々の人が置かれている状況を考えること、上から指図しないことが求められるだろう。

 

そういう意味で、スカーフで顔を覆うことを「慎み深さ」の象徴として称えたジュディス・バトラーも問題があると思う。過度に一般化して、自分の西欧批判の議論に都合のいいムスリム女性像を利用しているからだ。Reyhan Şahinが同じようなことを書いている。

 

記事紹介:ヒジャブとタブー| インターセクショナル・フェミニズム

 

 

 

ムスリム男性移民の犯罪?

 

スカーフと同様によく議論されるのがムスリム男性の性暴力である。

2015年のケルンで大晦日に起きた移民を中心とした男性による集団暴行事件は、象徴的な事件としてくり返し話題に上っている。とくに2015,2016年は一時的に難民が増加したことで社会混乱があったため、いっそう注目された。

この事件についてたとえばKübra Gümüşayは、#ausnahmslos [例外なく] キャンペーンを開始し、性暴力はつねに話題にされるべきで、犯人が「よそ者」と推定されたときに限ってはいけないと主張した。

 

そうは言っても移民が増えれば犯罪も増えるのではないか。そう考える人もいるかもしれない。以下の記事では、社会混乱のあった2015, 2016年以外はドイツの犯罪率は減少傾向にあると示されている。

 

【検証】「ドイツで犯罪が大幅増」 トランプ氏のツイートは事実なのか 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

 

また移民が関わる犯罪を詳しく述べた論文によると、犯罪統計では難民の犯罪率は自国民の比較集団より高くはない。また犯罪には、滞在資格での違反、難民収容施設でのいざこざ、ドイツに慣れていないために起きる切符などの違反も含まれる。

 

論文紹介:移民増加で犯罪は増えているのか?

 

少しこの論文を詳しく見てみよう。

 

難民について、外国人の見た目の人は通報されやすくその分犯罪の暗数はより少ないこと、難民は福祉が十分でない若い男性が多く、そういう人たちは犯罪傾向がより強い人口集団のひとつであることが指摘されている。

 

外国人の犯罪一般については、難民より短期滞在の移民が有罪になっている場合が多いことと、組織犯罪があることが指摘されている。東南欧のマフィアやアラビアのクランなどの国際犯罪組織がドイツでも活動しているからと言って、かたぎの外国人に疑いをかけるのはお門違いだろう。

 

外国籍だから犯罪率が高いということはないと結論づけられている。また防犯には、外国人のドイツ社会への統合が不可欠であり、ムスリムの移民にとってはモスク共同体に属することも統合に重要だとしている。モスク共同体はすべて法令遵守の団体で、これに属していれば若者が過激派にリクルートされることもない。

偏見や過度の不安はこれらの統合を妨げるだけである。

外国人の犯罪に対するドイツ人の不安、歴史、政治的な動き、犯罪報道などについても論じられている。

 

論文紹介:移民増加で犯罪は増えているのか?2

 

 

 

競争相手の移民男性、支援者の移民女性

 

上述のように、移民に反対している人々は、移民男性を女性抑圧のリスクと見なし、ムスリムの移民女性を保護すべき対象として扱っている。このような言説が生まれた背景をドイツの社会的、経済的な条件から分析した研究がある。

 

ドイツでは、ますます多くの女性が賃金労働をするようになり家事や介護などのケア労働に時間をかけられなくなった。一方で男性がその分のケア労働を担うようにはならなかったので、ケアの人手不足が起きている。

また日本と同じく、福祉国家の見直しによる民間セクターの負担の増大も起きている。国は、介護給付を現物ではなく費用で負担したり税制優遇のかたちで保障することで、民間の福祉施設や業者を利用することをうながしている。

 

こういった背景から家族以外のケア労働者が必要になったが、そこでケア労働に従事する人々は移民女性の割合が多いのだ。つまり移民女性労働者の需要は高い。

これに対して移民男性は、景気が良ければ経済発展の原動力として必要とされるものの、景気が悪化して働き口が減ると土着の労働者の仕事を奪う競争相手と見なされる。多くの場合、土着の労働者よりも雇用を守られず景気の調節弁にされてしまう。つまり、移民男性労働者の需要はつねに高いわけではない。

 

Sara Farrisは、こういったジェンダーや生産条件を背景に生まれたのが、「ムスリムの移民男性は抑圧的、ムスリムの移民女性は守られるべきだ」という分断の言説だと論じている。Farrisの説は、下のぼくの論文紹介や、早川敦さんの書評で詳しく読める。

 

論文紹介: 移民とジェンダー│ 今フェミニズムは右派なのか(後半)

 

書評 Sara R. Farris, In the Name of Women's Rights 早川 敦

 

 

 

ドイツ語圏の移民ケア労働者

 

西欧女性の就労で男女の役割を平等にしたように見せて、けっきょくは別の女性にケア労働者を負わせることになっている。そして外国でケア労働をする女性は自分の家族のケアが十分にできないという問題もある。さらに出稼ぎケア労働の労働条件は不安定で負担が大きい。

このことはフェミニズムの内部でも批判されている。詳しくは以下。

 

論文紹介: ドイツの移民ケア労働者 前編

 

論文紹介: ドイツの移民ケア労働者 後編

 

論文紹介: 西欧家庭での移民女性によるケア労働 スイスの場合

 

 

 

リベラルの矛盾?右派の二枚舌?

 

ふだんは伝統的な性役割を擁護している右翼がフェミニズム的な主張をする。その一方で、左翼やフェミニズム左派がイスラム教内部の伝統的な性規範と関連しそうなものを擁護している。

こういった右派と左派がひっくり返ったかのような議論の様相は、移民問題ではよく見られる。

ぼくは右翼と左翼というものを、個とシステムに対する態度で捉えている。つまり社会の中である問題が見つかったときにその解決策として、個人を変えて社会やシステムに適合させる立場が右翼、逆にシステムを変えて個人の多様性に対応させようとするのが左翼だ。ぼくは日本で福祉畑にいた人間だけど、これはソーシャルワーク的な考え方だと思う。

移民問題の議論で左右ひっくり返ったように見えるのは、移民の社会がドイツ内のイスラム教徒の共同体のように一種のシステム内システムを形成しているためだろう。ドイツという社会全体を見るとムスリム共同体はシステム内のひとつの構成要素だが、ムスリム共同体内部から見るとその中に個人がいるひとつのシステムだ。

 

 

 

インターセクショナリティ

 

大事なのは、複数の属性を同時に考えることと、どの立場からそれを主張するかを明確にすること、だろう。

たとえばぼくは移民という面ではドイツではマイノリティだが、中産階級出身で健常者で男性だという点ではマジョリティだ。移民の立場からスカーフ禁止に反対しているが、イスラム教伝統社会に生きる女性の立場からスカーフ強制に反対している人の意見は理解できる。

こういう作業がよく聞くインターセクショナリティというものなのだと理解している。

社会に関することで、どこでも普遍的に通用する正義や正論というのは存在せず、必ずどこかで破綻する。そういう矛盾や欺瞞を暴くのもひとつの知的な作業だが、それだけでは正しさなどどこにもないという相対主義に陥る。そういうとき考えるよすがになるのは、マクドウェルという人がそういう言い回しをしたそうだが、どこでも(everywhere)やどこでもない(nowhere)でもない、どこかある場所(somewhere)だ。