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記事紹介: 労働組合とトルコ人移民労働者

しばらくドイツの労働組合の現状と、外国人労働者の搾取について調べていきたいと思う。まず労働組合のIGメタルでトルコ人労働者の支援をしてきたÜlkü Schneider-Gürkanさんへのインタビュー記事を紹介する。

 

 

Gewerkschafterin Ülkü Schneider-Gürkan „Die Gewerkschaft hat sich mit ausländischen Arbeitnehmern solidarisiert“

 

2020年9月24日
労働組合員のÜlkü Schneider-GürkanへのStephan Detjenによるインタビュー。

 

労働組合外国人被雇用者と連帯してきた」


Ülkü Schneider-Gürkanは1956年にトルコからドイツに来た。1961年の[トルコとの外国人労働者の]募集協定のあと、彼女は初めは労働者福祉協会[Arbeiterwohlfahrt: AWO]で、のちにはIGメタルで、いわゆるガストアルバイター[外国人労働者]を支援し始めた。それをふり返って、この人々は異なる文化をもっていても彼らのありようを受け入れらればければいけないと、彼女は強調して述べている。

「Ülkü アルバ」と彼女は敬意を込めて呼ばれる。お姉さん、と。ドイツに足場を築くのを彼女が数年にわたり助けてきた人々みんなからそう呼ばれている。Ülkü Schneider-Gürkanは1956年にドイツに来た。本当はドイツ語を習得し歯科医学を学ぶためだった。当時大学にはトルコ人の学生は全学部を合わせて8人しかいなかった。彼女の両親は教育に非常に重きをおいていて、彼女が女の子として平等な機会を得られるよう望んでいた。しかしÜlkü Schneider-Gürkanはフランクフルトの学生界隈にきっかけを得て政治学を専攻した。1961年の募集協定のあと、彼女は「ガストアルバイター」としてドイツに来た人々をはじめは労働者福祉協会で、のちにはIGメタルで、いわゆるガストアルバイター[外国人労働者]を支援し始めた。彼女もいつかはトルコに帰ると思っていたが、留まった。

 

彼女の両親は教育行政に携わる官僚だった。彼女の子ども時代、トルコは西欧を手本にして世俗化と民主化を進めるケマル主義が隆盛していた。しかし、リベラルエリートがいる都市と地方の農村の格差は大きく、ケマル主義は価値をもたらさなかったと彼女はふり返る。

 

Schneider-Gürkan: (前略)私たちは家でとてもよく読書しました。私たちは開かれた家庭で、父がいて…、1940年代のHasan Ali Yücelというとても進歩的な文化大臣がいました。そしてその政務次官はスイスで博士号をとった教育学者でした。そして私の父はそれらの一員で、トルコに村の学校を建てています。父はよく私をそれらの村に連れていきました。当時はそんな風には考えませんでしたが、今家にいるとそれは官僚だったと思いました。彼らは出向いて村で土地を探しました。その土地は大地主や貧しい農民のものだったでしょう。彼らはここに学校を建てると言い、学校が建つと村の住民は協力しなければならず子どもを学校に送らなければなりませんでした。


彼女は歯科医師になるため父の勧めでドイツに渡り、そこで初めてトルコ人一般大衆を知ったという。大学の教授や学生がとても保守的だと気づいた。

 

Schneider-Gürkan: (前略)そして当時はそのグループで自分が唯一のトルコ人女性だと自覚していませんでした。私を受け持ったある教授が、私はGürkanで小さいのでGürkchenと呼んでいました。当時はそれに気づいていなかったのです。本当に。そして彼は私を受け持つのが好きでしたが、いつも私にドイツ人は十字軍に参加したと言いました。君の目が青くて金髪なのはきっと君の家系にドイツ人がいるからだと。彼らは親しげに私たちと話してはいましたが、そんな調子でした。そして学生も同じくらい反動的でした。(後略)

 

そしてフランクフルトで左派の学生と交流し、医学ではなく政治学に進み、労働組合IGメタルで通訳の仕事を始めたという。

 

Schneider-Gürkan: はい、私は(Frank) Deppeらとも知り合いで、私も、みんなもマールブルクに通っていました。だからじっさいアドルノよりもAbendrothに影響を受けています。


Detjen: それから60年代の初め、トルコ人の労働移民が来ました。当時のガストアルバイターですね。1961年はドイツとトルコの採用協定[雇用双務協定]の年です。

 

人生をかけた主題「ガストアルバイター

Schneider-Gürkan: (前略)労働者福祉協会[AWO]はトルコ人被雇用者の担当を引き継ぎ、5つの事務所を開設しました。私はそこで働き始めました。しかしは私は大きな大きな困難を抱えました。私は事務所に座って人々が来て私に何か話をしました。私は私がゴチャゴチャ言い始めたと思います。私の同郷人はいつも抑圧されているので、彼らが正しいときでも彼らの考えでより良さそうなシナリオを頭に描くと、私はいつしか気がつきました。いつしか理解して、私もある時から非常に権威主義的になりました。

Schneider-Gürkan: 62、63年に本当にたくさんの人が大都市から来ました。イスタンブールアンカライズミールなど、ある程度産業化したところからです。そしてトルコ人と関わるドイツ人は、今もですが、間違って彼らが農民だと言っています。それは間違いで、多くは職業訓練校を出ている電気技師や大工などです。トルコ人の被雇用者を登録しているドイツの調停事務所もありました。それから初めはすべてを監査していたドイツの事務所がありました。しかしこれはたとえばチョコレート工場のSarottiにもありました。そしてオッフェンバッハの多くの革製品工場やMädler社などもありました。そこにはイスタンブールアンカラや大都市出身の多くの離婚したトルコ人女性がいて、高校卒業資格ももっていました。


Detjen: それは興味深いですね。今ではたくさんある労働移民を題材にした歴史についての本を読んでも、ドイツ人のトルコ人被雇用者についてのイメージは当初はその後に大きくなったものとは異なっていたということに気づきますから。


Schneider-Gürkan: はい。そして、彼らはトルコでじっさい何とかして1960年以後のこの民主化の過程がいくらか始まっていたときに、労働組合や労働者政党などとつながりをもっていました。進歩的な労働者も多くいました。それで1964年に民族の家を設立しました。それは人々みんなでした。


Detjen: 民族の家について簡潔に説明してもらえますか。それはあなたがここフランクフルトで共同設立した協会ですね。


Schneider-Gürkan: それは民族形成のようなもので、Halkevleriと言います。ケマル主義時代にドイツ語コースや演劇、民族伝承、文学などの成人教育がありました。そしてそれはこの人々ともできました。


Detjen: そしてトルコ人の被雇用者層での政治活動も始まったのですね。私もこのインタビューの準備として読んで学んだばかりですが、かなり初期のストライキであるいわゆるトルコ人ストライキが初めは小規模に、のちに70年代にケルンのフォード社での大規模なストライキがありました。被雇用者のこの政治活動化がどのように起きて、このストライキでどんな議題が提起されたのかを一度話していただけますか。


Schneider-Gürkan: 当然彼らはとても劣悪な状態の住居に住んでいました。女性たちはMädler社で働き、オッフェンバッハに住んでいました。Mädler社は1つの家を借り、一部屋に4つのベッドがあって、…


Detjen: 階層ベッドですね。


Schneider-Gürkan: 階層ベッド、そうです、しかも一つの大部屋に8人が住んでいました。会社は一人当たり50マルクを徴収しました。そして紅茶かコーヒーを入れるときは50ペニー投じないといけませんでした。シャワーも50ペニーです。彼らは不満を言いました。そして私は労働者協会にいて、彼女らと知り合いました。私は彼女らにオッフェンバッハの住居局に行って苦情を言おうと言いました。私たちが行くと年かさの男が座っていました。私はここで行われていることは搾取だと言いました。もしあなたが50マルク以上払ったら個室が手に入るはずなのに不公平だ、と。彼は私に、いいや、あなたの同郷人は個室は貰えないと言います。なぜ、と聞くと、彼らはニンニクを食べるし地面に唾を吐くと彼は言いました。そして私は跳びかかって男の上着の襟を掴んで、このファシスト、何でこんなことができるんだと叫びました。私が叫ぶと、建物の扉の前に人がみんな集まって、その男は震えてドイツ人のソーシャルワーカーの女性はいなくなりました。オッフェンバッハの秩序局の局長が来て、何を要求しているのかと聞いて私をなだめました。その男は謝り、当時のビルト紙にもそのことが載りました。もちろん、人々は苦情を言い、そのあと彼らと協会を設立しました。そして労働者福祉協会も、私たちが試してみると、彼ら全員が組合員になりました。そして彼らは組合活動でも活発でした。

 

「IGメタルとても進歩的な労働組合だった」

Detjen: 被雇用者層はそのようで、労働組合ではどうだったのでしょう。あらゆる集団を超えた連帯はありましたか、つまり、ここの出身のドイツ人被雇用者とトルコや他の国から来た人の間には。もしくは分断していましたか、反対や利益の対立や争いはありましたか。


Schneider-Gürkan: そうですね。IGメタルとても進歩的な労働組合でした。たとえば彼らは事業所組織法(Betriebsverfassungsgesetz)を平等に変更し、彼らも選出されることができた。組合運動では彼らは差別されず、たとえば誰かがトイレに外国人に反対することを書いたときも、メタル-雇用者連盟とIGメタルはいっしょに冊子でそれを批判したことなどを知っています。それは当時...組合、IGメタルは外国人労働者との連帯を示しました。 そして、正直なところ、私は後に進歩的な労働者グループとだけ仕事をしていました。


ドイツでのトルコ人の生活

Detjen: ドイツへの労働移民の話の非常に本質的なことは、人々はこの国に2年滞在してまた戻り新しい人が来るという前提で迎えられているのだという認識です。いつからか私たちは彼らが帰らず家族を呼び寄せてここに留まることを知りました。あなたはこの過程をどう見聞きして知りましたか。あなたには初めから明らかでしたか。意識や認識の変化にどんな印象をもちましたか。それをどう経験しましたか。


Schneider-Gürkan: 私も、私自身が帰ると思っていました。もちろん政治的な歴史などのためです。1971年に軍事クーデターがあり、1992年まで私のパスポートは処分され私は帰れませんでした。被雇用者の場合も…、しかし一部はそれでも帰りました。本当に、トルコに関わっていかないといけないという意見で帰った人もいます。それは進歩的な人々です。またある人は十分お金は稼いだと行って帰りました。しかし彼らがここに妻子を連れてき始めたとき彼らは帰らないと私たちは気づきました。それからいつしか私たちは労働移民は帰らないことを理解しました。


Detjen: DuisburgのMarxlohや、ケルンのEhrenfeldなど、主にトルコ人住人で特徴づけられたトルコ人コミュニティや周辺街、トルコ人区画が出現しました。


Schneider-Gürkan: それは違ったようになりえたかもしれません。


「私たちは平和に隣り合って生きていません」

Detjen: まさにそうです。これはこんにち私たちがふり返えるならば、実際には何が起きたのか、それは避けられなかったのでしょうか、何が違ったようにできたでしょうか、という問いです。


Schneider-Gürkan: 統合で何が理解できるでしょうか。これが問題です。それは平和に共存することでしょうか。それは違います。私たちは平和に隣り合って生きていません。少なくとも今は。ドイツ人は統合で何を理解しているでしょうか。


Detjen: あなたは統合で何を理解しますか。この用語についてはすでに議論されています。


Schneider-Gürkan: 私は統合で、私の文化と私が人間として受け入れられていること、自分に合ったように生きていることを理解しています。ドイツ人の規則に従わずにどのようにふるまうべきか、ふるまわないべきか。私はたとえば隣人ととても良い関係をもっています。それは彼らがみな洗練された人々だからです。6ヶ月間彼らはいつもドアベルを鳴らし、私に必要なものはないかなどを尋ねました。でも私はドイツ語を話し、私は手伝い、彼らも助けてくれます。しかしそのような可能性は私の同郷人には決してありません。たとえば、こんにちでも多くの高齢のドイツ人女性は、トルコ人家族が彼女らを助けているから彼らと良い関係を築いていると知っています。私は自分の人生でフェミニストだったことはありません。つまり政治運動ではいつも組合で男たちと仕事してきました。そして70年代にドイツでフェミニズムが盛んだったころ、私は大学にいてゼミに入っていました。そこに多くのソーシャルワーカーや女性教師などがいました。彼女らは、外国人女性とともに、とくにトルコ出身の女性と仕事をしたことを話しました。彼女らが言うのは私のことだけなのです。私のトルコ人女性たちです。つまり、この簒奪ですね、なので…。彼女らはいつも、そうです、トルコ人女性を解放したがっていたんです。どうして彼らが解放されうるでしょうか。50、60軒の村から来て、人生で一度も大都市を見たことがない人々が飛行機に乗って2時間半で高度に産業化した国に着いたのです。彼らは言語ができず、働いて子どもを学校にやり、買い物をしなければなりません。多くの人は…。彼らはおそらく学校に行ったでしょう。年を取って1、2年学校に行っても何も読んでいませんし、ほとんどは読み書きはできません。彼らがどうやって解放できるでしょうか。


Detjen: それに対するあなたの答えはどうですか。


Schneider-Gürkan: 待ってください、私は彼らのところに行って彼らは殴られたと言います。女性を殴るドイツ人労働者が多くいるのは知っています、ええ。それはトルコ人女性ではありませんし彼女らはとてもよく解放されていて自分の望むことを知っています。そしてそのため、男は彼女らの面倒を見る必要はありません。労働者福祉協会も、私は1971年に辞めました。いつしかそれは役には立たないと気づいたのです。ここには数百万人がいて数百万の問題を抱えています。私が助けられれるのは100人くらいでしょう。その他の人はどうなりますか。


Detjen: しかしそれは答えになるでしょうか。こんにち私たちの前にある問題は、ドイツの政治、つまりマジョリティ社会には何があったか、何か違ったふうにできなかったのか、歴史が違った道をたどることができたいわゆる分岐点はどこなのか、という問いです。


「60年代のドイツはそれほど横柄ではなかった」


Schneider-Gürkan: ドイツ社会は彼らも人間であることを受け入れなければいけません。彼らは違った文化をもっていますが人間です。彼らは矯正されなくていいし、ありようを受け入れられなければいけません。


Detjen: それをどこに設定しますか。あなたはさきほど私たちは平和に共生していないと言いました。AfD以降は、とおっしゃいました。異集団がともに成長するのが、いわば、失敗したことの本当の始まりはもっと遡る必要はありませんか。私が今見つけたのは、1972年のドイツでの雇い止めで、そこでトルコからの計画的な労働力の輸入が止まりました。今年、ある新聞記事がありました。AfDの話ではありません。ツァイト紙です。週間新聞のDie Zeitは1973年4月にある記事で「ニガー、苦力、それともドイツの同胞?私たちの一番の社会問題はガストアルバイター」という見出しをつけました。「万国のプロレタリアは」とその記事に書いてあります。「ドイツ連邦の地で団結する。私たちの受け入れ能力は無限ではない。私たちは外国人就労者を流入を制限しなければならない」。1973年のツァイト紙と同年の1973年7月のシュピーゲル紙は「トルコ人が来る。可能な者は自助せよ」です。


Schneider-Gürkan: しかし、ご存知ですか、私は多くの若いプロテスタント牧師と知り合いでしたが、彼らは私にルターの格言を送ってきました。トルコ人への敵視で始まるところです。しかし60年代にはドイツ人は、戦争に負けたあと、それほど横柄ではありませんでした。進歩的なドイツ、学生運動労働組合運動などなどもありました。そこで他の国々からの被雇用者が受容されて、これも知っておかないといけませんが、これが被雇用者で、たとえばスペイン人は大部分が反ファシストです。彼らは政治的な経験も豊富です。ギリシャ人もポルトガル人もです。私たちは労働組合や多くの政治活動の団体でいっしょに活動しましたが、もっと進められたはずです。しかしドイツ社会も違った発展をしました。これらの昔のドイツの左翼は今どこにいるのでしょう。私たちは数年前に一度フランクフルトでイベントをして、ベルリンの外国人委員の女性を迎えました。彼らは彼女をトルコ人の母と呼びました。「移民の日向と影」と銘打って。陽のあたる場所に来れた人もいますが、そこではトルコ政府もドイツの公的機関も何もしませんでした。

(後略)


このあと人種差別を背景としたさまざまなドイツの事件の話や、若い世代のトルコ人が政治やメディアに出て発言できるようになったことなどが語られる。

 

移民は雇い主に就労ビザを出してもらっているので、同国民の労働者よりさらに立場が弱い。そのため悪い労働条件に置かれやすい。労働組合は不当解雇されたときの裁判費用や失業手当を出してくれることがあるが、移民に在留資格のサポートまでしてくれるのだろうか。そもそもその国にいられなくなったら支援も意味をなさない。おそらく外国人労働者労働組合の加入率自体あまり高くないのではないか。

そのあたりに興味があるので引き続き労働組合と移民労働者の搾取について調べていきたい。