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記事紹介: ドイツ消防団の歴史

去年の夏にボーデン湖の湖畔で休暇をとった。ドイツとオーストリアとスイスに面した広い湖だ。まだコロナの関係でスイス・オーストリア側の湖岸には行かなかった。しかしドイツ内だけでも、綺麗な街並みとボーデン湖クルーズの他に、ニホンザルに似たバーバリーマカクを飼育しているサル山や、ツェッペリン飛行船博物館、湖畔の杭上住居野外博物館など、観光できるところはとても多い。その中でもザーレム修道院消防団博物館がよかった。あれを見て以来、漠然と消防団に興味が湧いていた。

 


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ザーレム修道院消防団博物館の写真



なんで修道院消防団博物館があるんだろう、と最初は疑問だったが、あんがい関係が深いらしい。中世の修道院というのは当時の進んだ知識をもった人たちが大勢で共同生活をする空間だ。必要な水を敷地内に行き渡らせる技術もあったし、火事の際にはそれを活用して消火活動する仕組みもあった。さらに近代になると、教会の鐘を作っている鋳造業者から消火用ポンプなどの機器を作るパイオニアが出てくる。この意外な関係性が面白かったというのが一つ。


それから、手押しの消火用ポンプやポンプを積んだ消防馬車のような、今の消防車のもとになる各時代の消防装備が面白かったのが一つ。いきなり消防車が発明されたのではなく、当然そういうものもあったわけだが、ぼくは今まで知らなかったしあまり想像もしていなかった。近代初期の消防団というと破壊消防が中心の江戸の火消しのイメージだったからかもしれない。そしてこの初期消防車が、スチームパンク風でかなりカッコいい。


カッコいいなぁと思いつつ展示品を見ていたら、20世紀の消防団に関する展示でナチスのデザインによる消防服を目にした。このカッコよさを利用して当時の若者を国家に奉仕させていたんだ、という側面も知ることになった。あとで詳述するが、現代で言うような消防団ができたのは近代国家ができ始めた頃だそうだ。

以前オーストリアナショナリズムについて調べていて近代の消防団の歴史について水野博子さんの東欧史研究(2013年)の論文を読んでいたのを思い出した。

《 神の誉れとなり, 隣人の守りとならん》―近代オーストリアの有志消防団にみる郷土愛の醸成と帝国ナショナリズム―


近代の有志消防団は、権力から独立した自由主義的な組織という側面を持っていた。また自分の住む自治体や地域に奉仕するもので、郷土愛と関連した。郷土愛は必ずしも国家を単位としたナショナリズムとイコールにならない。さらにオーストリアにはナショナリズムと言っても、帝国ナショナリズムドイツ国民主義がある。その中でどのように有志消防団が帝国ナショナリズムを支える全国組織になっていったのかを解き明かしている。もっと昔からある地域の義務消防団との確執や、ユダヤ共同体との関わり、消防団主催の舞踏会が若い男女の社交の場になったことなど、詳細も興味深く、読みごたえがある。

 


他にも消防団の歴史についてネットであれこれ読んだのでまとめてみる。以下は、Wikipediaの「Geschichte der Feuerwehr」と www.brand-feuer.de のGeschichte der Feuerwehr (wikipediaの記事も大部分はここからの転写?)からの引用である。その他に、ザーレムの消防団博物館に書いてあったことも参照している。

 

 

Geschichte der Feuerwehr – Wikipedia

古代

先史時代には住居同士の間隔が遠いので、火災はそれほど問題ではなかった。それでも協力して消火活動はしていた。組織的に消火活動をしたのは古代エジプトの時代になってからだ。

消火のための水を噴出するポンプは、紀元前250年に古代ギリシャでクテシビオスが発明した。

古代ローマでは、人口数百万人規模の都市ができ始め、火災のリスクが本格的に高まった。多階建ての住居が密集して建てられ、多くは木造で路地も狭かったそうだ。

紀元前64年の皇帝ネロが放火したという伝説のある大火災が有名で、他にもローマ全体が焼ける火災があった。紀元前21年に奴隷600人から成る消防団が編成された。また火災防止のための建築法規や火災保障もすでにあった。水運にも長けていたが、長いホースは発明されなかった。


中世

中世の共同体では防火設備が義務付けられていた。イヌンクやツンフトのようなギルドでは緊急時に手伝う義務があった。最古の手工業者の火災規則はイタリアのメラーノで1086年に制定された。

しかし、火事は多く、12世紀のリューベックだけでも数回あり、14世紀にはシュトラスブルクは8回燃え落ちた。不注意によるものの他には、戦争で火を放たれたり、賊による放火殺人などがあった。14世紀の終わりから木造から石造の家に変わってきてようやく火事は減った。

13~14世紀に初めて消火法規が定められた。これらにはたとえば、灯りの火を消す時間や、夜の見回りについて、緊急時に備え家庭にバケツで水を置くことが決められた。他にも、ワインや水を運ぶ人は火災時にはそのバケツで火事場に駆けつける規則もあった。街の中心には橇に載せた水桶があり、街の火災を報告する夜間の見張りが設けられた。教会の塔に見張り用の部屋が作られた。1444年にはすでにウィーンのシュテファン大聖堂には市に雇われた火災時に警鐘を鳴らす塔の見張り人がいた。この人は火災時にはずっと火災現場の方向に向かって昼は赤い旗、夜はランタンを振った。シュテファン大聖堂にはこの火災見張り役が1955年まであった。

水汲み場にはポンプで常時水が供給されるようになり給水所も増えた。消火貯水池も作られ、もとの意義を失った今でもその場所に残されている。

装備としては革製バケツ、鳶口、水樽、屋根ステッキしかなかった。14世紀からはバケツで給水する簡単なポンプができた。火事のときは火事走りと火災ポンプを取ってこいと命じられた人以外は入らないように、すべての出口に人員が配置されることが多かった。火事の際には、住民みんなで水源からポンプまで二列に並んでバケツリレーでポンプに給水した。現場の指揮官に従うことを拒否したり、火事現場から不正に退去したり、消火道具を故意に壊したりすれば、きつい体罰が待っていた。


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水桶付きの橇 Feuerlöschgerät, Entwurf (1615) von Salomon de Caus

 

近代になると消防のための技術が発展する。

17世紀には水を送るホースが発明された。ホースがあれば水を噴出するポンプの設置場所から離れたところまで放水できる。ホースを発明したのは、ヤン・ファン・デル・ヘイデン (Jan van der Heyden)だ。彼はオランダのダ・ヴィンチと言われるほど多才な人らしい。

ザーレム消防団博物館の情報によると、1672年にファン・デル・ヘイデンによって開発された革製の放水(デリバリー)ホースが手押しポンプに装着された。これはホースを動かせるところからSlang-Brand-Spuiten(ヘビ型火災ポンプ)と呼ばれた。さらに彼は1686年にポンプに水を補給するための麻布製の取水(サクション)ホース原型を開発した。これによってバケツリレーをしなくてもよくなった。彼は、これらの発明品を買ってくれるかもしれない人々にその有効性を説くために、用例集と挿絵入りのBrandspuiten-Boek(火災ポンプの本)を著した。

ホースは、19世紀にアメリカで銅鋲留めの革製ホースが開発され改良を遂げる。

17世紀のオランダは日本と貿易していて、ホース付き消火ポンプも日本に入ってきていたが、普及はしなかったそうだ。以下の記事が詳しい。

なぜ江戸幕府はオランダの高性能な消火ポンプを導入しなかったのか?(フレデリック・クレインス) | 現代新書 | 講談社(1/5)

ヨーロッパには14世紀からポンプがあってそれにホースを付け足したが、日本はポンプがなく木造建築で破壊消防が中心だった。これだけでも普及しなかった理由として説得力があるが、この記事の筆者は日本人の文化や精神性のためでもあるとしている。その点はちょっと本質主義的な気がする。消火活動が、忠誠心や名誉、地域の伝統と結びつくことは何も日本特有ではないだろう。

 

ザーレム消防団博物館によると、コンスタンツの鐘鋳造一族のローゼンレヒャー家は、配管やピストンや手押しポンプなどの機器開発の先駆者でもあった。Johann Leonhard Rosenlecher I. (1602-1673)はザクセン州のツヴィッカウで生まれ、熟練の真鍮・銃身鍛冶屋で17年のコンスタンツ放浪のあとザーレムで鐘鋳造工房を設立した。彼の息子Johann Leonhard II. (1652-1723)は鋳造の事業分野を拡大した。鐘と大砲の他に、大型火災ポンプを製造した。その伝統はJohann Leonhard III. (1687-1770)に引き継がれた。ローゼンレヒャーの鐘は多くの教会で音を響かせている。たとえばカールスルーエの聖ステファン教会やFischingen修道院、ザンクトガレンの改築された街の聖ローレンツ教会などだ。フライブルク大聖堂(1959年まで)の大きな祭日撞鐘もローゼンレヒャー鋳造所のものだったそうだ。

 

ザーレム消防団博物館によると、自動車会社ダイムラーのゴットリープ・ダイムラーの構想と依頼により、シュトゥットガルトで有名な鐘鋳造とポンプ製造所のHeinrich Kurtzを運営するKarl Wilhelm Kurtz (1841-1917)は火災ポンプにも使えるエンジンを開発した。Kurtzは1883年8月に高速回転する持ち運び可能なエンジンの製造に成功した。これは鐘を吊り下げるオーク材の上で組み立てられていたので、Kurtzは電報で「小鐘は響けり」と成功を伝えた。これは産業スパイを欺くための暗号メッセージだった。1888年ダイムラー内燃機関搭載の火災ポンプを作り、Wimpff社の手引ワゴンに積み、ハノーファーのドイツ消防団の日に注目を浴びた。彼はその後も改良を続けたが、Kurtz社は原動機付き消防車の製造には手を出さなかった。

 

ザーレム消防団博物館によると、エンジンポンプ製造のパイオニアでほとんど忘れられているのがJakob Gretherだ。フライブルクの金属・鉄鋳造所のGrether & Cie.は1869年から手押しポンプを製造していた。フライブルクの有志消防団の司令官だったJakob Gretherは消防装備品に非常に詳しかった。1877年に彼は、今でも「Grether連結器」の名で知られる特別な形のホース連結器で特許を取った。1896年からGretherは、Deutzエンジン工場のガソリンエンジンを装備した(馬が引く)ポンプを作った。20世紀の初めにはGretherは新しい動力技術へ転換し、自走するガソリンエンジンポンプを開発した(1902年)。Deutzのエンジンは、消防車だけでなく三管式ピストンポンプも駆動させた。

 

消防団の組織も近代的なものになってくる。近代になるとドイツにも今で言うような有志による消防団ができ始める。ナショナリズムや近代的な国民兵と同じくフランスの影響だ。ドイツには、ドイツ「最古の有志消防団」とされる消防団がいくつかある。

以下、再びwikipediaから。

近代

市の帰属国が変わったためドイツの消防団と言えるか異論はあるが、最古のものの一つはSaarlouis市の消防団だ。これは1811年に当時の市の所有者だったナポレオン支配下にあるフランス人によって創設された。1811年に隣村のFraulauternで起きた大火災のすぐ後に、Saarlouis市庁の決議でVaublanc公爵であり知事であるMetz Vincent-Marie Viénotの許可のもと、既存のPompiers-Kompagnie(消防団)が市長のMichel Reneauldによって再編成された。この新編成が行われる前に、ナポレオンの布告によってパリの消防団の中核思想は、隊員徴集は有志で、軍隊のように厳格な組織化と無給の勤務をもち、名誉職であるとされた。

この布告は明らかにパリだけに効力をもつものだったが、防火の問題はどこでも同じだったので、以後フランスの各州も同じような命令を管轄地域に公布した(たとえば1812年にVaublanc知事はメッツの街に公布した)。同様に当時はフランスに属していたドイツの地域で設立された消防団は、アルツァイのもので、1799年9月10日にできた。前述の創設とは対照的に1841年7月17日にマイセンの有志消防団は「有志消化救助会」として明確に有志によってできた。


オーストリア帝国消防団

ウィーンの職業消防団は、ハプスブルク王制で最古の組織だ。これは1686年創設で世界最古の職業消防団とされる。その後の職業消防団はずっとあとになってようやく1813年にFürstenfeld、1831年にSchwazでできた。どちらもタバコ工場の会社用消防団だ。今のオーストリアの地域で現在でも包括的な消火活動の骨子になっている有志消防団は19世紀後半にできた。その立役者のFerdinand Leitenbergerは、王制の構想を作り、初の王制有志消防団を1851年にReichsstadt(現在のチェコ)に、ほぼ同時期にリンツに創設した。

 

現在で言うような消防団

今で言う消防団は19世紀中頃に初めてできた。この「新しいタイプ」の消防団の前からすでに自治体の消火体制は存在していたので、この点でしばしば混同が起きる。なので防火活動の歴史と消防団の歴史は区別する。

 

brand-feuer.deから

現在はカールスルーエの一部になっているDurlachの有志消防団もドイツ最古だと主張している。これは1846年に都市設計士のChristian Hengstによって創設され、メンバーはおもに地元の体操協会から集められた。この消防団ハイデルベルクの技師Carl Metzの近代的な火災ポンプを装備していた。このポンプはすでに1847年にカールスルーエの宮廷劇場の火事の際に効果的に動員することができた。この事件によってドイツ全土で有志消防団に注目が集まり、多くの街があとに続いた。

しかし、近年の知見ではドイツ最古の有志消防団はDurlachではなくザクセン州のマイセンで1871年7月17日の創設だと証明されている。

Barmの有志消防団は1895年には150周年を祝っていた。引き合いに出される1745年の証拠文書がどのていどまで十分と言えるほどの消火活動の組織化レベルを示唆しているのかは、まだ歴史学の調査が必要である。

このハイデルベルクの技師であり企業MetzのCarl Metzは、有志消防団の組織化にも尽力した人だ。

再びザーレム消防団博物館によると、彼は1818年にフロイデンハイム/マンハイムで生まれた。彼はマンハイムギムナジウムに通うのをやめて、機械工場で整備士の見習いと職業訓練期間を修了した。彼は若い頃は鉄道建設に携わり、23歳でバーデン州鉄道の職長になった。その一年後にはもう安定した地位を離れ、1842年にハイデルベルクで火災ポンプと付属品を製造する自分の会社、Carl Metz機械工場を創設した。彼は1855年に彼の「街のポンプ」でパリの世界博覧会で金賞を受賞した。Carl Metzは、最適な専門装備と消防士の基礎訓練だけでなく消防プロセスと規律の改善にも尽力し、バーデン大公から表彰されている。

wikipediaに戻るとMetzについては、

1847年2月28日に起きたカールスルーエの宮廷劇場の火災のときにDurlachの„Pompiercorps(仏語で消防団)“が初の新タイプの消防団として活躍した。Durlach消防団は新興企業Metzの近代的な移動式手押し消火ポンプを使用し、新型のフック付き梯子をもった体操訓練をした人、いわゆる登り人を動員した。彼らは周囲の建物の屋根に登って火を遮断し、屋根から消火活動を行った。消火活動は、登り人の投入によって専守防衛から抜け出し攻撃力を手にした。そのため1848年7月のパンフレットにCarl Metzは「消火活動はよじ登り活動だ」と書いた。このことは新たに創設された体操教師を雇う消防団すべてに言えることだった。新タイプの消防団員は、さらなる画期的な改良として軍事的「認識番号方式」で訓練されていた。

ドイツ最古の職業消防団: 1851年1月16日にベルリンでLudwig Carl Scabellがドイツ初の消防団隊長に任命された。彼は、将来の王立消防指揮官として合計971名の消防士を指揮した。彼らは当時最も近代化された手押しポンプと機器を備え、最新方式で訓練を受けていた。


20世紀まではあちこちで、とくに田舎の地域で、出動する場所まで人力か馬に引かせて行く手動消防車が使われた。19世紀中頃にはすでに、とくに大都市においていわゆる蒸気消防車が流通していた(この消防車では蒸気機関がピストンポンプの原動力になる)。このポンプも長い間現場まで馬が引いていた。内燃機関によって原動機が付いて自走蒸気消防車になったということもあって、さらに発展した。これらは電気動力や運搬用蒸気機関によって推進力を得た。内燃機関の普及が進んでからは、消防車は動力つきで二輪牽引車を取り付けたものが増えた。これらは走行エンジンの補助動力がポンプの動力の役を果たす、いわゆる砲架消防車や、自走消防車として流通した。第二次世界大戦後も使われなくなった軍用車が消防車に改造されて長く職務を果たした。


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馬が引く手押しポンプ車
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蒸気消防車

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蒸気消防車

ナチス時代

1938年の11月23日にドイツ帝国全土に「消火隊に関する法律」が施行された。ナチス政権はこの法律で消防団を、内務大臣管轄の専門警察隊として管理下においた。それにともない職業消防団の改称は防火警察になった。有志の消防団は補助警察隊の地位だった。

そういうわけで消防団は警察の一部になっていたので、新しく調達した消防車は警察の緑色に塗装された。もとあった消防車もじょじょに塗り替えられたが、以前からの着色のままのものもあった。同様に消防車には、警察と同じく右を向いた鷲の国章の上に「防火警察」の標識が付けられた。


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ザーレム消防団博物館の防火警察の制服

 

ナチス体制下ではオーストリアの有志消防団も同じ事情だったようだ。戦時下では物資や人手の不足に悩むことになる。

 

消防団の組織化を大まかに見ると、有志消防団はナポレオン以降のもので、さらに現在と同じような意味での有志消防団は近代国家成立と並行しているようだ。その点では軍隊と似ているように思う。ただし、軍隊は国を守るが消防団は街を守る。

 

中世の都市には消火活動に関する法律があったが、リューベックシュトラスブルクのような自治を行なっていた大都市にも組織化された消防団はなかったようだ。なぜできなかったのだろう。