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論文紹介: ドイツ語圏のフェミニストSF


ドイツにフェミニストSFはあるのかという疑問から調べてみた結果を紹介しておく。

 

 

フェミニストSF

 

フェミニストSFというジャンルがある。SFというとエンターテインメントだとか理系なので男性的というイメージがついてまわりがちだが、そのイメージを払拭するような作品群だ。60-70年代にSFの新しい潮流が生まれる中で第2波フェミニズムの運動の影響も受けながらフェミニズム的なSFが多く発表され、今も高い評価を受けている。

その頃から有名だった主な作家としては、英語圏では、アーシュラ・K・ル=グィンジョアナ・ラス、マーガレット・アトウッド、マージ・ピアシー、オクティヴィア・バトラー、ジェイムズ・ティプトリー・Jr.、…など。日本語だと、大原まり子菅浩江新井素子鈴木いづみ笙野頼子などなど…。現代でもたくさん書かれている。

ぼくはSFは好きだけど理系オタクのノリにあまり馴染めなかったのでよくこのジャンルのものを読んでいた。大学でサルや子どもの観察をしていた関係で、フェミニズム科学批評に興味があったせいもある。

 

ドイツのSF

ドイツに来て、あまりドイツ語が読めないなりに、書店や古本市でこのジャンルの本を探していたのだけど一向に見つからなかった。漫然と見ているだけでは出会えないのかもしれないが、そもそもドイツではSFはあまり人気じゃないのだと、ある論考を思い出した。

識名章喜さんの文章、「「かつてあった未来」から現在へ ーードイツ語圏SF前史を検証する」(『ユリイカ 25巻12号』)には、戦前には盛んだったドイツのSFが戦後は不人気になった事情が書かれている。SF作家の草分け的存在、クルト・ラスヴィッツ(1848-1910)以降、ドイツでも「未来小説」と呼ばれるSFが書かれていたが次第に軍事的な近未来架空戦記ものが増え、第一次世界大戦後は敗戦の劣等感を慰撫するような軍事技術の誇大妄想や優生学ユートピアが盛んになりナチズムと結びついていったそうだ。戦後にはその反省とともにSFも振るわなくなった、と。

そう言えば、古本の市場でわら半紙みたいな紙に刷られた薄いSF雑誌が1部1€で大量に売られていたことがあった。どれも1950-60年代のもので読む気はしなかったけど、表紙や挿絵がレトロフューチャーな感じで面白かったから10部ほど買って本屋をやってる友だちにお菓子といっしょに送ったのだった。あれは戦前の未来小説の名残りだったのかもしれない。どの雑誌も軒並み60年代に廃刊していた。

ドイツ産のSFというと日本では、スペースオペラ小説シリーズの「宇宙英雄ペリー・ローダン」や『深海のYrr』が有名だが、あまりドイツのイメージはない。

最近、ナチスドイツ期にIT技術があったら、という歴史改変ものの『NSA』という小説が書かれ、邦訳も出た。よく知らないぼくは(これはいかにもドイツらしいSFだな)と思ったんだけど、識名さんによると上のユリイカの文章が書かれた90年代の時点では、ドイツではナチズムをめぐるテーマのエンターテインメント作品は難しく、ナチス期の歴史の検証に厳しいから『高い城の男』みたいな歴史改変ものもなかなかできなかったらしい。そういう意味では『NSA』は今までのドイツにはないSFなのかもしれない。

 

また書店の話に戻る。

フランクフルトにある大きな書店(梅田のジュンク堂くらい大きな)の中を歩いていて最初に気づくのは、本がジャンル別に置かれていることだ。(日本だと国内作家はジャンル混合で一部は出版社別、海外作家は出版社別が多い気がする) そして、入口すぐのところには、一般文芸に次いでミステリの棚が大きく目立っている。歴史小説も地上階でけっこう場所をとっている。SFはというと、地下階を探さないといけない。地下には漫画やバンド・デシネやジュニア小説コーナーと並んで「ファンタジーとSF」の棚がある。そこにはファンタジー小説やゲームのノベライズがあり、デューン砂の惑星1984年などのSFもそこに紛れて背表紙を見せている。

(こんな扱いなんか…)

とSFファンとしては少しがっかりしてしまう。日本でもそんなにSFが大きく扱われているわけではないが、日本では海外異色作家を翻訳している出版社の棚に置かれることが多いので現代文学といっしょに並んでいて印象はかなり違う。格式がどうとか気にすると厭らしいけど。

そんな中でも、たとえばマーガレット・アトウッドの作品は別だ。彼女の著作は地下階ではなく地上階の一般文芸コーナーにあり、しかも高確率で平積みにされている。アトウッドがドイツで人気なのはわかる。反全体主義国家の意識が高いから『侍女の物語』は読まれて当然だ。他の作品でもよく生殖をテーマにしているので、中絶の権利から第2波女性運動が隆盛したドイツではフェミニズム的な関心からも注目されるだろう。

それにしても、どうやって地下のSFコーナーから出てこられたのかという疑問は残る。ジャンル分けのミスと見なされないのだろうか。何だと思ってアトウッドを読んでいるのだろうか。

 

ドイツのフェミニストSF

ドイツ語圏のフェミニストSFについての論文を読んでみたところ、その辺の事情が飲み込めた。ウィーン大学のMagdalena Hangelの2013年の論文だ。

 

Weibliche Geschlechterrollen in der Science-Fiction-Literatur deutschsprachiger Autorinnen Magdalena Hangel [PDF]

 

どうやら『侍女の物語』はユートピア小説という扱いらしい。つまり、ドイツ語圏ではSFが文学ジャンルとしてあまり確立しておらず、通俗小説(Trivialliteratur: 些末な文学)と見なされることが多く、アンチ・ユートピア小説(いわゆるディストピア)を含め、社会批評の視点をもった小説はユートピア小説とされるようだ。そしてSFやフェミニストSFもユートピア小説のサブジャンルに入れられることが多い。

 

いくつかのドイツ語研究や文学研究の教科書には、90年代や21世紀の00年代に書かれたものにさえ、SFを単独に分類せずにユートピア小説の下位ジャンルとしているものがある39。

 

したがって、多くの場合にSFというジャンルがより相応しいのに「通俗小説」に分類されないようにするためにSFに該当しないことになっているということも想定される。「ユートピア小説」というラベルは「教養ある」読者層によく売れそうだが、結局は不十分なカテゴリー化ではSFの自立性を獲得できずそのジャンル自体の周知を妨げる。

 

英語圏では、SFとは何か?とか文学ジャンルと認められるか?という論争は長らくされておらず、もっと先に議論を進めているという。アメリカの文学研究者マーリーン・S.・バーは、フェミニズム的なファンタジーやSFなどを包括したフェミニスト・ファビュレーション(feminist fabulation)という概念を提唱した。バーの本は日本語に訳されていて、フェミニスト・ファビュレーションについても説明されている。

 

『男たちの知らない女―フェミニストのためのサイエンス・フィクション』 マーリーン・S.・バー〈Barr, Marleen S.〉【著】 小谷 真理/鈴木 淑美/栩木 玲子【訳】  勁草書房(1999/02)

 

HangelもそれにならってフェミニストSFを広く捉えている。その上で彼女はこれまであまり学問的に研究されず、代表作品も挙げられてなかったドイツ語圏のフェミニストSFを女性運動の歴史と関連づけて採り上げ、内2作品についてさらに細かく分析している。

 

 

第1波女性運動とドイツ語圏フェミニストSF

 

すでに第1波女性運動に関して、簡単には分類できないSFとユートピア小説の中間ジャンルに位置する多くのテキストが現れた。英語圏ではこれは、フェミニズム(SF)文学作品の伝統の一里塚となり、数世紀に渡って持続し、第二波女性運動に適用され今日まで追求されている23。例として、Clare Winger Harris、Leslie F. Stone、Charlotte Perkins Gilmanは20世紀前半に作家としてFSF[フェミニストSF]の分野で活躍した24。

 

Hangelはドイツ語圏の第1波女性運動期のフェミニズム的なユートピア小説を3つ紹介している。

 

Bertha von Suttner(1843-1914)のDer Menschheit Hochgedanken (1911)(『人類の高い思想』)

Suttnerはオーストリアノーベル平和賞を受賞した平和主義者として知られる。飛行船など技術的な発展とともに、引っ込み思案だった少女からフェミニストの(平和)演説家になる主人公フランカの成長が描かれる。フランカは、違う国民同士の平和の前に性別間の平和への進展が必要だと女性の聴衆に訴える。

 

 

Helene Judeich (1863-1951)のNeugermanien(1903)(『ニューゲルマニア』)

Judeichはドレスデンの教師で、普段は子ども向けに芝居を書いていた。演劇のNeugermanienでは、ほとんどすべての分野で女性が男性と同権の「ユートピア国家」を描いた。

Neugermanienには反フェミニズムバックラッシュの犠牲になって追放された女性が住む。故郷のAbsurdumは当時の社会のような不平等な社会からNeugermanienへ移り、フェミニズム国家の建設を目指す。

 

 

Rosa Voigt (1837-1922)のAnno Domini 2000(1909)(『紀元2000年』)

この小説では2000年には、インテリ男性の中で女性がひとり討論に参加して、社会について語る。女性解放のほかに、とくにアルコール依存症と闘いが前面に出ていて、これは主に男性の根本問題であり多くの社会問題と見なされていて、物語の中の時代では禁止されていた。

 

 

Hangelはこれらの作品が当時の女性運動が求めていた女性参政権や教育を受ける権利などと密接に結びついていたことを明らかにしている。また性別役割分担や生殖など今日でも共通するテーマも扱われていた。売春のテーマに関してはセックスワーカーを傷つける主張をしていたり、主人公女性の結婚でハッピーエンドになっていたりと、フェミニズム的に物足りない点も指摘している。それらは第2波女性で発展する。

 

 

第2波女性運動とドイツ語圏フェミニストSF

 

第2波女性運動は数十年のほぼ完全な政治的停滞の後、60年代の終わりと70年代初めに発展した。ドイツやドイツ語圏では今では一般に2つの要因が引き金になったと考えられている。ひとつは、学生運動で、この中で女性は組織化し、のちに女性解放が足りないことを批判し脱退して自分たちの組織を作った184。もうひとつは、ドイツの雑誌『Stern』での1971年の中絶禁止に反対する公式キャンペーンだ。『Emma』の編集者アリス・シュヴァルツァー185の発案でフランスの手本をもとに375人の一部は実名の女性が違法な中絶をしたことを公開した186。

 

以下に、論文中で挙げられている小説を紹介する。第2波女性運動が始まったとされる1968年から現在(2010年)までの作品から選ばれている。論文ではもちろん内容に触れながら批評しているが、このブログでネタバレするのは気が退けるので割愛する。この論文に加えてAmazonの商品説明やレビューも参考に紹介文をつけた。ぼくはまだどれも読んでいないので内容は分かっていない。

 

 

Ulrike NolteのJägerwelten(2000)(『狩人の世界』)

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ビーンとチャールの異星への旅は気楽な探検になるはずだった。そこで捕まえた翼竜が只者ではなかったと知るまでは…。地球に戻る船の中、その翼竜は眈々と人間という種族について学んでいた。地球に戻ったチャールは、自分が政府のお尋ね者になっていることを知る。彼らは反政府指定を受けたコミューンに逃げ込み、テレパシーで語りかける翼竜と知り合う。そして、政府も動き出し…。広大な都市化、二極化した階級社会、企業が支配する冷酷な統治機関を舞台にした、社会批判とエンターテインメントを両立した作品。

 

 

NolteのDie fünf Seelen des Ahnen(『高祖の五つの魂』)

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同じくNolteの作品。新しい故郷となる惑星を求めて水の惑星ArcheZたどり着いたクルーたち。最初の使節団は崩壊していた。船員のひとりは行方不明になったあと、肉体も精神も変容した姿で現れた。大都市船やエイリアンの出てくるテンポのいいスペースオペラ

 

 

Barbara SlawigのFlugverbot: Die Lebenden Steine von Jargus(2003)(『飛行禁止 ヤルグスの生きた石』)

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惑星ヤルグスのドーム型都市で、若き警部ダフィット・ヴールフはスーパーコンピュータANACの故障について捜査していた。故障のため生きた石の研究は危機に瀕していた。彼は、逃亡していたコンピュータ専門家のイェアンネ・アンドレイェフに出会い、科学者や軍人、官僚が加わる追跡劇に巻き込まれていく。捜査を続ける中、イェアンネに疑念を抱きつつも次第に惹かれていくダフィット。緊迫した会話から彼女の過去やフェミニズム的な考察が開陳されていく。Amasonレビューの評価が高い。

 

 

Evelyne BrandenburgのAnna Maria oder die Zärtlichkeit der Skorpione(1982)(『アンナ・マリア あるいはサソリの優しさ』)
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家父長制に支配された社会と不幸な結婚の中で、女性としての肯定的アイデンティティセクシュアリティを発見していく主人公の物語。家父長制が支配する社会と、それに対抗したフェミニズム指向の社会が描かれ、舞台や時代も変わり二部構成になっている。

 

 

Sophie BehrのIda&Laura :Once more with feeling (1977)(『イダとラウラ ワンス・モア・ウィズ・フィーリング』)

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生殖技術が発達した未来社会で、自分のクローンを妊娠するイダの物語。クローンは女性のみで生殖できる手段として肯定的に扱われている。バイオテクノロジーや生殖医療とその全能感への風刺でもあり、対立するアイデンティティとコピーの概念もテーマになっている。難解なモチーフだが、連想や脱線をくり返し時間的に前後するジョイス風の文体で、わかりやすく、詩的に、ユーモラスに描いている。

 

 

Karin IvancsicのMuttertag(「母の日」) 

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アンソロジーのDer Riß im Himmel: Science-fiction von Frauen. (『天の裂け目 女性のサイエンス・フィクション』)に集録されている短編小説。一般の人びとの間で身体を通じた生殖が行われなくなった社会の話。それでも子どもはどこからともなく現れ、自分の母親である女性を「捜す」。母親とされた女性に逆らう権利はなく、男性は精子提供するだけで何も知らない。一体子どもはどこから来るのか…。

 

 

ドイツ語圏ではないが、ノルウェーの女性作家の小説もひとつ紹介されている。

 

Gerd BrantenbergのDie Töchter Egalias. Ein Roman über den Kampf der Geschlechter (1977)(『エガリアの娘たち 性の闘いについての小説』)

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私たちの世界の性差ステレオタイプと性差ヒエラルキーとは反転した未来を描く。社会の重要な地位は女性が占め、生まれた子どもに対する責任は男性が負う。この小説は、性差語用について革新的な言語使用を提示しており、それはドイツ語の翻訳版でも変わっていない。Amasonレビューの評価が高い。

 

 

以下の女性によるSF小説3作は、論文中でとくべつフェミニズム的とは評価されていないが比較のために挙げられていた。

 

Charlotte KernerのBlaupause (1999)(『青写真』)

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この小説では有名なピアニストが病気に直面して彼女の才能を守るために自分のクローンを作る。ベストセラー小説で、Amasonレビューの評価も高い。

 

 

Barbara MeckのDas Gitter(1980)(『グリッド』)

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ミュラー博士は私欲のため、違法な生殖技術に手を染める。SFスリラー。

 

 

Myra Çakan のWhen the Music's Over: Ein Cyberpunk-Roman (1999)

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破滅に見舞われたヨーロッパを彷徨うグリーンランド若い女性、スカディ。彼女の周囲には次第に個性豊かな無頼の徒たちが集まる。彼らは地球を汚染するエイリアンの隠微な支配に抗う動機をもつ。近未来ヨーロッパの官能的なサイバーパンク・アクション。

 

 

 

政治的なこととフィクション

 

まだ多くの人にとってフェミニズムとSFが意外な取り合わせと感じられるかもしれないが、それ以前の前提として差別や不平等のような政治的なこととフィクションに何の関係があるのかと思われる向きもあるかもしれない。

これはネットなどで論争になりがちな点なので、どういう理論で関連づけられているか説明しておきたい。

ひとつには社会的構成(構築)主義が基礎にある。これは、社会で当たり前とされていることや制度になっているようなことは、人々の実際の関わりによって作り上げられているという考え方だ。たとえば理系に女子が少ないことなどは、法律で決まっているわけでもないし生物学的にそれほど差があるわけでもない。ルールや法則のような根拠がなくても人々がそのようにふるまい続けることで習慣化する。

もうひとつはインターセクショナリティ理論だ。差別には性差だけでなく、収入、出身地、肌の色など複数の差異のカテゴリーが関わっていることに注目する見方だ。

 

インターセクショナリティ理論は2つの具体的な問題を意識して適用しなければいけない。ひとつめの問題は、差異カテゴリーを固定化したり作用させたりすることにより固定化がさらにくり返し起こることだ。それによってこれは不用意に再生産され、「人種」のような概念の背景を十分に批判的に考えず、確固たる社会的なものとして構成し、さらに確定していく危険が生じる。どちらの状況も望ましくないため、差異カテゴリーの決定には批判的で反省的なアプローチが必要である。それと対照的に集団の社会的構成の背景を考えることは、その理念にもとづく差別実践の可視化と同じく重要だ295。ふたつめの問題は、今述べたような差別の固定化によって他のカテゴリーが排除されることにある。既存の、場合によっては規定されたカテゴリーの中だけで考える人は、他の新しく生じるかもしれない差別メカニズムに盲目になる危険がある296。

 

ふるまいややりとりで現実が作り出されるという点は演劇に似ている。社会的な現実も「構築」されているという意味ではフィクション的だし、フィクションの出来事も習慣や人間関係をくり返しているという点では現実と同様にこの「構築」に貢献していると言える。

なのでこの立場の人は、単純にフィクションで見たことに影響を受けて実行する人が多いと主張して懸念しているわけではない。また、よく反論で指摘されるようにナイーブに現実と虚構を混同しているわけでもなく、むしろ社会的な事柄の虚構性を前提として批判している場合が多い。

インターセクショナリティ理論では、「男vs女」のような抽象的な属性同士の対立ではなく、もっと多くの要因が絡まった具体的な状況を重視する。そのため、現実の個別ケースに焦点を当てる他に、物語を参照することが有効になる。とくにSFは、現実から離れた状況を描きやすいので思考実験に適している。

 

 

アメリカのフェミニストSFのドイツ語訳

 

ドイツでは、ジョアナ・ラス、マージ・ピアシー、オクティヴィア・バトラーあたりの作品もかなりドイツ語に訳されている。日本ではこの3人は、ほとんど訳されていていなかったり、訳されていても絶版などで入手困難だったりするのでこの点は羨ましい。バトラーは最近復刊されているので、ピアシーの He, She and Itも訳されないかなと期待している。

上に紹介した論文ではドイツにはフェミニストSFの該当作品が少ないとされていたが、これだけ翻訳が充実しているなら読者もいるだろうし影響を受けた作家もいるはずだと思う。マーリーン・バーはフェミニスト・ファビュレーションという概念でSFもファンタジー小説も包括していたが、この論文ではSFに対象を絞っていた。なにせメルヘンの国だ。ジュニア小説をはじめ、ファンタジーはかなりたくさん出版されているのでそこを掘ればフェミニスト・ファビュレーションな作品は見つかるかもしれない。ぼくにそんな読書能力はないのが残念だが…。

とりあえず上記の小説や作家から挑戦したい。FlugverbotとIda&Lauraあたりがおもしろそう。

 

2022/12/24