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ジュディス・バトラーへの批判の記事1

ざっと訳しました。あとで抄訳&コメントにさしかえます。

Gender-Studies

Der Rufmord 

http://www.zeit.de/2017/33/gender-studies-judith-butler-emma-rassismus

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1 中傷
Judith Butler と Sabine Harkは私とエマ誌のレイシズムを非難している。ここでは職業思想家の理論と現実の溝を示したい。

アリス・シュヴァルツァー

問題のエマ最新号の寄稿論文は元ジェンダー学の学生Vojin Saša Vukadinovićによって書かれ、Beißreflexe論集に基づいている。その中で彼女自身のクィア政治活動の場面を批判している。すでに本として出版され、激しい論争があり、著者らは暴力それも「武器による暴力」を予告して脅されている。今エマ誌は議論の場を設け、Judith Butler と Sabine Harkに対しZEIT誌で回答した。そして彼女らは激しく反応した。

クィア理論の主な思想家であるJudith Butlerはエマ誌が大雑把な思想で「ヘイトスピーチ」だとしただけではなくレイシズムであるとまで言った。この議論では、私たちはまったく不当だとされている。またその文の中では、とりわけ形式を問題にして内容にはほとんど問題にしていない。そしてそれはおそらく偶然ではない。コミュニケーションや理解を目指しておらず、とっつきにくい学者の内輪の言葉で論じられているのだ。言語学者であるButlerはそれを自覚しなければならない。

しかし順序にしたがって見ていこう。本当は何が問題なのだろうか。それは2つの世界の見方、正反対の政治的な概念だ。それは3つの主題において明らかになる。つまり性別、ユダヤ人、そしてムスリムである。そこにはいつも一つの溝がある。(崇高な)理論もしくはイデオロギーと、(低級な)現実である。

私はZEIT誌の読者がジェンダー諸理論に慣れ親しんでいるという前提で話さない方がいいだろう。それらの理論は学問の世界以外では知られていないか、知られていても戯画化して歪められているからだ。それは第一にジェンダー理論が、60年代の統治言語への批判を忘れたように、浮き世離れしたエリートの言葉を使うためだ。そして一方でそれが性差の秩序の土台を揺さぶるせいだ。私たちフェミニストは知っている。たしかに私たちは長い間そうしてきたのだ。

なのでここで状況の大まかな流れを示す。1990年に出版されたButlerのジェンダー・トラブルは女性研究または性差研究からジェンダー研究への切り替えを引き起こした。そこで話題になったのは本当はパラダイムの移行ではなく、むしろ古い問題に対する新しい概念だった。ところで(生物学的な)性差と(社会的な)性役割はそれぞれセックスとジェンダーとされる。これはアメリカの性研究の概念だ。Butlerにとってはジェンダーだけでなくセックスも、つまり性役割だけでなく性差そのものさえ相対的なものである。なんとも首尾一貫した話だ。といのは、もはや説得力をもって性役割が生物学的な性差と結び付くことがない局面では性役割は意味を失うからである。 

Butlerはけっしてこのように論じた最初の人ではない。「小さな差違」を疑問視することはフェミニズム思想の中核だったはずだ。シモーヌ・ド・ボーヴォワールはすでに1943年に第二の性の中で「人は女に生まれるのではない。女になるのだ。」という名言を書いている。すなわち、性差は生物学的でなく文化的なものだということだ。これを今日の表現では、構築されていてしたがって脱構築もされうる、と言う。されうるかもしれないと。

そしてまさにこの立場において、問題はButlerと彼女の信奉者から生じる。彼女はそのラディカルな思想ゲームを現実にあてがう。彼女は人は誰でもその気分次第に変化できると仄めかす。そして人はけっして2つの性から選ばなくてもよく、結局は性アイデンティティのたくさんの多様性と細かな側面があるのだと言う。簡単にクィアになれますよと。
なんて美しい考えだろう。人間はシンプルだ。本当にこの通りならフェミニズムユートピアそのものだ。 

しかしそうではない情勢がある。残念ながら私たちは色とりどりなクィアネスの世界にまだ行き着いていない。依然として人々は、自分自身のものも含めて他者のまなざしの中におり、女性か男性(増えているとはいえその中間はあまりいない)である。また、黒人か否かなどなど。しかしクィア界隈にレイシズムに対する敏感さが溢れているだけに性差別はなく、性差の権力関係に関する知識もない。じっさい「女性」という言葉さえ廃止されているか付随事項をもってのみ"許容"されている。要するに女性はすべて状況的に女性として理解されている人だと言いたいわけである。社会化や生物学とは独立に。

しかし現実には私たちの文化の中で女の性をもつ人は今でも第二の人であり男性とは違う尺度をあてられている。それに応じて彼女らは例えば何と言っても共感や世話や育児や家事を担当しており、収入は少なく、恋愛関係の中でさえ(性的)暴力の犠牲者になりうる。別の文化、例えばシャリーア法があるイスラム文化のような文化では事態はもっとひどい。そこでは女性は完全に関係の中の存在で、権利がなく父や兄弟や夫の被後見人である。イスラム原理主義の国々ではスカーフや全身ベールを強制され公共の場から締め出されている。彼女らは女性の役割からのほんのわずかな脱出だけでも命を危険にさらすことになる。

このような情勢はButlerによって「他者の他者性」という名前で正当化されている。だからバークレイで生活し教授しているButlerは、2003年のインタビューでは例えばブルカについて「それらは女性が慎ましいということや彼女の家族が結束していることを象徴しているが、また彼女が大衆文化によって搾取されないことや家族や共同体に誇りを持っていることも象徴している」と説明している。そしてさらにO-Tonでは「したがってブルカを失うことは親戚関係のある種の喪失を被ることも意味し、支持すべきではない。ブルカの喪失はどうしても疎外と強制西洋化の経験になりうる。」と書いている。

これは思いやりがあり高潔な所作だが現実に即さず冷笑的である。アルジェリアの政治家Khalida Toumi(Messaoudi)はこの手の文化相対主義を「文化の落とし穴」と呼んでいる。それは人権と女性の権利に関して文化の違いの名の下でのダブルスタンダードである。

 

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