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本と引っ越し

今、ドイツで彼女と住んでいる。こちらのアパートに越してくる前に、本棚の本をできるだけもって行きたいと思い、日本からドイツへ船便で送った。時間のかかる船便でも重い本だと送料はかさむ。それでも段ボール四箱に入るだけの本を詰めた。本との別れを惜しんで、あれもこれもと、新生活で読み返すかわからないものまで箱に入れているうちにそれだけの量になってしまったのだ。旅行中に読みきれない冊数の本を鞄に入れてしまうのと同じだ。旅行の前やそのさなかには、案外時間は限られているということをついつい忘れている。

 

ドイツに来て2ヵ月で本は届いた。一箱はアパートに届き、一箱は近くの郵便局で受け取り、一箱は古本だとわかってもらえず関税局に送られていたので彼女について取りに行った。残りの一箱は届かずじまいだった。何の本を入れていたか、最後に送ったその箱だけは記録していなかった。ミャンマーの仏像の写真集なんかが入っていたような気がするが、定かではない。いいかげんな性分で、ほんとうに四箱送ったのかさえも自信がなくなってきた。今となってはただ、貨物船の長い船路の途中、マカオ港の倉庫の片隅かどこかに忘れられて放置された本の箱のイメージだけが切ない未練といっしょに残っている。

 

現在のところ僕が本を置ける場所は本棚3段のみで他は彼女のスペースだ。なのであまり多くは置けない。彼女は他に天井まで届く大きな棚をもっていて、中にはぎっしりと靴を入れている。「あなたの本は私の靴だ」と彼女は言う。煩悩だ、と言いたいのだろう。ドイツ語で何と言うかは知らないが。

 

近ごろ、借り住まいは仮住まいなんだろうか、ということをよく考える。持ち家に田舎の家のように蔵があったり、大きな本棚のある書斎があったり、好きなだけ読んだ本をため込めたら、と考える。それだけの収用能があってはじめて仮住まいではない本住まいと呼べるんじゃないか、と。窓際やバルコニーに読書用の肘掛け椅子もあったらなおよい。

 

しかし、欲張ってたくさん買っても積ん読をつくるだけだし、所有した本を残しておいても全部を読み返すとはかぎらない。読み返しても本から得うるすべての意味を残らず汲みつくすことはないだろう。そんなことを言い出したらどんな生活も仮住まいにすぎないことになるかもしれない。畢竟、時間が有限だということを忘れて旅をしているのだ。