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ジュディス・バトラーへの批判の記事3

最後です。これもあとで抄訳&コメントにさしかえます。

Seite 3/3: Gehen wir es an

http://www.zeit.de/2017/33/gender-studies-judith-butler-emma-rassismus/seite-3

 

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3 私たちは立ち向かおう
晦日のケルンでも同様である。2016年の3月に私はその事件に対して本を出した(Der Schock)。この著作集の8人の著者のうち4人はムスリムの文化圏の出身である。2人のアルジェリア人女性と1人のドイツ系トルコ人女性、1人のドイツ系シリア人男性で、とくに関わっているがゆえにとくに精通しているためである。彼らはみな私のように制約を設けずにある主題を論じている。ケルンの駅広場にいたその2000人の若いムスリムの難民や不法入国者の暴力について問題になっているのは、個人の失態ではなく、政治的な示威行動であるという主題について。その行動で私たち女性に示されたのは、私たち女性は夜には公共の場で出歩くべきではないこと、それを守れないのは尻軽女でありカモであるということだった。カイロからケルンまで。大晦日の夜は偶然ではなく世界規模の象徴になった。あの事件は、フランスのイスラム学者Gilles Kepelが「下からのジハーディズム」と呼ぶものの新しいバリエーションである。
それから目を背けたいと思うことこそ人種差別的である。それはすべてのムスリムの女性たちに、故郷をなくし欲求不満で狂信的な夫との共同生活を強いることになる。そして目を背ければ、ケルンでの男性たちのふるまいに見られる風潮と、つまり家父長制の伝統とイスラム原理主義からなる不吉な混合物と、イスラム教一般とを決して同一視するべきではないということを見過ごしてしまう。
私はちょうどアルジェリアで数週間すごしたが、そこでは私と話した誰もがイスラム原理主義と世界でのテロの猛威におびえていた。彼らはそれを恥じている。アルジェリア人は自身の痛ましい経験からイスラム主義のテロを知っている。


【討論】

[先週この場でジェンダー研究者のJudith ButlerとSabine Harkは彼女らの専門領域への批判に反論した。春に注意深い論集Beißreflexe(クィア出版社)が出版され、そこではジェンダー学の異端審問じみた言論統制、その偏狭さ、そして女性に敵意をもつイスラム主義の危険を軽くみているものとして批判された。
フェミニズム系の雑誌エマの7月号ではこの本の著者らは出版後いかに激しい敵意をもたれたかを報告した。1つの寄稿論文はジェンダー学の中心地バーゼル大学で教えるVojin Saša Vukadinovićのものである。彼に対して、ButlerとHarkはとくに強く異議を唱えてレイシズムだと非難してエマ誌を攻撃した。今それに対して編集者のAlice Schwarzerが反論している。]


もしかすると党派的なButler流の思想上の概念はかなりの信奉者に、述べられているよりもずっと自明なものとして受け入れられているのかもしれない。そのためこれらの若いアメリカ人たちは科学的で政治的な思想を求めて途方にくれている。これは彼らの批判者を中傷することと並んで
Butlerカンパニーの最も重大な責任である。

先週ZEIT紙はButlerとHarkの文章に塹壕戦とタイトルをつけたが、そこにあるのはせいぜい「泥試合」だ。これについてはもっと大事な問題がある。それは私たちの世界の女性の基本的人権だ。女性がいるのだ。そして今、暴力的な時代の逆行が彼女らを悩ませている。トランプからエルドアンまで、消費という幻想からベールの強制まで。私たちはそれに立ち向かおう。

 

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