if( localStorage['ga_exclude']!='1'){

記事紹介:反差別か学問の自由か

学問の世界でも政治的な正しさや反差別の姿勢は求められるが、一方で学問の自由もある。どのように両立するのだろう。それを議論したドイツの記事を見つけたので紹介する。

以前、日本でも某学者が別の学者にSNSで偏見にもとづく発言をして問題になったことがあった。以下の記事で話題にされているのは、授業の中での学生同士や教員から学生への差別や抑圧になりうる発言である。

 

 

Streitgespräch ǀ „Ein schmaler Grat, auf dem wir gehen“ — der Freitag

 

 

„Ein schmaler Grat, auf dem wir gehen“

Streitgespräch 

Was zählt mehr? Rassismusverdacht oder Freiheit der Lehre? Die Politikwissenschaftlerin Gudrun Hentges und Sandra Kostner vom Netzwerk Wissenschaftsfreiheit diskutieren

 

Michael Angele | Ausgabe 02/2021 51

 

「私たちの歩む切り立った稜線」

論争

より重要なのは何か。人種差別の嫌疑か、学説の自由か。政治学者のGudrun Hentgesと Sandra Kostnerがオンラインで学問の自由について議論した。

 

政治的な正しさ、キャンセルカルチャー 

研究の自由が危機にさらされていると新しく設立された学問の自由ネットワークは主張している。大学では何を言ってもいいというわけではない。その対価が人種差別ならば。ケルン大学の異文化学研究所(FiSt)の声明の主旨はそういうものだと政治学者のGudrun Hentgesは共同提唱している。移民研究者のSandraKostnerは、このような介入は都合の悪い研究を排除するのが目的だとFAZで批判した。そういうわけで、この二人を対談に招待した。

 

大学の授業で学生に「あなたはどこの出身ですか」と尋ねるのは、昔はむしろ相手への礼儀や関心をもっていることの徴だったが、今はセンシティブになっているそうだ。

 

(前略)

 

Hentges: 私は「君はどこから来たの」という問いへの批判は正当だと思います。あまりにもしょっちゅう、外国の特徴や異なる特徴にもとづいて、しつこく「本当の出自」を問われる経験をしています。とくに有色の人は。彼らは暗に、ドイツ連邦共和国の国民の一人ではないと言われており、この経験は排除されているという感覚を強めます。

 

der Freitag(インタビュアー): オンラインゼミには明らかに他の国出身の学生が参加していて、それらの国々の議題はコロナでした。そこで初めにされた質問が出自を問うものでも必ずしも悪意があるとは思えませんが。

 

Hentges: しかしその後に続いたのはOKとは言えません。「あなたは異国的に見えるけど発音でドイツで育ったとわかります」と講師が言ったそうです。私はこれはエキゾチシズムの響きがともなうため大きな問題だと思います。文化間の専門知についてのゼミでは、講師が「最先端」を指向していると学生は期待していいはずです。

 

その女学生が出自についての質問で自分が軽んじられたと感じたのはもっともなことです。Kostnerさん、彼女には自分の意見を聞いてもらう権利はなかったのでしょうか。

 

Kostner: もちろん誰にでも意見を聞いてもらう権利はあります。しかしここで問題なのは関係性の節度です。それが守られていません。これは目の高さでの意見交流ではありませんでした。私の印象ではそれとは正反対で、直接講師と明確にしておくべきだった状況が即座にスキャンダラスなやり方で公にされました。なぜこのようなことをするのかと私は考えています。

 

それでなぜとお考えですか。

 

Kostner: おそらく、彼女はソーシャルメディアでならすぐに支援があると知っていたからでしょう。そのことは彼女のInstagramの投稿に54000回のクリックがあったことからも推察されます。加えてHentgesさんのような政治学者からの支持もあります。最終的には州政府での嘆願です。このなりゆき全体が私には、女学生とその支持者が講師の意見を絶好の機会として利用したかのように思えます。それによって大学と州政府を道徳的に圧力下に置き、反レイシズムの特殊主義的な理想を実現するためです。

 

Hentgesさん、あなたは自分の動機をどうお考えですか。

 

Hentges: Kostnerさん、あなたはこれが目の高さでの意見交流を大事にしていないと言います。たしかに私もそれが決定的に大事とは考えません。私たちは制度的なレイシズムに取り組んでいると思います。どういう仕組みで包摂や排除が起きているのか。どんな形態のエキゾチズムがあるのか。この女学生が私たちに言いたいことは、私たちがドイツ連邦共和国の社会の一部であり、日常場面で何度も肌の色やステレオタイプな特徴へと押し返されていることです。私たちはそれを真剣に受け止めなければいけない。そのための嘆願です。

 

Kostner: しかし、このやり方は学問の自由にどんな影響があるでしょうか。教員は、活動家の標的にならないように頭の中にハサミ[自己検閲]をもって行動するようになるのではないですか。とくにレイシズムの議題を取り上げる場合に、この女学生の気持ちがすべての基準になるなら教員はどれだけ自由に多様で学問的なレイシズムの概念を扱えるでしょうか。

 

学問的な関連で、具体的には何が人種差別的なため受け入れられない発言になるでしょうか。Hentgesさん。

 

Hentges: 「イスラム教はドイツに属さない」などです。もしくは、犯罪的な外国人や犯罪的な難民などの話です。移民の背景をもつ若者の暴力性を問うこと。これは一般にステレオタイプの再生産です。

 

イスラム教はドイツに属さない」は学問的な仮説ですか。

 

Hentges: このケースではある男子学生が女性講師に、イスラム教はドイツに属さないと繰り返しお題目のように唱えたことがきっかけでした。そのため学生たちは、じゃあ私たちもドイツの一員じゃないのと聞きました。彼らは攻撃されたと感じました。

 

このゼミで重要になるのは何ですか。

 

Hentges: ポスト植民地主義理論とケルンの大晦日です。

 

ケルンの大晦日はこの文脈ではどう関係していますか。

 

Hentges: ケルンの大晦日は今や、反イスラム教徒のレイシズムイスラム教徒への敵意についての多くの研究が研究対象にしているため大学研究の対象でもあります。もし学問的な会でイスラム教はドイツに属さないというような立場をとるなら研究にもとづいてそれを立証できなければなりません。それをその女性講師はその学生にわからせました。

 

Kostner: 大学で論じられる言明のすべてが研究を通じて証明できるわけでも、しないといけないわけでもありません。大学がアイデアのマーケット広場と見なされるのにはそれなりの理由があります。「イスラム教はドイツに属する」あるいは「属さない」という文を考えてみましょう。どの宗教共同体がドイツに存在するかに注目する人はこの問いには「属する」と答えるでしょう。それに対して歴史的な研究をすることで、イスラム教がドイツでどれだけその発展に影響を与えたかを示す人は、イスラム教が影響力をもつことを発見するのは難しいでしょう。また、どのような価値が私たちの平和的で民主的な公的機関の素質をなすかという問題に取り組む人は、イスラム教が私たちの価値の基礎を成しているのかという問いに「イエス」で答えることはほとんどできないでしょう。私はそのゼミに同席していませんでしたが、学生の視点から、その男子学生が排除されたと感じたと示唆するものとして記事を思い起こすこともできます。排除には多様な形式があります。

 

Hentges: その人もその立場も排除されていません。その男子学生はじっさい学問的に情報を得ることを要求されました。膨大なイスラム教やイスラム教徒についての研究があり、トルコ系移民についてのSinus研究があります。なのでその学生は前回のミーティングに出るまでにもゼミに参加していました。そしてたくさん学んだとさえ言っていました。

 

それでは、私はここで文化学のゼミの講師をやるつもりはありませんが、…こちらには排除、あちらには学説の自由と…。

 

Hentges: 私が講師として行動するときに歩むのはさながら切り立った稜線です。たしかに大学は学生たちが何かを試してみることができ、ときに学問の枠組みで際どい議題を言葉に表現してもいい場所です。しかし同時に私には脆弱な集団を守る責任もあります。

 

脆弱な集団とは以前にマイノリティと表現されていたものですか。

 

Hentges: マイノリティの概念はもっと広い意味です。「脆弱な集団」はある人たちが傷つけられやすいことを指しています。つまりレイシズムに見舞われる人たちで、言語的、身体的な攻撃に晒されているということです。難民は、出身国や亡命時のトラウマ的な経験のためとくに脆弱な集団です。複合的な差別もあります。なのでレイシズムとLGBTIQはともに論じられなければいけません。

 

Kostnerさん、差別と闘うのは良いことではないですか。

 

Kostner: そうですが、私にはこれはパターナリズムが過ぎるように思われます。もし私がある集団を脆弱だと呼んで、彼らが議論に対処できると信じずに彼らが議論で傷つくかもと考えれば、それは自立できない子どもに最善のものは自分がちゃんと知っているというつもりの過干渉な母親のようなふるまいです。そうではなく学生の立ち直る力を強めるべきです。それは気に入らない議論は何でも自分の人格への攻撃と見なさないようにするためです。

 

Hentges: はい、個人を強めて立ち直る力を発達させることは大事です。じっさいはそれは幾度ものワークショップや対話や訓練の中で培われます。キーワードはエンパワーメントです。これは差別され排除され傷つけられる状況にいる人たちが行動できるようにします。しかしそれを差し引いても、私は脆弱な集団が再びトラウマになる経験を単に避けるように彼らを守ることがことが正しいと思っています。

 

具体的にはどのようなことですか。

 

Hentges: たとえば、トリガー・ワーニング[トラウマ想起の警告]を使います。Kosnterさん、あなたが著書の中で批判的に考察しているものです。特定の画像を見せることは必要不可欠ではない場合が多いです。奴隷性の重大さを教えるために、アメリカ南部の州で起きたリンチ殺人を見せなければいけないでしょうか。私はそうは思いません。しかしじっさいは画像提示されています。講堂には、ショックを受けたり、最悪の場合トラウマを再発する人がでるという結果をともないます。

 

Kostner: トラウマ再発について話すのは私は問題だと思います。自己経験したトラウマを前提とする臨床概念は、保護する必要を強調するために、お気持ちが困惑させられたことなら何にでも安易に適用されるでしょう。

 

Hentgesさん、私はケルンのあなたのところで「映画における恐怖の美学」についてのゼミを提供と思います。そこではおぞましい画像が提示されます。あなたは私にどんな助言をしますか。

 

Hentges: では説明しますと、「映画における恐怖の美学」は義務が生じる授業ではありませんし、それで問題ないという人だけが履修するでしょう。もちろん崖歩きになることも多いです。映画『ショア』を扱うことを考えてみてください。何を見せていいか、何を見せないといけないか。答えはそれぞれの教員の責任の中にあります。

 

私の大学研究について考えると、困惑は私たちに影響を与えたものではありませんでした。むしろ特定の思想的な一派と結びついていると感じ、それに応じた学科を選び、他を避けていました。

 

Hentges: それは私の記憶とも一致します。しかし、困惑が前面に出ていないなら、多くの授業で質問してきたことですが、いったい女性の観点はどこに残っているのでしょうか。つまり私たちはその観点を強めることを求めて闘って来たのです。その成果もありました。反対にレイシズム批判や脱植民地化はほとんど主題ではありませんでした。これらの議論は1990年代の初めにようやく、かなり遠慮がちにフランス語や英語の翻訳から始まりました。

 

そして今ようやく議論が本当に大きくなったのですね。

 

Hentges: はい。今回挙げた事例は最近の三学期のものです。その意味で私たちがこれを過大評価することは避けたいと思います。毎週のすべて授業でレイシズムが議題や問題になるわけではありません。むしろ普通は議論に開かれた学習で、「悪魔の代弁者」の役回りをする人もいます。

 

Kostnerさんは今反論したいことはありますか。

 

Kostner: いいえ。私は開かれた議論の場はとても重要だと思います。それは折に触れて何度も擁護されなければなりません。その理由は、人間には知的に感情的に心地よい空間を設えたがる傾向があるためです。教員としての私たちの使命はこの心地よい空間から学生を連れ出して、居心地悪い立場に立ち向かわせることです。

 

しかし、その時のあなた自身の考えは明確なのではないですか。

 

Kostner: どういう考えでしょうか。私の普段の授業をある例で説明してみましょう。少し前、学期末に学生が私にこう言いました。「普通なら講師についてどういう位置にいるのかわかりますが、あなたについてはわかりません。これは束縛されない感じがしますが、不安でもあります」と。これは私にとっては称賛でした。称賛、というには私は意識的に教育内容を中立的に評価して学生を操らないように努めているからです…。

 

Hentges: …それはたしかに良いことですが、中立性の概念には危険も待ちかまえています。たしかに、私たちは教員として学生に教義を注入したり圧倒したりするべきではないでしょう。しかしそれは私たちが中立である義務があるということではありません。これはAfDの隠語です。かれらの通知プラットフォームの「ハンブルク中立学校」を見てください。そして彼らは1976年のボイテルスバッハ合意を解釈して…

 

…講義における政治的原則を定めた合意ですね…

 

Hentges: …それを、教師は政治的に中立である義務があるというように誤って解釈しました。正しいのはその反対です。公務員法を見れば書いてあることですが、公務員は、つまり大学教員も自由と民主主義の基本秩序という意義の価値を支持する義務があります。人権や市民権、法治国家、宗教上の寛容を支持し、レイシズムや差別に反対することです。

 

Kostner: 私は教員が中立である義務があるとは言っていません。私が教育内容を中立的に伝えるようにしていると言ったのです。これは別のことです。

 

仮に私が、独裁者の方が民主主義者よりもパンデミックにうまく対処できると論じる政治学の論文で学位を取りたいと思ったとします。それは可能ですか。

 

Hentges: もちろん。

 

しかし私のその論文は市民権と法治国家は危機の克服に際しては場合によっては妨げになるという結論に達していますが。

 

Kostner: それは学問の自由の範囲内です。

 

Hentges: それは非常に簡潔にまとめられた問いです。どの国家形態がパンデミックとの闘いに関してより効果的か。これは何も三権分立や集会の自由や男女平等について何も原則的なことは言っていません。

 

しかしこのアプローチは順応していません。私は少し大勢順応主義の抑圧という概念が気になっています。そのような抑圧は自由な研究にとって致命的ではないですか。

 

Hentges: 「自由な研究」というもの自体が幻想だ、とピエール・ブルデューなら言うでしょう。学問の中には権力構造や支配構造が浸透しています。そこからしか、そもそも何が「研究テーマ」や問題として認識されるかは導出されません。

 

同調圧力はまったく見られませんか。マイノリティからマジョリティにも、マジョリティからマイノリティにも。

 

Hentges: 同調圧力というのは誤った表現だと思います。むしろ私は社会科学の観点から不平等な言説の力について話したいです。また、ここでマジョリティとマイノリティが固定した団体として対峙しているわけではありません。そうではなくポスト植民地主義の観点から、マイノリティは特定の文脈での権力と分配をめぐる闘いにもとづいたときのみマイノリティになるということを認識するのが重要です。

(後略)

 

学問の世界も政治と無関係ではない。

SNSでの炎上のような結果にまで発展するのは、狭いゼミの中での問題の解決として適切とは思えない。

しかし、そこまで至ってしまうのは、その場で反論するのが難しかったり事なかれ主義でウヤムヤにする空気があったり教授の権威に逆らえなかったりそこでもマイノリティだから発言しにくかったり…、色んな事情があるのだろう。