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ドイツで労働法違反に遭ったら? -労働組合には入っていたほうがいいという話-

 

目次

 

 

 

 

理想と現実

 

「ドイツや他のヨーロッパで働くのは日本で働くよりもずっとのびのびしている」

「ドイツは休みがたくさんとれて、残業もない」

そんな話を聞いた覚えがある人は多いだろう。

ドイツで働くとなった日本人の中には、「労働環境がいいんだろうな」と期待に胸をふくらませていた人も多いだろう。じっさいその通りに働けている人もいるだろう。

しかし一方で、1日10時間以上働いたり、有給を完全に消化できていなかったりして幻滅を味わっている人もいるだろう。

たしかに法律で保障されている労働者の権利は日本よりも多少は充実しているし、法律をきちんと守っている雇用者の割合は日本よりも多い。

それでもやはりドイツでも労働法の違反はありふれている。とくに移民として働く場合は不利な立場に置かれることが多く、その実態や背景についてこのブログの以前の投稿で説明してきた。

今回からはドイツで働く日本人に役に立つ情報を書いていこうと思う。

 

労働 カテゴリーの記事一覧 - Ottimomusitaのブログ

 

 

対処するには

 

自分の職場で労働法違反があったとき、一体どうすればいいのだろうか。そう疑問に思い、救いを求めてネットを検索した人は、また肩すかしを食らったはずだ。おそらく、「ドイツの労働法はこうなっています」ばかりで「違反があったときどうすればいいか」がぜんぜん出てこなかったんじゃないかと思う。解決策が出てこないという状況は、ドイツ語で検索してもあまり変わらない。

結論を先に言えば解決策は、(詳しい方法は下で書くが)労働組合に入ることだ。この安直な答えがスッと出てこないのは、インターネットの情報が全体的に経営者の視点で書かれていて、労働者の視点が少ないためだ。ネットでそれが見つかるのは当の労働組合のホームページくらいだ。

なのでこの記事ではドイツの労働組合(ここではNGG)のホームページを参考にするが、その前にいちおう労働組合に加入する以外の一般的な対処法にはどんなものがあるのか見ておこう。

 

 

●まずは記録と相談

 

記録と相談。以下に書くどの対処法をとるにしてもこの2つはふだんからやっておかないといけない。

記録しないといけないのは、労働時間と取得した有給日だ。

 

 

労働時間

労働時間は仕事を開始した時間と終えた時間を分単位で記録し、休憩時間をそこから除く。職場にタイムカードや記録用紙があって、それによって雇用者が労働時間を把握していることが多い(法律上の記録義務がある)が、いつでも参照できるようにアプリなどを使って自分で記録した方がよい。また、15分単位で記録している会社もあるが、本来は1分から計算に入れないといけないので分単位の記録を残しておけばそちらが重視される。

 

有給休暇

取得した有給休暇(Erholungsurlaub:保養休暇)の日数も記録しておかなければならない。

自分がどれだけ有給休暇を取得できるのかを把握しておこう。週5日働く人なら1年に最低20日が法律で保障されている。週6で働く人なら24日、週4なら16日、週3なら12日だ。労働契約でそれ以上の日数が定められている場合があるので契約書を確認しておこう。

これに加えて、週5勤務なら土日の2日間と祝日、病欠などが休日である。これらは有給休暇とは別だ。とくに不定休の場合は、ある休日が有給なのか祝日の代休なのか不明瞭な時があるので、明確にした上で記録しないといけない。

また、有給休暇は自分で指定した日に取ることができ、雇用者が決めることはできない。なので、雇用者の都合で店を閉めるなどして休みになった期間は原則として有給休暇に含まれない。ただし、会社の都合で出勤していない日に遊びに出かけた場合は保養を行なったとして有給休暇として数えられる。そのため会社都合で休んだ期間は、指示があれば出勤できるようにしていたか、それとも遠くに出かけていたか、記録しておかなければいけない。

有給休暇(Erholungsurlaub)は保養のためのものなので、この期間中に別の仕事をしてはいけない。

 

相談

労働時間や有給休暇に関して、法律や契約と異なる命令や実態があったときは雇用者に言わなければいけない。直接の話し合いをせずに、いきなり役所に通告したり、労働組合からの勧告を求めるのはマナー違反だ。

有給休暇を取得するときは早めに申請して許可をもらおう。休みたい日を伝えた際に、それが毎週2日の休みの日なのか、有給休暇を使いたいのかも合わせて伝えるようにしよう。職場に申請用紙が用意されているときはそのコピーや写真を残し、ない場合は書面かEメールを通じて伝え、その記録が残るようにしよう。

 

 

●通報、裁判

 

日々、労働時間や休暇日数の記録をして規定以上に働かされていると分かった場合、まずは雇用者にそれを伝えないといけない。

それでも改善しなかったときにだけ、役所などに通告することができる。通告するのは、役所では労働安全衛生局(Arbeitsschutzbehörde)(たいていは職業監督局(Gewerbeaufsichtsamt)や労働安全衛生の州事務局)か、専門家協会(Berufsgenossenschaft)があればその技術監督局(Technischen Aufsichtsdienst)だ。

ぼくは通告したことがないが、これはあまり当てにならないのではないかと思う。ネットの投稿では、通告したが役人はそっけなくて上手くいかなかったというような声があった。

通告しなくても役所の方から職場の労働時間を雇用者が守っているかをチェックしに来ることもないわけではないが、まず来ないと言っていいくらいまれである。労働安全衛生局の管轄だが、レストランの調理場の衛生状態などを抜き打ちで監査しに入ることはたびたびあるのに対して、労働条件を聞き取りしたりはまずない。

通告にしても監査にしても、基本的に労使の関係に役所が直接介入することを嫌っているように見受けられる。ドイツでは、なるべく大手の組合を通じて争議を解決することが好まれ、内部告発や個々の争いは避けられる傾向がある。内部告発については2019年にEU公益通報者保護指令が始まったので変わっていくかもしれない。

裁判は、言うまでもなく最後の手段だ。これにはお金も時間もかかるし、こうなってしまうと雇用関係を続けるのは難しい。日本でもそうだが、ドイツでも辞めるときに裁判をして違反分を取り戻す事例が多い。だから訴訟は働きながら雇用者と交渉をするための方法とは言えない。

 

労働組合

 

最後に労働組合の長所と短所を簡単に説明しておく。

メリット

労働組合に入るメリットはいくつかあるが一番は相談できることだ。ぼくも働いているとき休暇のことや契約期間や労働時間について何度も相談して何度もお世話になった。雇用者にどのように伝えればいいか、法律では何が正しいかなど教えてもらえる。また雇用契約書を読んでもらって説明してもらえる。これらの相談はEメールでもできる。

組合の言う通りに雇用者に伝えても雇用者が応じなかった場合は組合から雇用者に勧告の手紙を書いてもらえる。たいていはこれで応じるが、もし裁判になるところまでいっても組合が裁判をサポートしてくれるので安心だ。

 

コストとリスク

労働組合は収入の1%の会費を払わないといけない。それも税金を取られる前の1%なので額としてはけっこう高い。しかし、8時間労働なら1日平均5分余分に働かされれば1%を超えるし、有給休暇を2、3日取り損ねれば1%だ。それらのリスクや裁判のコストに対処できると考えれば妥当な会費ではないだろうか。

 

組合員であると知られることにはリスクがある。経営者や雇用者は、組合が労働者の後ろにいると好き勝手ができないので従業員が組合に入るのを嫌う。また組合員は他の従業員を組合に引き入れる可能性もある。そのため雇用者は組合加入している従業員を辞めさせたり初めから採用しないようにする可能性がある。これはもちろん違法だが、組合を避けたがる雇用者はそもそも違法なことをしている傾向があるのでルールを守る保証はない。

組合に加入してもそのことを組合が勝手に暴露することはない。組合と雇用者で労働協約を結ぶまでは誰が組合員か発覚することはない。組合から雇用者に勧告の手紙を送ってもらうときには組合員だと明確になるが、そのときは勧告を送るメリットと暴露のデメリットを秤にかけて判断するとよい。

 

加入方法

ドイツで労働組合と言えばふつう産業別の大きな組合だ。組合として認定される基準が高く、日本や他の国のように少人数で集まってユニオンを作ることはできない。一部の例外を除いて、どの組合に入るかはどの業種で働いているかでほぼ決まってしまう。これは歴史的な経緯から、小さな弱い組合や突発的なストで社会が不安定になることを防ぐためにできたスタイルである。

たとえばレストランで働いている場合はNGGに入ることになる。入会手続きはネット上や電話でもできる。

 

NGG: Gewerkschaft Nahrung-Genuss-Gaststätten

 

 

 

記事紹介: 植民地主義とナチスの比較は「ユダヤ人差別」?

ここ数年、ドイツで一見すると奇妙に思える歴史論争が巻き起こっている。

植民地主義時代のドイツの(主にアフリカでの)行いと、ナチスによるユダヤ人虐殺を比較して議論することは、「ユダヤ人差別」であると主張する人たちがいるのだ。

 

 

植民地時代のドイツ

ドイツのアフリカ支配については、ナチスの時代ほど知られていないかもしれない。他の欧州の国や日本と同じく、ドイツも植民地主義の時代があった。

参考:

世界史の窓 アフリカ分割

世界史の窓 東アフリカ植民地(ドイツ)

ドイツ、ナミビアでの大量虐殺認める 植民地統治時代 - 日本経済新聞

 

植民地主義とナチズムの比較

ドイツは、日本とは異なり、過去の負の歴史を反省していると言われている。それは事実だが、その反省と追悼の度合いには濃淡がある。とくに重点的に想起と謝罪が行われているのは、言うまでもなくホロコーストの歴史である。その一方で、上のリンクのように、植民地時代のナミビアでの大量虐殺は2021年5月になって承認したばかりでまだまだこれからという印象だ。

歴史学は日進月歩であり、国による反省も日々新たにされている。これからドイツ植民地時代についてもふり返りが行われ、ナチスとの関連や連続性もわかってくるのだろうという見通しがたつ。ところがそこに今ストップがかかり、政治的な歴史論争が起こっている。「それはホロコーストの軽視だ」と言われているのだ。

もちろん、ナチスによるホロコーストや旧日本軍による虐殺はその規模や残酷さにおいて近代史の中で群を抜いている。しかし、そこに至るまでにはいくつもの偏見や人種差別、さまざまな支配や搾取の積み重ねがあったはずだ。なので、植民地主義ホロコーストの関連をあつかうことがユダヤ人差別であり罪の歴史の否定だ、という批判はイマイチ飲み込めない。

この論争は「第二次歴史家論争」と呼ばれている。その内容を見ていく前に、「第一次」の方の歴史家論争と呼ばれていたものを紹介しよう。

 

 

1980年代の歴史家論争

「公的な歴史認識」の基準をめぐって ードイツ歴史家論争ー  柴田 育子 PDF

 

1980年代の歴史家論争は、ホロコーストを相対化して国民的アイデンティティを補強しようとした歴史学者らに対して、哲学者のハーバーマスが批判をして論争に発展したものらしい。歴史学者の中にはハーバーマス側で論争に加わった人もいる。この論争には、当時のドイツの保守対リベラルの政治的な争いも影響しているようだ。上の記事を参考に各論者の主張を簡単にまとめてみる。

ハーバーマスは、ノルテやシュテュルマーといった歴史学者は修正主義者だと批判した。ナチズムの罪を無条件に反省することを主張し、伝統からは距離を置いて、国民的アイデンティティを西欧型のデモクラシーや啓蒙主義文化に求めるべきだとした。

ノルテは、ナチスを絶対悪として見ることで学問にとって必要な新しい批判が妨げられるとした。

シュテュルマーは、1945年で歴史が断絶しているというハーバーマスの考えに反対し、確固たる国民的アイデンティティを持った民族のみがNATOにふさわしく信用される国だと主張した。

また保守系新聞の共同編集人のフェストはノルテやシュテュルマーを支持し、ナチズムとソ連のボルシェヴィズムは、どちらも行政的に計画され、技術的手段を伴った集団的で機械的な殺害行為という点で比較できると主張した。

歴史学者ヒルグルーバーは、兵士の視点から東部戦線でのドイツ軍はドイツ市民のため犠牲となって西側への退路を開くためにソ連軍と戦ったと英雄的に記述して、ユダヤ人問題は分けて論じた。

 

第2次歴史家論争

ここ数年に起きている歴史家論争については、以下の記事を引用したい。『歴史家論争2.0: 植民地主義ホロコーストと比較可能か?』と題するnews.ORF.atの記事だ。

 

Historikerstreit 2.0: Kolonialismus mit Holocaust vergleichbar? - news.ORF.at

 

 

歴史家論争2.0: 植民地主義ホロコーストと比較可能か?

 

2年前から「第二次歴史家論争」がドイツで人々を興奮させている。予定されているドクメンタ(カッセルの芸術祭)を前に論争は次の白熱期間を迎えている。議題が多岐にわたる議論の背景には、記憶を編成し直す問題がある。つまりホロコースト植民地主義を関連づけて相互比較してもよいかという問いである。それは端的に言えば、ナチスホロコーストは数十年にわたってドイツとオーストリアで重視されてきたように唯一無二のものなのかということだ。ORF.atはイスラエル社会学者Natan Sznaiderとドイツ歴史家Dirk Rupnowに質問した。

反ユダヤ主義討論は誤ったヒステリックな責め苦だ」という題で、Eva Menasseは先週ツァイト誌に怒りをぶちまけた。20年ベルリンに住んでいて、反ユダヤ主義の議題を何度も著作で取り上げているこのオーストリア人女性の作家(『Dunkelblum』)は、「まったく見当違いの道徳主義」で「厳格な鞭打ち人の小集団」だと言っている。

 

背景: 繰り返しになるが「歴史家論争2.0」という題の新聞コラムの冒頭で述べられたように、この議論のテーマは事実の状況ではない。事実についてはMenasseが言う「粗野で残酷で命を脅かす反ユダヤ主義」の増加はオーストリア反ユダヤ主義に反対する国家戦略の実施報告書で明確にされているという。改めてここでテーマになっているのはそれではなく、文化領域での「象徴政治」だ。

 

 

問題と無関係なものの間のBDS

何度も最優秀に表彰されているポスト植民地主義の理論家Achille Mbemeが、反ユダヤ主義発言のため、このルール地方トリエンナーレの講演者として不適格になるのか?そのように2020年の議論は始まった。今起きていることのきっかけは、7月18日に始まったカッセルでのドクメンタ15にて、政治参加とポスト植民地主義の啓発を行うインドネシアの芸術家集団Ruangrupaによる展示だ。Ruangrupaの公開芸術家リストはここ数週間ドイツの新聞コラムで議論されている。 

具体的に問題になったのは、BDS運動(Boycott, Divestment and Sanctions)に共感的だと噂されるパレスチナのグループだ。BDSは占領政策を理由にイスラエル国家をボイコットすることを呼びかけていて、ドイツ連邦から(またオーストリア議会からも)反ユダヤ主義に分類されている。知っている限りではBDSの重要性はなおざりにされているとRupnowはORF.atの対談で擁護した。「私たちはBDSについて熱く議論していますが、私の日常にはそれは反映されていません」とInnsbruck大学で教える歴史家は言う。

テル・アビブ社会学者Sznaiderは違った評価をしており、出版されたばかりの彼の本『Fluchtpunkte(消失点)』でこの議論に関与している。「ドクメンタの外部委託」は「時代精神」であり「知的怠慢」だというのが、芸術界のポスト植民地主義の流行に対する彼の辛辣な回答だ。まさにこのような問題を背負い込むため、「ラマッラ(パレスチナの都市)のグループを招待するインドネシアのグループにキュレーションをさせたならBDSを持ち込まれても驚くべきではない」と彼は言う。

 

 

植民地の歴史は新たに罪の問題を提起する

議論の高潮の背景には、展示を行った芸術家集団の地政学的背景の他にも多くの問題がある。根本的に重要なのは、植民地主義の経験の地平線だ。それは、移民によって社会が多様化し知識が国境を越えることで、この国でますます意識されるようになっている。 

フランスとイギリスではすでにもっと早くから植民地の歴史に取り組んでいたが、西洋の植民地主義での歴史的な罪の問題は今ではドイツにも至っている(そして程度は少ないがオーストリアにも)。去年になってようやくドイツは現在のナミビアでのヘレロ族とナマ族に対する犯罪を大量虐殺として認め、議論は植民地時代の略奪品の返還をめぐる議論が本格化している。この取り組みによって必然的に、前回の35年前のようにナチス加害国の特定の文脈で記憶についての政治が再び発火点に達することになる。

Natan Sznaiderは1954年にマンハイムに生まれ、1994年からテル・アビブ社会学の教授として教えている。新著『Fluchtpunkte der Erinnerung(記憶の消失点)』で彼は彼の歴史学の仕事や、ホロコースト植民地主義を結びつけることについて、ハンナ・アーレントクロード・ランズマンからAlbert Memmi、エドワード・サイードまで扱っている。

 

 

1986年の歴史家論争

思い出すために: 今新聞コラムをにぎわす「第二次歴史家論争」という用語は1986年の歴史家論争から来ている。これを引き起こしたのはエルンスト・ノルテのアウシュビッツはボリシェヴィズムの残虐性への反応でしかなかったという主張だ。ノルテはドイツの罪をあっさり片づけようとして歴史を歪曲したことが明らかになっているという。この時以来、ショーア(ホロコースト)の独自性と比類なさは覆すことができないと認められている。 

しかしそれに対して学者は反論の動きを見せていて、アフリカ学者のJürgen Zimmererとホロコースト研究者のMichael Rothbergは去年ツァイト紙で「比較を脱タブー化せよ!」と要求した。両者は、異なる犠牲者の集団間で「連帯が差異化されている」という意味で、反ユダヤ主義と人種差別の類似性、また植民地主義の犯罪とホロコーストの接続線を考察することに賛意を示している。

 

 

「明確な反イスラエルの態度」

「どんな比較からも学ぶことはある」と今はSznaiderもORF.atの対談で述べているが、そこには大きな「しかし」が続く。Sznaiderによると、問題は政治的な含意だという。彼が『Fluchtpunkte der Erinnerung』でも詳述したように、「もし植民地主義がショーアの先駆として説明されればそこから何が言えるかという問いが立てられる。ホロコーストは唯一無二のものではないと言いたいのだろうか。それによって、それは本当はドイツの事案ではなくヨーロッパの植民地主義から発展したものだと。多くの犯罪のうちの1つだと言いたいのだろうか。」

 

 

「人為的に区別する」のではなく

さまざまな犠牲者の観点を結びつける試みを社会学者のSznaiderは基本的に失敗だと見ている。「暴力の経験は人間を切り離すのであって、団結させることはない。政治は、他の側を理解することで平和と宥和に導く集団力学ではない。」

「歴史家なら人為的に区別されようとしているものに驚くかもしれない」とRupnowはここでORF.atに答えた。「ヨーロッパ社会はある種の暴力経験を経て、暴力をヨーロッパの外に締め出した。私たちは暴力について20世紀にヨーロッパで起きたことから完全に切り離せると考えるのだろうか。それは私には奇妙に思える。」

 

 

記憶文化の居心地の悪さ

彼は「反ユダヤ主義と人種差別のきれいな切り分け」もすべての詳細にわたって不適切だと考えていて、「19世紀の反ユダヤ主義の特殊な点は、それが人種差別的」だということだという。「ナチスにとって、誰かが洗礼を受けているか、無宗教であるかは全く関係なかった。」

現在の議論にはもっと以前から続く背景がある。約10年前からすでに歴史家が述べるようになっていた「記憶文化に対する不居心地の悪さ」については、そのタイトルで議論されていた。国家のホロコーストの記憶は形骸化・空疎化していて社会の特定の部分には届いていない、と未だ影響力の強い批判で述べられている。

オーストラリアのホロコースト研究者Dirk Mosesは去年これについてさらにひとつ書いており、その論文「ドイツの教理問答」の中で論争的に、偽装されたドイツの宗教風の罪の崇拝とまで言っている。

 

 

過去から教訓を引き出す

ORF.atの対談でRupnowはまた「記憶文化、移民の暴力経験の地平線、植民地主義、搾取、亡命、追放、ジェノサイド」を合わせて考えることを主張した。「私たちの記憶文化の題目は、私たちは歴史から学ぼう、だ。それなら、歴史から教訓を引き出すのが重要だと私たちが考えている現在の局面はどこにあるのかという問いが生じるはずだ。」そうでなければ、私たちは「過去の克服」という文句はもう古くて使い物にならないと宣言する。

基本的な問題は、私たちが「ダブルスタンダード」をあてがわれていることで、たとえば移民と現地民が2つの尺度で測られて記憶の選別が蔓延していることだという。「一方で誇らしげに亡命路をふさぎ、他方ではホロコーストの記憶を崇めて見せて」過去を鑑みてそうすべきだったのだとしている、とRupnowは言う。「しかし、過去から学びとるべきことは亡命路を開くことだ。」

 

 

 

目を背けているのは何か

 

あまり歴史に詳しくはないが、ホロコースト植民地主義に直接の関係はなくとも、ナチスによるユダヤ人差別と他の人種差別の関係は密接だろうし、東欧に生存圏を求めて侵略したことと植民地主義との関連は指摘されているの読んだことがある。

 

第三帝国 ある独裁の歴史: 本

↑この本が最新研究までまとまっていて参考になる

 

実際に何がどれだけホロコーストの原因として有力なのかはぼくにはわからないので置いておくとして、植民地主義との関連を考察すること自体が軽視になるとは思えない。ホロコーストと過去の他の犯罪が同程度の被害規模だと主張しているわけではないし、この比較には第1次歴史家論争での比較のような道徳的な問題もないと思う。

第2次歴史家論争で糾弾されているのは、ナチス時代と植民地時代のドイツの比較で、どちらもドイツの問題だ。第1次のときのノルテやシュテュルマーのように、ナチズムは共産主義に対抗するためだったと責任転嫁したり、ナショナリズムをあおるためにホロコーストと兵士個人を切り分けたりしたわけではない。

では、この比較の何が一部のドイツ人を苛立たせているのか。

 

ひとつには、ナミビアでの虐殺を認めたのが2021年になってからであるように、まだ植民地時代の反省がナチズムの反省ほどには進んでいないためというのはありそうだ。

 

また、植民地主義が西欧と直結することも一因なんじゃないかと思う。

上の柴田育子さんの論文によると、歴史学者のノルテはアウシュビッツを「アジア的」蛮行と呼び、ソ連の脅威の被害者になるかもしれないと考えて似たような蛮行に及んだ、というような主張をした。それに対してコッカは、比較するなら西側の社会とすべきだと主張しているのだが、「ドイツの独自性というものが、スターリンポル・ポトとの比較によって抑圧・排除されてはならない」とも書いているそうだ。

これはつまり、なぜドイツが西欧のように民主主義国になれなかったのかという問いであり、比較といっても類似点を探るわけではない。コッカもノルテと同じくアウシュビッツが非西欧的だと前提しているし、「アジア的」蛮行ということを否定していない。

しかし、最近の論争のように植民地主義ナチスの図式ができれば、ナチスは西欧的な文脈から出てきたことになってしまう。これが忌避されているのではないか。

民主主義や人権といった価値を西欧とのみ結びつけ、それに反するものを非西欧に押しつけることは無理がある。それは二次大戦時にアジアでナチスに並ぶ蛮行を行なったのは脱亜入欧を進めた日本だったことからもわかる(日本固有の問題もあるとはいえ)。

 

それからもちろん、イスラエルの問題がある。イスラエルボイコットに対してドイツが国として敵意を向けていることからもわかる。パレスチナに対してイスラエル軍が行なっていることは(ホロコーストというよりは)植民地時代を連想させる。

 

同じ話題がこちらでも詳しく書かれている。

ドイツ現代史研究の取り返しのつかない過ち――パレスチナ問題軽視の背景 京都大学人文科学研究所准教授・藤原辰史 | 長周新聞

 

藤原辰史さんはユダヤ人の虐殺の影に隠れたロマ人の被害を挙げている。ぼくは昔の仕事柄、障碍者差別にも注目してほしいと思う。T4作戦はホロコーストに先駆けて行われた。ドイツでも日本と同じくBehinderte(障碍者)やSchwachsinn(精神遅滞)が罵倒語として使われているが、これもナチス賛美くらいのタブーでないとおかしい。

ナチスの反省が、戦後に西欧先進国サロンに復帰するための単なるみそぎでないのなら、もっと多面的に歴史をふり返って現在の国際情勢や政治の理解に反映させるべきだろう。

 

 

記事紹介: 親露に傾くドイツのポピュリズム?

先月の話題。ドイツの有名なフェミニストのアリス・シュヴァルツァーと左翼党のサーラ・ヴァーゲンクネヒトがウクライナ戦争における停戦交渉を呼びかける宣言を出した。これが親ロシア的だとして批判を受けている。

 

2023年2月10日のt-onlineの記事。

Sahra Wagenknecht und Alice Schwarzer: Offener Brief gegen Waffenlieferung

ヴァーゲンクネヒトとシュヴァルツァーはロシアとの交渉を要求

Prominente Unterstützung

Wagenknecht und Schwarzer fordern Verhandlungen mit Russland

著名人による支持ヴァーゲンクネヒトとシュヴァルツァーはロシアとの交渉を要求している

 

左派政治家のヴァーゲンクネヒトと作家のシュヴァルツァーは新しい公開書簡でドイツの武器輸送の結果に警鐘を鳴らしている。

左派政治家のサーラ・ヴァーゲンクネヒトと作家のアリス・シュヴァルツァーはウクライナへのドイツの武器輸送を終わらせることを求めた。それよりも連邦首相オラフ・ショルツ(SPD)は交渉にとりかかるべきだという。

Twitterに上げた一緒に映った動画で二人は金曜日に「和平を求める宣言」と題した嘆願を発表し、同時に2月25日のブランデンブルク門前でのデモ参加を呼びかけた。

「ロシアから情け容赦ない急襲を受けたウクライナの人々は私たちの連帯を必要としています」と嘆願にはある。しかし、さらなる武器の輸送には連帯は示されない。むしろそれは「世界戦争や核戦争へずるずると進む道」を敷くとしている。ウクライナの兵力がクリミア半島を攻撃する頃にはロシア大統領ウラジーミル・プーチンは「最大限の反撃」を用意するだろうとする。黒海の半島であるクリミアはロシアによって不当に併合されたものだ。

(中略)

 

ゼレンスキーとベアボックへの批判

シュヴァルツァーとヴァーゲンクネヒトは嘆願書の中でウクライナ大統領のウォロディミル・ゼレンスキーへの批判も行なっている。「ゼレンスキー大統領は彼の目的を隠していません」と書いている。「彼は約束された戦車の次に今度は、戦闘機、長距離ミサイル、軍艦を求めています。ロシアに全面的に勝利するためでしょうか」ウクライナは、西側の支援で、個々の戦線では勝利できるでしょう、と書き、「しかしウクライナは世界最大の核兵器を相手に戦争そのものに勝つことはできません」としている。

二人はこの文脈で、「私たちは互いに戦争するのではなくロシアを相手に戦います」とEU議会で述べたドイツの外相アナレナ・ベアボックも問題だと感じている。

ショルツ首相は就任時にドイツ国民を被害から遠ざけると誓ったことを指摘し、「私たちは連邦首相に武器提供のエスカレートを止めることを要求します。今こそ、彼はドイツ、そしてヨーロッパ規模で停戦と和平交渉を求める強い同盟の先頭に立つべきです」と書いている。

 

書簡はこれが初めてではない

シュヴァルツァーとヴァーゲンクネヒトが公開書簡で連邦政府を批判したのはこれが初めてではない。すでに前の4月に彼らは似たような文書でショルツに宛ててウクライナに重兵器を送らないよう主張していた。彼らの言ではその間に50万人以上がこの書簡に支持の署名をしている。

反対の訴えでウクライナへの継続的な武器提供に賛成した知識人もいる。「攻撃されている者の手にあれば戦車と榴弾砲も防衛兵器だ。それらは自己防衛の役割を果たすからだ」と緑の党の政治家だったRalf Fücks、作家のDaniel Kehlmann、編集者のMathias Döpfnerが署名した文には書かれている。さらにその中で、ウクライナ征服にならないような和平交渉を望むなら防衛力を強化しなければいけないはずだと書かれている。ロシアの攻撃の成功を妨げることはドイツの利益になるという。

 

ウクライナ戦争の停戦は、領土を奪われるなどの譲歩を意味するので、侵略を肯定することになり親露的だと批判されているようだ。(ぼくの早く停戦してほしいと思っているけど、どっちが正しいか分からずにいる)

この停戦を求める意見はドイツの右翼にも見られる。

最近のドイツの右翼は、親露的な傾向がある。冷戦時はロシアを敵視していたが、今はむしろLGBTの権利や反植民地主義が西欧普遍主義だとしてそちらに対して反発している。そのためむしろEU議会やNATOを批判し、保守的で西欧とは一線を画すロシアにシンパシーを感じているようである。長谷川晴生さん訳のフォルカー・ヴァイス『ドイツの新右翼』にそのあたりが詳しく書かれていた。

反対にウクライナへの武器提供にもっとも積極的なのがドイツ緑の党で、これも昔のイメージからするとかなり意外だ。

以前この投稿で紹介したAfD支持者を定量的分析した論文[PDF]によると、緑の党支持者はポピュリズム傾向が最も低く、AfD支持者はもっとも高いそうだ。

ポピュリスト的なAfD投票者は56%なのに対し、SPDでは29%、左翼党では23%、CDU/CSUでは14%、緑の党では10%である。反対にAfDの非ポピュリストの投票者の割合はかろうじて12%だけで、緑の党(57%)、CDU/CSU(56%)、FDP(43%)、SPD(38%)、左翼党(36%)などよりはるかに少ない。

ここでいうポピュリズムは、政治的な既存勢力に対する反発と、国民の意志が一体だという意識のことだ。つまり、大多数の国民の考えは決まっているのに政治家がそれに反することをしているという考え方の強さの程度を表していて、思想の左右は問わない基準である。

ドイツでロシアに対して甘くなるかどうかに、このポピュリズム傾向が関係しているのかは分からない。プーチンの反西欧普遍主義の態度にドイツの反エスタブリッシュメントの勢力が共感している可能性はあると思う。

そして、反西欧普遍主義という意味では、日本の一部の右翼もそっちが本音なんじゃないかとぼくは思っている。

自民党LGBT特命委員会事務局長・城内実議員がオフレコ問題発言 「同性婚はウクライナが正しいという人と同じで少数派」|NEWSポストセブン

↑これがその一例。なんで同性婚の文脈でウクライナ出てくるの?と一見すると唐突に感じるが、彼らの中では反「西欧普遍主義」でロシアに同情的で、この点でLGBTと同じ問題だと見なしているということだろう。

しかし日本では自民党政権がそこまで「西欧普遍主義」ぽいものと一体ではないので、ドイツのように反エスタブリッシュメントに結びつくことはないのが大きな違いだ。

「西欧普遍主義」と「」をつけたが、LGBTや反人種差別、反植民地主義が西欧のものという配置はおかしいと思う。LGBTの人はどこにでもいるし、反植民地主義はむしろ第三世界から出てきたものだ。ウクライナ戦争にNATOの利害も関わっているのは否定できないとしても。

 

 

先月のウクライナ戦争停戦デモは右翼や極右の支持も集めており、極右と手を組むことになるのではないかという疑念も向けられていた。

2023年2月16日のtazの記事。

Wagenknecht und Schwarzer: Rechtsoffen – ein Manifest für alle - taz.de

 

ヴァーゲンクネヒトとシュヴァルツァー:右翼の受け入れ 全層へ向けた宣言

ヴァーゲンクネヒトの変節: 2月25日のデモには極右の旗は受け入れられない。しかし誰にでも開かれている。

 

ベルリン taz |  サラ・ヴァーゲンクネヒトとアリス・シュヴァルツァーの「和平を求める宣言」と2月25日のデモ呼びかけは数日間対立する議論を引き起こしている。


早くも呼びかけの公開後すぐにAfD党首Tino Chrupallaと極右系雑誌のCompactの編集長のJürgen Elsässerが支持側に回っている。

ヴァーゲンクネヒトは日曜日にシュピーゲル誌で右翼からの支持を拒否していたとはいえ、今は少し表現を変えている。左翼政治家のヴァーゲンクネヒトと出版者のシュヴァルツァーは木曜日にシュピーゲル誌でもあらゆる支援を受け入れる姿勢を表明した。

もし極右がデモに現れて旗を振ったらどうするかという質問に対しヴァーゲンクネヒトはこう答えている。「私たちのデモは真摯に平和と交渉を求めてる表明をしたい人は誰でも歓迎します。」しかし、右翼過激派の旗やシンボルはそこにはない。

すでに水曜日にTwitterに、最初の署名者でもありヴァーゲンクネヒトの夫で元左翼党党首のOskar Lafontaineが、インタビューに答えた動画が上がっていた。「そこでは思想調査はありませんし、誰も『どこの党員手帳をもっていますか』とか『誰に投票しましたか』とか尋ねることはありません。」

 

右翼の助けによる平和?

Lafontaineの立場を共有していなくても排除することはできないと政治学者のHajo Funkeは木曜日にtazに語った。しかし右翼を手段として使うことは阻止すべきだ。これに対してもとEU議員で最初の署名者でもあるGünter Verheugenは宣言を支持し、結びつけられている政治活動とは別物だとした。それはデモとは関係がないと彼はtazに話した。

左翼党幹部のJanis EhlingはLafontaineの招待に対する応答としてTwitterで全体に向けて、この呼びかけを拡散すると書いた。しかし彼はこのデモをもう支持しなくなった。「この国」ではエスカレートに反対する声がまだまだ必要だという。「しかし右翼を仲間に引き入れようとする者は、平和を求める信用できる意見とは見なせない」

ヴァーゲンクネヒトとシュヴァルツァーは2月10日にchange.orgのプラットフォームを使って「平和宣言」の名で署名活動を始めた。同時に彼らはウクライナでの戦争の開始からほぼちょうど1年後の2月25日のブランデンブルク門でのデモを告知した。彼らはとくにロシアとプーチンの戦争責任やウクライナでの犯罪を軽視しすぎていることで批判を受けた。

 

ヴァーゲンクネヒトが新党を創ろうとしているという話がある。旧東ドイツの人々や左翼、AfD支持者にも賛同する人がいるだろうとシュピーゲル誌。

Sahra Wagenknecht: Neue Partei könnte auf großen Zuspruch bei AfD-Wählern hoffen - DER SPIEGEL

ヴァーゲンクネヒトがAfDから入党のオファーを受けたという話もあった。

 

 

ドイツに住んでKindle出版してみた

ドイツで、ていうのは最後に書く点以外はまったく関係ないんだけど。日本語で書いてるし。ともかくKindleで小説を出してみた。

出版は思っていたよりも簡単で、具体的な方法はこちらのサイトを参考にした。


簡単すぎる!Kindle出版の方法(Amazonで電子書籍を出版する方法)


そして売り出したのがこれ。

 

宇宙時代のマナー講座 | 虫太 | 小説・文芸 | Kindleストア | Amazon


値段設定は「とりあえず500円にしとけばいいよ」とどこかのサイトで読んだので、とりあえず500円にしといた。


出版したい文書のファイル形式を電子書籍用に変換しないといけないのが、少し面倒くさい。ぼくはファイル変換に「でんでんコンバーター」というのを使った。縦書きの文章を作りたくて、かつ無料で済まそうと思えば、たぶんいろいろ試してもけっきょくこれになると思うのでオススメしておく。


電書ちゃんのでんでんコンバーター - でんでんコンバーター


好きな方法で書いて、でんでんコンバーターに入れるようにパソコンのWordで体裁整えてから、メモ帳アプリにコピペしてテキスト形式にする。この手順がスムーズだと思う。


でんでんコンバーターがどういう書式を求めているのかを早めに見ておいてから書くと、あとあと楽だろう。縦書きになったときに半角英数はどうなるのか、とか、改行、改ページ、章立てはどうなるのか、とか。


Wordで体裁を整えるときは、とくに検索と置換をうまく使うとよい。でんでんコンバーターにWordのルーターみたいなものがないので、段落の始まりを一文字下げるのに全角スペースを使ったのだけれど、そのときに「↵」を検索して「↵␣」に置き換える方法が助けになった。これが役立った情報。

ワードで改行を検索する方法|Office Hack

 

表紙の絵も自分で描いた。

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う~む、なかなか格式高い表紙になりましたね。

描くのに使ったのはこのスマホアプリのアイビスペイント。スマホの画面を指でぬりぬりなぞって描いたのだけど、これはペンタブなど、もっとマシな環境があると思う。それか流行りのAIとかに描いてもらったほうがいい。


アイビスペイントX

 

売り出したのは前にカクヨムに上げていた『宇宙時代のマナー講座』というSF風ユーモア小説を加筆したものだ。

カクヨムでは4万字くらいだったのを5万5千字くらいに加筆したのだけれど、これでKindle上の本についての説明だと102ページになった。つまり1万1千字で百ページくらいになるという計算だ。これは思っていたより少なかった。

Kindleは文字の大きさを変えられるのでページ数もそれで変動するが、記載されているその本のページ数はどうも文字を一番小さく表示したときのものらしい。これはスマホで1ページ13行。スマホの画面が小さいので文字は小さくなるが、ページ全体はそんなにぎっちりという印象ではない。


自分の書いたものを読み返してみるとやはりボリュームが少ないし、ところどころ改行や英数表示がおかしい。編集の仕方、あとイラストの入れ方とか見直して、次回作はもうちょっと長くしようと思う。


本が売れたり無料で読まれたりしてロイヤリティが入ったときのために、銀行口座の他にその国の納税者番号 (TIN)を入力しておかなければいけない。これはドイツだと Steuernummer  だ。自分のSteuernummerは給与明細とかにも記載されている。ドイツ在住で旅行記とか出したい人はこれだけ覚えておけばだいじょうぶだろう。まあ、当面は税金なんか取られるほど売れない。それより荘園領主様であるKindleに売上の3割を奉納しないといけないのがデカい。


まだあんまり売れてないから、これから作品数を増やすことと、あとは地道に宣伝するのみ。

次作も執筆とイラスト描きを進めている。イラストはこんなの。
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なんじゃこれは。

 

 

記事紹介: ドイツでも労働時間記録義務

以前、ドイツで労働時間規制が守られていないという実態を紹介した。

記事紹介: ドイツの長時間労働 稀な違反チェック 食品飲食業界 - Ottimomusitaのブログ

今年2023年の1月からドイツでも、雇用者は従業員の労働時間をすべて記録しなければいけないと法律で決められた。

[目次]

ドイツでは以前から法律上、超過分の労働時間は記録しないといけないことになっていた。また、残業時間以外の日々の労働時間もすべて記録すべしという判決がEU裁判所で下されていた。

第9回 欧州司法裁判所が画期的判決。企業には全労働時間を客観的に把握・記録する義務あり! – NPO法人 働き方ASU-NET

この判決が出たのが2019年で、3年たってようやくドイツでも定められたことになる。去年10月からドイツの法定最低賃金が上がったことだし、労働時間をきちんと管理しないと最低時給も意味がない。記録義務化は当然だろう。

Berliner Zeitungの2022年12月7日の記事。

Zurück zur Stechuhr: „Fraglich, was das bringt, außer mehr Aufwand für Betriebe“

未払いの超過労働時間

じっさい、大きな問題である。例を挙げると、過去数年で連邦全体で450万の事業所で労働契約で雇用者と合意したよりも多く働いている人がいた。2020年には合計で16億7000万時間に上る超過労働が行われ、その内半分しか給料が払われなかった。ただしこれは推定でしかなく、正確には誰にもわからない。しかしそれにも変化が訪れている。

また以前紹介した記事によると、

NGG: Alle 230 Jahre eine Prüfung: Gewerkschaft NGG kritisiert „Kontroll-Desaster“ beim Arbeitszeitgesetz

いまやドイツ内にどれくらいの規模の極端な労働時間があるかは最新データが示している。2018年の上半期だけでも被雇用者は10億時間の残業をしており、その半分以上は残業代を支払われていない(引用元: IAB)。連邦統計局は、9人に1人は週に48時間以上働いているとしている。就業者の4分の1は日常的に週末に働いており、この割合は飲食業界では86%にもなる。

そうした状況で、2018年にEU裁判所が労働時間を記録すべしと判決を出し、2022年9月にドイツの連邦労働裁判所でも同様の主旨の判決が出て、判決の根拠も12月に表明された。Frankfurter Rundschauの2022年12月17日の記事によると、

Pflicht zur Arbeitszeiterfassung: Was bedeutet das für Betriebe und Mitarbeitende konkret?

ミュンヘンの連邦労働裁判所(BAG)は数日前に、緊張をもって迎えられた労働時間記録についての原則となる判決の論拠を示した。これによると、雇用者は毎日の労働時間計測に「客観的で信頼できて誰でも使えるシステム」を確実に設けなければいけなくなる。

そして今年から時間記録が義務づけられている。

信頼労働時間は可能

雇用者側からは、かつてのようなタイムレコーダー式に逆戻りするのかとか、官僚制のモンスターだとか、信頼労働時間が通用しなくなるのかとか、手間が増えるといった懸念が上がっている。

記録方法は紙でもエクセルでもアプリでも、記録が残ればよいそうだ。これは雇用者側と見なされる社長や幹部クラスには適用されない。また、労働時間を被雇用者自身に管理させておく「信頼労働時間」も引き続き可能だという。Frankfurter Rundschauによると、

インタビュアー: ドイツでは多くの産業部門や事業所で信頼労働時間の原理が適用されています。つまり、雇用者は労働者の労働時間の管理を控えることです。これは労働裁判所の判決で終わりになりますか。

法律事務所の労働法専門家Sven Lohse: 信頼労働時間は、引き続き可能です。信頼労働時間というのが労働時間の状況について被雇用者が自由に決められるということなら、いずれにせよ可能です。

また、事業所協議会(Betriebsrat)主導ではないらしい。

Lohse: 事業所協議会は、労働時間記録システムを導入するかどうかという問題では主導権をもっていません。そのようなシステムの調整に際しては個々のケースでは共同決定権があります。

事業所協議会というのはドイツ特有の制度で、会社内の労働者代表組織だ。これは労働組合のような交渉権はもたないが、経営に関わることで発言権をもつ。

罰則

イ: 労働時間の記録を管理するのは誰ですか?

Lohse: この管理は、それぞれの連邦州の管轄当局によって行われます。これらは主に労働保護局です。

イ: 違反についてはどのような罰則がありますか。

Lohse: 労働時間記録の義務違反に制裁はありません。労働保護局が労働時間記録の文書化を要求し、企業がそれに応じない場合に初めて30000ユーロ以下の罰金が課されます。

労働時間を違法に長くすることで削減できる人件費を考えれば、30000ユーロというのはそれほど高くないのではないか。これは役所の監査がどれくらいの頻度で入るかという問題とも関わる。

労働組合は義務化を歓迎

再びBerliner Zeitungの記事から。

被雇用者の代表者らは労働時間記録の義務を喜んでいる。「3年間妨げられてきたが、ようやく発効した」とHivzi Kalayciは言う。彼はベルリンのIG BAUの労働組合書記長で、行われた労働の報酬を請求したが認められなかったという事例をいくつか知っている。「これまで組合員はお金をもらうために働いたことを立証しないといけませんでした。これで立証義務は逆転しました」とKalayciは言う。

また食品飲食店労働組合(NGG)でも改竄防止になる分単位で正確な労働時間記録が求められている。「結局のところこの問題全体で大事なのは、従業員がもたらした労働成果に対しては給料が支払われることです」とベルリンNGG代表のSebastian Riesnerは言う。年間数百万時間が失われたのは、被害者が法的に有効な形で自分の請求権を主張できなかったからだ。

まずチェック体制が必要

以前紹介した記事によると、役所による労働時間の監査はまったく足りておらず、昔よりも少なくなっているそうだ。監査官の数がそもそも少ないのだ。労働時間管理について現状は官僚制モンスターとはほど遠い。
監査がまず来ないくらい稀なら、労働時間を記録していない事業所も恐れることはなく今後も記録しないだろう。以前から超過労働時間は記録義務があったが、労働時間法に違反している職場はたいていそれも記録していないはずだ。わざわざ違反の証拠や補償すべき金額の根拠を残すことはしないからだ。そういった会社はルールが増えたところで今後も記録はしないだろう。ルールを制定するだけでなく、それをチェックする体制も拡充しないといけないのは明らかだ。
裁判になったあとに権利を請求しやすくなったことは進歩であり、労働組合はそこを評価しているようだ。しかし、立場の不安定な移民労働者には裁判を起こすことはなかなか難しい。移民労働者の多くは労働組合に加入していない。組合員ならば、訴えて不当解雇された場合の保障や裁判費用の補填も組合から得られるが、非組合員にはそれがなく移民なら在留資格の心配もある。今回の労働時間法改正ですぐに長時間労働が改善するとは思えない。


論文紹介: ドイツ語圏のフェミニストSF


ドイツにフェミニストSFはあるのかという疑問から調べてみた結果を紹介しておく。

 

 

フェミニストSF

 

フェミニストSFというジャンルがある。SFというとエンターテインメントだとか理系なので男性的というイメージがついてまわりがちだが、そのイメージを払拭するような作品群だ。60-70年代にSFの新しい潮流が生まれる中で第2波フェミニズムの運動の影響も受けながらフェミニズム的なSFが多く発表され、今も高い評価を受けている。

その頃から有名だった主な作家としては、英語圏では、アーシュラ・K・ル=グィンジョアナ・ラス、マーガレット・アトウッド、マージ・ピアシー、オクティヴィア・バトラー、ジェイムズ・ティプトリー・Jr.、…など。日本語だと、大原まり子菅浩江新井素子鈴木いづみ笙野頼子などなど…。現代でもたくさん書かれている。

ぼくはSFは好きだけど理系オタクのノリにあまり馴染めなかったのでよくこのジャンルのものを読んでいた。大学でサルや子どもの観察をしていた関係で、フェミニズム科学批評に興味があったせいもある。

 

ドイツのSF

ドイツに来て、あまりドイツ語が読めないなりに、書店や古本市でこのジャンルの本を探していたのだけど一向に見つからなかった。漫然と見ているだけでは出会えないのかもしれないが、そもそもドイツではSFはあまり人気じゃないのだと、ある論考を思い出した。

識名章喜さんの文章、「「かつてあった未来」から現在へ ーードイツ語圏SF前史を検証する」(『ユリイカ 25巻12号』)には、戦前には盛んだったドイツのSFが戦後は不人気になった事情が書かれている。SF作家の草分け的存在、クルト・ラスヴィッツ(1848-1910)以降、ドイツでも「未来小説」と呼ばれるSFが書かれていたが次第に軍事的な近未来架空戦記ものが増え、第一次世界大戦後は敗戦の劣等感を慰撫するような軍事技術の誇大妄想や優生学ユートピアが盛んになりナチズムと結びついていったそうだ。戦後にはその反省とともにSFも振るわなくなった、と。

そう言えば、古本の市場でわら半紙みたいな紙に刷られた薄いSF雑誌が1部1€で大量に売られていたことがあった。どれも1950-60年代のもので読む気はしなかったけど、表紙や挿絵がレトロフューチャーな感じで面白かったから10部ほど買って本屋をやってる友だちにお菓子といっしょに送ったのだった。あれは戦前の未来小説の名残りだったのかもしれない。どの雑誌も軒並み60年代に廃刊していた。

ドイツ産のSFというと日本では、スペースオペラ小説シリーズの「宇宙英雄ペリー・ローダン」や『深海のYrr』が有名だが、あまりドイツのイメージはない。

最近、ナチスドイツ期にIT技術があったら、という歴史改変ものの『NSA』という小説が書かれ、邦訳も出た。よく知らないぼくは(これはいかにもドイツらしいSFだな)と思ったんだけど、識名さんによると上のユリイカの文章が書かれた90年代の時点では、ドイツではナチズムをめぐるテーマのエンターテインメント作品は難しく、ナチス期の歴史の検証に厳しいから『高い城の男』みたいな歴史改変ものもなかなかできなかったらしい。そういう意味では『NSA』は今までのドイツにはないSFなのかもしれない。

 

また書店の話に戻る。

フランクフルトにある大きな書店(梅田のジュンク堂くらい大きな)の中を歩いていて最初に気づくのは、本がジャンル別に置かれていることだ。(日本だと国内作家はジャンル混合で一部は出版社別、海外作家は出版社別が多い気がする) そして、入口すぐのところには、一般文芸に次いでミステリの棚が大きく目立っている。歴史小説も地上階でけっこう場所をとっている。SFはというと、地下階を探さないといけない。地下には漫画やバンド・デシネやジュニア小説コーナーと並んで「ファンタジーとSF」の棚がある。そこにはファンタジー小説やゲームのノベライズがあり、デューン砂の惑星1984年などのSFもそこに紛れて背表紙を見せている。

(こんな扱いなんか…)

とSFファンとしては少しがっかりしてしまう。日本でもそんなにSFが大きく扱われているわけではないが、日本では海外異色作家を翻訳している出版社の棚に置かれることが多いので現代文学といっしょに並んでいて印象はかなり違う。格式がどうとか気にすると厭らしいけど。

そんな中でも、たとえばマーガレット・アトウッドの作品は別だ。彼女の著作は地下階ではなく地上階の一般文芸コーナーにあり、しかも高確率で平積みにされている。アトウッドがドイツで人気なのはわかる。反全体主義国家の意識が高いから『侍女の物語』は読まれて当然だ。他の作品でもよく生殖をテーマにしているので、中絶の権利から第2波女性運動が隆盛したドイツではフェミニズム的な関心からも注目されるだろう。

それにしても、どうやって地下のSFコーナーから出てこられたのかという疑問は残る。ジャンル分けのミスと見なされないのだろうか。何だと思ってアトウッドを読んでいるのだろうか。

 

ドイツのフェミニストSF

ドイツ語圏のフェミニストSFについての論文を読んでみたところ、その辺の事情が飲み込めた。ウィーン大学のMagdalena Hangelの2013年の論文だ。

 

Weibliche Geschlechterrollen in der Science-Fiction-Literatur deutschsprachiger Autorinnen Magdalena Hangel [PDF]

 

どうやら『侍女の物語』はユートピア小説という扱いらしい。つまり、ドイツ語圏ではSFが文学ジャンルとしてあまり確立しておらず、通俗小説(Trivialliteratur: 些末な文学)と見なされることが多く、アンチ・ユートピア小説(いわゆるディストピア)を含め、社会批評の視点をもった小説はユートピア小説とされるようだ。そしてSFやフェミニストSFもユートピア小説のサブジャンルに入れられることが多い。

 

いくつかのドイツ語研究や文学研究の教科書には、90年代や21世紀の00年代に書かれたものにさえ、SFを単独に分類せずにユートピア小説の下位ジャンルとしているものがある39。

 

したがって、多くの場合にSFというジャンルがより相応しいのに「通俗小説」に分類されないようにするためにSFに該当しないことになっているということも想定される。「ユートピア小説」というラベルは「教養ある」読者層によく売れそうだが、結局は不十分なカテゴリー化ではSFの自立性を獲得できずそのジャンル自体の周知を妨げる。

 

英語圏では、SFとは何か?とか文学ジャンルと認められるか?という論争は長らくされておらず、もっと先に議論を進めているという。アメリカの文学研究者マーリーン・S.・バーは、フェミニズム的なファンタジーやSFなどを包括したフェミニスト・ファビュレーション(feminist fabulation)という概念を提唱した。バーの本は日本語に訳されていて、フェミニスト・ファビュレーションについても説明されている。

 

『男たちの知らない女―フェミニストのためのサイエンス・フィクション』 マーリーン・S.・バー〈Barr, Marleen S.〉【著】 小谷 真理/鈴木 淑美/栩木 玲子【訳】  勁草書房(1999/02)

 

HangelもそれにならってフェミニストSFを広く捉えている。その上で彼女はこれまであまり学問的に研究されず、代表作品も挙げられてなかったドイツ語圏のフェミニストSFを女性運動の歴史と関連づけて採り上げ、内2作品についてさらに細かく分析している。

 

 

第1波女性運動とドイツ語圏フェミニストSF

 

すでに第1波女性運動に関して、簡単には分類できないSFとユートピア小説の中間ジャンルに位置する多くのテキストが現れた。英語圏ではこれは、フェミニズム(SF)文学作品の伝統の一里塚となり、数世紀に渡って持続し、第二波女性運動に適用され今日まで追求されている23。例として、Clare Winger Harris、Leslie F. Stone、Charlotte Perkins Gilmanは20世紀前半に作家としてFSF[フェミニストSF]の分野で活躍した24。

 

Hangelはドイツ語圏の第1波女性運動期のフェミニズム的なユートピア小説を3つ紹介している。

 

Bertha von Suttner(1843-1914)のDer Menschheit Hochgedanken (1911)(『人類の高い思想』)

Suttnerはオーストリアノーベル平和賞を受賞した平和主義者として知られる。飛行船など技術的な発展とともに、引っ込み思案だった少女からフェミニストの(平和)演説家になる主人公フランカの成長が描かれる。フランカは、違う国民同士の平和の前に性別間の平和への進展が必要だと女性の聴衆に訴える。

 

 

Helene Judeich (1863-1951)のNeugermanien(1903)(『ニューゲルマニア』)

Judeichはドレスデンの教師で、普段は子ども向けに芝居を書いていた。演劇のNeugermanienでは、ほとんどすべての分野で女性が男性と同権の「ユートピア国家」を描いた。

Neugermanienには反フェミニズムバックラッシュの犠牲になって追放された女性が住む。故郷のAbsurdumは当時の社会のような不平等な社会からNeugermanienへ移り、フェミニズム国家の建設を目指す。

 

 

Rosa Voigt (1837-1922)のAnno Domini 2000(1909)(『紀元2000年』)

この小説では2000年には、インテリ男性の中で女性がひとり討論に参加して、社会について語る。女性解放のほかに、とくにアルコール依存症と闘いが前面に出ていて、これは主に男性の根本問題であり多くの社会問題と見なされていて、物語の中の時代では禁止されていた。

 

 

Hangelはこれらの作品が当時の女性運動が求めていた女性参政権や教育を受ける権利などと密接に結びついていたことを明らかにしている。また性別役割分担や生殖など今日でも共通するテーマも扱われていた。売春のテーマに関してはセックスワーカーを傷つける主張をしていたり、主人公女性の結婚でハッピーエンドになっていたりと、フェミニズム的に物足りない点も指摘している。それらは第2波女性で発展する。

 

 

第2波女性運動とドイツ語圏フェミニストSF

 

第2波女性運動は数十年のほぼ完全な政治的停滞の後、60年代の終わりと70年代初めに発展した。ドイツやドイツ語圏では今では一般に2つの要因が引き金になったと考えられている。ひとつは、学生運動で、この中で女性は組織化し、のちに女性解放が足りないことを批判し脱退して自分たちの組織を作った184。もうひとつは、ドイツの雑誌『Stern』での1971年の中絶禁止に反対する公式キャンペーンだ。『Emma』の編集者アリス・シュヴァルツァー185の発案でフランスの手本をもとに375人の一部は実名の女性が違法な中絶をしたことを公開した186。

 

以下に、論文中で挙げられている小説を紹介する。第2波女性運動が始まったとされる1968年から現在(2010年)までの作品から選ばれている。論文ではもちろん内容に触れながら批評しているが、このブログでネタバレするのは気が退けるので割愛する。この論文に加えてAmazonの商品説明やレビューも参考に紹介文をつけた。ぼくはまだどれも読んでいないので内容は分かっていない。

 

 

Ulrike NolteのJägerwelten(2000)(『狩人の世界』)

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ビーンとチャールの異星への旅は気楽な探検になるはずだった。そこで捕まえた翼竜が只者ではなかったと知るまでは…。地球に戻る船の中、その翼竜は眈々と人間という種族について学んでいた。地球に戻ったチャールは、自分が政府のお尋ね者になっていることを知る。彼らは反政府指定を受けたコミューンに逃げ込み、テレパシーで語りかける翼竜と知り合う。そして、政府も動き出し…。広大な都市化、二極化した階級社会、企業が支配する冷酷な統治機関を舞台にした、社会批判とエンターテインメントを両立した作品。

 

 

NolteのDie fünf Seelen des Ahnen(『高祖の五つの魂』)

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同じくNolteの作品。新しい故郷となる惑星を求めて水の惑星ArcheZたどり着いたクルーたち。最初の使節団は崩壊していた。船員のひとりは行方不明になったあと、肉体も精神も変容した姿で現れた。大都市船やエイリアンの出てくるテンポのいいスペースオペラ

 

 

Barbara SlawigのFlugverbot: Die Lebenden Steine von Jargus(2003)(『飛行禁止 ヤルグスの生きた石』)

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惑星ヤルグスのドーム型都市で、若き警部ダフィット・ヴールフはスーパーコンピュータANACの故障について捜査していた。故障のため生きた石の研究は危機に瀕していた。彼は、逃亡していたコンピュータ専門家のイェアンネ・アンドレイェフに出会い、科学者や軍人、官僚が加わる追跡劇に巻き込まれていく。捜査を続ける中、イェアンネに疑念を抱きつつも次第に惹かれていくダフィット。緊迫した会話から彼女の過去やフェミニズム的な考察が開陳されていく。Amasonレビューの評価が高い。

 

 

Evelyne BrandenburgのAnna Maria oder die Zärtlichkeit der Skorpione(1982)(『アンナ・マリア あるいはサソリの優しさ』)
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家父長制に支配された社会と不幸な結婚の中で、女性としての肯定的アイデンティティセクシュアリティを発見していく主人公の物語。家父長制が支配する社会と、それに対抗したフェミニズム指向の社会が描かれ、舞台や時代も変わり二部構成になっている。

 

 

Sophie BehrのIda&Laura :Once more with feeling (1977)(『イダとラウラ ワンス・モア・ウィズ・フィーリング』)

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生殖技術が発達した未来社会で、自分のクローンを妊娠するイダの物語。クローンは女性のみで生殖できる手段として肯定的に扱われている。バイオテクノロジーや生殖医療とその全能感への風刺でもあり、対立するアイデンティティとコピーの概念もテーマになっている。難解なモチーフだが、連想や脱線をくり返し時間的に前後するジョイス風の文体で、わかりやすく、詩的に、ユーモラスに描いている。

 

 

Karin IvancsicのMuttertag(「母の日」) 

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アンソロジーのDer Riß im Himmel: Science-fiction von Frauen. (『天の裂け目 女性のサイエンス・フィクション』)に集録されている短編小説。一般の人びとの間で身体を通じた生殖が行われなくなった社会の話。それでも子どもはどこからともなく現れ、自分の母親である女性を「捜す」。母親とされた女性に逆らう権利はなく、男性は精子提供するだけで何も知らない。一体子どもはどこから来るのか…。

 

 

ドイツ語圏ではないが、ノルウェーの女性作家の小説もひとつ紹介されている。

 

Gerd BrantenbergのDie Töchter Egalias. Ein Roman über den Kampf der Geschlechter (1977)(『エガリアの娘たち 性の闘いについての小説』)

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私たちの世界の性差ステレオタイプと性差ヒエラルキーとは反転した未来を描く。社会の重要な地位は女性が占め、生まれた子どもに対する責任は男性が負う。この小説は、性差語用について革新的な言語使用を提示しており、それはドイツ語の翻訳版でも変わっていない。Amasonレビューの評価が高い。

 

 

以下の女性によるSF小説3作は、論文中でとくべつフェミニズム的とは評価されていないが比較のために挙げられていた。

 

Charlotte KernerのBlaupause (1999)(『青写真』)

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この小説では有名なピアニストが病気に直面して彼女の才能を守るために自分のクローンを作る。ベストセラー小説で、Amasonレビューの評価も高い。

 

 

Barbara MeckのDas Gitter(1980)(『グリッド』)

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ミュラー博士は私欲のため、違法な生殖技術に手を染める。SFスリラー。

 

 

Myra Çakan のWhen the Music's Over: Ein Cyberpunk-Roman (1999)

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破滅に見舞われたヨーロッパを彷徨うグリーンランド若い女性、スカディ。彼女の周囲には次第に個性豊かな無頼の徒たちが集まる。彼らは地球を汚染するエイリアンの隠微な支配に抗う動機をもつ。近未来ヨーロッパの官能的なサイバーパンク・アクション。

 

 

 

政治的なこととフィクション

 

まだ多くの人にとってフェミニズムとSFが意外な取り合わせと感じられるかもしれないが、それ以前の前提として差別や不平等のような政治的なこととフィクションに何の関係があるのかと思われる向きもあるかもしれない。

これはネットなどで論争になりがちな点なので、どういう理論で関連づけられているか説明しておきたい。

ひとつには社会的構成(構築)主義が基礎にある。これは、社会で当たり前とされていることや制度になっているようなことは、人々の実際の関わりによって作り上げられているという考え方だ。たとえば理系に女子が少ないことなどは、法律で決まっているわけでもないし生物学的にそれほど差があるわけでもない。ルールや法則のような根拠がなくても人々がそのようにふるまい続けることで習慣化する。

もうひとつはインターセクショナリティ理論だ。差別には性差だけでなく、収入、出身地、肌の色など複数の差異のカテゴリーが関わっていることに注目する見方だ。

 

インターセクショナリティ理論は2つの具体的な問題を意識して適用しなければいけない。ひとつめの問題は、差異カテゴリーを固定化したり作用させたりすることにより固定化がさらにくり返し起こることだ。それによってこれは不用意に再生産され、「人種」のような概念の背景を十分に批判的に考えず、確固たる社会的なものとして構成し、さらに確定していく危険が生じる。どちらの状況も望ましくないため、差異カテゴリーの決定には批判的で反省的なアプローチが必要である。それと対照的に集団の社会的構成の背景を考えることは、その理念にもとづく差別実践の可視化と同じく重要だ295。ふたつめの問題は、今述べたような差別の固定化によって他のカテゴリーが排除されることにある。既存の、場合によっては規定されたカテゴリーの中だけで考える人は、他の新しく生じるかもしれない差別メカニズムに盲目になる危険がある296。

 

ふるまいややりとりで現実が作り出されるという点は演劇に似ている。社会的な現実も「構築」されているという意味ではフィクション的だし、フィクションの出来事も習慣や人間関係をくり返しているという点では現実と同様にこの「構築」に貢献していると言える。

なのでこの立場の人は、単純にフィクションで見たことに影響を受けて実行する人が多いと主張して懸念しているわけではない。また、よく反論で指摘されるようにナイーブに現実と虚構を混同しているわけでもなく、むしろ社会的な事柄の虚構性を前提として批判している場合が多い。

インターセクショナリティ理論では、「男vs女」のような抽象的な属性同士の対立ではなく、もっと多くの要因が絡まった具体的な状況を重視する。そのため、現実の個別ケースに焦点を当てる他に、物語を参照することが有効になる。とくにSFは、現実から離れた状況を描きやすいので思考実験に適している。

 

 

アメリカのフェミニストSFのドイツ語訳

 

ドイツでは、ジョアナ・ラス、マージ・ピアシー、オクティヴィア・バトラーあたりの作品もかなりドイツ語に訳されている。日本ではこの3人は、ほとんど訳されていていなかったり、訳されていても絶版などで入手困難だったりするのでこの点は羨ましい。バトラーは最近復刊されているので、ピアシーの He, She and Itも訳されないかなと期待している。

上に紹介した論文ではドイツにはフェミニストSFの該当作品が少ないとされていたが、これだけ翻訳が充実しているなら読者もいるだろうし影響を受けた作家もいるはずだと思う。マーリーン・バーはフェミニスト・ファビュレーションという概念でSFもファンタジー小説も包括していたが、この論文ではSFに対象を絞っていた。なにせメルヘンの国だ。ジュニア小説をはじめ、ファンタジーはかなりたくさん出版されているのでそこを掘ればフェミニスト・ファビュレーションな作品は見つかるかもしれない。ぼくにそんな読書能力はないのが残念だが…。

とりあえず上記の小説や作家から挑戦したい。FlugverbotとIda&Lauraあたりがおもしろそう。

 

2022/12/24

 

コロナと特定することについての日記

一昨日の朝、起きると喉が少し痛かった。

痛いというか、かゆいというか、はしかかった。はしかい、というのはたぶん僕の地元の方言なのでニュアンスが通じないかもしれないが、コンバインから出てくる籾殻で皮膚がチクチク痛痒くなるような感じのこと。籾殻も一般的でないかもしれない。ニットの首の部分がはしかいということもある。

そして咳が出て、熱っぽかった。コロナのテストをすると陰性だったが、仕事は休んだ。昨日は寝たり起きたり、ハーブティーを飲んだりして過ごし、暖かくして汗をかいてはスポーツドリンクを飲んだ。そして今日の朝、症状はひどくなっていて熱は39℃近くなっていた。そこでもう一度コロナのテストをすると今度は陽性。ついに僕にもコロナが来たかとなんか感心したような気分になった。

ふつうに風邪を引いたとき、風邪を起こしているウイルスや細菌の名前までわかるということは稀だと思う。この小さいプラスチック板に試薬と鼻擦った綿棒を混ぜた液を垂らすだけでこのウイルスかどうかわかるというのがどういう仕組みなのか見当もつかない。見当もつかないけれども、とにかくcovid19の遺伝情報かその対応物のようなものがこの試薬側か板側かのどちらかにあるのはたしかだろう。そこにピンポイントで当たりをつけて特定してるのだと思う。そうでなければ特定はできない。

コロナ陽性だったことを妻が電話でかかりつけ医に伝えてくれる。大まかな症状を話し、一週間は自宅療養ということになり、仕事を休むための証明書も書いてくれるそうだ。しかし、これでもう公式にコロナと認められたことになるのだろうか。自宅で簡易キットを使って調べただけだが、よく見てる「今日の新規感染者数」に僕の+1が加わるのだろうか。別に嘘をついたわけではないし、陽性と分かったのに病院に出張って他所様に移すリスクを冒すのもバカげているが。これで公式コロナということなのだろう。

 

コロナ陽性で、何ていうか、ちょっと安心した。コロナでも症状がぜんぜん重くなかったというのも安心した理由だけど、そもそも原因が特定されたということに安心感がある。

風邪というのはどうしても主観的なところがある。医者に診断してもらえたら主観ではないけれど、いくら「しんどい」と言ってもしんどさが他人に分かってもらえる保証はない。

熱を測ればもちろんしんどさが数値で見えるわけだけど、どういうわけか僕は大人になってからは風邪を引いてもほとんど熱が上がらないのだ。今だって毛布に包まっている間は熱が上がるけど、ベッドから出るとみるみる下がる。熱っぽい感じや悪寒があるから気になって何度も熱を測るが、体温計は37.5℃を超えない。そして熱っぽい感じや悪寒は他人に伝わりにくい。

「体温計なんか家にあんの?いらんやろ」

と一人暮らししてるときに職場の人に言われたことがある。「いや、ふつうにいるやろ」と思ったが彼いわく、

「お前、しんどいな〜仕事行けへんな〜て思て熱測って36℃やったら、じゃあ仕事行こってなるんか?自分でわかるやろ」

ということらしい。

それは一理ある。というかそっちが正しい。自分が感じてることを何を説明してもらう必要があるのか。

そうは言っても何か自分の外にちゃんとした権威があって、「こいつは今、めっちゃしんどい状態にあります。私が保証します」と言ってくれるのは拠り所になる。


遺伝子調査というと、最近自分の遺伝子を調べてもらって家系や民族的出自を事細かに教えてもらえるサービスがあるらしい。それこそ知ってどうするという話ではあるけど情報集めだしたら止められんくらい面白いやろうなという予感もある。

民族的ルーツを知るだけじゃない―、遺伝子検査市場が伸びるワケ | Coral Capital

念のために付け加えると、人種や民族という概念を過度に持ち出すことに個人的には反対です。人種を科学的に定義する意味があるのかどうかは今でも人類学者や社会学者の間で議論がありますし、不必要に人種や民族の話を持ち出すことが社会の分断を招き、異民族を包摂してきたはずの文明社会を後退させる心理効果を生むものとして有害に思えるからです。どんな属性であれ、集団にラベルを貼った瞬間から利害に過敏になって敵対するのが人間の性ではないでしょうか。


アメリカで白人至上主義を掲げる人種差別グループのメンバーの大半が、実は純粋なヨーロッパ系ではなく数%〜数十%ほどアフリカ系の遺伝子を引き継いでいることが分かってショックを受け、遺伝子検査の信憑性を貶めるような議論になっていたりもします。「純血」に意味がないと考え直すキッカケになれば良いですが、なかなか難しい問題です。


↑これはほんまにそう。

この手のテクノロジーを使った旅行会社の宣伝で、参加者に遺伝的ルーツを開示して反応をドキュメンタリーにして、人類みな兄弟!兄弟に会いに行こう!(旅行会社に金を落とそう)という、おおむねそんな趣旨のCMを見たことがあるが、人種差別に関しては、そういう問題ではない、ということに尽きると思った。

幼い頃に養子になった子どもに対して昔は遺伝的な親が誰かを伏せていたけれど、出自についてアイデンティティの戸惑いを感じたり、何とかして親を知ろうとする子が多かったりして、今では公開するのが主流になっているという話を読んだ。アメリカの話だったかな。Genealogical bewilderment(血縁の戸惑い)というらしい。精子提供でも同じことがあるみたい。

これも別に遺伝的ルーツを知ることが重要というより、知ってしまえばなんてことない情報が伏せられているせいで大事な意味があるように感じてそれに囚われるんだろうなと思う。