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論文紹介:移民相談所の性差別と人種差別

今回は、ソーシャルワーカー(社会福祉士)の移民相談支援についての論文。社会福祉にかかわる分野でもレイシズムやセクシズムは存在する。それについて自身もソーシャルワーカーの学者Tina Füchslbauerがソーシャルワーカーの相談員にインタビューして書いている。インタビューを受けた相談員は女性で移民女性の相談も受けている。また移民の背景をもつ女性相談員も含まれる。

soziales_kapital wissenschaftliches journal österreichischer fachhochschulstudiengänge soziale arbeit  Nr. 18 (2017) / Rubrik "Sozialarbeitswissenschaft" / Standort Wien

http://www.soziales-kapital.at/index.php/sozialeskapital/article/viewFile/544/988.pdf

Tina Füchslbauer:

„Über die Schwierigkeit, nicht rassistisch zu sein“

Zur Intersektion von Rassismen und Sexismen in der Migrantinnen*beratung

レイシズム的にならないことの難しさ」移民相談所のレイシズムとセクシズムの交差に向けて

ソーシャルワーカーというのは、さまざまな理由で困っている人の相談にのり、国や民間の支援組織やサービス、地域などとの関係を仲立ちする仕事で、日本では社会福祉士として資格化されている。この資格はぼくも日本で働いているときにとった。以下から内容。

 

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困っている人が困っている理由には、貧困や病気、障害や高齢などの他に、セクシズムやレイシズムといった社会の仕組みにかかわる背景もある。ソーシャルワーカーはそういったことにも理解がないといけない。筆者も働いていたオーストリア社会福祉相談支援の分野では、セクシズムやレイシズムはそれぞれ別には論じられているがその交差(Intersektion)は十分に研究されていないそうだ。

しかしこれは移民女性を相手にする仕事には必要なはずだ。なぜなら彼女らはインターセクショナルの考え方の枠組みでは少なくとも2種類の観点から排除や不平等、暴力を経験しているからだ。

研究の主な問いは、レイシズムとセクシズムの交差や、ソーシャルワークレイシズムとセクシズムの仕組みへの組み込みにもとづいて生じる矛盾を相談員たちがどう扱っているか、である。筆者はインタビューの他にソーシャルワークの、とくにナチス期の歴史とソーシャルワーク内のレイシズム、女性運動での非白人などの排除の歴史を概観している。

 

 

1.ソーシャルワークの歴史

ソーシャルワークはその始まり以来、他者と見なしたものに関する知の生産と、それによって行われるステレオタイプレイシズム、セクシズム、階級差別や障害者差別に貢献してきた。それは今も昔も国家の規範化の装置である(Bratić 2010: 204参照)。

ソーシャルワークは今も昔も社会の差別の影響を受けていて、国民の監督と教化の手段(Kuhlmann 2012: 89参照)だという。

とりわけナチスの時代にソーシャルワークはそのような権力の地位と結びついた。NSDAP[ナチス政党]のメンバーでベルリンの「社会女性学校」の校長のCharlotte Dietrichは、1943年の講演で国民介護人の仕事の目的を次のように要約した。「異国分子に対する考えにおけるドイツの人々の強化」。(Alice Salomon Archiv der ASH Berlin 2012: 11)「到達点としての健全な国民の身体」(同)を手にし、それ規範に指定することは、実践する上では、「遺伝的に健全」で政治的に信用できる"アーリア人"(Kuhlmann 2012: 94)のための「予防と家族保護の支援」(同: 95f参照)に国民福祉の支援を限定することを意味した。

非"アーリア人"とされたユダヤ人やロマ(ジプシー)、ジンティ(ドイツのジプシー)は迫害された。他に中毒患者やセックスワーカー、いわゆる問題児や犯罪者やホームレスのような人々も規範から逸脱するとして排除されたという。(Wallner 2008: 38参照) その際に福祉職従事者の家庭訪問で収集した情報が利用されたそうだ。

Stefan Michelerは「男性に欲情する男性」(Micheler 2005)の迫害について、異性愛規範から逸脱する者についての判断に際しても裁判所は国民介護人の報告を起用し、「ソーシャルワーカーは刑法上の評価に関わる判断を差し控えることはなかった」(同.:334)。

国民介護人の判断の結果によって、「逸脱」の形式から判断して、権利剥奪や結婚禁止、強制断種に関わる能力別の措置から、扶助訓練施設や労働所、刑務所や精神病収容所や、果ては集中収容所への国外追放まで行われた(Lehnert 2005: 57, Limbächer/Merten 2005: 17, Lienhart 2008: 19f参照)。その結果として起きる"反社会的"と烙印を捺された集団の公共空間からの消失は、ショッキングなことに、今日まで多くの歴史の証人たちにとって重要な瞬間であり「ポジティブ」なものとして記憶に残っている(Kuhlmann 2012: 95参照)。

ナチスに抵抗した職員は少なく、福祉士女性たちの加担が問題にされることも少ないという。

 

 

2. 歴史的な連続性と現代のレイシズム

歴史からわかるようにソーシャルワークは決して罪のない仕事ではなく、それは現代でも同じで、歴史的な連続性があるという。

しばしばナチス時代に抑圧され殺された人々は今日再び、あるはずっと続けて差別を受けている。たとえば現在の物乞い禁止についての議論は反ジプシー主義的な偏見と共鳴している(Teidelbaum 2014: 11f参照)。また国籍は現在も特権の割り当てで重要な役割を果たしている。

オーストリアの国籍や安定したビザをもたない人は不可欠な福祉サービスを受けられず多くの福祉施設の利用権もないといという。

私たちの職域はたえまなく他者を名指しし他者としてでっち上げることでしか存在しえない。(Mecheril/Melter 2010: 124, 128参照)

ソーシャルワークには、強制的にスティグマ化された差異や逸脱を作り出すことが含まれる。それらだけが内部の論理にしたがって支援する価値があると思われるからだ。

本当に支援必要な人かどうかを差別的に決めているということだ。その点でソーシャルワークは政治的だと筆者は言う。

2.1擬装したレイシズム

「人種」というカテゴリーは「レイシズムを通して初めて作られる」(Hornscheidt/Nduka-Agwu 2013: 13)という知識はソーシャルワークの理論でも通用しているが、それ以外にレイシズムを再生産する文化概念が形成されている。

これは意外なことだったが、「異文化について理解しましょう」という題目がレイシズムをなくすのではなくむしろ強めてしまう場合があるらしい。文化の違いを固定したものと見なし、それに基づくレイシズムが行われている。それをÉtienne Balibarは「人種なきレイシズム」と呼んでいる(Balibar 1998: 28)という。

ソーシャルワークの専門学校でも異文化間の学習があり(FH Oberösterreich 2016, FH Vorarlberg 2015, pro mente akademie o. J.参照) 、それが他者を知るのに役立つとされる。(FTは筆者自身)

しばしば異文化間トレーニングの中で参加者の先入観と偏見が追認されるだけで(Schirilla 2014: 165参照)、まさにそれを疑うことを学ぶことはない(Castro Varela 2007: o. S.)。想定された移民の異質性の強調が前面に出る一方で、構造的なレイシズムと「主流文化」(Rommelspacher 1995)の特権は問題にされないままに終わる。

他者についての言説の生産はエドワード・サイード(1995: 1)に依拠した植民地主義批判で「オリエンタリズム」と呼ばれている。そこで重要になるのは人間の集団の「本質化と均質化」を通じた「理性的な自己をうちたてるための非理性的な他者」の構成だ(Castro Varela 2010: 256)。

2.2 善意にもかかわらず、善意にもとづくレイシズム

ソーシャルワーカーは好むと好まざるに関わらず「レイシズム的な言説に巻き込まれ」(Rommelspacher 2009: 33)ている。それに従事することは快適ではない。移民女性設立組織のmaizのRubia Salgadoは「第二言語としてのドイツ語」というテーマの集会の際に、移民相談にも向けてこう述べた。

「この分野ではうわべでは移民の立場に立っているとされ、反レイシズムを自称してレイシズムを内省する機会を逸している。」(Salgado 2014)

maizは以前紹介した。相談支援も批判されていて、善意のレイシズムがあるという。インタビューから、移民がレイシズムを経験していてもそれを言わずに我慢していることが多いという。

彼女はその理由を「移民の人が相談員の立場をオーストリアに属すと見なしている」ためだと推定した(I3: Z. 346ff)。

移民女性は偏見で見られることを意識して家庭内の問題も話しづらくなり、子どもを外国籍にされることを心配して青年福祉相談を受けにくくなる。(Prasad 1996参照) 差別や偏見のためソーシャルワーカーに勇気を出して頼るのが難しくなっているという。

ソーシャルワークの専門文献の文章内には「典型的な」移民の家族構造のレイシズム的で十把一絡げな意味付けと説明が多くある。(El-Mafaalani/Toprak 2013: 57参照)

さらに以下のインタビュイーの発言でも示されるように、女性の移民は自己決定ではないものとして表され病理化されることが多い。

「ええ、もちろん、女性はそれに非常に悩まされている。彼女らはたいていはここへ家族で集まるために来ているし、夫のために来ていて夫らは事情に通じているけど妻たちはそうではない。彼女らは[…]何でも学ばないといけないし、夫らは妻たちの助けにならないこともある。」
(I5: Z. 214ff)

2.3 白人中心の制度体質

社会福祉施設内のチーム構成にもレイシズム的な社会構造が反映されている。(Raburu 1998: 213ff参照) ドイツとオーストリアでは依然として女性相談員の大部分が優勢な社会集団に属している。

移民の人のもっている技能は軽視される。

インタビューをした移民の女性相談員は、以前の大学教育でソーシャルワークの専門能力を身につけて来たが(I2: Z. 704ff参照)、それは低く評価されたことを詳しく話した。そのときに彼女は「私は一番初めは何ももっていなかった」(同: Z. 698)と言った。彼女は、移民としてオーストリアの職業学校で自分の能力適性をわかってもらえない事態に直面し、それを部分的に内面化しているようだった。

一方で移民は自分の出身地の文化の専門家と見なされ、それについて情報提供することは強く期待される。スピヴァクの言う「ネイティブインフォーマント(現地調査協力者)」(Spivak 1999: 6ff)のことだそうだ。 

Gutiérrez Rodriguezによると、このような意味付けはインフォーマントがその故郷あるいは故郷だろうとされた国とどういう繋がりがあるのかとは無関係に行われるという。(Gutiérrez Rodriguez 1999: 91参照)

 

 

3. 女性運動関連での排除

移民女性の相談支援の分野はソーシャルワークの排除の歴史だけでなく女性運動の歴史にも影響を受けている。女性相談支援は移民女性相談支援と同じくソーシャルワークの領域で、女性や移民女性が行為主体として正当に認められることを求める闘いと密接に結び付いているため、別々のものとは見なせない。

Audre Lorde (1981)、Patricia Hill Collins (2000)、Angela Davis (1982)やbell hooks (2015)ブラックフェミニストがインターセクショナリティの概念の学問的な確立のずっと以前にすでに、セクシズムとレイシズムが交差するところで特別な形態の差別が行われ、単体でヒエラルキーにまとめることはできないということを指摘していた。

19世紀アメリカの選挙権運動では、黒人女性は白人のサフラジェットからも黒人の選挙権運動の男性からも排除されたという。

イギリスでは女性選挙権の闘士は性にもとづく共有の抑圧を引き合いに出し(Burton 1994: 173参照)、植民地化された「インドの姉妹」(同)に責任を感じた。

Antoinette Burtonはそこに、良い意図にも関わらず、帝国主義的で父権的な性質があることを見抜いた。(同 参照) イギリスのサフラジェットは、インドの女性が自分でものを言えず「政治的な影響力とフェミニズム的なお手本」を頼りにしていると決めつけていると彼女は述べた。

20世紀中頃の市民権運動でも黒人女性は軽視された。

1960、70年代の女性運動でもこの状況は続いた。

(セクシズム以外の差別は)均質な女性という主体に関係することやすべての女性の「同一の苦痛」(hooks 2015: 121)から出発するのに都合のいいよう外に置かれた。レズビアンや障害をもつ女性も自分たちが代表されていないと感じ、自身らのグループを組織した。(Klapeer 2007: 80参照) 多くの白人女性はこれに対しレイシズムの謗りにあって侮辱されたと感じた。

この歴史は今日まで主体の構成に影響しているため相談支援場面にも及び、白人の女性相談員が移民女性に対面している。移民女性もソーシャルワークの仕事の中でよく他者として表され、多くの女性相談員がフェミニズム的な手本にならなければいけないと言う。

 

4.レイシズムに批判的でフェミニズム的なソーシャルワークのための示唆

ソーシャルワークが政治的な次元を占めていることははっきりと指摘しておきたい。それは簡単に言うと権力者の利益に奉仕するか、平等な権利を擁護するという意味での反抗をするかのどちらかしかない。

レイシズムとセクシズムの共通点を筆者は2つ挙げる。「生まれもった」違い作るために似非科学を援用することと、自らを理性的・男性的・西洋的な白人と規定し他者を感情的で非理性的とみなすこと、である。

したがってこれは複数の支配関係の交差としてあつかわなければならず、それに反対する支援はフェミニズムと反レイシズムの実践を組み合わせなければならない。

しかし筆者のインタビューでは、ほとんどの女性相談員は所属機関をフェミニズム的だとするだけで、移民女性の相談員だけが施設を反レイシズムにも位置づけていた。(I1: Z. 532, I3: Z. 1301ff参照)

インターセクショナルな支援は、個人の失敗のせいにせず問題社会全体の文脈に当てはめるという。これは自己責任論を強める新自由主義への批判も含む。

構造的な形式の暴力が個人の人生のありように影響しているので相談場面でも考慮にいれなければいけない。

他にフェミニズム的取り組みとレイシズム批判的な取り組みに共通するのは、立場の置き方だ。

それは性暴力の被害者との仕事にもレイシズム的な侵害の犠牲者との仕事でも(また両方の暴力の犠牲者の支援でも)中心的な意味をもつ。両方のケースで重要なのは女性相談員は仕事の対象である女性の側に身を置いていることだ。そして、何が起きたかを決める権限はいつも被害者にあるということが両方の形態の差別への闘いに不可欠である。性暴力やレイシズム被害を受けた人は依然として信頼されないことがあまりに多い。

相談員個人の素質やレイシズム問題への関心だけでなく施設の方針も重要だという。内省や共感だけでは不十分で、社会構造の中でどう他者を作り出して排除しているか考える必要があるとしている。

したがって私はPaul Mecheril(2010: 191)やmaiz(verein maiz 2014: 7参照)の使う意味での反射性(Reflexivität)の概念の方がよいと思う。それは自身の知の生産と「知の不足」(verein maiz 2014: 7)に批判的な視点を向けることである。

カテゴリー形成を疑問視することでMecherilは反射性の理解に必要な脱構築主義的な要素に言及する。(Mecheril 2010: 186ff, verein maiz 2014: 6参照) レイシズム的でセクシズム的なシステムへの組み込まれていることの自覚は自身の特権を利用して差別に反対するための前提条件である。

また女性の相談には女性相談員を当てているわりに、移民の相談に移民背景の人を当てておらず雇用も少ないことも挙げている。

さらに単にそういう配置をするだけでなく、移民女性やマジョリティに属す者への本質的な意味付けを避けチーム内で2つに別れて対立しないことが重要である。

他にソーシャルワーカーは忙しく生活が不安定なのでレイシズムについてじっくり学ぶ余裕がないことも問題だとしている。ソーシャルワークは社会変革を目指すことも任務に唱われているので、その観点が重要と締め括っている。

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日本の社会福祉士の綱領にもたしか社会変革やソーシャルアクションについては書かれている。しかし資格取得過程で、制度上の問題や一般の人の差別がはっきり指摘されることはあまりない。それらは事例を通して察せられるだけだ。フェミニズムレイシズムについてはその言葉自体、教科書にほとんど書いていない。日本に移民が増えたらどうなるんだろうか。現場ではセクシズムとレイシズムの問題を意識して仕事している人はいるはずだと願う。

もちろんソーシャルワーカーの仕事は第一に当事者個人の支援であって政治活動ではない。しかしそもそも政治参加はソーシャルワーカーに限らず全市民がやるべきことだろう。目の前の当事者のことだけで仕事はめいっぱいあるけど、上に書かれているように個別の支援にも政治的視点は不可欠だと思う。

発言力のあるソーシャルワーカーの一部は広報もロビー活動もしている。そういう人さえ活動家に対して「福祉がわかってない」とか「政治利用だ」とか、くさすのを見てゲンナリしたことがある。政治嫌い・活動家嫌いは福祉畑にもある。

 

HornbachCM炎上 「これは差別ではない」と言うドイツ人たち

ホームセンターのホルンバッハ社がアジア人女性(どうも日本人らしい)に対する差別的な広告を流した。

白人男性が日曜大工に励み、汗臭そうな服をパンツまで脱ぐ、それをパックしたものが出荷され、日本人女性が自販機で買い匂いを嗅いで恍惚とした表情を浮かべる、という内容だ。

f:id:Ottimomusita:20190402214256j:image

反対の署名活動があったので、それに署名し、署名サイトのリンクを語学交換アプリHello Talkに投稿した。

Ich finde diese Werbung rassistisch. Wieso keine deutsche Frau, sondern Japanerin? Wie denkt ihr darüber?

https://youtu.be/Z3iNXwHBKoI

Ich habe dafür meine Unterschrift gegeben.↓↓
キャンペーン · Act Up Against German Racist Company HORNBACH AG · Change.org

 

(この広告は人種差別だと思う。なぜドイツ人女性じゃなくて、日本人女性なの?君たちはどう思う?)

こういう投稿だ。アプリの仕様上おもに日本語を学習するドイツ人が見るようになっている。コメントを期待したわけではなく、署名がちょっとでも増えればいいと思ったのだ。(以前辺野古埋め立て反対署名のリンクを貼ったときは一件もコメントがつかなかった。)

しかし予想に反し、30件以上のコメントがつき、しかもそのほとんどが「これは人種差別ではない」というものだった。

彼らの言い分では、この広告は気持ち悪いし失礼だが、日本の使用済みパンティの自販機のパロディで、どこの国にもあるステレオタイプの一つらしい。

 

アジア女性がヨーロッパで受ける特有のハラスメントを指摘しても、日本人女性は弱い立場で描かれていないしビデオ内にハラスメントもないので差別ではない、という。むしろアジア女性だけがハラスメントに悩んでいるようなハッシュタグこそ他の女性への差別とまで言う人もいた。


f:id:Ottimomusita:20190402213720j:image

ぼく自身はドイツでアジア人差別を感じたことはない。しかし、どうもアジア人差別はアジア人女性に対して偏って発生しているようだ。それは日本などのアジアでの女性の地位の低さや性の商品化の問題にも責任の一端がある。ヨーロッパでは、日本のバラエティや漫画アニメでの性表現や他の性風俗が、面白おかしく誇張されて流布されている。そしてときにそれは上から批判され、ときにはクールなものとしてもてはやされ、どちらにせよアジア女性を軽視するたてまえとして利用される。

 

ホルンバッハ社は「学びたい」と言って公開討論に批判者らを呼びつけた。しかし学ぶ気があるとはぼくは思わない。ここにコメントした人と同じく、彼らもこの広告が差別ではない理由なら百ほど並べ立ててやれると思っているのだろう。しかしアジア女性の受ける苦悩を自分から知ろうと思わない限り、いくら議論しても意味はない。

 

フェミニズムのある概念がヨーロッパ女性を差別しているというような意見もあった。(これは移民に対する反感と平行している。この議論はこのブログの他の記事で詳しく書いている。)白人女性も韓国や日本で偏見とセクハラの標的になるじゃないかという意見があったが、そのときにはとうぜん韓国や日本のフェミニストや女性はいっしょになって怒るだろう。フェミニズムから特定の民族を排除しているのはどちらなのか。

 

以下はコメントの翻訳だ。こういった内容なので、さすがにアルファベットにしておいた。横にあるのは年齢と性別。虫太というがぼくの返信だ。ぼくももっと言い返せたらよかったんだけど。

 

A ♂

あぁこれは…、ドイツで服が自販機で買えるかは知らない。これは単に日本の[使用済み]パンティー自販機のオマージュだ。あくまで僕の意見ではね。

 

B 54♀ 

今ちょうど下着を自販機で買う広告を見たとこ。人種差別とは思わなかった。日本で服を自販機で買えるというのは理屈が通っているから。

服を脱いだ男たちは日本人ではない。そして自販機から出た服は脱いだ服のようだ。これは非日本人男性の脱いだ下着をすぐにパックして自販機で売っているという印象を与える。私はこれは女性に対して尊敬を欠くし日本人には失礼だと感じる。どうして日本の女性はこんな広告に参加できるのだろう。

 

C♂

さてなににしてもこのスポット広告は気持ち悪いし悪趣味だったが、人種差別的とは思わなかった。おそらくたちの悪い冗談だったんだろう。

 

D 38♂

必ずしも人種差別ではないかもしれないが、間違いなく日本人に失礼だね。

 

E 37♂

ハハ…これはホームセンターの広告だね。(Hornbachの広告は)悪趣味にかけてはいつもトップだ。

 

B 54♀

この広告は日本の?ドイツの?日本政府はこの広告を禁止すべき。私はこれは🤮🤮🤮[表示されない絵文字]と思う。

 

F 26♀

ホルンバッハの広告はいつもながら悪趣味。これはほんと悪趣味の極み。人種差別と思うかというと迷うけど、とにかくこれは吐き気がするし不快。

 

G 25♂

笑。興味深い広告だね。これは日本に若い女性の下着が入った自販機がある/あった、という事実を公然とからかっているんだね。私は、この映像を作った人はうまいひねりを利かせたし、同時に日本のフェティッシュを批判したと思う。私はちっとも人種差別的だと思わないしむしろとても楽しく良質に表現されていると思う。
(ドイツの男性が臭くて汗かきで毛深い野郎だという表現が侮辱だという議論も同じくらい有効にできるだろう。なのでこの広告が日本国民だけに侮辱的だという議論は一面的だ。)

 

H 28♀

人種差別は、他の民族的集団に対してまさにその集団に属するという理由で差別することだ。私はどういうふうにこの広告で日本人がが差別されているのかわからない。この広告は気持ち悪いけど差別や人種差別ではない。

 

I 23♀

私の意見では、これは恥知らずで敬意を欠くし、私の目にはかなり差別的にうつる。

 

J ♂

悪趣味だとは思う。この広告は個人的には私も気に入らない。でもこれについて話し合えうだけでも彼らの目的は達せられる。どんなPRもよいPRだというモットーにしたがってね。

 

K 31♂[本人が日本語でコメント]

難しいです。気持ち悪い偏見的なブラック冗談だと思います。まだ人種差別じゃないかもしれません。

広告の中にドイツ人の男性は臭いですね。だから、男性の着たTシャツは日本で自動販売機で売ります。日本では女性の履いたパンツ自動販売機があるって伝説があるので、その広告はその自動販売機をパロディーしています。でも、今は女性履いたパンツじゃなくて、男性着たTシャツを売ります。確かに、その広告によると、日本人の女性らは変態らしいそうです。一般的にドイツでは国籍偏見をバカにされる広告が多いと思います。だいたい、オランダに対してです。特にサッカー大会の時、その広告がたくさんあります。

 

虫太

私は日本でパンティー自販機を見たことがない。

 

A♂

Googleの画像検索見たらはかどるよ。僕も家に自販機のパンティーあるよ。同僚が僕に持ってきたんだ。それにしてもなんで😅

 

L 23♀

まったく悪趣味だけど今のところ私には無条件に人種差別とは思えない。単にたちの悪いユーモアだと思う。

 

M 32♂

トピックを荒らしたくないけど

https://kotaku.com/japans-panty-vending-machines-the-unreal-hyperbole-an-5948143

動画では

https://m.youtube.com/watch?v=pGVHYzmz4SA

そしてたしかに私は東京でこの機械を一度見た。一方でそれが典型的だとヨーロッパで表現されているのは誤りだ(ドイツ人がみんなビールを飲むというようなステレオタイプだ)。でも広告は悪趣味の限界まで行きがちなもので、日本でもそうだ。日本の広告はたとえば去年ブラックフェイスを使用した。

https://m.youtube.com/watch?v=AMNf0S1nBF0

最終的にこの広告は不快なものになったし物議をかもしたけど、人種差別というのは厳しすぎると思う。とにかくナンセンスなステレオタイプで製作されたものだよ。

 

K 31♂[本人が日本語でコメント]
もちろん、見たことがありません。その自動販売機は建てられた後に、すぐに禁止になりました。だから、今、その自動販売機を見たら、その自動販売機は違法です。
http://www.taz.de/!1602292/?goMobile2=1552608000000
https://m.focus.de/reisen/japan/tid-25516/skurriles-aus-japan-slips-aus-automaten-katzencafes-mp3-toiletten-slips-aus-dem-automaten-_aid_738683.html
でも、ネットでは日本でその自動販売機の噂がまだまだあります。
http://www.duo-brilliant.com/japan/kurioses/
だから、日本の全国でその自動販売機が多いと思っているドイツ人がたくさんいます。

 

虫太
どうしてよりによってパンティ自販機が日本らしいと思うの?それらは日本では、ドイツでのエロティック洗車くらい馴染みがない。

日本には人種差別的、性差別的な広告がある。おそらくドイツよりも多い。私はもちろんそれも問題だと思う。

 

M 32♂

変だから。

特定の話題が決まって都市伝説として流布されるものなんだ。日本は長らく、変わった食べ物がある、異国情緒ある遠く隔てた国だった。とくに責任が重いのは80年代日本のたけしキャッスル[ヨーロッパで放送されている日本の古いバラエティー風雲たけし城』のこと]だ。90年代に視聴率がヒットになった。それ以来日本は西洋で変わったバラエティ番組の国なんだ。

90年代には漫画やアニメも大量にドイツにやってきた。セーラームーンドラゴンボールはもちろんキャッツアイ(ein Supertrio)やシティーハンターのような他の若者向けの番組の放送も日本に来た。でも私たちにとってはこういったコミックシリーズはもっと幼い子向けだった。主人公の体の形状でひどくふざけるキャッツアイは子ども番組で13時に放送されていた。それを見た親たちはすぐに日本のテレビは倒錯だと偏見をもった。

メディアはこれを利用してよく日本のコミックはHENTAIだと報じ、日本のバラエティ番組もエロティック寄りだと報じた(どちらも間違い)。

他方で日本でのバイエルンステレオタイプはなぜあるか。プロイセン人は明治時代に多く日本にいた。

北海道のグリュック王国について聞いたことはある?80年代から90年代まで日本にはドイツを模したさまざまなテーマパークがあった。ドイツ人が雇われてステレオタイプな服装でバイエルンの生活世界を日本の来園者のために演じなければいけなかった。それも現実とは何の関係もなかったが、今日までドイツへの多くのステレオタイプが日本に刻まれている。そしてとくに奇妙に思われることはけっきょく残念ながらとくに強く残ったままだ。

 

K  31♂[本人が日本語でコメント]
RJも言いました。ドイツのマスメディアは日本に関して、一番面白いので、ほとんど変な、変態な事しか披露しません。だから、一般的に日本が興味が持っていないドイツ人は日本人のイメージは変態だと思っています。僕にとって日本人のほうがドイツ人より普通だと思います。そのドイツ人の考えはとてもしんどいです。僕のドイツ人の友達も日本について変態なことだけ聞きます…。今、ドイツ人の一番使う若言葉は「ぶっかけ(パーティー)」です。小さいヒント、うどんのことを関係がありません…。どうやって流行ってきたか、全然分かりません。

 

N ♂
https://de.m.wikipedia.org/wiki/Parodie
みんな、笑いを忘れたの?

 

A ♂

まさに、ドイツ人はみんなザワークラウトだけ食べてビールを飲んでレザーパンツを穿くみたいな紋切り型だよ。どの国にもある。もちろん日本は他のこととも結びつけられている。漫画やアニメ、花見や礼儀やテクノロジーだ。でももし誰かがクレイジーなものはどこにあるかと聞いてきたら、韓国やアメリカや日本がその答えになるだろうね。だから言ったように。人種差別というより紋切り型なんだよ😅

 

O 24♀
私はこの広告は気持ち悪いし悪趣味だと思う。でもこれは日本の下着自販機にも批判的で、そのことはじっさい問題ない。この広告が人種差別かどうかは言えないけど、2つの面で紋切り型が見られる。ひとつは太って毛深いドイツ人男性と、もうひとつは下着自販機を使う日本人。

 

虫太
日本人男性がちょっと変態だというのがステレオタイプだというのはわかる。しかしこの広告は単に花見やザワークラウトのようなステレオタイプではない。なぜならこれは性差別も含んでいるからだ。アジアの女性はしばしば従順で女らしいとみなされる。SNSでは韓国人女性や日本人女性がヨーロッパでのセクハラを#ich_wurde_geHORNBACHtをつけて報告している。これは#MeTooのようなものだ。

 

M 32♂

ここには誤解があると思う。請願書のなかでもそれは私には一般化しすぎているように見える。アジア人が痙攣しているので、ドイツ人はこの広告でいい感じはしない。しかしここでの問題は明らかに自販機だ。詳しく言うと服が袋詰めされ送られて自販機で買われるように見せている。この女性は男性と置き換えられるだろうし、副次的な説明する役割を果たしているにすぎない。

私はアジア女性がヨーロッパで問題を抱えていることを自覚している。これは一つの性が他方の上に置かれているわけでもない。日本人女性はとくに女性的にも隷属的地位にいるものとしても描かれていない。ステレオタイプを反転させている。また太った白人男性は優れた者として示されていない。個人を示していない中立的な包装だ。ここに性差別がある?私はそう思わない。この役割なら似たステレオタイプについてたとえばフランス人が演じることも可能だっただろう。

 

A ♂

君はいくつか内容を理解してないと思うよ。こういう「春の香り自販機」がじっさいにあったと仮定してみよう。僕は、それがあるのはまず第一に日本だと思うよ。それは日本で人々が倒錯していると思われているからじゃなくて、君たちがそういうクレイジーなことをあえてやる国だと思われているからだ。いつでもなんでもネガティブにとらえるべきじゃない。僕が言いたいのは、僕たちドイツ人がどれだけしょっちゅうくそみたいなものにまとめられているかなんだ。ナチスとかジャガイモとかって罵倒される。そしてドイツ人の大部分がそれを気にしない。そういうのに文句を言うのはバカバカしいからね。ホルンバッハの広告はいつもちょっとクレイジーだということを考えればね。手にドリルで穴を開ける人の広告もあったくらいだよ🙄

 

H 28♀

白人女性は日本や韓国で同様に外人と見られて嫌がらせされる。彼女らは開放的で軽いと見なされる(少なくともステレオタイプから)。ステレオタイプには理由がある。アジア女性対するステレオタイプにも。私にとっては女性がどの国出身かに関わらずハラスメントは受け入れられない。だからアジア女性のためだけのハッシュタグを作ることは他の民族出身の女性に対する差別だと思う。#sjwの失敗だ。

 

G 25♂

でもこの広告ではセクハラは関係ない。これは単なるバカな冗談だ。興奮ぜんぶは追体験できない。ユーモアは主観的だ。この広告で不快になった人がいるのはわかる。現実の深刻な犯罪と結びつけるのはかけ離れたこじつけでやりすぎだと思う。

 

虫太

日本での性差別や人種差別は批判されるべきだ。しかしその際は日本人女性を戯画化するのではなく日本人男性を批判するべきだ。そして批判は噂ではなく事実にもとづくべきだ。バチガルピの『ねじまき少女』やウルベックの『プラットフォーム』のような小説では、日本人男性が東南アジア人女性にたいして暴力的に描かれている。それらの作家は日本人の性差別や人種差別を批判している。私はそれらが人種差別的だと思わない。

性差別が人種差別と結び付くとき、出自は問題になる。ブラックフェミニズムを参照してください。

 

 

N ♂

うんまあ、ここで圧倒的多数に見られたように、ほとんどの人はこの広告を人種差別と思わ ない し、その女性像も揺るがない。ほとんどの人は皮肉だというメッセージを解読できる。たとえ冗談がいくらかの人に通じなかったからといって、それはとうてい君に広告を禁止する権利を与えないよ。個人的に気に入らないものすべて禁止するのは全体主義みたいに聞こえるし、ごめんこうむりたい。世の中には現実的な問題が十分にあるしそこに君のエネルギーを注ぐ方がいいよ。

 

虫太

OK。とりあえずたくさんの意見ありがとう。

 

H 28♀

私はいまだに具体的になにが人種差別で性差別なのかわからない。私にはフェミニズムの概念は特定の民族的集団にだけ人種差別に思える。それならすべての女性の味方をすればいいのに。じっさいこの広告の人はほとんどのすべて哀れに見える😅

 

…まだ続くんだけど、とりあえずここまで。あー疲れたー。

Xを思い出させる


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「なつかしい」という言葉が英語やドイツ語にはないと言っているドイツ人がいた。

nostalgisch(郷愁にかられる)という言葉はあるが、文語的であまり使われない。an ~ erinnern(~を思い出させる)はmeinen verstorben Vater(亡き父)やKindheit(幼少期)など、思い出させる対象が指定されて初めて「なつかしい」という意味合いになる。何を思い出させるのかを明確にせず「なつかしい」と言える言葉がドイツ語にないので、「なつかしい」は便利だ、と彼は言っていた。(他の言語のことは知らないので日本語が珍しいのか、ドイツ語や英語が珍しいのか、そのどちらでもないのかはわからない。)

過去の記憶がなければ「なつかしい」とは感じないはずなので、「なつかしい」と言うときには何か思い出している対象があるはずだ。少なくとも理屈の上ではそうだ。

でも、じっさいに人が何かを見て「なつかしい」というとき、いちいち具体的な記憶を参照しているかというとどうもあやしい。まったく馴染みのないはずのドイツの古城の石垣やそこに生い茂る草を見て(なつかしい)と思いそうになったことがあった。田舎の岬の、海へと続く小径を見ても懐かしいと感じる。今まで一度も生活圏内に海があったことなどないのに、だ。そういう体験は僕だけではないだろう。都会の平成生まれの人が、田舎の家の縁側や竈や畑に懐かしさを覚えることもあるだろう。あれは一体何を思い出しているのか。

おそらく懐かしさを感じるために、過去の記憶は必要だが、その記憶の内容と対象が想起させるようなものとがピッタリ一致している必要はないのだろう。むしろ想い起こさせる対象が漠然としているからこそ、親しみや憧れを掻き立てられるのかもしれない。かつては何か、特別なものがあったが今は喪われたという感覚だ。ほんとうに何かあったのかわからない。そのドイツ人が「なつかしい」という言葉を便利だと思った理由もそのあたりにありそうだ。

ぼく自身は地元を離れて長いので、地元に帰ったときに(なつかしい)と感じることが多い。しかし、その土地にいたときのことを具体的に思い出してみてもとくだん愛着や憧憬をもてるような出来事や生活があったわけではない。昔も今も依然として特別なものは何もないのだ。むりに掘り起こせば陳腐な青春の記憶はあるかもしれないけど、青春がなにかしら輝きをもっているとすればそれは当時に未来への希望があったせいだ。当時の未来というのはつまり今なので、やはり依然として何もない。循環参照が出力できるのはエラーだけだ。

そういうわけで地元に帰って、かつて通学路だった通りなどを見て(なつかしいなぁ)と思いそうになったとき、ぼくはすぐに(なにもなかったなぁ)と思い直すようにしている。これが、どうしてなかなか、しっくりくるのだ。なつかしみを自らに禁じたことの不自由はほとんどないほどだ。

なにも、なかったなぁ!

 

 

 

記事紹介:極右と女性の権利│右からのフェミニズム?

今日は、去年2018年の2月12日の南ドイツ新聞。ヨーロッパの右派の「アイデンティタリアン運動」について書かれている。その運動のフェミニズム的な側面に対しての批判だ。それほど踏み込んだ批判ではないが、ざっと右派界隈の流行りがわかる。

MeToo-Debatte: Feminismus von rechts außen? - Kultur - Süddeutsche.de

https://www.sueddeutsche.de/kultur/metoo-debatte-feminismus-rechtsextremismus-1.3862040

 

極右と女性の権利 

 

右からのフェミニズム

右派のグループがMeTooの議論に女性の権利を求める闘いを自分のものにしている。これは決してフェミニズムではなく、社会の中心からの偏見と結びついたものだ。

 

去年の6月に数百人の人がベルリンのヴェディングの「アンデンティタリアン運動」に参加した。[写真の説明]
 

Julian Dörrの文

やり口は古いが、即効性がある。ドラマチックな音楽、カメラの前で話す若い女性、自分のアパートの親密な空間から話している。「私の名前はミア。私の名前はマリア。私の名前はエッバ。」これらは暴力事件の犠牲者の名前だ。テキストにはこうある。「次の犠牲者は私かもしれない。あるいはあなたかも。」

ついこの間Youtubeにアップされたこの動画は民族的極右的な反主流文化の「アイデンティタリアン運動」周辺に由来する。右派はそこで女性保護を振りかざしているが、うわべだけである。そのあとに政治的なアジェンダはこう続く。「ドイツ、スウェーデン、イギリス出身のミア、マリア、エッダは移民、外国人、難民の犠牲者だ。」

動画の中で女性は文字通りにはそう言っていないが、彼女はようは「私はカンデルで刺し殺された。私はマルメで強姦された。私はロターハムで凌辱された。」と言っているのだ。誰にかは明らかにされていない。これらの事件についてドイツのメディアでも報じられていたが、一方でインターネット上の信憑性のないいかがわしいサイトについては、報道はほのめかしにとどまった。報道が共通して述べたのは犯人とおぼしき人は移民の背景をもつ人間だということだった。

 

 

レイシストは女性擁護を自己演出する

 

人にメッセージを伝えたい者は人にメッセージを感じさせないといけない。自分の体に、自分の生活の中で。「私の名前はミア。私はカンデルで刺し殺された。」個人的なものにすること。感情的にすること。政治活動の教科書の第一講、1ページである。

なので感情化のあとにはさっそくこれらの犯行の原因とされるものが続く。「なぜならあなたたちは国境を防備することを拒んだから。あなたたちは誰が入ってくるかを管理することを拒んだから。あなたたちは犯罪者を追放することを拒んだから。」と。声に出しては語られないが何が問題とされているかは明らかだ。つまりヨーロッパの女性はつきまとい、犯し、殺す、ムスリムによって脅かされているというのだ。
 表面ではこの動画はフェミニズム的な語りを用いている。暴力を可視化することや、沈黙を破ることだ。しかしこれらは「アイデンティタリアン運動」の人種差別を流布するために悪用されている。「女性はあなたたちに抵抗する!」と動画の下の行に書かれている。そしてそのそばに#120dbとある。120デシベルは、襲われた女性のための携帯防犯ベルの音量だ。#Metooへの右からの答えである。ドイツで沈黙されていたことがついに声に出して語られたというのだ。ジョギング中に公園で、仕事からの帰り道で、バス停で。彼女らはヨーロッパの娘たちと名乗る。彼女らは「あなたたちは私たちを忘れている」と言う。さらには「あなたたちは私たちを裏切った。私たちを生け贄にしている。」と。

この動画の主役はまた、「これがリベラルな社会だ。あなたたちの女性をもはや守ることができないのが。」と言う。「#120dbはヨーロッパの女性への真の脅威に対する真の叫び声だ。」と一人が言い、もう一人は「あなたたちはフェミニズムや女性の権利を説いてまわっていながら実際には女性の敵だ。」と言う。

 

 

フェミニズムにおいて重要なのは正反対のことだ
 

レイシストが自らを女性の擁護者にしたてている。これが今は新しいフェミニズムなのか。右からのフェミニズムが?「アイデンティタリアン運動」や他の右派周辺のヨーロッパのグループの若い女性は一見進歩的に見える。自負心があり、自己の権限で行動している。彼女らは権利の平等を擁護し、ヨーロッパの「イスラム化」や「旧態依然とした女性敵視の社会から来た多数の若い男たち」に反対することを望んでいる。

権利の平等はフェミニズムの中心的な概念だ。しかししかしここでの問題はフェミニズムでも権利の平等でもない。フェミニズムはすべての女性を守る。出自や肌の色や宗教に関わらず。それとは反対に右派はドイツの、ヨーロッパの女性の保護のために闘う。彼らは国家や文化について境界線を引く。彼らの世界観では脅威は外からしか来ないからだ。白人男性から白人女性への暴力はほとんど無視される。

したがって#120dbは#MeTooではない。社会の現実を否定しているからでもある。性差別と性的嫌がらせはドイツでは日常的にある。性的暴力はあらゆる階層と界隈にある。そしてあらゆる思想をもつ集団や民族に。性的暴力はもちろん宗教的な理由があることもあるし、男女がまったく平等でなく育つ社会のあり方から起こることもある。しかしその外側と内側の区別は、右派が行うようには、実際にはできない。性的暴力はまさにドイツの家や会社や家庭で起きている。議論の中で、移住者による嫌がらせや性犯罪にのみ話を限定するのはナンセンスである。極めて人種差別的な解釈である。そしてまた問題の解決にもならない。

 

 

抑圧に対する闘いだが、家父長制に対するものではない


「アイデンティタリアン運動」が本当に問題としているのは純粋なヨーロッパの血統つまりヨーロッパのアイデンティティの保護である。そしてそれに応じた彼らの、決してフェミニズム的ではない女性像である。それは「Just Nationalist Girls」のようなサイトを訪れれば明らかだ。そこにはアイデンティタリアンの女性が強い戦士として、弓矢やボクシンググローブをもった姿で描かれている。ここでもまた表面的なフェミニズムの語りの外観があるが、それはよく観察すれば崩れ去るものだ。それはナショナリズム革命を可愛く支持するPin-up-Girlでも同じだ。そこでは逆光が差すまばらな森林に心配げな母親が、民族の維持者として写っている。「戦争は国を滅ぼさない」「不自然に夫婦が子をもたないことはきっと国を滅ぼす」とそこに書かれている。自負心があるが結局は男の隷属的な同伴者としての女性だ。これはまさに時代に逆行する役割であり、新しい革命的なフェミニズムと宣伝して女性を右派に売るものだ。
運動内部の拡声器である女性代弁者は「Identitäre Mädels und Frauen」というグループだ。そのグループのシンボルは「アイデンティタリアン運動」の目印であるギリシャ文字のラムダ[Λ]に、長く編まれたブロンドのお下げの端にエーデルワイスの花をつけたものだ。それはラプンツェルのお下げのように硬い文字の縁取りに垂れ下がって、右派のイデオロギーへと這い昇るための誘いかけになっている。
このお下げの下のFacebookページを見た人はすぐに、この女性運動の核心には明確な反フェミニズムが潜んでいることに気がつく。たとえば去年の3月の投稿には「近代の第3波フェミニズムの問題はそれがもはやその関心事、その代弁者になりたがっているものを代表しなくなったことだ。つまり女性をだ。」その下には『ジェンダーガガ いかにバカげた理念が私たちの日常を征服するか』や『じゃあブラウスを閉めなさい 平等幻想に反対する叫び』などの著者のBirgit Kelleの写真が添えられたテキストの枠がある。Kelleの引用で「ドイツの女性運動の中ほど、真に女性であることに問題を抱える先駆者が多いところはどこにもない」とある。

「Just Nationalist Girls」のミーム画像はこういうの↓。ヨーロッパの伝統衣装を着ている。


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こういう服装、日本の保守というかオタクも好きそう。オタクがみんな保守じゃないけど。ちょっと前に流行った「童貞を殺す服」というのもたしかオーストリアの伝統衣装みたいなのじゃなかったか。ぜんぜんちがったかも。とにかく腹周り締め付けてていっぱい食べられなさそうな服。

「Identitäre Mädels und Frauen」のマークはこれ↓
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右派の女性にとってフェミニズムはエロティックの敵

 

「アイデンティタリアン運動」にとって真に女性であることとは、女性が男性の一歩前にひざまずき、彼女の目線は上を向いて、手は彼のズボンを下ろしている、というようなものだ。その写真の下には「フェラを愛せ。アンチファを憎め。」と書いてある。

このインスタグラムの投稿では、なぜ右派の女性的な自己に権限をあたえる身ぶり決してフェミニズム的でないのかという問いの答えを教えている。性的な自由と解放として宣伝されているものは二重の後退である。ひとつには女性をいっそう性的な対象に還元していて、さらにそれを政治的な敵対者を中傷するためにだけ利用している点だ。二つ目はフェミニズムは禁止と規制を望んでいるという完全に間違った見方を露呈している点だ。フェミニズムは潔癖でセクシーさに欠け、フェラを好まない、と。
しかしフェミニズムはまさにその反対を問題としており、セックスをタブーにせず互いを尊重した性の解放を重要だと考えているということが忘れられている。もちろん、まさにそれらの歪曲された描写は非常に受け入れられやすい。なぜならそれは、フェミニズムはエロティックの敵だという、社会の中心深くに固定された見方と結び付いているからだ。

右派の女性は抑圧と闘っている。しかし彼女らは家父長制による抑圧とは闘わない。彼女らは左派、リベラル、フェミニストの抑圧と闘っている。彼女らの人種差別的で性差別的な世界像の中で彼女らに挑戦するすべての者たちの抑圧と。嫌がらせをしてくる、その世界観の中ではもっぱらムスリムである男性たちとの闘いは単なる口実で、本当はこれは自由と寛容との闘いなのである。

 

南ドイツ新聞にはアイデンティタリアン運動についてPaula-Irene Villaのインタビュー記事があって気になるんだけど、有料会員しか読めない。論文探してみよう。

 

論文紹介:フェミニズムと反人種差別:「文化的暴力」と連帯の可能性

また移民とフェミニズムに関する論文の紹介。今回は、

Iris MendelとPetra Neuhold(2015)の "Feminismus und Antirassismus –another unhappy marriage? Der Diskurs um »kulturelle Gewalt« und die Möglichkeiten transnationaler feministischer Solidarität"

フェミニズムと反人種差別 -もうひとつの不幸な結婚?「文化的暴力」の言説と国を越えたフェミニズムの連帯

 

という論文。「もうひとつの」というのはかつてマルクス主義フェミニズムについて「不幸な結婚」と形容されたことがあったからだ。筆者の答えは、もちろんノー。フェミニズムは反人種差別的でもないといけないとしている。

この論文もフェミニズム的な言説が右派の移民排除に利用されている問題について書いている。人種差別や啓蒙主義フェミニズムの関係を最近の移民関係の動向だけでなく、80年代くらいの植民地主義批判をふり返ってとらえている。また、Farrisの「文化的暴力」の言説への批判を踏まえながら再生産領域の中身をより詳しく見ている。

 

 

「文化的暴力」をめぐる言説の登場と批判

移民の文化を背景とした女性への暴力を反移民の陣営が「文化的暴力」と呼んでいる。その際にフェミニズムが利用される。

強制婚計画に反対しキリスト教に改宗し家族への殺害脅迫を防いだ、オーストリアに住むパキスタン出身の女性との出会いのあと、当時の黒青連合[国民党(ÖVP)と自由党(FPÖ)との連立政権]の女性大臣Maria Rauch-Kallat (ÖVP)はさらに5人の大臣といっしょに国際女性の日に公開討論を行なった。

この2004年の公開討論あたりからオーストリアで「文化的暴力」の言説が広まりだしたという。そして政策にも影響している。これは女性への暴力を他の文化に転嫁して西洋の日常的な性差別を見えにくくする。批判している団体が紹介されている。

なので、外国人女性の教育・相談施設の上部団体(現在のPeregrina会)は、1990年代の初めの定住法の草案への態度決定をするなかで当時の内務大臣Franz Löschnakの移民統合への一面的な理解へのはっきりした批判を表明した。

Peregrina会のホームページ。 http://www.peregrina.at

…2006年にも、移民女性による移民女性のためのフェミニスト団体(maiz)は女性への「法に基づく暴力を止める」ことを要求した(maiz, 2006)。Maizは、女性が、自分の住所(そのための家賃を払っていない)や特定の収入を自由にできないと、暴力的な(オーストリアの)男性と離婚するときに滞在権のよりどころを失いかねないことを批判した。それによって暴力にみちた関係から脱出することが深刻に困難になっているという。

maizのホームページ。 https://www.maiz.at

 

 

ひとつのフェミニズムか、複数のフェミニズムか 歴史的連続性:「女性解放」と植民地主義や人種差別

Liz Fekete (2005)は多くのヨーロッパの国で見られる「啓蒙された文化原理主義」を通じたフェミニズムの理念の援用を印象深く解明している。この文化原理主義では、啓蒙、そして民主主義や社会的公正、また明らかにある種の「フェミニズム」も含めた中心的な価値はもう完了したプロセスとして理解されていて、また「反動的な」イスラムのような「外部から」防衛しなければいけない原理だと考えられている。

この論文でもFeketeの文化原理主義の議論に言及している。しかしこの論文の著者はFarrisもFeketeもフェミニズムと人種差別の歴史的な関係を見落としているとして、植民地主義批判をふり返っている。もともと第3波フェミニズムは、この植民地主義批判を踏まえていたから反人種差別を含んでいたのだったはずだ。

さらにフェミニズム的かつ反人種差別的な連帯は不可能とされているか「新しい種類のフェミニズム」とのみ考えられている(Fekete 2005, 23)が、これは歴史的にも現代のフェミニズム政治に対しても正当な評価ではない。

フェミニズムと人種差別や啓蒙主義の結託も、それに対するフェミニズム的な抵抗も、昔からあったわけである。

ガヤトリ・C・スピヴァクとチャンドラー・T・モーハンティーは、植民地主義の遺産とフェミニズム的な異議が啓蒙と解放の名のもとに語り女性を「守ろう」としたことを明確にした。近代的で啓蒙されていて文明化している自由な社会(「ヨーロッパ」)を時代遅れなものとしてでっち上げられた「他者」と無理に区別して理念が作られるとき、そこで女性はしばしば「文明化の尺度」として機能する。

またサティ(未亡人の後追い火葬)が実際はごく一部のヒンドゥー教徒しか行っていなかったのに、なぜかインドの代表文化のように拡大解釈されたという。これと「文化的暴力」をイスラムの伝統とする議論が似ているとする。

スピヴァクは、活発に反植民地抗議をした若いベンガル人の女性の自殺をもとにして、その試みが家父長的な解釈のモデルから逸脱していてそぐわないことを示した。女性の体はそこでは植民地政府と保守的なヒンドゥー男性の間のイデオロギー的な闘争の場となり、女性の反抗する行為能力は見えなくされる。

これと同じように移民女性も闘いの場される。

そのさい移民女性が闘いの「開催地」となり、解放の受動的な対象となる一方で、他の者は解放者やある種のフェミニズムの担い手となる。そのフェミニズムはメディアから比較的多く注目され、実践的なしかたで政治組織や学問や政策でのキャリアと結びつく。自身の立場の正当化のため保護の政策はしばしばいわゆるAyaan Hirsi AliやNecla Kelekのような「信頼できる声」に基づく。それらの声は移民女性組織とはちがい討議の中でよく響く、もっともそれらがリベラリズムフェミニズムの言葉を話しているうちはだが。

そこで問題になるのはフェミニズムの悪用ではなく、植民地主義と地続きの「西洋のフェミニズム」の立場だという。

Mohantyは、いかに「西洋の観点から」「他の」女性の生き方や闘いを植民地化してきたかを批判していて、しかし同様に「西洋のフェミニズム」はフェミニズム一般と同等にあつかわれるべきではなく、また「西洋」にいるフェミニストたちすべてがそれを主張しているわけでもないことを強調している。

フェミニズムは「西洋のフェミニズム」やリベラリズムフェミニズムだけではない。狭い意味でのみとらえると国を越えた連帯を妨げるとMohantyを引用しながら述べている。

 

 

人種差別 ー 移民管理の周辺現象か、組み込まれた要素か

筆者は反ムスリムの風潮は社会全体の傾向だと考える。

ヒジャブを抑圧だとし同化政策が避けられないと主張する政治家の言葉を引用して、それは一見反人種差別的な人種差別だと言う。

まさにこの論法にBalibarのいう新しい人種差別の2つ目の側面がある。それは人種差別を説明する人種差別というメタ人種差別のように機能する(Balibar 1992, 30)。彼が言うには、文化が相容れないと「自然な」摩擦になり民衆の人種差別的なふるまいの形で噴出する。

ヨーロッパに広まる「文化多元主義の失敗」の言説にもこの傾向があるという。

移民によって利用され尽くしたヨーロッパの寛容さが最終的に争いと人種差別へとつながったとされ、そのことが厳しい移民政策と統合政策の論拠を形成している。これはとくにFeketeによってくわしく分析されている。

 

 

「文化原理主義」をめぐる言説の条件:ポストフォーディズムとケア危機

前回紹介した論文と同じく、この著者もFarrisの説にもとづいている。再生産労働の担い手が足りないので移民女性が必要になるという政治経済的な基盤から「文化的暴力」の言説を説明する説だ。

 

詳しくはこちらの論文、

http://ottimomusita.hatenablog.com/entry/2019/02/08/033730

または、早川敦さんの書評

Sara R. Farris, In the Name of Women's Rights
https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&url=https://tohoku.repo.nii.ac.jp/%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D125789%26file_id%3D18%26file_no%3D1&ved=2ahUKEwj1_J362M3gAhWD6aQKHZ9wCGQQFjAAegQIBRAB&usg=AOvVaw1IEI24YfKU6CFJWD9YBm13

を参照。

この著者は再生産をもう少し細かく見ていく。

(再生産という言葉は、子どもを産むという意味もあるし、再び生産労働をするのための準備となるさまざまな家事や感情労働のことを言っている場合もある。他に文化や規範を伝えて維持する役割を再生産と呼ぶ場合がある。アルチュセールイデオロギー批判で出てくる用語だと思う。こんな色んな意味になるややこしい言葉使わなければいいと思うのだけど。)

 

堆積した再生産 誰のための家族?

Farrisは社会的な再生産(生産と生活の回復と、掃除、料理、おむつを替えるなどの肉体的・感情的なすべての活動)と文化的な再生産(規範や価値や知の伝達と習得)と生物学的な再生産(子どもをもうけること)の間の区別をしていない。これらの中で移民は非常に異なる地位にいる。

この内、移民女性は社会的な再生産だけ容認されている。つまり、移民女性は賃金労働をサポートする仕事は期待されているが社会の中での文化の伝達や自分の子どもを産み育てることは期待されていないし、むしろ妨げられている、ということだ。

…解放された女性の理想はときに移民女性には与えられないままだ。経験的な調査では、女性の家事手伝いは私的な家事労働の中でまさに雇用者の側が被用者の「女性性」を否定することで機能していることがわかっている(z. B. Glenn 1992; Gutiérrez Rodríguez 2010)。

多くの家事手伝いの人も母だが彼女らはそれを隠さなければいけない。それは移民や労働立法では女性家庭労働者に関してたいてい束縛されていない個人を優遇するからでもある(Haidinger 2013)。

 

分断と連帯 さらに進歩的な連合に?

文化原理主義フェミニズムの価値との関連付けは、性差関係の悪化を不透明なままにして再生産領域の価値下げを不問にすることで性差関係の固定化につながる。

再生産領域の価値下げとは、ケア労働の賃金が低く不安定なことなどを指す。女性はそこでは階級や人種で分断され、社会全体の問題を女性間の問題にされているという。

Heidi Hartmannはそのテキストの中で、家父長制的で資本主義的情勢が結託する効果は労働者階級の分断を通じて反資本主義の抵抗をやわらげることであると述べている。それに続いて私たちは、人種差別はフェミニズム的な抵抗を弱めるので、場所、アイデンティティ、階級、仕事や信念の境界を越えた国際的でフェミニズム的な連帯がMohanty (2003, 530)が求めたようにいっそう重要になる。しかし解説したような矛盾と分断の背景の前での反人種差別的でフェミニズム的な連帯はどのようなに可能だろうか。

さしあたり私たちは、フェミニズム政策は「文化」と「文化的な違い」の関係に正面から取り組み、「西洋」の計画としてのフェミニズムの実態を調べるべきだと考える。国を越えた観点からは文化と歴史は常に絡み合ったものとしてとらえるべきで、啓蒙もフェミニズムもそれ自体は「西洋」的なものではない。平等のような成果は「西洋」の価値や輸出品として理解するべきではなく、むしろ政治的な戦いの結果であり、したがってそこには「西洋」の帝国主義に対する戦いも含まれる(Narayan 2000, 91)。

…女性の権利は移民女性の権利と対立させてそこから利益をえるべきでもない。そうではなくフェミニズム反人種差別活動家のスローガンにあるように「移民女性の権利は女性の権利である」(z. B.: LEFÖ)。

LEFÖのホームページ。 http://www.lefoe.at

今の国を越えた人種化された再生産労働の再分配は、あらゆる差異と搾取関係において、多くは親密な空間で、女性を調達する。Sedef Arat-Koç (2006, 87)は、これらの女性たち[訳注:移民女性と土着の女性]には共通点もあると指摘する。なぜなら、彼女らは賃金労働と再生産の責任を相容れないものとして経験し、後者を見えないものにしなければいけないからだ。つまり、それぞれ故郷の国と家で。

この文の題でも依拠しているHartmannにならい、フェミニズム的に別の社会のユートピアが重要である。

 

私たちが作り上げたい社会は相互の依存が恥ではなく解放を意味する社会だと主張しなければいけない。そこではケアは普遍的であり抑圧された実践ではない。そして女性はもはや男性の誤った具体的な自由を支持しない(Hartmann 1981, 114 [Übers. I. M., P. N.])。

 

そしてまた一部の女性の誤った具体的な自由も。

 

最後は重要そうなのでほとんど引用になってしまった。リベラリズム的なフェミニズムによって女性の就業が増えても、ケア労働が軽視されていればけっきょくそれをやる人たちが低い地位に置かれる。

反人種差別的なフェミニズムについては、前世紀の植民地主義批判で議論が蓄積されているはずなのだからちゃんと踏まえないといけない、というのもまったくその通りだ。

しかしこれも当のイスラム系移民女性の実態については何も触れられていないのが不思議だった。スピヴァクやインドの話は出てきたのに。もちろんまず西欧の側の問題を明らかにしないといけないだろう。「文化的暴力」についての、命題としての真偽ではなく、言説としての背景や機能を論じるなら別に移民の実態に触れなくてもいい。とはいえ。誰かが書いていたようにほんとうにほとんど情報がないのかもしれない。

 

 

ナショナリズム、移民、フェミニズム [日本語リンク置き場]

今ドイツ語で読んでる話題「非西洋の女性差別をどうやって非人種差別的に扱えるか」や「フェミニズムが排外主義に利用される問題」などに関係する日本語のサイトを見つけたのでリンクを貼っておく。とりあえずこれだけ。また他にもあったら貼る。

 

 

  • Sara R. Farris, In the Name of Women's Rights

https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&url=https://tohoku.repo.nii.ac.jp/%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D125789%26file_id%3D18%26file_no%3D1&ved=2ahUKEwj1_J362M3gAhWD6aQKHZ9wCGQQFjAAegQIBRAB&usg=AOvVaw1IEI24YfKU6CFJWD9YBm13

前回紹介した論文でも引用されていたサラ・ファリスさんの本を早川敦さんが内容紹介している。フェミニズムナショナリズムの結びつきや、暴力の文化化について。PDF。

 

 

PDFr-cube.ritsumei.ac.jp › P22_3_13-himeoka

https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&url=http://r-cube.ritsumei.ac.jp/repo/repository/rcube/6178/P22_3_13-himeoka.pdf&ved=2ahUKEwj1_J362M3gAhWD6aQKHZ9wCGQQFjACegQIAxAB&usg=AOvVaw0PhRhcpQqZMCcWe2Ze6ufJ
ドイツでのフェミニズムへのバックラッシュについて。日本との比較。右派からの「ジェンダー主義」への攻撃に触れられている。

 

 

http://www.igs.ocha.ac.jp/f-gens/index.html

アジア、ヨーロッパに関わらず国際社会でのジェンダーの研究をしてるところ。論文は貼ってなさそうだけど、おもしろい研究してる。ここの研究者名で論文検索したらはかどりそう。

リンク先にもリンク集がある。

 

 

  • エッセイ > 階級・人種・ジェンダーの交差を読み解く移民研究を切り開くために 稲葉奈々子 | ウィメンズアクションネットワーク Women's Action Network

https://wan.or.jp/article/show/7146

上野千鶴子が(日本への)移民反対を唱えて物議を醸していたけど、WANはこんな感じ。

「売春婦」や「お手伝いさん」とされる仕事を、「セックス・ワーク」や「家事労働」、つまり「労働」として定義し、そこに従事する女性たちを「労働者」として位置づけてきたのもフェミニストです。

しかし、これらの仕事に従事するのが、しばしば移民女性やシングルマザーなど、階級的、人種的にマイノリティ女性であることが、フェミニズムの観点からは十分に考察されなかったのではないでしょうか。

フェミニズムの移民研究っていっぱいありそうだけど。WANは影響強そうだから発信がんばってほしい。

 

 

http://www.jrcl.net/frame180702e.html

労働運動系のサイト。

 

 

プリン和尚はその昔

沢庵和尚はその昔、大根を干して塩して沢庵漬けを作った。後世、その沢庵漬けをごきげんなレモン和尚がレモンイエローに染めたそうな(諸説あり)。

たくあんはwürzig。たいそうwürzig。塩と大根だけとは思えない。würzigというのはドイツ語で、スパイシーとか風味があるという意味なんだけど、どんな風味のことかと言うとちょうど沢庵や漬物の風味。漬物は塩辛さと酸味の他に何か、苦いような舌に残るような香りと味がある。あれがwürzig。チーズのパッケージによく書いてあって、würzigと書いてあるチーズは漬物に似た強めの風味がある。

味覚としては知っていてもそれを表す言葉があるのとないのとではなんとなく違う。これからは漬物以外を食べたときも、「漬物っぽい味」と遠回しに言わなくても、würzigとしてその味を分析的に認識できる。

 

プリン和尚はその昔、カラメルを作るため砂糖水を煮ているときの、現れては消え、膨らんでは弾け、ひとつになってはまたわかれ、徐々に粘度と褐色みを増していく、泡たちのブクブクブクブクを凝乎見つめて、ついに悲願の大悟を成就したそうな。

 

「これや!」

 

と。「これ。万物はこれ」と。しかしその悟りを書に著したり弟子に伝えたりはしなかった。拙僧はもう悟っておる、言葉にしようとするとそれは逃げていく、と。プリンは本山山麓の喫茶店でときどき出してます(数量限定)。


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