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Xを思い出させる


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「なつかしい」という言葉が英語やドイツ語にはないと言っているドイツ人がいた。

nostalgisch(郷愁にかられる)という言葉はあるが、文語的であまり使われない。an ~ erinnern(~を思い出させる)はmeinen verstorben Vater(亡き父)やKindheit(幼少期)など、思い出させる対象が指定されて初めて「なつかしい」という意味合いになる。何を思い出させるのかを明確にせず「なつかしい」と言える言葉がドイツ語にないので、「なつかしい」は便利だ、と彼は言っていた。(他の言語のことは知らないので日本語が珍しいのか、ドイツ語や英語が珍しいのか、そのどちらでもないのかはわからない。)

過去の記憶がなければ「なつかしい」とは感じないはずなので、「なつかしい」と言うときには何か思い出している対象があるはずだ。少なくとも理屈の上ではそうだ。

でも、じっさいに人が何かを見て「なつかしい」というとき、いちいち具体的な記憶を参照しているかというとどうもあやしい。まったく馴染みのないはずのドイツの古城の石垣やそこに生い茂る草を見て(なつかしい)と思いそうになったことがあった。田舎の岬の、海へと続く小径を見ても懐かしいと感じる。今まで一度も生活圏内に海があったことなどないのに、だ。そういう体験は僕だけではないだろう。都会の平成生まれの人が、田舎の家の縁側や竈や畑に懐かしさを覚えることもあるだろう。あれは一体何を思い出しているのか。

おそらく懐かしさを感じるために、過去の記憶は必要だが、その記憶の内容と対象が想起させるようなものとがピッタリ一致している必要はないのだろう。むしろ想い起こさせる対象が漠然としているからこそ、親しみや憧れを掻き立てられるのかもしれない。かつては何か、特別なものがあったが今は喪われたという感覚だ。ほんとうに何かあったのかわからない。そのドイツ人が「なつかしい」という言葉を便利だと思った理由もそのあたりにありそうだ。

ぼく自身は地元を離れて長いので、地元に帰ったときに(なつかしい)と感じることが多い。しかし、その土地にいたときのことを具体的に思い出してみてもとくだん愛着や憧憬をもてるような出来事や生活があったわけではない。昔も今も依然として特別なものは何もないのだ。むりに掘り起こせば陳腐な青春の記憶はあるかもしれないけど、青春がなにかしら輝きをもっているとすればそれは当時に未来への希望があったせいだ。当時の未来というのはつまり今なので、やはり依然として何もない。循環参照が出力できるのはエラーだけだ。

そういうわけで地元に帰って、かつて通学路だった通りなどを見て(なつかしいなぁ)と思いそうになったとき、ぼくはすぐに(なにもなかったなぁ)と思い直すようにしている。これが、どうしてなかなか、しっくりくるのだ。なつかしみを自らに禁じたことの不自由はほとんどないほどだ。

なにも、なかったなぁ!