if( localStorage['ga_exclude']!='1'){

茄子ピリピリ言わない派宣言

f:id:Ottimomusita:20201121092520j:image

茄子を食べたときに舌がピリピリするのは、アレルギー反応らしい。

ぼくは茄子を食べたとき、炒めた茄子よりも煮た茄子でとくに、辛いような味と舌がピリピリ傷むような感覚をもつ。誰でもそう感じるのだと思っていたのだが、そうではないらしい。アレルギーなので、ピリピリしない人とピリピリする人とがいるということだ。茄子がそういう山椒みたいな味にならないような調理法がないか検索していたときに偶然それを知った。

知らなかったとはいえ、それ自体は、

(あぁ、そうなのか)

と、とくだん意外な知識と思わなかった。けど、それにまつわる親子の体験談を読んで、長年のわだかまりを目の当たりにしたような気がした。エピソード投稿していたのは母親で、幼い娘が「茄子を食べると舌がピリピリする」と言ったというところから文は始まっていた。

そこでハッとした。

茄子で舌ピリピリを、ぼくは今まで誰にも言っていなかったことに気づいたのだ。家で食事に文句をつけるのはためらわれたし、茄子はそういうものだと思っていたこともあり、わざわざ言葉にすることはなかった。

この娘はピリピリすると言ったあとに、でも大丈夫、茄子は食べられるとつけ加えている。なのでこの子が無神経だから言葉にできたわけではない。自分の感じたことを素通りせずに拾いあげ、必要以上に拒絶的にはならないように人に配慮している。

同じことがあったとき、どれくらいの人がこういう言語化をできるのだろう。ぼくはたぶんかなり口に出さない方だ。自分の感性は事実の前ではとるにたらないもので社会的に共有するほどの価値はない、というのが基本姿勢で、よほど親しい人にしか話してこなかったように思う。

感じたことを素直に言葉にしない人たちも、少数派だろうが、ぼく以外にも確実にいるはずだ。自分の好みや感覚を、感じて自覚するところから言語化して他人に伝えるまでに、いくつかのドアがありいちいちポケットからそれに合う鍵を探さなければいけない人たちが。

「昼飯なに食べた?」

と聞かれて、本当はうどんを食べたのに何となくそれをそのまま言うのがためらわれて、

「蕎麦です」

と何の得にもならない嘘までついてしまう人がぼく以外にもいると思う。それが率直に言うより楽なのだ。

感じ方の違いというのは思わぬところに、思った以上にある。前に職場の友人が居酒屋で話していた。

「酒って苦くない?いや、ビールとか焼酎とかがちょっと苦いってみんな言うやろ。そうじゃなくて、チューハイとかカクテルも全部苦いねん。

これ、医者に言われたんやけど、何万人かに1人アルコールそのものの味を感じる人がいて、俺がそれらしいねん。」

医学的に何かの説明がされる特徴にせよ、好みにせよ、こういう違いは無数にあるのだと思う。しかし、たいていはみんなおおむね同じという前提で回っており、細かい齟齬はコミュニケーションで調節する。しかし、そこでぼくを含めた「茄子ピリピリ言わない派」の存在が躓き石になる。(そもそも「茄子ピリピリしない派」が多数派なのは置いといて)

 

言語化されない感性の違いはどこに行くのだろう。その一部は、頭の中だけで言葉にされたり、社会的な文脈を気にしなくていいところで文字にされたりするだろう。(このブログのように) もしくは言葉にされず十分に意識も向けられず、見えないすれ違いのリスクとして軋轢やディスコミュニケーションを招いていることも考えられる。

「これ、嫌いだったなら言ってくれればよかったのに」

「言うほどでもないと思ったんだよ」

自分を表現するのが苦手な人が、いたるところでそういうすれ違いを起こしているにちがいない。

他方で、さらりと言語化された感性はどこに行くのだろう。おそらくそういうものがコミュニケーションを円滑にし社会を豊かにしているのだろうと思う。

「でも、それが何だというのか」ピリピリ言わない派はそう反論する。「すんなりと、溜め込むことなく感性を共有して認められる。お前だけの世界は、そこで終わりじゃないか」

おそらく素直に感じたことを言えない僻みだろう。あるいは、とるにたらないものとして素通りされてきた自分の感覚たちの怨念か。長い逡巡で後回しにされて、ようやく言語化を許され日の目を見た感性こそ洗練されたものであるはず。そうあってほしい、というのが茄子ピリピリ言わない派の切望である。