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記事紹介: ドイツのアイデンティティ政治をめぐって

アイデンティティ政治が話題である。

たとえばこんな話↓


“Us Too!”のポピュリズム: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)

 


これは長いけど↓もともとアメリカの話なのかな。


忘れ去られた異端者らの復権: トランプ政権誕生の思想史 (< 特集> 2016 年大統領選挙とアメリカの現在) 会田弘継 - 立教アメリカン・スタディーズ, 2017

 


アイデンティティていうとエリクソンの心理学が思い浮かぶのだけれど、「アイデンティティ政治」と言うときにはこの言葉は、それとはかなり違う意味で使われているようである。そのため、ドイツ社会民主党(SPD)の政治家Wolfgang Thierse は下に紹介する文で「社会はどれだけ多くのアイデンティティに耐えうるか」と問うているが、アイデンティティはそもそも定義上人の数だけあるのではないのかと、しっくりこない印象を受ける。


アイデンティティ政治というときのアイデンティティは、属性とか所属のような意味で使われている。もとの意味でのアイデンティティならば、一人の人間が自分のアイデンティティを一つの属性で表すことはまずないだろう。たいていの人は色んな役割や性質や属性の集まりとして自分をとらえていると思う。


そのうちの一つの属性を強調しないといけない場面というのは、差別とか侮辱とかでその属性のために攻撃されたり不利益を被ったときだろう。これが、(左派やリベラルの)マイノリティのアイデンティティ政治と呼ばれている。

差別を受けることが、エリクソンの言うアイデンティティの危機と同じものなのかというと何か違う気がするし、特定の属性に関して集まって政治的な運動をするのもアイデンティティというほど個人的で内省的なものではないように思える。

マイノリティに属する個人にしてみれば、「この属性をもつ人はこういうものだ」という確固たるアイデンティティのようなものはむしろ個人の自由を制限する偏見として避けたいものなのではないか。


「日本人のアイデンティティ」とか「ドイツ人のアイデンティティ」のような用法はまだ理解できる。これを守ろうとするのが(右派の)マジョリティのアイデンティティ政治なのだろう。


そういう、この用語がまだよくわかっていない状態を出発点としてこれからちょっとずつアイデンティティ政治なるものについて調べていきたいと思う。例によってドイツでの右翼ポピュリズム関連の話題で、アイデンティティ政治はさいきんよく出てくるのでちょっと追ってみてここで紹介する。

 

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SPDの政治家Wolfgang ThierseがFAZ紙に寄稿した文をSPDがネットで公開している。

 

https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&url=https://www.thierse.de/startseite-meldungen/22-februar-2021/&ved=2ahUKEwjuzb2tiY3wAhXGgP0HHTsHCHcQFjAAegQIBRAC&usg=AOvVaw3BDK7w3EBhEyhjjhv7Hlqy

 

FAZ-Beitrag von Wolfgang Thierse - "Wie viel Identität verträgt die Gesellschaft" Identitätspolitik darf nicht zum Grabenkampf werden, der den Gemeinsinn zerstört: Wir brauchen eine neue Solidarität

Wolfgang ThierseのFAZ寄稿文 「社会はどれだけ多くのアイデンティティに耐えうるか」アイデンティティ政治は共同体を壊す塹壕戦になってはいけない。新しい連帯が必要だ。

 

「かつては宗派であり、のちにイデオロギーであったものが、こんにちではアイデンティティだ。それは所属を知らせる便利な手段になっている」とSimon Straußは数週間前にこの雑誌に書いた。「宗派」や「イデオロギー」が過去にあまりに苛烈で血なまぐさい争いにつながったことを同時に思い出させる的確な見立てだ。今また別の規範概念のもとで歴史をくり返すのだろうか。いずれにしても文化的な所属というテーマは、分配政策上の公平性という問題としていま私たちの西洋社会をかき乱し分断しているようだ。民族的、社会的、性的なアイデンティティの問題は勢いを増し、人種差別、ポスト植民地主義ジェンダーについての議論は激しく攻撃的になっている。これはおそらく多元化する社会や社会的な確執を書き表す上で避けられない議論だろう。これは社会的関心や注目、影響力や承認、つまりは文化的な分け前をめぐる争いとしてとことん戦い抜かれる。

 


多様性を平和的に実践するには、民族や文化、宗教が多くあるだけでなく、法の尊重や言語などの共通性も必要だという。

さらにそれだけでなくつねに新しい理解が求められていることは、自由、公正、連帯、人間の尊厳、寛容といった概念、つまり私たちの自由で開かれた社会を支える価値観、そして歴史的に形作られた文化的規範、記憶、伝統において、何が互いに異なる私たちを結びつけ、何が私たちに課されているか、である。このような仕方で定義されたアイデンティティは、右派やときには左派が目指すアイデンティティ政治とは反対のものである。


右派のアイデンティティ政治の不寛容や憎悪や暴力を批判しつつも、故郷や郷土愛、国民文化は重要だとしている。

それらは過ぎ去った過去の反動的な残滓ではない。ヨーロッパの近隣や地球儀を眺めても国民の歴史的意義は終わっていないことがわかる。そして今またパンデミックがこの連帯する共同体、つまりは国民福祉国家がいかに必要かが示された。激動の時代に社会的、文化的な故郷を定めることへの需要は大きい。この需要へのひとつの答えは国民だ。それを認めようとしないのはエリート的で傲慢な愚かさだと思う。

 

たしかに私たちが経験している変化は、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーの伝統の中の均質な国民文化という幻想をけっきょくは廃れさせた。しかしそれにもかかわらず、文化は、単なる文化や文化間のマクドナルド化した世界や文化プラズマ状態ではない。


文化は変化し続けるものだが、生活様式や芸術や記憶などの合奏として今も重要だとしている。そして、マイノリティの権利を求める左翼のアイデンティティ政治の問題は、マジョリティ文化を求める権利を認めないことだと言う。

これらがたんに保守や反動やまったくの人種差別だと非難されるべきではないことを受け入れられないという危険がある。


さらにキャンセルカルチャーはコミュニケーションや議論が足りないせいだとする。

他の逸脱した見解をもつ人や指定されたものと違う言葉を使う人を、メディアの公開議論や大学から排除することは、私には左翼的とも民主的な政治文化だとも思えない。

自分が驚き呆れたということや主観的な経験は根拠を示す議論に取って代わるべきではない。個人の経験の側面は、胸が痛むものでも、共感できない反対意見の評判を落としたり議論から排除する口実として利用してはいけない。犠牲者の話は聞かなければいけないが、それ自体が正しいわけではなく、判決を下して議論を決してもいけない。

 

白人の優位性のイデオロギーへの批判は白人男性の原罪神話になってはいけない。構造的で私たちの社会のどこにでもある人種差別という話は、白人ならばすでに有罪だというモットーにしたがって、避けられないものを付与する。


そのため、文化盗用批判や言葉狩りで不要な混乱と反発を生むとしている。

そうするとなおさら人種差別の非難が正しかったことになる。悪循環だ。

 

ジェンダーや差別的な駅名の変更についても、

ジェンダーに配慮しマイノリティ全般にも配慮した言語を要求することはどんな場合も共同体のコミュニケーションを容易にするとはかぎらない。大学教員が、彼らの学生がどのように呼びかけられたいか、「Frau」か「Herr」か「Mensch」か、「er」か「sie」か「es」かを怯えて不安げに問い合わせたなら、それはもはや無害とは言えない。そしてそれをやり過ぎだと思う人は反動的ではないし、命令や禁止による言語規制に反対する人も同様に反動的ではない。

私たちは新たな偶像破壊を経験している。名前の抹消や記念像の倒壊、知の巨人の密告はたいてい革命の血塗られた転覆に属するものだ。こんにち問題となるのはむしろ重くのしかかる厄介な悪い歴史からの象徴的な解放である。そのさい主観なショックは、名前や記念碑や人物の意義の歴史を詳細に見ることよりも重視される。これはMohrenstraßeやOnkel Toms Hütte[地下鉄の駅名]の例でわかる。この名前は不快で私は傷ついた。だから変えてしまわなけれいけない。これは決定的な行動原理である。歴史の浄化と清算は、これまでは独裁者や権威主義的体制や宗教や世界観の狂信者のすることだった。

 

社会的、文化的な苦労を増やすことを目的にするのは左翼アイデンティティ政治の問題だと私は思う。むしろ目標は受け入れられた多様性を平和的に生産的に実践することであるべきだ。これを達成するには個々のアイデンティティや個人や集団の利益を認知させ実現するために労力をかけるだけでは足りない。さらにより大きな範囲で、自分自身を共同、共通善と関連させて考え実践し、したがってまた自分自身を相対化させる意欲と能力が必要である。かつてRalf Dahrendorfが「所属している意識」と名付けたものはますます重要になっている。いずれにしても多様性を担う人は同時にコミュニティを担う人でないといけない。

多様性と他者性への敬意がすべてではない。それはむしろ規則と責務の尊重、そしてまた多数決の受容に組み込まれていなければいけない。そうでなければ過激な意見の温床や認識の深い溝や競合するアイデンティティ集団の主張によって、とくにデジタル世論では、社会的結束は危険にさらされるか、すっかり破壊される。なぜなら多様で社会的、文化的に断片化した「特異点の社会」(Andreas Reckwitz)では社会的結束はもはや当たり前ではなく、それは民主主義的な政治と文化的な尽力と、とりわけ社会民主主義の目的にならないといけない。それらに欠かせない文化についての提案は、重要なのは連帯であり、連帯は一方的な関係や他者に反して要求する関係ではなく、それは相互の関係と包括的な社会全体を目指すものだということだ。

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政治活動は対立を生むから、相互理解と連帯を求めるというのが要旨だろう。

しかし、そういうコミュニティオーガナイジング的な活動はすでに各地域で行われているのではないか。異文化交流のためのイベントとか、宗教間のダイアログとか、LGBT関連の読書会とかは、該当の協会や個人によっていろんな規模で定期的に行われている。

コミュニティオーガナイジングにはいくつか利点がある。対面だとネットほど不穏だったり無礼になったりしにくいだろう。また主体的で個人的な発言は誰かに、代弁してもらうのと違って、属性でひとくくりにして擁護したり糾弾したりすることも少ない。

そういう活動は言われるまでもなく大事だから、じっさい各々が実施している。でも興味がある人しか参加しないからあまり大きな話題にはならないし、注目もされないのかもしれない。

だから別の場面では不公平や対立を明確にする政治活動も必要になる。「そんなやり方では理解を得られない」とアドバイスする人は、「そんなやり方」でない取り組みに関しては注意を向けてすらいない。というのはよくあることだ。

 

上の文で出てきた「文化のプラズマ」というのはMichal Schindhelm の造語である。

Schindhelmの「文化のプラズマ」について書いた文を見てみる。

 

 

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https://www.degruyter.com/document/doi/10.14361/9783839435120-009/pdf

 

MICHAEL SCHINDHELM

Neubeginn oder Übernahme? 1

Die Erosion des öffentlichen Kulturauftrags und die Entstehung des Kulturplasmas

新しく始めるか、継承か

公的な文化的使命の風化と文化プラズマの出現


彼は劇場支配人として国の文化政策に携わっていた。(右派の)マジョリティのアイデンティティ政治が求めるものが仮に自国の伝統文化の保護と促進であれば、該当するのは文化政策である。

ドイツで前に、ドイツ国民としての文化や伝統のあり方が問題になったのは30年前の再統一のあとである。その頃は旧東ドイツが無くなるため東側の劇場や美術館が衰退しないよう補助金注ぎ込まれていたそうだ。しかし今は多くの劇場が衰退しつつあるという。

 

最近のベルリン国民舞台の劇場主についての人事は、ロストックやデッサウ、Halberstadtや Gera/Altenburgの劇場の緩慢な死よりもかなり大きな注目が集まっている。あたかも同じような悲劇が増えすぎてこれ以上関わりきれないというように。今の文化政策関連の不足はドイツ統一25周年でとくに注目された。今ではこれまで以上に懸念されている同じ機関が、かつては多額の費用で没落から救済されていたからだ。

 

1990年11月に連邦政府はいわゆる新しい連邦州の文化施設のための資産維持とインフラの計画を決めた。1991年から93年に、チューリンゲン州とメクレンブルク=フォアポンメルン州の数百の劇場、オーケストラ、美術館が合計で350万ドイツマルクを受け取って、予算の均衡を取ることか老朽化した建物の復旧に充てられた。これはいくつかの西側の州には文化政策の主権への干渉と捉えられ、計画への意見訴訟も検討されたが、その支援金のおかげで、ワイマール国民劇場からドレスデンの緑の丸天井まで、ドイツ民主共和国(DDR:旧東ドイツ)のほとんどの中規模および大規模の文化施設がドイツが統一した最初の数年の混乱期を乗り越えることができた。

 

この頃、文化の保護は社会的使命だとされていたという。

 

1990年は、1871年[ビスマルクドイツ統一]以降5度目の新しい社会建設の試みとして刻まれる。

 

とくに文化は、1. 文化はアイデンティティ作成に寄与すること、2. 国民や宗教の遺産を守ること、3. 独立した批判的な集合体になること、4. 教育的な任務を果たすということについて合意があった。Hilmar Hoffmannの言葉では文化は「すべての人に」開かれているべきだった。

 

文化政策の対象はそれ以来、そして今でも文化的景観である。つまりある都市や地域の文化的機関や活動の地誌だ。その機関の多くは周知のようにドイツではその存在を、たとえば小邦分立や帝国など、かつての時代区分に負っている。それらのもともとの目的は、たとえばこんにちでもフランクフルトの旧オペラ座の正面装飾で読めるように、真善美に資することだった。このようなカテゴリは大多数の人からはとっくに疑わしいものとして拒絶されている。しかしそれは1989年に擁護された一連の使命にも当てはまるのではないだろうか。文化が開かれているようにするべき「すべての人」とは誰なのだろうか。

 

公的な文化的使命の終わり

したがって文化は2015年にはもはや公的な課題や最終目的ではなくなった。そのかわりその機関や実施者や内容はとうに、グローバル化やデジタル化の魔法にもそのテロにも屈してしまった。都市が世界市民のプラットフォームに発展し、デジタル世界が公共のコミュニケーションを一方でねじ曲げて他方で多様化させた。伝統的な文化的景観はフランクフルトの旧オペラ座のように不規則な塊として近代的社会から浮いている。際限なく拡散する空間が出現し、その中で消費者と生産者がオンラインとオフラインを行き来し、考えられる限りあらゆる様式や内容や地理がからみあい変形している。文化的景観は文化プラズマになった。

 


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↑ぼくが撮ったビル街にあるフランクフルト旧オペラ座の写真

おそらく私たちはみな文化プラズマが何を意味するかの概念をもっている。つまりそれはたとえば、創造性が開花できるもっとも好都合な条件をもとめることを意味する。創造性は、とりわけ故郷をもたない、そして必ずしも愛国的でないグローバル化時代の資本である。

地域主義はジェントリフィケーションと戦っているが、こんにち都市計画をする者は国際資本なしにどうやって自分たちの自治体を住む価値のある公共団体として維持するのだろう。文化プラズマはまた、国民や領土政策はポスト国民的な文化実践の要請と矛盾していることを意味する。芸術家はもはや国民アイデンティティに縛られず、機関は他の機関と連合とネットワークを作り、政治的な公共団体には適合せず、芸術生産と生産物の流通と評価はますます制御されなくなっている。


文化プラズマの例として著者はYoutubeを挙げる。

Youtubeはその視聴者の製作物である。彼らによって現在一秒ごとに60分の映像材が新たにアップロードされている。TIME誌は、Youtubeには1ヶ月でアメリカのテレビ会社の最大手3社が60年の歴史で作成した映像材の3倍以上が生じると試算した。

個人的にあまり評価しない文化的な出来事も認めなければいけない。YouTube現象で興味深いことは、消費者と生産者がつねに役割を交換することである。これによってこの役割は厳格さを失い、時流にしたがってその意味さえ失う。ある種のプロシューマーと言ったほうがいいかもしれない。インターネットの中だけでなく現実世界でもここ数年、各種のフェス、クラブ、出版、展示など、ますます多くのフォーマットが出現し、そこでは職業として芸術家でも知識階級でもない人が公に自己表現し創造性を見せつけている。

もし、たとえば良し悪しを決めて「価値」を伝える当局がもはやないのなら、趣味の無政府状態がはびこる。Youtubeはおそらく文化プラズマの正確な写し絵である。それがいっそう商業的な利益に役立つというだけでも疑わしいものに思えるかもしれない。

 

「すべての人のための文化」から「すべての人の文化」へ

 

文化的景観が文化プラズマの中に沈めば、公共文化や対応する文化政策の古典的な考え方も時代遅れになるだろう。ジャン・ボードリヤールはすでに2007年に短い文章で、なぜデジタル化の時代にも価値や機関や最終目的といったすべてが消えていないのかという問いを立てた。芸術に関して彼の答えは、芸術は消えたことに気づいていない、というものだ。彼はまたそれらの物は完全に消えるのではなく痕跡を残すことを指摘した。それは初期のキリスト教で悪魔の役割を引き継いだ古代の神々に似ている。

 

実際ドイツでは文化的事業はいまだ上り調子である。グローバル化やデジタル化の変容の強襲で文化や文化政策が消えてしまったようには見えない。ボードリヤールは、それらは気づいていないのだと言うだろう。そして依然として文化政治家は使い途のない人のままだと言うだろう。しかし、それよりもプラズマの中で悪魔になった死後の生を想像する方が興味深いだろう。それはこれまで以上にアウトサイダーであり、文化プラズマの中での真善美の解釈がどのようなものなるかを明らかにする政治上の伝統をあとにした。この文化政治家にはもう明確な社会的な課題はない。文化政治家はそれでもそれを達成する仕事に取り組むだろう。

 

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