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ニューロ・ダイバーシティからみた「不要不急」

東京新聞:<新型コロナ>発達障害児、窮地 在宅でリズム崩し自傷 親もストレス懸念:社会(TOKYO Web)


https://amp.tokyo-np.co.jp/s/article/2020042590135019.html?__twitter_impression=true

 

https://youtu.be/fiqT2RDOOpM


f:id:Ottimomusita:20200513022518j:image

https://twitter.com/vA3MU4RWCWTsQr7/status/1257394448868270080?s=19

 

ちょっと大げさなタイトルにしたが自閉症の人の支援の仕事をしていた者として今の感染症政策について書きたい。

上の記事で話題になっているように、コロナのためいつもの活動ができない知的障害者、または自閉症者が不調をきたし、その人々のいる家庭にも負担がかかっている。そして行政や専門家会議はそれに対応できておらず、その上できていないことをはぐらかしているという現状である。


なぜ、知的障害者、とくに自閉症をもった人はふだんの活動ができないと窮地におちいるのか。直接当事者と関わったことのない人にはピンとこないかもしれない。介護を必要としている人ならともかく、健康な人の日中活動であれば「不要不急」ではないのか。そう思うかもしれない。


自閉症の特徴のひとつとして、彼らは先の見通しを立てるのが苦手だ、ということが言われる。目に見えるものをもとに考えるのが得意な彼らは、時間という目に見えないものの管理がうまくできない場合がある。そのため支援者は絵で分かるスケジュール表などを作成し、彼らが自分の活動を作っていく手助けをする。それが自閉症者支援の大事な部分のひとつで視覚支援と呼ばれる。

日頃からこのように分かりやすい提示をして地道に作ってきたスケジュールが成り立たなくなると、何をすべきかの手がかりを失い、同じ行動を繰り返して時間を過ごしたり、ときにはパニックになったりする。


この辛さは想像するしかないが、たとえば、何もない真っ白な部屋に閉じこめられそこで理解できないことばかり起こる中、それでも何か対処しなければいけない、という状況になれば定型発達の私たちも同じような苦しみを味わうかもしれない。

このような仮定の状況を表現したような演劇がある。ハロルド・ピンターの『料理昇降機』(The Dumb Waiter おとなしい給仕)だ。二人の暗殺者が部屋で待機しているが、なぜか部屋には料理を運ぶ小さなエレベーターがあり、料理の注文が来るという不条理劇だ。もしやってたらぜひ見てほしい。演劇の常識というか、人間の当たり前のあり方を揺さぶるような不穏さがある。


今、コロナの感染拡大防止のためさまざまな「不要不急」の活動が自粛されている。規制ではなくあくまで自粛だそうだ。

不要不急とされる活動は主に、音楽のライブ演奏や飲み会、スポーツイベント、演劇などで、文化的な活動が多い。

緊切で必須なエッセンシャルワークとされるのはたとえば、病院、スーパーマーケット、入所の介護施設など直接生命維持に関わる仕事、家事や家庭を支える配達やメンテナンスなどの仕事だ。

この区別は、人間に2つの側面があることを前提としている。人間は文化をもつ社会的な存在で、人と会い、物を創造し、議論したりする。他方で人間は生物でもあり、食べたり寝たりしないといけない。そのために掃除や料理、洗濯をしないといけない。そういう生命維持の労働も必要としている。

今は人が集まる活動はコロナのためお休みして、後者の生命維持の労働に専念しよう、と言われている。そして、でも社会的文化的な活動も人間にとっては不可欠なんだよ、と教養を重んじる立場の人が前者を擁護する。

 

「不要不急」の行動の必要性はヒト以外にもある。

動物行動学では、知能は「新奇な問題を一定の時間内に解決する能力」と操作的に定義されているが、これは目的を達成したかどうかを基準にした方が客観的に観察できるためだ。しかし実験場面以外で観察していると、知能の高い動物の行動はむしろ目的のない行動の方が特徴的なものとして目につく。カラスは食べ物でないものを拾って隠したりするし、イルカは食べない海藻を鰭に引っかけたり咥えたりして泳ぐ。こういう行動はよく遊びと見なされる。遊びのような、直接生命維持や繁殖に関係のない幅のある行動が知能の高い動物に宿命づけられているようである。


自閉症の人も普段から、生命維持に必須ではない活動や余暇の過ごし方というものをもっている。しかし、そのいくつかは定型発達の私たちから見て、文化的社会的に不適切と見なされ、「問題行動」と呼ばれ、怒られたり止めさせられたりする。そこで自閉症の支援者は、少しでも社会のフォーマットに合致した活動を考え、当事者に提案し、社会との関係を調節する。それも支援者の仕事のひとつである。


定型発達者の文化的社会的なフォーマットは、とくだん文化的と呼ばれる活動だけでなく、食事の食べ方や時間、服装や着替える場所など、日常生活のあらゆる分野に及んでいる。このフォーマットから逸脱すると奇異の目で見られるため、やり方の習得が必要になる。

習得すべきことをひとつひとつ見ていくと、定型発達の私たちはこういう常識や決まりを挙げはじめればキリがないほどもっており、まるで四六時中台本通りに演技をしているかのように生活していることがわかる。ちょっとした物にも書割による場面転換や舞台装置のような意味があり、小さな行為にも台本がある。自閉症の人は、こうした意味や台本を汲み取ることが苦手で、どちらかといえば個々の物をそのままに見ることを得意としている。これは優劣ではなく観点の違いだ。


人間の生活は、不可欠な生命維持の労働の上に、文化的社会的な活動があって成り立つと考えられている。これはおおむねその通りだが、生命維持の労働もじつは文化的社会的なフォーマットにもとづいて行なわれている。そしてそのフォーマットは定型発達者を中心に作られている。それに基づいて「今は仕事の時間、今は食事場面、今は食後のリラックスしたひととき」と場面が区切られ、時間の管理はほとんど意識せずにできるほど容易になる。


このフォーマットが自分に合っていない人の場合、まるで事情が違う。習得した第二言語のようなフォーマットが食事、仕事、余暇のすべてに及び、それが崩れると時間の管理が困難になる。そこに不要不急な文化的活動とエッセンシャルな活動という区別はない。日中活動を不要不急として中止させられることがより大きな打撃になるのはそのためだ。


文化は余剰ではない。そしてそれは文化と教養を重んじる人たちが、「人生には不要に思える文化活動こそ大事なのだ」というのとは意味や深刻さの度合いが違う。文化はそれ自体は善い物でも悪い物でもなく、生活のあらゆる場面に入り込んでいる。余剰としての教養も大事だろうが、神経発達の多様性(ニューロ・ダイバーシティ)を考慮に入れた人間観には、文化や社会についてこういう人文主義とは違った見方が必要になるのかもしれない。

論文紹介: ドイツの移民ケア労働者 後編

ドイツでの移民のケア労働者をめぐる状況について論文を調べた。その後半。

以下の論文は主に法律について書かれている。

http://www.ethik-und-gesellschaft.de/ojs/index.php/eug/article/view/2-2013-art-2/51 [pdf]

http://www.ethik-und-gesellschaft.de/ojs/index.php/eug/article/view/2-2013-art-2

Constanze Janda

 

Feminisierte Migration in der Krise? Pflegearbeit in Privathaushalten aus aufenthalts-, arbeits- und sozialrechtlicher Perspektive

女性化された移民は危機にあるか 在留、労働、社会福祉の観点から見た私的な家事でのケア労働 

 

Constanze Janda

前半は、ドイツでは福祉による介護給付だけでは足りず、移民がよく家庭労働に雇われる。

そのケア労働をするには東欧や非EUからの移民が多い。

しかし、需要はあるがケア労働者募集のための法的な枠はあまりない。

そのため移民ケア労働者は不安定な働き方やときに違法労働をよぎなくされている。

という話だった。後半はそれら不安定だったり非合法だったりする中で働くケア労働者について、労働法や社会保険社会保障の観点から書かれている。

 

要点
  • 労働者としての権利はドイツが批准しているILOの家事労働者条約で保障される。しかし、労働時間や解雇猶予などの保護の実現は不十分。
  • 社会保障はドイツに長く住む人のためのものなので移民は排除されがち。
  • 社会保険は一定収入以上あれば加入できる。家庭で雑用をする労働者には雇用者が代わりに保険料を払う規則がある。


まず労働時間などを決めている労働法。


3. 労働法的な評価

家庭での労働は文書に残さないことが多く把握されにくい。

まさに住み込み労働者についての実態把握はおろそかにされがちだ(Hess 2008, 104)。これは直接に、雇用関係での労働法の基準の遵守や社会保障への権利に影響する(Jungwirth/ Scherschel 2010, 123)。


3.1 非雇用者の地位と自営業の比較

社会学の論文では長らく、家庭や家族労働も「労働」であるという認識が必要だと主張されている。

ケアの仕事は法的にはi.S.v. § 611 Abs. 1 BGBのサービス業だが、自営なのか雇われなのかの判断が難しいそう。

 

とくに住み込みでケアをする人において、自営業だとみなされた独立業、すなわち古典的な名ばかり自営業のケースが問題になる(Moritz 2007, 150; Shinozaki 2009, 75; Frings 2010, 66; Frings 2011, 91; Schmid 2010, 187; Kretschmann/ Pilgram 2011, 116; Tießler-Marenda 2012, 106)。


3.2 住み込みケア労働者の労働法的な保護

住み込みでケアする人が被雇用者の地位を是認されても自動的に包括的な労働法的保護をともなうわけではない。住み込みケア労働者の権利である被雇用者の権利は、BGB(民法典)の発効まで有効だった奉公人の権利にもとづいていたが、その法体制は民法典で時代遅れになった(Richardi 2009, § 18, Rn. 15; Scheiwe/ Schwach 2012, 327)。

 

3.2.1 雇用の禁止と労働契約の有効性

被雇用者が契約にあるサービスを提供すれば、その雇用者は誤った労働関係の原則にしたがい賠償を負う。この賠償請求ははっきり法的に定められている(§ 98a AufenthG)。

 

じっさいの労働関係から権利の行使を望む場合、文書によらない被雇用者は解雇のみならず違法在留の発覚、それによる追放の危険にさらされる(Tießler-Marenda 2008, 7)。そのため彼らは搾取的な労働条件で働く。

 

3.2.2 国際法的な基準

2011年の6月にIAO[=ILO: 国際労働機関]は家庭使用人の権利についての協定を可決した。この協定は家庭内でする仕事を労働として認めている。家庭労働はArt. 3 IAO 189によって他の(生産的)仕事と同等の立場に置かれ、それによって権利面、とくに労働権や社会権で「可視化」(Boni 2011, 581)される。

 

暴力や性的な侵害から守られ(Art. 5)、適切で公正な労働条件(Art. 6)と法定労働時間(Art. 10)、国際法的にいきとどいた最低賃金(Art. 11)、健康保護のための措置(Art. 13)やその他いくつかの権利がある (im Einzelnen Boni 2011, 582f.; Scheiwe/Schwach 2012, 308ff.)。

 

唯一の分類指標は仕事の実施場所、すなわち他人の家庭での家政労働の実行であり、就労者が住み込みかどうかは問わない(Boni 2011, 582; Kocher 2012, 4; ILO 2013, 8)。なされる仕事の「身分」は問題にされない(Kocher 2013, 930)。家事労働かケア労働かの区別もされず(Scheiwe/Schwach 2012, 329)、いまや家庭使用人のする仕事はグローバルにはっきりと識別されている(ILO 2013, 7)。


これのことだ。

2011年の家事労働者条約(第189号)

この条約は大きい。どれだけ実現してるかはともかく上に書かれた権利は国際法的には認められたことになる。

日本はまだ批准していないが、今後移民流入を増やすなら必須だろう。

 


3.2.3 解雇保護

クビを通告してから失業するまでの猶予期間が解雇保護だ。上の条約には解雇保護についての基準はまだないそうだ。なので他の職と同じようにドイツの法律に従う。

しかしどれくらいの猶予期間が解雇通知に妥当かははっきりしていない。§ 622 Abs. 1 BGBは4週間の猶予を規則として設定している。これは§ 622 Abs. 2 BGBの基準で、どれくらい長く「会社や企業の中で」労働関係が成立していたかによって延長される。ケア労働者の働く家庭が企業と格付けされるかは定まっていない。ほとんどの場合これは否定される。


つまり家庭は企業ではないとされ、保護が受けられない。しかし筆者は法学的な企業の概念を再考し、家庭も企業と見なしうるとする。

ケア労働者が働く家庭を企業と判定することは完全に可能であるので、§ 622 Abs. 2 BGBの解雇期間の延長が適応される。

 


3.2.4 労働者保護

労働者保護は、職場での衛生や健康の保護のための法制度。

上の条約189号に規定されていて、家庭労働者も国内法や慣例で適切な保護を受けることになっているという。該当する国内法は労働関連の法律ではなく民法(BGBの§ 617と§ 618)だそうだ。

 

BGBの§ 618 Abs. 1と2によると、労働者が働いていることや、宿舎していること、食事、時間的負担、健康や宗教上のニーズ、プライベートにてらして配慮されるべきである。したがって雇用者はそのために住み込み就労者に特別な配慮の責任を負い、それは被雇用者の安全や健康保護を対象とする。

 


3.2.5 労働時間

労働時間法の特別基準では、家庭でいっしょに生活しケアに従事する就労者には適用されない(§ 18 Abs. 1 Nr. 3 ArbZG)。妊娠中や授乳中の母親や未成年者でも住み込みケアで働いている人には制限された保護しかない(Richardi 2009, § 18, Rn. 18)。


ILOの条約189号で守られているのではなかったのか、と思うが、ドイツの国会では条約の条項にある権限を使って保護対象からあるグループを除外しているらしい。その言い分としては家庭で生活するケア要員は労働時間と自由時間の区別ができないし、§ 618 Abs. 2 BGBで守られているから、だそうだ。なので労働時間法を適用しない規則の枠(§ 18 Abs. 1 Nr. 3 ArbZG)に入れられている。

しかし筆者は、住み込みケアはそれに当てはまらないとしている。根拠は雇用者ではある家族の命令下にあり(Frings 2010, 68; Tießler-Marenda 2012, 110; Scheiwe/Schwach 2012, 338)、要件であるAbs. 1 Nr. 3で言う「自己責任で」の仕事と言えないから。また住み込みで家計を共有していると言ってもそれは給料のようなものでAbs. 1 Nr. 3で言う「共同体」ではないからだという。

本来なら§ 618 Abs. 2 BGBによって実現する労働時間の保護はとくに住み込みケア特徴的な性質があるため不可欠である。つまりその仕事は感情的に激しく消耗し、空間的距離が少なくケアされる人との結びつきが強いからだ。したがって労働時間と余暇時間はかなり重なっており、そのためケア労働「際限ない労働」(Kretschmann 2010, 212; ähnlich Bachinger 2010, 410; zur Empirie ILO 2013, 55ff.)と呼びうる。


労働者としての権利は国際法があったが、以下は社会保障社会保険による給付はもらえているのかについて。じっさいケア移民はあまり保障されていないようだ。


4 社会保障

福祉法典の適用範囲は§ 30 Abs. 1 SGB Iにもとづき、権利をもつ者が住まいか常用の滞在場所を国内にもっている場合のみ開かれる。

 

まさにこの必要条件のために住み込みケア労働者は要件を満たさない。彼らは国内で生活拠点を持続的に長引かせようという目的はない。


ドイツと出身国を行き来する振り子移民が多いのだった。

したがってケア労働者は出身国の社会保障制度を受けるが、ドイツの福祉法は基本的に一時的な移民に保障を許可していない。このことは、求職者への基本保障(§ 7 Abs. 1 S. 1 Nr. 4 SGB II)や、子ども手当(§ 62 Abs. 1 Nr. 1 EStG)や親手当(§ 1 Abs. 1 Nr. 1 BEEG)のような家庭助成金の給付にも当てはまる。§ 23 SGB XIIによる生活費への援助すら、物理的に国内にいることのみ前提としているが、帰国支援しか許可されない(Janda 2012, 267)。しかし一方で出身国の社会保障は、不在期間のために習慣的な在留がなりたたない場合には危うくなることがある。

 

4. 1 社会保険による保護の権利

社会保険は在留のし方ではなく就業に応じて加入が決まる。一定期間就労していて一定の収入があると有効になるそうだ。

 

4.2 私的な家庭での細かな仕事

§ 8a SGB IVでは私的な家事の中の雑務に対してさらに規則がある。そのひとつとしては§ 8a S. 2 SGB IVに規定された定義にもとづいて、仕事が「私的な家庭にもとづいていて、ほんらいはその家庭のメンバーによってなされる仕事である」場合である。そこで扱われるのは個々の資格を必要としない仕事であり、したがってまさに家庭での典型的な業務、たとえば掃除や食事の準備、さらに子どもやケアを必要とする人の世話である(dazu Reinecke 2013, Rn. 34)。

これに該当すると被雇用者は保険料を払わなくてよくて雇用者が総額を払うことになるらしい。

法定傷害保険でだけは、細かな仕事をするケア労働者は§ 2 Abs. 1 Nr. 1 SGB VIIにもとづき適切に保護される。

 

 4.3  違法な在留での社会的保護の適用可能性

違法在留をして働いていても社会保険の保護は有効だそうだ。

一方でじっさいには社会的保護を受ける権利からはやはり排除されている(Tießler-Marenda 2008, 6)。これはじっさいの雇用関係での獲得した社会保険上の請求権の行使でも、医療給付の利用権でもあてはまる。


この辺がよく分からなかったが役所に申請に行くと違法在留がバレるからじっさいには権利行使できないということだろうか。

 


5 オーストリアでの経験

オーストリアでは移民ケア労働が役所に捕捉されていて、ドイツのようなグレーゾーンが少ないそうだ。しかしこれは違法労働を暴くことが主要な目的だそうだ。

オーストリアは強い社会的政治的圧力を理由に2006年に存在する違法ケア市場の規制を決定した(Bachinger 2010, 403)。

24時間ケアはHausbetreuungsgesetz (HBeG 家庭養護法)の中で許可された。税と福祉法の規則を通じてケア要員に通告を促した。つまりその目的はとくに違法な労働契約の存在を明らかにすることにあった(Schmid 2010, 188f.)。

しかし、この合法化が家族の中で就業する移民女性の実際の状況の改善につながるかはまた別問題である。法制化は存在する違法で非公式な構造をとりあげるだけで、基本的人権との調和に努めるわけではないからだ。したがって法制化は形式的なだけで物質的には実現されず(Kretschmann/Pilgram 2011, 120; Moritz 2007, 150; Bachinger 2010, 410)、緊急に必要なケアセクターの新しくつくるのを遅らせる立法府の時間稼ぎである(Kretschmann/Pilgram 2011, 114)。

 

まとめではケア移民がちゃんと働ける法整備が必要だとくくっている。

 

 

 

 

思わぬ休暇

先週、ウィルスの影響でドイツは人道的難民受け入れを停止し、今週からはレストランが閉められ、僕は仕事が休みになった。今日はベランダで、前から始めているネギやバジルの栽培をしていた。とりあえず芽が出たので大きなプランターに植え替えたところだ。みんな自宅にこもっているのか、街は静かだ。

 

先月、用事があってひさしぶりに中央駅に行くことがあったのだが、そこで人が倒れるのに出くわした。先月はまだ人が多くてマスクをして歩いている人もいなかった。でもコロナの不安はドイツにもうっすら蔓延していた。

地下鉄のホームからの階段を上がったところで男女とすれ違ったが、すれ違いざまに女のほうが顔から倒れた。顔を床に打ち、鼻と歯から血を流して痙攣している。(てんかん発作かな)と思った。でも男がえらく騒いでいる。女の名前を呼んで、助けてくれ、と。てんかんなら治まるのを待つしかない。発作持ちだと聞かされていないのか。

てんかん発作で気をつけるのは、倒れるときに怪我しないようにすること(これは手遅れ)、痙攣で首をふっているとき床に頭を打ちつけないようにすること(コートのフードがうまくクッションになっていた)、あとは窒息。

女は顔に血まみれの髪がべっとりついていて、僕は窒息しそうと思ってそれを払いのけた。そのときに手に血がついた。駅員が来て「救命医を」と叫び、あたりが騒然としはじめた。僕は何もできないので、消毒ナプキンを買いにその場を離れた。手のべたつきを拭ったあとも、悪いことをした後のような嫌な気分が残った。

この話をその日、かいつまんで書いてTwitter に投稿した。書いてすっきりしたかったのだけど、投稿してすぐまったく知らないアカウント2人に共有(リツイート)された。僕の投稿を読んでいる人は少ないので、こういうことは珍しい。なにかと思ったらそれらのアカウントは 、他の人の書いた、人が倒れたという似たような話をいくつもリツイートしていたのだ。

すぐに消した。

つまり、彼らはウィルスで倒れる人が日本で増えているという証拠を集めているのだ。日本は検査をあまりしていないから、感染者の暗数は比較的大きいだろう。その不安からやっているのだろう。

似たような話で、場で帰りにいっしょになって珍しく会話した同僚が、40代の日本人男性だが、コロナに絡めた中国の陰謀論や古典的なユダヤ陰謀論を熱心に語っていて、気分がふさいだ。

「そんな内政干渉あったら大ニュースですよ」いちおう反論めいたことは言ってみた。

「マスメディアも操作されているんだよ」もちろんそうだろう。

黙示録的な状況をどこかで期待している人たちもいるんだろうと思う。

ペストが蔓延したころ、それを神の罰だとして自分の体を鞭で叩く集団が現れ、一方でユダヤ人排斥が加速したそうだが、今の世相を見ているとさもありなんだ。歴史の本で読んだ、「自らを鞭打つ勇気のない者は」ユダヤ人を攻撃した、というくだりが印象に残っている。

僕の祖父母が90代後半で、まだ健康だ。祖父は施設にいて、風邪などは引いていないがさいきん食が細くなった。もう長くないだろうと父は言っている。とにかくよく食べる人で、胃がんで胃の半分を取ったときも食欲は失わなかった人だから。祖母はウィルス対策のため面会できないことを怒っているらしい。焦る気持ちはあるだろう。

老い先短くても呼吸器関係の死に方はしたくない、と思う。肺炎もだけど、溺死とか誤飲とかも、苦しみが長そう。

 

 

記事紹介: ドイツのTerf 不安のないトイレ

もうひとつドイツでのトランス排除フェミニズムの話題。

2019年5月2日の、Linus Gieseによる記事。

Toiletten ohne Angst – Ja, wir sollten darüber reden, wo trans Menschen willkommen sind - EDITION F

https://editionf.com/transfeindlichkeit-toiletten-dritte-option/

「不安のないトイレ」というタイトルだが、トランスの人にとって、という意味だ。

 

不安のないトイレ   ー  たしかに、どこならトランスの人たちが歓迎されるのか話し合うべきだろう。


トイレと性の多様性に関するたちの悪いジョークはさんざん作られてきた。そこで忘れられているのは、それらの発言に傷つけられ、トイレに行くような日常のことで何が起こりうるのかを無視されたトランスの人たちの事情である。


「すぐさま女子トイレに消え失せないなら、覚悟しろよ」

私たちは日に4,5回トイレに行き、人生のうち3年と6ヶ月をそこで過ごす。

私はトランス男性で、私もときにおしっこをしなければならない。公衆トイレが必要なときは男子トイレを使う。私は髭があり、紳士服を着ている。前に古い習慣のためうっかり女子トイレに足を踏み入れたとき、女性たちは驚いて拒絶的に私を見た。

人口の約0.2%はトランスである。表現を変えると、諸君の会う500人に1人統計的にはトランスだと言える。なので気づいていなかったとしても、諸君がすでに公衆トイレをトランスの人たちと共有した可能性はかなり高い。


トランス敵視のフェミニズム

数十年間、トランス男性は男子トイレを、トランス女性は女子トイレを使ってきた。このような日常的な出来事についてはどんな形の審議も必要ないと考えられる。しかしじっさいには公開討論がますます喧しくなっているのを私は大きな懸念をもって見ている。メディアからの注目がさいきんこの話題に向けられたのは、CDU(ドイツキリスト教民主同盟)党首のAnnegret Kramp-Karrenbauerがカーニバルの行事で、トイレについて「おしっこを立ってするか座ってするか決められない」と、からかったときだった。CDU政治家のStefan Ottは彼のFacebookページの投稿で、「『第三の性』の冗談を信じ込む権利があるが、冗談でしかない。我々は現状が続くことを懸念するべきだ。」と書いた。またSNSでもさかんにそれについて議論され、それらの議論にはとくにTERFと呼ばれる人たちが参加している。TERFとはtrans exclusionary radical feministの略語で、トランスの人を排除するフェミニズムのことだ。

中略。ご存じターフの説明。オーストリアの映画館で、ジェンダー中立のトイレが導入されたことなども。

 

私が何度も驚かされるのは、社会のあらゆる層にトランスへの敵意があり、一見啓蒙されているフェミニストにさえ見受けらることだ。しかしなぜ他の人を排除しながら、その世界を公正で良いものにするため戦っていると信じられるのか。

 

トランス女性は女性である

これらの議論の意地悪さは、議論のさいにトランス女性をつねに女性の服を着ただけの「男性」として描き出すことだ。なので私はこの立場でもう一度声を大にして強調したい。トランス女性は女性を自称する「男性」ではなく、あくまで女性である。

日刊紙WELTの政治部編集者のThomas Vitzthumは2月初めに「トランスセクシュアリティ: 第三の性のためのトイレは必要か」という見出しで書いた。そこで彼は「バイエルン州の3つ自治体で学校新設にあたりトランスやインターセクシャルの子ども用トイレを設置しようとしている。しかしこの措置は本当に意味があるのか。」と書いた。私はこの手の記事にはいつも「待て。やめろ」と叫びたくなる。これらは誤解を招きやすく有害だからだ。トランスと第三の選択肢は別の事柄だ。報道のために調査をして専門家と話すべきジャーナリストさえ誤りを犯すことは、性の多様性に対する知識と敬意がいかに欠けているかを強調している。

そのようにいうのは、第三のトイレは中間の性の人や二分法でない性の人のためにならたしかに意味のある改良だが、たいていのトランスの人は独自のトイレを必要としていないからだ。彼らが必要なのは自分の性に合ったトイレに行けるような、安全と社会的な受容である。トランス男性で作家のJayrôme Robinetは彼の自伝の中で初めて男子トイレに入ったときのことを書いている。「そこで何が待ち受けているだろう。顎をくだかれるか。顔を殴られるか」私が行くどの男子トイレでも私は個室が空いていることを期待する。男子小便器を使うのは不安が大きすぎるからだ。2、3ヵ月前にドライブインのトイレに行ったとき、ひとりの男が私に話しかけて言った。「すぐさま女子トイレに消え失せないなら、覚悟しろよ」


「トイレ論争」は不安を煽る

それでも私がこの「論争」に参加すべきなのはとくに次のような問いを立てるためだ。トランスの人が自分の性に合ったトイレに行くのをいったいどうやって妨げるのか。ドイツの公衆トイレすべての入り口に検問を設けたいのか。DNA使わないと入場できないようにすべきか。指紋認証が解決策になるだろうか。あるいはトランスの人に共通のマークを服に縫いつけてもらって、それによってシスの人と区別し、本人にとって正しい方のトイレから排除するか。そしてそのようなマークによってトランスの人は他にどんな場所から締め出され追い出されることになるだろう。更衣室か。病室か。

英語圏では現在とりわけ激しくトイレについて議論されている。大衆紙がそれを扱わない日はほとんどない。しかしTERFにとっての問題は、ほんとうにトイレに入ってくるために「男性」が女性を自称することなのか。私の印象では、トランスの人のアイデンティティを否定するためにトイレの話題が代わりに使われているように思える。私たちの世界は変わりつつあるが、トランスの人は昔からずっといたのだ。ただ彼らは今のように大きな声を上げられなかったし、目立たなかっただけだ。このように私たちの性のため多様性がますます利を得ているが、その変化のために多くの他の人は脅かされ肩身が狭くなったように感じているのだと私は思う。トイレという議題は、不安を煽りトランスの人の存在を問題視するために利用され、それによって彼らを排除し制限し生活を困難にしている。

 

どうすれば私たちはうまく受容できるか

私が望むのは私たちがそれを自重することだ。私たちは、どうすればトランスの人がある場所に入るのを妨害したり禁止したりできるかを議論すべきではない。もしそれでもトランスの人について議論したいのであれば、どうすれば社会全体でトランスの人のアイデンティティや存在を受け入れることを実現できるのかを議論してほしい。一番いいのは、それによって彼らの経験を知ることだ。

私はさいきんある若者と会った。彼は自分がほんとうにトランス男性なのか自問していて、私や私の人生についても多くの質問をした。私はトランス男性として男子トイレに行っていいのか。男子更衣室に入っていいのか。フィットネスクラブやプールにも男性として行けるのか。その会話は長く私の記憶に残っている。多くのトランスの人がすでにあらゆる日常の場面でもっている不安や懸念や不確かさが明らかになったからだ。そしてどのトランスの人もそんな不安を感じなくてもいい。トランスの人が、どこでも、彼らを受け入れ社会の一員になれるように助けてくれる他者に会えることを信じられるといい。

 

 

この話題を日本語、英語、あるいは韓国語圏で追っている人には、何も目新しい情報はなかったと思う。AKKがトランスを揶揄した話くらいか。

日本でのこの話題だと、トイレ、更衣室、シェルターに銭湯や温泉が加わる。ドイツにも公衆のサウナやテルマがあるけど、混浴だからか上の記事にも挙げられていない。

 

トイレの話題に始まり、トランスの存在を否定するところまで行くのはドイツでも同じなようだ。日本語でも、以前「私が今の心のままで男になっても違和感はないと思う」と書いているTwitterユーザーを見かけた。

脳の機能についてはまだ専門家でもわからないことが多いそうだが、たとえば相貌失認や受容性失音楽、半側空間無視をじっさいに自分が体験することがどういう感じなのかを知るのは難しい。それでもそういう症例も、関連する脳機能も存在するのだ。

それを考えると「心がそのままで性が変わったら…」のような思考実験の無意味さ、というか想像力の無力さを痛感する。性なんて育った環境や文化の影響を受けやすいからよけいに複雑だろうし。

しかし、じゃあどうすればいいのかというのはまったく明らかで、当事者の話を聞けばいい。上にも書いてある通り。

 

 

記事紹介:ドイツのTerf シュヴァルツァーへの批判

一部のフェミニストトランスジェンダーの人々に差別的な態度をとるという風潮がアメリカでも日本でもある。ドイツにもあり、そのひとつを紹介する。

アリス・シュヴァルツァーはドイツのもっとも有名なフェミニストで雑誌Emmaの創始者である。彼女はイスラム系移民に対する批判でも知られ、人種差別的だと批判を受けている。

 

Emma-Fail: Alice Schwarzer trans*feindlich « gnurpsnewoel.

31. Juli 2014
 in Gender & LGBATTIQ* & Feminismus und Fragen & Antworten

http://gnurpsnewoel.blogsport.de/2014/07/31/emma-fail-alice-schwarzer-transfeindlich/

 

 

 

『Emma』誌の誤り: トランス敵視なアリス・シュヴァルツァー

助言を乞われても何を言うべきかさっぱりわからないという人は何をするだろうか。そう、それを正直に認めるのだ。あるいは助言ができる立場の人のところに行くように言う。アリス・シュヴァルツァーはそうしなかった。

 

 

シュヴァルツァーは雑誌Emmaの彼女のコラム「アリスに聞く」の中で、施設指導員のBengtaから、トランスの若者をどう扱えばいいかを質問された。シュヴァルツァーはそれに基づいて相談コラムで安易にトランス敵視の言い回しをする様子を見せた。彼女はその言い回しをほとんどすべてなぞり、文を混ぜ合わせ、Emmaに書いて出版した。ここにシュヴァルツァーの長話のサンプルを並べるとこうだ。

 

  • 「偽の皮をかぶって」「生物学的な女性」「転換手術をする」「性役割を切り替える」「自由に選択できる」「心の葛藤」「身体を切り刻む」「女の子なのか疑わしい人」「役割からの脱却」「早まってホルモン摂取や手術施行をしないように」「フラッパー」「カテゴリーに凝り固まった思想」


トランス敵視は、「言語による攻撃や、性的アイデンティティの疑問視や否認、(…)精神病理化、(…)存在しないものとするような表現、(…)異物化」の形で現れるとベルリンの人権団体TransInterQueerは定義している。シュヴァルツァーはすべてに該当する。Bengtaの施設にいる若者には申し訳ない。なので依然として、指導員のBengtaがEmmaの他にも情報源をもっていることが望まれる。彼女はその若者と施設からトランス専門の相談センターに行くかもしれない。情報はたとえばポータルサイトの meingeschlecht.de でも見つかる。そこならシュヴァルツァーとは違う適切な相談もできる。

 

 

アリス・シュヴァルツァーらは、ジュディス・バトラーなどのポストモダン的なフェミニストを批判している。そういった議論の中で「ジェンダリズム」(「ジェンダー主義」)という言葉が使われる。これはトランス排除にも関係する用語である。ここで↓紹介しているようなバトラー批判が反ジェンダリズムに当たる。これが「性差を相対化しすぎて女性の権利主張もできなくなっている」というのが主旨だ。

http://ottimomusita.hatenablog.com/entry/2018/02/16/193859

 

トランスジェンダリズム」という言葉は英語圏、日本語圏でも見かけると思う。この「ジェンダリズム」も反トランスの用語であり、似ているが、もう少し広い。ジェンダー平等を目指す政治的な動きも批判の対象に含まれていて、保守派の政治活動と一部結びついているらしい。ここまでくるとTERFといってももはやフェミニズムですらない。ここ↓で紹介している論文が詳しい。

http://ottimomusita.hatenablog.com/entry/2019/02/01/191718

 

その論文にも書かれているが、このジェンダー主義というレッテルはイスラム系の移民排除の言説の中でよく使われる。「イスラム教の女性差別には甘いのに、西欧のジェンダー平等には厳しい。これはおかしい」という具合に。

 

 

論文紹介: ドイツの移民ケア労働者 前編


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ポーランドの移民女性の家庭使用人、マグダが活躍するドイツの人気ホームドラマ

 

Twitterにこんな書き込みが、


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下の記事のような話についてのようだ。

ノルウェーでオペア制度廃止の議論 裕福な家族がフィリピン人女性子守りを搾取する温床に(鐙麻樹) - 個人 - Yahoo!ニュース

女性の社会進出の裏にケア労働で搾取される移民がいる、という話でフェミニストを糾弾する人はそもそもケア労働は女の仕事だという前提で話している。しかし、男も恩恵に与っているではないか。

これはまったくその通りだと思う。

そしてどんな業界にも一般的に搾取はある。

それもその通りなんだけど、とくにケアの領域で搾取が起きやすいこと、そしてそれが女性の「輝かしい社会進出」と対照をなしていることには注意が必要だ。

もし、家事やお年寄りや子どもの世話のようなケア労働が、弁護士や銀行員と同じくらい社会的に評価されていればこういう構図にはならないだろう。ケア労働はたまに思いだしたように、立派な仕事だ、献身的だ、と褒められるものの、ふだんは忘れられ大して給料を貰えていない。

ケア労働は女性の仕事と見なされることが多く、ケア労働の軽視と女性差別は関連している。じっさいキャリア志向なリベラリズム的なフェミニズムに対してフェミニズム内部でも批判はある。

 

ドイツでの移民のケア労働者をめぐる状況について論文を調べた。以下の論文は主に法律について書かれている。

http://www.ethik-und-gesellschaft.de/ojs/index.php/eug/article/view/2-2013-art-2/51 [pdf]

http://www.ethik-und-gesellschaft.de/ojs/index.php/eug/article/view/2-2013-art-2

Constanze Janda

 

Feminisierte Migration in der Krise? Pflegearbeit in Privathaushalten aus aufenthalts-, arbeits- und sozialrechtlicher Perspektive

女性化された移民は危機にあるか在留、労働、社会福祉の観点から見た私的な家事でのケア労働 

 

Constanze Janda

要点

  • ドイツでは福祉による介護給付だけでは足りず、移民がよく家庭労働に雇われる
  • ケア労働をするのは東欧や非EUからの移民が多い
  • ケア労働の需要はあるが募集のための法的な枠はあまりない
  • そのため移民ケア労働者は不安定な働き方やときに違法労働をよぎなくされている

 

1. 導入

2007年の住宅投機による経済危機でEUで失業率が上がった。これは移民にも影響し、失業者が職を求めて移住したり、また移民が仕事をなくして帰国する動きもあった。低賃金で条件の悪い仕事でも自国民が行うためだ。ドイツ国内で失業した移民にとって、移民権は在留できるかどうかに関わる。さらに労働や福祉的な保護も問題だ。

ドイツでは「家事は夫婦両方の責任」と民法で決められており、就業は夫婦両方の権利だという。

そのため女性の就業は増え、家事は家庭外の労働力に割り当てられる。きっかけはさまざまで、高齢者やケアが必要な人が増えたことや、また職業のため家事に必要な時間がなくなったこと(いわゆるケア欠損, Lutz 2013, 1258; Moritz 2007, 151; Frings 2011, 82) などだ。また女性の就業で家庭の収入が増えて、雇いやすくなった。

1.2 女性化する移民

しかし、それによって性的役割分担は変わらず、家庭労働はあいかわらずおもに女性がしている。IAO(国際労働機構)の報告では世界に5200万人の家事労働者がいる。そのうち83%が女性だ(ILO 2013, 20)。なので家事は再分配されているが(Lutz 2002, 88; Hess 2008, 109)、ますます多くの移民女性がやっている。

この社会的な地位を専門用語で「女性化された移民」という。昔ながらの家事労働を他の家庭で引き継ぐ女性の移民のことだ(Granato 2004, 2)。女性は、男性(労働)移民の家族としてではなく、ひとりで自分の目的をもって入国する。彼女らは仕事で家計に多大な貢献をする(Lenhart 2007, 32; Apitzsch/Schmidbaur 2011, 46; Morokvasic 2009, 28; Liebig 2011, 19; Spindler 2011, 173)。

女性化された移民は、短期間・一定周期で行われるという特徴がある(Apitzsch; Schmidbaur 2011, 46; Lutz 2013, 1258)。たいてい、長期在留したり生活の場をそこにおちつけるつもりはない。またたいてい、複数の国に移住はせず、出身国から同じ国に何度も来る(Zerger 2008, 1; Parusel/Schneider 2011, 248)。これは、故郷に残してきた家族を手放さなくてすむので移民女性の利益になるし、特定分野で短期の労働力需要を満たせるので受け入れ国の利益にもなる。

この現象は新しいものではなく、鉄のカーテン崩壊以来、とくにEUの東方拡大のあと重要性を増してきて(Lenhart 2007, 30)、中欧や東欧の国民と関連してきた(Lutz/Palenga-Möllenbeck 2010, 421)。この「新しい」EU市民の就労自由期間が終わってからは、移民の動向は第三国に移った。
 

 

1.3 「ケア緊急事態」と女性化された移民

女性化された移民はいろいろな観点から語られるが、この論文は重要性の高さのためケア移民の法的な条件範囲に焦点を当てる。そこで果たされる仕事は典型的に女性的なものだとされ、人目につきにくく、そのために困難な条件で行われ、社会的に価値ある仕事として認知されにくい(Morokvasic 2009, 29f.)。在留法の条件の間隙や不明瞭さと、脱法的な手配を利用する特徴がある「グレーなケア市場」の存在は立法府もしぶしぶ認めている(BT-Drs. 17/8373, 1)。

このあと社会福祉法(SGB)について書かれている。日本の介護保険制度に当たるものがドイツで施行されたのは1995年だ(日本は2000年)。それまでは介護は妻や娘や息子の嫁など個人でしていたが、保険加入者の共同責任になった。在宅や通院での介護の現物支給や費用の負担補助があるが、それは十分なものではないという。なるべく家庭や地域でするものという方針があるそうだ。

ここまでは日本と似ているだが、ドイツでは福祉で足りないぶん東欧やその他の国からの移民を雇い、彼らが住み込みで働いてケア労働をするようになったという。

 

2 女性化された移民の法的な条件範囲

外国人の入国と在留、また就労は国家の法にしたがい許可保留つきの禁止を受ける。以下はケア労働をしている移民の法的な位置づけが詳述されている。

 

2.1 EU市民の女性の在留と労働市場参入の権利

外国人でもEU加盟国の国民とその他の国で条件は違う。EU市民の女性には制限はない。彼女らは、ドイツ連邦でも他のEU加入国でも在留と就労は特別の許可は要らず自由だという。国籍による労働条件の差別も禁止されている。

しかしこの差別禁止そのものはふさわしい労働条件と賃金の保障を約束するものではない。ドイツのケアの分野では労働条件はたいてい国籍に関わらず不安定だ。家事やケアでのサービス業の自営での提供はArt. 56 AEUV[EU労働基本条約]でサービス業の自由として保障されている。

 

2.2.1  就労者自由参入権の暫定規定

EUではEU市民は移動も就労も自由なのだが、ドイツなどでは、国内の労働市場を守るために東欧の国にたいして一部規制をかけていた。

自由な移住はEU全体で認められたわけではなく、各国が2+3+2ルールと呼ばれる規則にしたがい段階的に自由な移住を容認するかどうかを自分たちで決めた(Fuchs 2010, 980; Nowak 2012, 13)。重要なのは現在この猶予期間はクロアチアにたいしてだけ残っていることだ。ブルガリアルーマニアの国民は2013年12月31日に暫定期間が満了し完全に平等な立場を得た。

したがってEU市民女性のヨーロッパ内部での移民動向は法的には自由だ。彼女らのケアの仕事への参入の問題もない。そのため就労のために乗り越えるべき法的な障壁は少なく、実際的な障壁がある。これらの障壁は、搾取的なことがおおい就職や労働条件の交渉のさいの雇用者の差別的な態度にある(Spindler 2011, 171; ILO 2013, 45)。ブルガリア人とルーマニア人就労者の住み込みケア労働者としての就業の需要は減少するだろう。なぜなら自由な参入の承諾を得て、よりよい給料と整備された労働条件の見通しがあり、もはや魅力のない仕事に頼らなくてもいいからだ(Schmid 2010, 190)。

クロアチアについても現在は2015年いらい完全に門戸開放されている。

独がクロアチアに労働市場を完全開放、7月に就労制限撤廃 | FBC

この論文は2013年のものなので例外的だったクロアチアについて詳述されている。このときは国内の労働市場を守るための規制がかけられていた。

 

 

2.2 第三国の国民の在留と就労の参入権

EU以外の外国、第三国は入国も就労それぞれ法で制限されている。

入国にはパスポートとビザが必要で(§§ 3, 6 AufenthG)、在留には在留資格(§ 4 Abs. 1 AufenthG)、就業には法令か官令の許可が要る(§ 4 Abs. 2 AufenthG)。

稼ぐため繰り返し何度も移住することは在留法では想定されていないが、可能だ。

すでに在留を法的にまとめることは、何重もの官僚的障壁に結びついているため難しくなっている。在留資格の授与は、§ 5 Abs. 1 AufenthGにしたがい、生活費の保証と十分な医療保険があることを前提とする。

じっさいには旅行ビザを利用する場合もあるという。

在留が認められても就労が認められるわけではなく、別に許可がいる。

在留法には、政治的理由や人道的理由で難民やその家族を受け入れるための枠があり、それらの人も働ける仕組みがあるが、ケア労働を担っているのは典型的にはそれらの難民ではない。ケア需要を満たすという、もっと実利的な理由で就労が促進されているという。

しかしケア労働力の著しい需要にもかかわらず、ここ分野での体系だった就労者募集の努力はみられない。これらの職務はむしろ1973年に発せられた募集中止がいまだに効いている(Keller 2005, 30; TießlerMarenda 2008, 5)。

募集停止というのは、ドイツ国内の労働者の雇用を守るための外国人の就労制限である。

したがって、それらは連邦労働局(BA)の同意での就職を目的とした在留資格の授与の枠内でのみ許される(§§ 18, 39 AufenthG)。

ケア労働力としてドイツ連邦で働きたい移民女性は、滞在資格に加えて、優先度審査に合格し、国内の労働者と同じ条件で仕事をしないといけない。

優先度審査というのは、高い能力をもった外国人の就労を優先して許可するための審査で、資格や経験が必要である。これらを満たすのは不安定な住み込みケアワーカーではたいてい難しい。じっさいには安く使えるケア労働者の需要があるが、表向きには「能力の低い移民はいらない」というのが基本的な態度になっている。

§§ 18, 39 AufenthGにしたがい在留資格が授与されると周期的な移住が可能になる。この資格は§ 51 Abs. 1 Nr. 6 und Nr. 7 AufenthGにそって単に完全に出国してしまうか、外国に6ヶ月以上続けて滞在するだけで失効する。

 

 

2.2.3. 女性化された移民を可能にする特別規則

立法府は§ 42 AufenthGの中で管轄の連邦労働福祉省(BMAS)に、法令の形で移民の労働市場参入権を細かく規定する権限を与えている。

BeschV(就労令)で職種ごとに決まりを定めている。

それもふくめてケア労働をできる可能性があるものは、オペア(§ 12 BeschV)、派遣の家事使用人(§ 13 BeschV)、家事手伝い(§ 15c BeschV)、ケア労働力の派遣(国際法社会保障協定)、自営業を目的とした在留許可(§ 21 AufenthG)の5つ挙げられている。結論から言うとこの5つの枠のどれもケア労働が利用するのは難しい。

「オペア」がまだ比較的かんたんそうだが、もともとケア労働のための制度ではない。子守りや家事を手伝いながら外国語や異文化を学ぶための制度で、働く家庭に18歳以下の子どもがいないといけないとされている(DA 2.20.114 zur BeschV)。

「派遣の家事使用人」は、適応範囲が狭い。1年以上家庭労働参加をドイツで望んでいて、かつ会社などから派遣されなければいけない。ふつうに移民してこれを利用するのは不可能だ。

「家事手伝い」は、

§ 15c BeschVにより、社会保険加入義務のあるフルタイムの家事手伝いを目指すときのみBA(連邦雇用庁)の同意が得られる。家事手伝いという概念は誤解を招きやすいが、この用語は§ 14 SGB XIでいうケアが必要な人のいる家庭での仕事でないといけない(DA Haushaltshilfen 4.3.3)。したがってたとえば自分の世話がまったくできない認知症の人のような人の世話でなければ§ 15c BeschVでは可能にならない。

この仕事は家族によるケアや資格をもたない人にも働き口を取られることがあり、不安定である。

家事手伝いとしての仕事は最大3年まで許されるので一時的なものになり、雇い主は人員を入れ替える。さらにBAの同意の前提条件は家事手伝いの人の出身国の労働管理局の斡旋協定を必要とする。そのような協定はこれまで第三国と結ばれておらず、今のところ第三国の国民にこの移住ルートは開かれていない。

「ケア労働力を派遣すること」は、EU内の国の企業にはサービス業の自由として認められており、EU外の国には社会保障協定をドイツと結んでいる国に認められている。これらは企業のための決まりだ。労働法は出身国の法に準じる。

注目すべきは、派遣は短期間しか許されておらず、さらに連続派遣として延長はできないということだ。それをこえると老人介護師の認定職業資格が必要になる(Frings 2010, 67)。じっさい自分で調達するケア労働力にとって派遣は合法的に国内で働けるようになる選択肢ではない。

「自営業」は起業家ためのもので多くの投資と将来性が求められる。

 

 

以上のように、需要はあるのに、EU以外の国から来たケア労働者が合法的に働くのは難しい。

移住法は規則の適応対象として男女を区別しない。しかし規則は特定の役割分担を再現する。たしかに立法府は高い資格をもった労働力の移民流入を促進してきた。高い資格をもった就労者、指導的地位、管理職、あるいは学問やIT部門などでの女性の割合は比較的少ない(Keller 2005, 36; Shinozaki 2009, 76; Kofman 2013, 580)。圧倒的に女性が行っている教育やケアでの仕事はたいてい安定した高い資格の職とは認められていない(Shinozaki 2009, 71)。また資格となる職業経験も条件付きでしか助けにならない。高資格者移民の永住は学んだ職業で仕事をするという前提条件の影響下にあるからだ。したがって女性化された移民はたいていの場合、資格がなく価値の低い雇用で、それは制限にさらされている。つまり、移民してきた女性は高資格の職に就くチャンスもドイツに永住する展望もほとんどないため、高い資格を持っている場合でさえ「伝統的に女性のもの」とされる職を割り当てられる。彼女らの移住事情は「低い資格」で特徴づけられる(Keller 2005, 37; Liebig 2011, 29; Morokvasic 2009, 37; Shinozaki 2009, 71)。

後半は移民ケア労働者の置かれている状況を労働法との関連で書いている。またいつか紹介する。

下のリンクのPDFの初めの2ページが、移民の労働について日本語でよくまとまっている。就労令の章番号が上に紹介したものと合わないが、2013年に改正があったのでそれ以前のものかもしれない。

 

http://kantohsociologicalsociety.jp/congress/53/points_section01.html

年の瀬と、二つの魔法のこと


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世界には二種類の魔法がある。仕組みがわかっても解けないものと、仕組みがわかると解けるものだ。
酒は第一の魔法で、サンタクロースは第二の魔法だ。

酒に酔う、その生理学的な仕組みがわかっても、酩酊の魔法は解けない。

いっぽうで、「サンタクロースはお父さん」みたいな身もフタもない真実とされるものを人は幼少期からいくつも突きつけられて、たくさんの魔法を解かれて大人になっていく。
 

潮干狩りの貝は漁師が浜にわざわざ撒いてるということや、ペットショップで売れ残った犬猫の行方や、着色料や添加物についてや、UFO映像に使われたCGや、ファーストフードの店員の笑顔の源なんかを知りながら歳を重ねる。

そうして幾度も学びと幻滅をくりかえし、なんとく抽象的なことも考えられるようになると、ショックを受ける前に(これは怪しいぞ)と鼻が利くようになってくる。身もフタもない真実がウラに隠れているぞ、と気づくようになる。

 

その点、科学、とくに自然科学は、世の中の裏返ったカードをみんなひっくり返して日の下に晒してくれるような安心感がある。小学校4~6年生くらいの子に科学や自然が好きな子が多いのもなにかそういう理由があるのかもしれない。
 

「真実は身もフタもないものだった」
 

たしかにそいうことはままありうるし、真実が残酷だったり下世話だったりすることもある。そういう場面は印象が強いし、記憶にも残る。ただしそれはあくまで印象にすぎず、

「身もフタもない。“だから“真実だ」

という推論はなりたたない。

なりたたないのだけど、身もフタもないもの、より幻滅を味わえそうなものを先回りして真実だと決めてしまうバイアスはある。露骨で夢がないという感じが、客観性を担保してくれる証拠のようにすら解釈される。

 

性欲やお金、利害や欲望、偽善や陰謀、政治や策略、そういう仕組みの存在を優先して真実と見なし、魔法を暴いてしまえば、傷つけられることはないだろう。もうサンタクロースに騙されたくない。まだサンタクロースを信じている友だちをバカにしてやりたい。これは何を切り落とすカミソリなのだろうか。

 

じっさい、魔法が解けた人たちはまだ魔法のさなかにいる人たちをとても冷静に見ていて、ときに辛辣だ。進化心理学の信奉者から見ると世の人たちは遺伝子の操り人形だ。フェミニズムを学んだ人からすればミソジニストは女性学の教科書どおりにふるまっている。占星術に無知なものは星の動きに従順である、という言葉もあるそうだ。

 

世の中の仕組みにはいろんな説明の仕方がありうる。統計を用いた説明、階級闘争としての説明、遺伝子の遺しやすさによる説明、物語のような説明、経済学的な説明、道徳を重んじる説明、精神分析の説明、ゲームの理論などなど。その中のひとつが誰かを幻滅させそうなものだからといってそれに飛びつかなくてもいい。


相手の手札の中にジョーカーがあるとわかっても自分がそれを引くと決まったわけではない。よくよく、選ばないといけない。いくつかのカードはいかにも引いてくれと言わんばかりに突き出してくる。他のカードは前のカードに隠れて引きにくい。

 

魔法や呪いを解いてくれる説明、それ自体が別の魔法や呪文だということもある。科学がオカルトの魔法を解いてくれたあと、科学至上主義という憑き物を科学史や科学哲学がお祓いしてくれるかもしれない。何がジョーカーなのかは場合によって変わりうる。

 

あるいは早めにババを引いてしまったほうがいいときもあるだろう。また早めに自分のもとを離れていってくれるから。手札を入れ替えているうちに、還元しすぎず特殊化しすぎない、現象に合った大きさのカードが見つかるかもしれない。あるいはいくつものあいだで迷っている状態がちょうどいいのかもしれない。

ある理論によって真実を知り、理論に対する批判を知ってその理論から距離を置き、また一周まわってきて再評価して...。解いては説かれ、説かれては解いて、そういうカード遊びに親しむうちにおちつくところにおちつくだろう。

 

いったいどこにおちつくのか。それはしばしば第一の魔法のもとである。仕組みを理解しても解けない魔法。それは弄んでいる手札ではなく、自身の体のほうにある陶酔と苦痛だ。比較行動学や愛着理論を学んでも、相変わらず子どもは可愛いし、恋愛もする。認知心理学で視覚の仕組みを学んでも、錯視が消えることはない。
 

ウンベルト・エーコの小説『フーコーの振り子』で、知的遊戯にのめりこんで危うげになる主人公を、その妻が諫めるくだりがある。そこで彼女はこの第一の魔法にも訴えていたのだと思う。身体感覚や親密な関係、日常生活の知恵から出発して思考すれば、抽象的で極端な思想に走らない。途方もない高さまで積み上がった理論に連れ去れそうな意識をお腹のまんなかあたりにひっぱりもどしてくれる。

 

「革命思想に殉じるべきだ」

「すべての現実は社会的に構築されている」

「個体は遺伝子の乗り物にすぎない」

でも、ほんとうに?そう問いかけて立ち止まらせてくれる。

 

とはいえ、思想のカード遊びに興ずるインテリにはいい薬なのかもしれないが、ぼくたち俗人にとってナイーブさは精緻な理論や高邁な思想以上の劇薬になる。解けないぶん間違っていても修正が効きにくいため危険だ。

 

「そうはいっても、気持ち悪いじゃない」

「わかっちゃいるけど、信じたいんだよ」

 

素朴な実感の前では百の言葉も空疎に響くし、現実の痛みに理屈は通じない。知識人と呼ばれる人たちでさえさいきんはすごく素朴な実感でものを言う。

 

ナショナリズムは幻想なんだってね。知ってるよ。でもね...」

「正しさばかり主張してもね...」

そいういう声があちこちから聞こえるのが情の時代といわれるゆえんなんだろう。今は原初の魔法こそ猛威をふるっている。2020年代はどうなるやら。
 

あらためてみなさん、メリークリスマス。サンタクロースが来る人も、来ない人も。年末年始、お酒の飲み過ぎには気をつけて。