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論文紹介: AfDについて。極右?右翼ポピュリズム?

AfDについて調べたことをまとめておく。


AfD(ドイツのための選択肢)は2013年に設立されたドイツの政党である。ドイツの右翼ポピュリズムの党として知られる。




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簡単な党史

2013年、AfD(ドイツのための選択肢)が創設される。創設時はこの党は、経済学者の多い「教授の党」として登場し、経済学の観点からEUを批判するのが主な目的だった。2009年に財政危機が発覚したギリシャEUが救済していたことや統一通貨などに不満を訴えていて、国民保守や反移民はまだ表に出ていなかった。

 

2013年の連邦議会選挙では4.7%の票を獲得した。ドイツでは5%を超える党だけが議席を獲得できるため(阻止条項)、辛くも議会入りには至らなかった。一方、2014年のEU議会選挙では議席を獲得し、同年にザクセンブランデンブルク、チューリンゲン州の州議会で5%を超えて議会入りした。

 

2015年にペギーダ(PEGIDA、西洋のイスラム化に反対する欧州愛国主義者)に対する態度で党内に不一致が生じる。ペギーダは2014年にドレスデンで始まった反イスラム運動である。ドレスデンのAfD党員がこれに参加し、AfDザクセンのティルシュナイダーが管理する愛国者プラットフォームもこれを支持し連邦党指導部にも支持を求める。さらにA. ガウラントとF. ペトリーもペギーダを支持する。一方で、主に西側の州や連邦党本部はあいまいな態度をとりつつもペギーダとは一定の距離を保とうとしていた。

 

旧東ドイツのチューリンゲンのヘッケや、ザクセンアンハルトのポッゲンブルクらがエアフルト決議を採決する。これによって党に、ジェンダー主流化や多文化主義に反対するような一層保守的な立場を求め、党本部を批判した。この決議にはガウラントも署名した。

 

2015年7月のエッセンでの臨時党大会で、党首選挙が行われた。ペギーダを支持していたペトリーとそれまでの党首のルッケが争い、ペトリーが勝利した。これは党内のより保守的な潮流が、経済リベラルの勢力に勝った結果とみなされた。しかしこの後もペギーダとは微妙な距離をとり続ける。

 

2016年、FPÖ(オーストリア自由党)の党首とシンポジウムで会談するなど協力を強める。2016年、シュトゥットガルトでの党大会で初めての基本綱領が採決され、広い範囲の議題に党の立場が示された。

 

極右?右翼ポピュリズム

AfDは登場以来ずっとメディアや識者から右翼ポピュリズムの政党と見なされて、ときには極右とも解釈され、そのように語られてきた。現在では学術的にもAfD=右翼ポピュリズムとほとんど確定しているが、2015年以前では右翼ポピュリズムと言えるかもかなり微妙なところだったようだ。

 

 

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以下のMarcel Lewandowskyの論文は、2015年のペトリーが党首に変わる前に書かれた論文で、AfDが右翼ポピュリズムと呼びうるかについての世論や政治学上の議論を検討している。

実証的な研究では、ポピュリズム的ではあるが、右翼的であるかについてはまだ保留していたそうだ。ドイツではCDUより右の政党は極右と見なされ、ナチス的という烙印を押される。AfDは経済リベラルやEU政策を全面に出してこの烙印を避けていた。AfD内の方針上の争いは党の独自色と烙印のジレンマだったと著者は考えているようだ。

 

Eine rechtspopulistische Protestpartei? Die AfD in der öffentlichen und politikwissenschaftlichen Debatte M Lewandowsky - ZPol Zeitschrift für Politikwissenschaft, 2015 [PDF]

 

AfDは創立後初めの一年はEU懐疑主義の立場の党とみなされていたが、右翼ポピュリズム政党に当たるかは不明確だったという。変化の兆しは2014年にあった。

2014年初めにAfD内の路線変更の兆しが表れ、それによってこれまでは重要な位置を占めていなかった社会政治的な立場が視野に入ってきた。2014年1月のAschaffenburger での党会議で、文化や家族政策の議題をめぐるユーロ・アジェンダの拡張が顕著になった。そのさい、この党は「右翼保守で社会批判の勢力に」なるべきで、「あらゆるものに反対し、ヨーロッパの中のいろいろなものにも反対する」(Amann 2014; Ankenbrand 2014も見よ)党とされた。

ドイツでは、右翼ポピュリズムについての研究は盛んだが他のヨーロッパの国のような安定した右翼ポピュリズム政党の台頭がこれまでなかった。そのためAfDの議会入りは「とうとうきた」という印象で迎えられたそうだ。

 

そもそも「右翼ポピュリズム」という概念は何かについて概説している。すでに先行研究は多い。

この新しい諸政党には共通点があるが、イデオロギーや綱領の外観は国の文脈によって大きく異なる(Mudde 1996)。

Muddeという人は国際的なポピュリズム研究で最小限の定義を定めたことで知られているらしい。ポピュリズムとは、一元化された国民と、その声を聞かない政治的エリートという対立関係を主張していることである。この定義は右か左かは関わらない。

それでもDecker (2004: 29)は、現実にポピュリズム的と見なしうるほとんどの政党は同時に右翼ポピュリズム的であると述べている。

なので著者はポピュリズムの定義に、自分たちと同じ国民や民族と見なされない人たちへの排除傾向を付け加えて右翼ポピュリズムとしている。この、「一元化された国民」「反エスタブリッシュメント」に加えて右翼傾向を測るという右翼ポピュリズムの基準は他のいくつかのAfDの研究でも用いられている。


しかし右翼ポピュリズムに当てはまる政党でも非常に多様で概念で捉える難しさがあると著者は言う。

たとえばオランダのピム・フォルタイン党 (Lijst Pim Fortuyn: LPF)はイスラム教敵視をこの同種の他の政党と共有しているが、フォルタインはLPFのカリスマ指導者的な人物で快楽主義的なライフスタイルと同性愛者であることをメディア出演の場で大いに活用する。これはフランスの国民戦線オーストリアのFPÖ(自由党)では考えられない。

カリスマ的リーダーの存在の他に、内部の組織化がゆるく政党というより運動としてふるまうこと(Decker 2006 a: 17 f.)、敵を設定して単純な言葉を好むこと、果敢なタブーを演出することなどの特徴を挙げている。

 


では、AfDは右翼ポピュリズムと言えるのか。この時点ではまだ一致する見解はなかったそうだ。政治学には、データに基づく実証的な研究と、「あるべき」形を問う規範的な研究があるという。テキストデータの内容分析も実証的な研究である。AfD=右翼ポピュリズムについて、主に実証的な研究では否定的か慎重な立場で、規範的研究では肯定的な答えを出していたようだ。実証的な研究では、ポピュリズム的ではあるが右翼的であるかについては保留していた。

たとえば Simon Franzmann (2014)は、この党の創設と達成の過程が依然として完了しないことに言及し綱領に関して、とくに彼らの反エスタブリッシュメントのレトリックにもとづいて「議題も様式もAfDが似ているのはヨーロッパの右翼ポピュリスト政党と確定され(うる)が、本当に合致している点はない」(ebd.: 122)と結論づけた。

Kai Arzheimer (2015)も過激さが欠けているとした。Marcel Lewandowsky (2014 b)はAfDをpro運動との比較でポピュリズムだとしたが、SNSでもイスラム流入を扱っておらず、右翼的かは保留としたそうだ(Berbuir/Lewandowsky/Siri 2015)。イスラム嫌悪と外国人敵視の意見表明は、この頃はまだ(当時の)「二軍」のメンバーによるものだったという。

たとえば広報担当者でブランデンブルク州と会派の議長であるAlexander Gaulandは、早い段階からユーロ反対だけでなく、「ジェンダーのたわごと」や多文化社会にも反対する立場を取る発言をしていた(Gauland 2013)。

Arzheimer (2015)の規範と実証の混合的な手法の研究では、連邦議会入りしている政党の中では最右派だが内容的に「過激」とは言えないとされた。

 

一方で、規範的な研究では当初から新右翼の文脈で捉えられていた。Alexander Häusler (2013, 2014; Häusler/Roeser 2015)は、

AfDについての最初期の仕事のひとつでもある彼の最初の研究で、この良識ある党が「党周辺の多くの発言から確かな右翼ポピュリズム方針がある」(ebd.: 92)と考えられると結論づけた。

David Bebnowski (2015)は、AfDは罵倒表現は使わずポピュリズムは目立たない形で機能しているという。

彼は、特殊なAfDのポピュリズムは「経済競争の論理と新自由主義のモデル」の中に表れていて、「競争論理の努力を通じて不安を煽り、他者の価値を下げることができる」。

Gerhard Freyのドイツ民族同盟(Deutsche Volksunion: DVU)やSchill党のようなこの種の典型的なリーダーがAfDにはいないという。また「教授の党」であり、

(…)「ブルターニュの若者」として「素朴な民衆」に親しまれるJean-Marie Le Penの国民戦線のような自己イメージの党とは根本的に異なることがわかる。

しかし、運動全体を見て党を支える人脈まで考えると、

少なくとも一時的に個別にはAfDがペギーダ運動と協力したことも、この党の保守団体や場合によっては極右との接点を示唆している(Geiges/Marg/Walter 2015: 152 ff.)。

 

 

こうのように捉えられていたAfDは、ドイツの政党制の中で新しい役割をもった党になりうるとしている。ドイツではCDUとCSUよりも右に位置する政党は、ナチス的なのではないかという疑いをかけられるという(Decker 2005)。

過去には、州レベル(NPDやその前のDVU)や二三の自治体レベル(pro運動)で成功した党がこのイメージに当てはまる(Lewandowsky 2012: 398 ff.)。

ヘルト•ウィルダースやルペンがゴールデンタイムに政治のトーク番組に参加しているオランダやフランスといった他のヨーロッパの国は違い、右翼政党の登場はナチスの嫌疑というダモクレスの剣の下にありめったにないことである。

AfDも登場直後からネオナチの烙印を押されそうになったが、EU批判を全面に出して公に外国人敵視をしないことでこの烙印をかわしてきた(Lewandowsky 2014 b)という。この論文が出たのはまだルッケがペトリーに負けて離党する以前で、党内の方針上の争いに決着がついていなかった。この争いについて、著者はこう述べる。

これはAfDの基礎を成すジレンマを表している。一つの面では穏健でユーロ懐疑的な路線では党にユニークな売りがなくなりCDUやCSUと競合する立場に近くなりすぎる。別の面では、生き方やパートナーシップのモデルの多様性に反対し強固な統合政策を支持する政党では政治的な烙印付の犠牲に陥る危険がある。

2013年の連邦議会選挙以来すべての選挙での投票者の推移を見ると、無投票者の他にはとくにCDUやCSU、FDP、左翼党に入れていた人から票を得ている(Zeit Online 2013)。

広い範囲の陣営から票が推移することから投票者の共通の反抗の方向性であることを支持しているため、AfDはその意味で選挙でも「ポピュリズム的」である(Korte/Leggewie/Lewandowsky 2015)。

多様な層から反エスタブリッシュメントの受け皿になっていて、この時はまだどちらの方針に向かうかわからなかったということだ。

しかし、党の支持者は別としてAfDの投票者層は比較的一様で、EUへの懐疑と移民増加の拒否に関連している(Köcher 2014)。

熱心な支持者同性愛ペアの養子受け入れやイスラム教を拒否する態度がユーロ懐疑主義よりも目立つという研究(Berbuir/Lewandowsky/Siri 2015: 172)もあるそうだ。

この頃の投票者像は日本語のWikipediaでも詳しく書かれている。

 

 

 

 

 

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以下で紹介するJ. Rosenfelderの研究では、2016年に採決されたAfDの基本綱領やアジール(難民の庇護)に関する文書を、それ以前の選挙綱領と比較して内容分析を行ない、公式にもAfDが右翼ポピュリズムに変遷したことを実証的に示している。

 

Die Programmatik der AfD: Inwiefern hat sie sich von einer primär euroskeptischen zu einer rechtspopulistischen Partei entwickelt? J Rosenfelder - Zeitschrift für Parlamentsfragen, 2017 - JSTOR [PDF]

 

この寄稿論文では2015年1月から2016年3月の間のAfDの発展を扱う。

この期間には4つの重要な出来事があった。つまり、党の分裂、ヨーロッパの難民危機、2016年春のAfDの州議会選挙での成功、2016年の2016年3月の第一版党綱領の採決だ1。

2015年の党の分裂と難民危機で、AfDはそれまでよりも移民反対の党と見なされることが増えた。それによってユーロ救済のテーマは後景に退く。

それに関連して2015年9月に批判的な「アジール議題文書」3を公表した。

そしてバーデン•ヴュルテンベルク、ラインラント•プファルツ、ザクセン•アンハルトなどの州議会選挙で成功を収めたという。

 

政治学では初期のAfDはユーロ懐疑主義の政党と見なされていたという。

Kai Arzheimerはこの党をイギリス独立党(UKIP)やフランスの国民戦線オーストリア自由党などよりも、イギリスのトーリー[王党派]と比べられるとしていた4。Robert Grimmも、AfDの考え方はとくに経済や通貨での連盟に対する経済政策批判で知られるため、この分類に従った。つまり、党の立場はオルド自由主義的経済の原則にもとづいているので、「親ヨーロッパだが反ユーロ」5である。

AfDは設立以来ずっと一枚岩の党ではなかった。Alban Wernerはふり返って初めに特徴的だった、経済リベラル、国民保守、右翼ポピュリズムという3つの異なる潮流について話している8。

経済リベラルの一翼は、(…)Bernd Luckeや Joachim Starbattyのような中心人物の脱退で今では大幅に影響力を失った。

※オルド自由主義や社会的市場経済は、(ぼくはよくわかっていないけど)、ドイツやオーストリアの経済リベラルを形容してそう呼ばれることが多い。

社会的市場経済 - Wikipedia

 

州ごとの違いもあり、おおむね旧東ドイツの州連盟は右翼傾向が強いそうだ。

州連盟内部の多様性もあり、

たとえばバーデン・ヴュルテンベルク州の議員Wolfgang Gedeonの反ユダヤ主義の発言をめぐる事例でよくわかる。この事件は、AfD会派の分裂につながり、会派が再び合併した後でも州連盟に大きな課題をもたらした。

 

AfDが右翼ポピュリズムであるかについては、やはり意見が分かれているとしている。たとえば、

Oskar Niedermayerは2013年の連邦議会選挙をふり返って右翼ポピュリズムだと言わない。AfDは「他者」を低く評価することで文化的な所属を示すという特徴が欠けていると言う14。

著者Marcel Lewandowsky、Heiko GieblerとAiko Wagnerらは定量分析から、AfDは他のドイツの政党と比べて明確に右翼ポピュリズム的といえると結論付けた18。

Andreas KemperはAfDの政治家Björn Höckeのジェンダー政策の立場をNPDの家族政策と比較している19。

しかし連邦の党公式綱領は、2013年の連邦議会選挙と2014年のEU選挙の選挙綱領に表れているようにこれまで右翼ポピュリズムとは格付けされていなかった21。

 

 

新綱領でどうなったのかをこの論文で検討している。右翼ポピュリズムの定義について、

ポピュリズムの定義として、

Jan-Werner Müllerの反エスタブリッシュメントの態度と「真の国民」への呼びかけという2つの基準にもとづき定義する27。

エスタブリッシュメントの態度は、政治的エリートは腐敗し利己的で権力を得ることにしか向かっていないという考えである28。

それに加えてもう一つ、自らをエリートに対峙する国民に結びつける立場を区別しなければいけない。「真の国民」への呼びかけは「道義的に唯一の代表者であるという主張」を導く29。

さらにとくに右翼ポピュリズムであるかをみるため、右翼の基準として、排他性を挙げている。

Karin Priesterは右翼ポピュリズムと左翼ポピュリズムを排除と包含の概念に基づいて区別した。それにしたがうと、前者はアジール希望者や少数民族などの人々を排除するため、排他的である30。右翼ポピュリストの考える世界ではエリートは、既成勢力と同じく「真の国民」には加えられない「社会に寄生する下層」とけしからぬ結託を結んでいるとされる31。

 

 

筆者は党の公式文書の内容分析を行なっている。メイリングの手法を用いたそうだ。対象は、新しい基本綱領と、アジールについての文書2つ、アジール決議とアジール議題文書だ。さらに2013年の連邦議会選挙綱領と2014年のEU選挙綱領を以前のAfDの文書として分析している。右翼ポピュリズムとユーロ懐疑主義の程度の変遷を見ている。

 

 

ユーロ懐疑主義の強化

新しい基本綱領では、国民国家の主権と補完性原理を理由にEUを批判している。

彼らはその代わりに、「EUを、もともとの意味で主権があってゆるく結びついた個々の国家の経済と利益の共同体に戻すこと」37 を要請する。抜本的なEU改革の開始が実現しない場合、党は「ドイツの脱退か、ヨーロッパ連合の民主的解散とヨーロッパ経済共同体の再設立」を目指すという38。

 

補完性の原理とはなにか。↓ここで丁寧に説明されている。

ポスト主権の政治思想 ---ヨーロッパ連合における補完性原理の可能性!---  遠藤乾

 

一方で伝統や文化面ではヨーロッパというまとまりを評価しているらしい。また外国の銀行へのドイツの態度や、債務リスクをヨーロッパで共同にもつことを批判しているという。

また基本綱領では、EUによって国民国家の主権が奪われたとしているそうだ。

基本綱領の多くの個所でヨーロッパの権限の再国民化がはっきり求められ、権限が国民国家に返されるべきだとされる。党は「政治的エリート」を「ひとつの国家に引き返せないようEUを発展させたこと」で非難し、その努力の中に「ヨーロッパ大国の幻想」54を見抜いている。

EU内の政治機構は民主的でないとしつつ、外交面ではヨーロッパの利益は団結しないといけないとしている。しかしそこでも国民国家の主権は守られるべきだとしているという。

したがって党は、GAPSによる形式化された共通の外交・安全保障政策や、欧州対外行動局を拒否し、そのかわりに複数の相互的な合意を擁護する。この文脈において、党は「すべてのヨーロッパ諸国がその力に応じて参加できるヨーロッパ諸国の柔軟なネットワーク」について考えている58。

 

以前の綱領では、

AfDが主権と補完性を求めるのは2013年にもすでに認められる。

党は、当時のイギリスのキャメロン首相の政治的要請と並行して、ブリュッセルの官僚機構の解体を望んでいた59。

AfDは2016年の基本綱領の中で、非ヨーロッパの国のEU加盟を文化的・地理的な理由から拒否している。たとえばトルコの加入はそれ自体が問題外である61。

さらに移民の制限も訴えている。

以前の綱領では、

2013年のEU選挙綱領では党は、「開かれた外国人に友好的なドイツを支持し」、「定住の自由も就労者の自由交通も」65肯定していた。具体的には、党は「高資格の移民」を求め、カナダのポイント制度の手本を賞賛した。

以前から統一通貨ユーロの廃止やEUの改革を求めていたが、新しい基本綱領ではドイツのEU脱退や経済共同体に戻すことを求めたり、より厳格なユーロ懐疑主義になったとまとめている。

 

 

 

右翼ポピュリズムの傾向について

エスタブリッシュメント

基本綱領で党は、とくに自身の権力維持や物質的な富に関心がある政治運営の少数集団は「隠れた専制」や「政治上のカルテル」だとしている。以前の綱領でも反エスタブリッシュメントの傾向はブリュッセル(EU官僚機構)批判で一部見られたが、反エスタブリッシュメントの傾向はずっと強まっている。

基本綱領の前文でAfDは自分たちが「政治階級が私たちに『対案はない』と信じさせられると思っていることへの対案」67と考えている。それに関連してこの党は、「国家とその機関を再び市民に仕えさせる」ことを約束する。なぜならそれらが今では好き勝手をしているためだという68。

「党員手帳経済[党閥]」や「官職の後援[縁故主義]」を批判しているそうだ。

EUも視野に入れて党は、その計画を「明白な国民の大多数の意志に逆らって、EUの中で何が何でも実行」71したがる政治的エリートを批判する。さらにAfDはEUをよそからの過干渉な保護だと見なす。

アジール議題文書でAfDは、連邦政府アジール政策の過程で移送事業から利益を得る「統合産業」73について話している。似たようなやり方でこの批判は基本綱領でなされている。「大量移民の結果、多くの場所で価格の決定権を握るカルテルのような移民産業が現れた」74。

エネルギー政策も利権だとして批判し、政治的正しさも批判しているという。

以前の綱領でもEU批判の文脈で「古い政党」や政治的エリートを批判をしていたようだ。

EU選挙綱領ではこの党はすでに2014年に、EUは「上から強制」されてはならないと述べ78、「EU内のあふれんばかりのロビーイング」をせき止める措置を求めていた79。

また党はすでにこのとき「過度に官僚主義的な市民の干渉的保護」84と称するものを批判していた。

 

 

「真の国民」への呼びかけ

基本綱領では政治的エリートが明白な国民の大多数の意志に反していると主張されている。また文化やアイデンティティを強調して国民を均質なものをして提示しているという。

ひとつ重要な関心事として書かれていることは、文化的、宗教的な伝統を守ることである。アジール決議でもAfDは、国家の任務は「国民のアイデンティティを守るため働くこと」にあると指摘している85。

また基本綱領でも伝統家族や高い出生率を指示し、「イスラム教の国々」からの移民に反対しているという。

この拒絶的態度の根拠として党は、ムスリムの移民はドイツでは教育や就業で平均以下の水準にしか達していないだろうという過去数年の体感値を示す。

AfDによるとドイツは大きなヨーロッパ文化の国民に属するので、党はドイツの「主導文化」への支持を表明して、この文化はキリスト教の伝承と、科学や人文学の伝統と、ローマ法の理解に根拠づけられており、文化多元主義イデオロギーにおびやかされているという。さらにドイツ語はドイツ人のアイデンティティの中心的な要素と解釈され、一般的な意識の中で維持され守られるべきものだとしている88。

 

 

多元主義

AfDの新しい基本綱領には、連邦議会選挙綱領とEU選挙綱領とは違い、明らかな反多元主義的な態度が含まれる。以前のEU選挙綱領ではイスラム教の議題については完全に沈黙していた。

イスラム教に対しては、

党は「ムスリムが暴力を辞さないサラフィー主義やテロにまで過激化すること」を阻止しようとする90。

またイマームの許可制や公共の場でのスカーフ禁止を求め、ミナレットとムアッジン呼びかけなどはイスラム支配の象徴として反対しているという。

それは「キリスト教の教会が現代に実践している寛容な宗教の共存に逆らう」91からだとしている。

教育政策ではAfDは、学校の授業で同性愛やトランスジェンダーを一面的に強調することを批判している。

すでにアジール決議でAfDは、アジールの権利は個別の権利であるべきで「集合的で一括に団体や民族全体に与えられてはいけない」と、制限的な立場だった。この党は、家族の後追い移民の制限するか、停止か完全廃止することを求めていた。この措置は、ドイツのアジール希望者数が大すぎるという党の前提が根拠にされている94。

アジール議題文書でもアジール申請はドイツではなく本国のドイツ大使館で済ませることを求めているそうだ。基本綱領でも「大量移民」は福祉制度と低賃金労働への移民流入につながると批判しているという。

さらに党綱領では移民流入と犯罪が結びつけられる。「組織犯罪の分野でのかなりの数の犯人が外国人である」98

2013年の連邦議会選挙綱領ではまだこの党は統合政策に関してドイツには高資格の移民流入が必要だという意見だった。しかしそれは「福祉制度への秩序のない移民流入」であってはならず、したがって当時からカナダを手本とした移民法を支持していた。さらに「切実に政治上迫害された者」はドイツのアジールを得て仕事も見つけられなければいけないとした102。政治方針ではAfDは同様にアジール権を支持し、戦争難民を受け入れることは義務だと考えていた。

2014年のEU選挙綱領でも、戦争難民への人道支援は無条件に保証されるべきで、可能ならば「故郷の近くで」なされるべきだとした104。

 

 

まとめ

右翼ポピュリズムを問う観点から、どの程度党の右翼ポピュリズム的な要素が増したかを調査する必要がある。その結果、3つの基準(反エスタブリッシュメント、「真の国民」への呼びかけ、反多元主義の見方)すべてを満たし、この党を綱領にもとづいて右翼ポピュリズムと分類することができる。

この新綱領で全面的に右翼ポピュリズムの政党と見なせるようになったという。それ以前は一部にその傾向が見られるだけだった。しかし右翼過激主義や極右とまでは言えないそうだ。

明確に権威主義的な態度は欠けていて、たとえばCas Muddeによるポピュリズム的で過激な右翼の概念化にしたがって格付けされたり、それによって国民戦線オーストリア自由党と同類の政党に属したりするほどではない106。

ただしそちらに向かう可能性もある。

バーデン・ヴュルテンベルクの州会派内の反ユダヤ主義的立場の人の処遇をめぐる争いや、Alexander Gaulandの「Boateng発言」、Björn Höckeのドイツの記憶文化に異論を唱える演説のような現在の動向は、党がさらに極右への向かうことを分析するきっかけになる。

 

関連記事↓

論文紹介: AfDの投票者、描かれ方

 

 

 

 

記事紹介: ドイツのスカーフ論争、最近の話題

またTwitterのトレンドなのだが、先週くらいまで kopftuch がドイツのトレンドに上がっていた。イスラム教徒の女性がよく髪を隠すためにするスカーフのことで、これを職場で禁止してもいいのかというのがドイツでは90年代からたびたび話題になっている。

 

スカーフ論争の過去の大まかな流れは以下の飯島祐介さんの論考を参照してほしい。

スカーフ論争とドイツの規範的自己理解の現在    飯島祐介 - 社会学評論, 2008

 

これによると、ドイツでのスカーフの禁止は、宗教や世界観における中立性を保つために行なわれる。フランスのように徹底した政教分離を採用しておらず、公共空間から宗教的なものをなくそうとするわけではない。

そのため、キリスト教を擁護している保守派の政治家が世俗主義の行き過ぎを牽制するためにあえてスカーフ禁止に反対したりする。スカーフ禁止の賛成派・反対派の内実は単純ではないらしい。

フェミニズムの内部でもスカーフ禁止に賛成・反対で分かれていて、それぞれの主張はこのブログで紹介してきた。

 

それでなぜ先週トレンドに上がっていたのか?最近のニュースをいくつか漁ってみた。

 

 

まずtagesschauの2021年2月25日のニュース。

EuGH-Gutachten: Kopftuch-Verbot am Arbeitsplatz ist zulässig | tagesschau.de

ムスリム女性の教師が職場でスカーフの着用を禁じられてもよいか?よい、そのような禁止は認められる、というのが欧州裁判所の見解だ。しかしこれは宗教的シンボル全般に適用されるわけではない。欧州裁判所の見解では、雇用者はイスラム教のスカーフのような比較的大きい宗教的シンボルは禁じてもよい。

この見解の発表がEU裁判所で2月25日にあったらしい。Twitterのトレンドに上がったのもこれのせいか。以前2017年にEU裁判所でこの件について決定があり、当時話題にのぼっていたそうだ。

[EU裁判所の]法務官は、先立っての2017年の欧州司法裁判所が行なった、他の世界観に関わるあらゆる標識も禁止するならば企業はスカーフを禁止できるという決定を参照するよう示した。

「経済的不利益の具体的な危険性」

法務局はさらに、EU加盟国が信仰の自由を守るためにさらなる規定をもうけることができると述べた。なのでドイツでは企業は「十分な経済的不利益の具体的な危険性」が存在すればスカーフのような特定の標識を職場で禁止できる。

保育園とドラッグストアでの例

背景にドイツでの2つの例がある。宗教を問わない保育園のムスリム女性の労働者はスカーフをして仕事に来たため何度も警告された。それに基づきハンブルクの労働裁判所は、人事記録の記載を削除すべきかどうかを審議した。欧州裁判所の通知によると、労働裁判所はこの手続きを直接の差別に分類する傾向があった。

ニュルンベルク地方の事例では、連邦労働裁判所は2019年に欧州高等裁判所に意見を求めた。ドラッグストアのMüllerでひとりのムスリム女性がスカーフ禁止に対して訴えを起こしていたのだ。この従業員は自分の信仰の自由を制限されたと感じたが、ドラッグストアチェーンは企業の自由を引き合いに出した。

この2つの裁判の判決がどうなったのかは書いていない。まだ決着がついていないのかもしれない。だがEU裁判所の見解に従う場合が多いと最後に書かれている。

 

 

 

次にNDRの2021年3月4日の記事。

Streit um Kopftuch: Amtsgericht verurteilt Fitnessstudio | NDR.de - Nachrichten - Hamburg

スカーフ論争: 区裁判所はフィットネススタジオに有罪判決

区裁判所ザンクト・ゲオルグは火曜日に、スカーフを理由にトレーニングできないというハンブルクの女性の訴えを聞き入れた。フィットネススタジオは彼女に補償金1000ユーロを支払うことになった。

フィットネススタジオでトレーニングのコースを修了したかった女性が、スカーフを理由にスタッフに阻まれた。

「安全上、健康上の理由」と説明されるが、野球帽で筋トレする男性もスタジオにはおり、これはイスラム教徒差別だと感じた。

苦情の手紙をオーナーに送ったが取り合われず、裁判になり女性が勝訴、ということらしい。

またこの女性は、 Hamburger Antidiskriminierungsberatung Amira という組織に訴訟手続の援助をしてもらったようで、こういったケースをよく扱っているそうだ。

 

 

 

最後にAachener Zeitungの2021年3月3日の記事。ノルトライン・ヴェストファーレン州(NRW)の新しい法律についての記事。

Kreuz, Kopftuch, Kippa: NRW-Gesetz untersagt religiöse Symbole für Justiz

NRWの法律が司法官庁に対し宗教的なシンボルを禁止する

司法官庁の職員は裁判所や行政職の活動時に宗教的な特徴をもつシンボルや衣服、たとえば十字架やスカーフ、キッパをつけてはいけない。これは、デュッセルドルフ州議会が水曜日の夜に可決した法律によって規定されている。

禁止には世界観的な立場を表現するシンボルや服装も含む。この新しい規則は業務中の裁判官、検事、法務候補生や他の裁判所職員に適用される。司法に関わる者は外見上、偏った見方をしている印象を少しでも与えるべきではないとNRW州の法務大臣Peter Biesenbach (CDU) は討論の中で強調した。

この法律の発議は2018年の黒緑[CDUと緑の党の連立]州内閣のときからだ。専門識者はいくつかの点で一部にかなりの疑念を呈していた。事実上この規則はとくにスカーフをかぶったムスリム女性に適用されることになる。

さらにこの法律は顔を覆うことの禁止にも拡大する。

 

 

上のようなEU裁判所の見解、各州の法律、企業の規則はどれも少なくとも名目上は、イスラム教徒の女性のスカーフだけを標的にして禁止しているわけではない。そんな差別的なルールは大っぴらには作れないし、じっさいフィットネススタジオの事例のように明らかな不平等があれば差別と認定される。

しかし、目立つ大きさの物だけという条件や、顔を隠すことへ規制が拡大することなど、問題の中心にあるのがスカーフなのは明らかだろう。

教育や司法など、中立性が求められる職場で宗教がひと目でわかる服装を一定制限するのは理解できないわけではない。しかし一方でムスリム女性の視点から見ると、スカーフは別に宗教性を主張するアイテムではないらしい。
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この人は、 #GegenKopftuchverbot (スカーフ禁止反対)のハッシュタグをつけて、

「高齢の金持ちの男たちが成人女性に指定した衣類を脱ぐように強いていると想像してみて。考えられなくない?まったく非進歩的だと思わない?」と書いている。

コーランに書かれているのは「美しいところを隠せ」という意味のことだけで、これが「性的な部分を隠せ」と解釈されるらしい。ムスリム女性でも、どこが性的と思うかの範囲などによってスカーフをしたりしなかったり、人によって異なるのはそのためだ。たとえると、短パンを穿くか、長ズボンを穿くかという選択と同じようなことだろうか。

それが外部から見ると「スカーフ=イスラム教の象徴」になってしまうのは、馴染みがないゆえの単純化だろうし、それはやはり偏見だ。

外に出ている間ずっと当たり前にスカーフをしているなら外すのは難しいだろう。

逆に、仮にイスラム主義者が宗教的・政治的な示威行為を企んでいても、いつもつけているのが当たり前のスカーフでは喧伝の道具として成り立たないはずだ。スカーフだけでは、穏健なムスリムと外見上の差別化が図れないし、いつどこで意思表示をするかの調整もできない。

スカーフを取りたいと望んでいる人が、周囲のコミュニティや親族から強制されているという場合以外は、介入はどうしても不当になると思う。

BTSへの差別発言炎上: Kpopと反レイシズム


twitterでしばらく #Bayern3Racist や#RassismusBeiBayern3 がトレンドに上がっていて、何のことかチェックしてなかったんだけど、Nhi Le @nhile_de さんのツイート見て知った。

 

発端はこれ。

Matthias Matuschik: Bayern-3-Moderator beleidigt K-Pop-Band BTS

 

2021年2月24日にドイツのラジオBayern-3の司会者Matthias Matuschikが生放送で韓国のバンドの防弾少年団に差別発言をして炎上したらしい。ラジオ放送局は声明を出して司会者を擁護した。

 

彼はBTSをコロナウィルスに喩えて「糞ウィルスみたいだ。これにももうすぐワクチンができたらいいな」と発言。

 

このバンドが好評なのが理解できないことは以前から口にしていたが話しているうちに怒りがこみ上げてきたようだ。

 

「しかもこの小さいションベンたれどもはColdplayの"Fix You"をカバーしたとまでのたまうじゃないか。「冒涜だ!」って言うとこだよ。ぼくは無神論者だけど。不敬行為だよ。このことで君らは今後20年北朝鮮で休業だよ」

 

 

ラジオ局による擁護の要点は、

「カバー曲への個人的な意見」

 

「忌憚ない意見が彼の持ち味」

 

「皮肉で尖った意見を大げさな憤慨で表現しようとしたが、言葉選びで度が過ぎてファンの気持ちを傷つけた」

 

「Matuschikは、難民支援に参加し極右に反対している。レイシストではない」

というもの。他にもMatuschikが「韓国嫌いではない。韓国の車をもってるし」と弁明している。

 

元の発言の問題点は、出自をウィルスと結びつけたことに始まる差別発言であって、辛口の音楽批評でBTSやファンの気持ちを傷つけたことではない。ファン自身が「BTSを低く評価されて傷ついた」と言っていてもそれはレイシズムとはまた別の話だ。

とはいえ音楽批評に関しても、人種的偏見を露呈したことでこのDJが評判を落とすなら、それはもっともなことだと思う。

ラジオ局が個人的な意見であることを繰り返したため、#RacismIsNotAnOpinion がいっしょにトレンド入りしていた。

 

アジア人に対するコロナ差別は未だにあるらしい。


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それに加えて「北朝鮮で休業」もマズい。以前ぼくは、ある韓国人がドイツで自己紹介したとき、ドイツ人が「北朝鮮から来たの?」と冗談のつもりで聞いたのを見たことがある。こういうこと、わりと頻繁にあるんじゃないかと思う。朝鮮民主主義人民共和国の体制を批判することと、朝鮮半島出身の人にこういうからかいをするのとは何も関係がない。

何より冷戦による国の分断を乗り越えたドイツの国民が「北朝鮮送り」を面白い冗談だと思って口にするのは、ほんとにガッカリさせられる。

もう一つの興味深い点は、彼が自分は無神論者(Atheist)だとしつつもアジア人が西欧の歌手のカバーをしたことについて比喩的に「神への冒涜(Gotteslästerung)」や「忌まわしい行為、高慢、冒涜(Frevel)」とキリスト教の擁護者のような表現をしているところだ。これは極右の活動家がよく、移民反対の文脈で「キリスト教徒のヨーロッパ(das christliche Abendland)」への支持表明を行なうことを思い出させる。普段どれくらい信心深いかはわからないが、外国人へ敵意を向けるときにはキリスト教が持ち出されるのだ。

 

BTSの人気もあいまって、この件でアジア人に対する差別に反対する動きが盛んになっている。アメリカでの寺放火事件などのヘイトクライムも話題になっていたらしい。

#StopAsianHate アジア系へのヘイトクライムが多発しNetflixやナイキなど企業も強く抗議 | HuffPost Life

#StopAsianHate や #ichbinkeinVirus (私はウィルスではない)や関連する他のハッシュタグがトレンドに上がっていた。英語と韓国語が多いが、日本語での発言もけっこうあった。

 

 

ドイツにもBTSのファンが多いらしく、発言直後からラジオ局を批判する勢いがtwitter上で高まっていた。ぼくはまずドイツ人が声を上げるべきところだと思っているが、「いいドイツ人もいます」というエクスキューズになるのを避けるため批判の例をここでいちいち紹介はしない。

かわりにtwitter上のどうでもいい派生事案を上げておく。

Shahak Shapira はユダヤ系ドイツ人の社会派アーティストでコメディアンだが、彼はドイツ語圏のBTSファンがあまりに熱心にBayern3を叩いているのを見て以下のツイートをした。

 

 

Wenn wir die AfD dazu bringen, sich mit der Twitter K-Pop-Community anzulegen, sammelt Beatrix von Storch ab morgen Pfandflaschen.

 

「もしAfD[ドイツ人のための選択]をTwitterK-popコミュニティと争わせたらBeatrix von Storch[AfDの政治家]は明日からデポジット瓶を集めることになる」

(デポジット瓶を集めるのは主に失業者の仕事)

ちょっとわかりにくい皮肉だけど、要するにドイツ人が普段からこれだけ熱心にレイシズムを許さない態度を見せていたら極右政党は議席をとったりしないだろ、という意味だ。

ぼくは、シニカルすぎるけどまあ確かになぁと思って見ていたんだけど、なんとこれが大炎上。ドイツのBTSファンに大量の批判リプライを受けることになる。

Shahak Shapira はまた皮肉で応戦して以下のツイートをぶら下げた。

 

Dear BTS Fans, if you are offended by my tweets and would like to contact me personally, please reach out to my management:

Alternative für Deutschland, Landesverband Berlin Kurfürstenstraße 79

10787 Berlin

Telefon: +49 (0) 30-2205696-22

EMail: lgs@afd.berlin

 

「親愛なる防弾少年団ファンの皆さん、私のツイートに腹を立てて個人的に私に連絡したいなら、私の事務局に連絡してください」

と、書いているが連絡先はAfDのもので、もちろんShapiraは党員ではない。ラジオ局の炎上を何とかAfDにけしかけようとした小芝居の延長だ。さらに「私の上司のAlice Weidel(AfD党首)に連絡ください」と続けると、ほんとうにAlice Weidelに「私の方がアーティストの才能あります。彼と入れ替えに雇ってください」とリプライを飛ばす人まで出る始末。

ドイツでAlice Weidelを知らないというのは、日本で小池百合子を知らない、くらいの感じ。最終的にShapiraはTwitterアカウントにハッキング未遂を受けたあとVISAカードの番号を晒されるところまで行った。

ポップカルチャーもいいけど、これきっかけに社会や政治の問題にも興味もってほしい。日本のKpopファンは、アジア人差別についてもうちょっと真面目に考えてるはずだと期待してる。

 

記事紹介: 移民反対と反フェミニズムの動向(ドイツ語圏の)

2000年にオーストリア自由党FPÖが連立与党になって、そのあともヨーロッパの他のいくつかの国で極右政党が台頭している。また反フェミニズムの運動も強まっている。

以下のインタビュー記事では、右翼が反フェミニズム運動していることや、反フェミニズムレイシズムが結びついている現象が説明されている。また、ヨーロッパ内の右翼政党同士の結びつきと、政党ごとに違いもあることが語られている。

 

„DIE STARKE VERKNÜPFUNG VON RASSISMUS, ANTI-SEMITISMUS, FRAUENHASS UND SEXISMUS WIRD UNTERSCHÄTZT.“

8. März 2020, von Marie Menke

 

政治学者 Birgit Sauerのインタビュー

 

レイシズム反ユダヤ主義、女性蔑視、セクシズムの結びつきは過小評価されている」

2020年3月8日 Marie Menke

(中略)

Sauerは2006年2月以来、ジェンダーとガバナンスに重点をおいてウィーン大学政治学研究所に勤めている。

(中略)

 

彼女のエッセイはとくにヨーロッパというスケールが反フェミニズム運動にとっていかに重要かを示すのに成功した。たとえば、彼女は多くの言語で利用できる保守系の請願フォームCitizenGoについて言及している。このようなサイトは、EU議会のメンバー提出した報告の多く、とくに中絶合法化や差別に配慮した性教育に反対する宣伝活動を実施した。  

 

treffpunkteuropa.de(インタビュアー):  ヨーロッパで私たちは今、反フェミニズム運動の隆盛と右翼ポピュリスト政党の成功を目の当たりにしています。これらに結びつきはありますか。

 

Birgit Sauer:  右翼政党は、昔からあった反フェミニズム運動に飛びつきました。それはもともとはとくにカトリック教会に主導されていました。ブラジルのジャイール・ボルソナーロからロシアのウラジミール・プーチンまで、右翼政党とその先導的人物は、性差の議題でなにか「コモンセンス」つまり一般の人の良識のようなものに訴えかけられると気づきました。そのため反フェミニズムはそれを、性二元論と子どもをもうけることを通じてのみ次の世代を作っていく民族についての彼らの非常に生得論的なイメージのために利用しています。

またそれらは反フェミニズムを彼ら独自の政治的な意思伝達のために動員しています。右翼ポピュリストは対立関係を用いて活動するので、たとえば政治的なエリートに反対し、移民に反対し、また平等を求める政治家やジェンダー学者に反対します。したがって多くの右翼政党が、移民反対で結集するためにケルンの2015-16年の大晦日の女性に対する暴行を取り上げました。つまり性差の議題は右翼政党にとって自分たちの主張内容か、少なくとも自分たちが対峙する敵を明確にする上で良い記事ダネなのです。

 

インタビュアー: 一方でこの運動は、権利の平等に対抗する態度をとっています。そして他方で自分たちをとくべつに平等だと主張し、それによって他者をとくにイスラム教徒の移民を権利平等が欠けているとして見下しています。この対比はどのように説明されるでしょうか。

 

Sauer:  右翼政党は二律背反と矛盾を用いて活動することが多いです。それは混乱が起きているように見える状況下で国民の代弁者を演じることに役立つからです。これは男性の移民に反対する論拠としても働きます。移民男性は右翼ポピュリストの目から見ると、社会や、ドイツやオーストリアではすでに達成された権利の平等を危険に晒すとされます。しかしまた同時に右翼ポピュリストは西洋諸国での権利の平等を求める尽力はこれ以上必要ないと主張します。「こちらの女性たちはすでに移民女性よりも権利の平等を得ているので私たちにはこれ以上は必要ない」と言っているようなものです。

 

インタビュアー: ドイツのハナウで2月19日にシーシャバーを訪れていた9人が暗殺犯に殺されました。犯人はさらに自分の母親を殺して自殺しました。彼書いた中傷文書にはとくに女性への憎しみが目立ちます。反フェミニズムがいかに命にかかわるということを私たちは過小評価しているでしょうか。

 

Sauer:  ドイツは、右翼の暴力のかなり特殊な事例です。警察や憲法擁護庁がその中でどのような役割を果たしているのかはまだまだ解明されていません。しかしそうですね、ドイツの右翼過激派は危険です。そしてそれと戦うはずの公的機関から支援や隠蔽も受けているかもしれません。

さらに過小評価されているのはレイシズム反ユダヤ主義と女性蔑視、セクシズムの強い結びつきです。ここでは、男性がレイシスト反ユダヤ主義者であると同時にセクシストや女性蔑視でもあり、「反ジェンダリズム」と名のり過激化していることが多いことが見落とされています。「反ジェンダリズム」や反フェミニズム、セクシズム的な意見をもっていることは、レイシズム反ユダヤ主義イデオロギーが強化されテロにつながりうるような過激化の度合の指標になります。歴史的に見ても19世紀以来、このような排除と拒絶の構造は密接に結びついてきました。たとえばナチスドイツでは、反ユダヤ主義は性の蔑視をともなって機能することが多かったのです。ユダヤ教の信仰をもつ人は女性的なものとして表現され、典型的に女性のものだとされる性質を割り当てることで低い評価をされました。これは、レイシズム反ユダヤ主義のさまざまな潮流を通じて維持されてきた思想パターンです。

(中略)

ハナウの犯人が母親を殺したことをメディアが小さく扱っているが、これはフェミサイドの典型例だとインタビュアーが指摘している。フェミサイドはしばしば家庭やパートナー間で起きる女性蔑視にもとづく殺人である。北欧は男女平等的だがそれでもフェミサイドがあるとSauerが言う。

 

インタビュアー: ヨーロッパ全体に目を向けたときそれらの運動は各国でどのような違いがありますか。それらはどれくらい強く結びついていますか。

 

Sauer:  まさにインターネット上でそれらは非常によく結びついていて、たとえば該当のチャットルームでグローバルに活動しています。ヨーロッパでは右翼政党はソーシャルメディアの外でもネットワーク化されています。部分的にEU議会にも共同で議席をもっています。反フェミニズムの動員でもしばしば不和になったり協力したりしています。そこでたとえばそこでは図版資料が取り交わされ、スローガンが翻訳され、スカーフの禁止など個々の要求で同盟を作ったりしています。

しかしその他に違いもあります。たとえばポーランドの与党「PiS(法と正義)」はドイツのAfDやオーストリアのFPÖよりもカトリック教会とより強く結びついています。これはPiSの家族観や同性愛の拒否に表れています。これはたとえば右翼の政党や組織の中に同性愛者の指導的人物がいる国々では珍しいことです。たとえばFPÖはこれまで公に同性愛嫌悪的だったことはなく、PiSと明確に異なります。

北欧諸国との違いもあります。FPÖのような政党はジェンダー主流化や平等政策に反対しています。それに対してデンマークスウェーデンの右翼政党は平等を攻撃する場合には非常に慎重になります。そこではそういうことが文化的に根づいていて、右翼は平等に疑問を呈しても誰も味方にできないことを知っています。他方で北欧では反フェミニズムの運動と右翼ポピュリストはより強く移民に反対しています。

 

移民排除とジェンダー学の両方を非難する傾向はフェミニストの中にも見られる。

アリス・シュヴァルツァーのようなフェミニストイスラム教内の女性抑圧を理由に移民に反対している。シュヴァルツァーはまたトランスジェンダーに対する差別的な発言も行なっている。そして移民反対とトランス排除の両方を同じ論者が主張し、その論者がフェミニストを名乗っているというケースがとても多く、ひとつの流行になっている。

移民反対とある種の反フェミニズムが結びついている点では、上で説明されている右翼と同じだ。しかし、シュヴァルツァーなどの論者はその他の点では男女平等を求めるフェミニストである。その点はたしかに異なる。

にもかかわらず、反移民フェミニストの議論は右翼ポピュリストととてもよく似ている点がある。たとえば、ジェンダー学者のエリートを敵とする点や、一見矛盾しているようにみえる状況を好んで取り上げる点だ。

以下の記事も、フェミニズムを支持するとされる立場から書かれた。反移民、反トランスの記事である。

 

NZZ.ch logo

GASTKOMMENTAR

Bist du mit uns, Schwester? – Der postmoderne Feminismus verleugnet die echten Probleme

 

姉妹よ、君は私たちといっしょか? ― ポストモダンフェミニズムは真の問題を認めない

 

百年前からフェミニストは路上に出た。それは小さな女の子として扱われないためだ。こんにち被害者の地位は高くかかげられ、それによって宣言された女性運動の目標は裏切られている。女性がどのように生きたいか自由に決めるという目標だ。

 

Birgit Kelle 2020年9月23日

 

 

あなたはフェミニスト?ためらえば疑われる。この問いは運動界隈のリトマス紙として発せられる。姉妹よ、君は私たちといっしょか?党派集団は、誰か列を離れようとするものがいればすぐに問い詰める。グループリーダーは容赦ない。そういう場面では、フェミニストとしての自分を責めることはぜったいに拒否するようにしてほしい。なぜなら、女性運動が何年も経てその見解を急進的に変え、ときにはその反対のものにもなっており、その運動を通じてフェミニズムの概念もいかがわしくなったからだ。

 

 (中略)

 

被害者の釜の中で

ポストモダンフェミニズムは、さまざまな現象の同時性があるときに際立つ。戦いの副次的な場面に集中することで同時に起きている真の問題から目を背けるのだ。新しいマイノリティの方へ注意を向けることでマジョリティを蔑ろにする。インターセクショナリティ、反レイシズム、反ファシズム的なフェミニズムの被害者の釜には、何らか不平等を感じている限りアイデンティティ集団やセクシャルマイノリティ、差別されたと感じる人々が参加を許される。

 

当然、多くの利害のすべてがあるとややこしく面倒になる。被害者のヒエラルキーを求めて最後まで戦いぬこうとするため、叩いたり刺したりがいたるところで行われている。白人で異性愛の主婦はかなり下の方に位置するが、バイセクシャルで黒人のトランス女性は被害者ポイントが多く抜きん出ることができる。トーク番組でも、女性、有色人種、子ども、ヒジャブをしたムスリム女性が配分にしたがって割り振られる。

(中略)

つまりこのジャーナリストは近年のフェミニズムレイシズムやトランス差別に反対していることについて、(大多数の女性を優先するはずの)フェミニズムが歪められた、異なる意見のフェミニストに不寛容になった、と主張している。

ちなみにドイツのトーク番組で話しているのは、たいてい半分は女性になっているが、白人が多く、子どもはめったにおらず、スカーフをしているイスラム教徒の女性もあまり見かけない。フランクフルトの街なかを歩いていて見かける人々の多様性と比べると、配慮しすぎているとはとうてい言えない。

次にこの著者は、「今や誰もが女性になれる」と主張している。これはトランス排除を目的としたポストモダン批判でよく出てくる言葉だが、たとえばシスジェンダーの男性が一貫して女性として生きることは実際には難しい。また、女性は団結しないといけないのに、トランスフォビアやTerfになることを恐れて女性を明確に定義できないと非難している。

 

DNAや染色体、生物学や自然や科学的事実が、感じられる性別や自分で定義したカテゴリーに屈したときにそう言えるのか。そうなれば女性性は中身のないただの言葉になるのは明らかだ。

(中略)

トランス排除の言説では、DNAや染色体と、解剖学的な特徴だけが生物学として引き合いに出されるが、神経系や内分泌の働き、行動や生態にはあまり言及されず、都合のいい生物学のつまみ食いという印象は否めない。

そもそもジェンダーアイデンティティという考え方が、染色体や性器だけでは性がきっぱり2つに分けられないため必要とされた概念だということが無視されている。

 

ジェンダー理論のアイコンであるジュディス・バトラーも女性を助けるつもりはまったくないが、この幻想はこんにちまで神話として維持している。彼女は女性性を文化的に形作られたお芝居のような「パフォーマンス」だとし、それが私たちを抑圧し従属させているので脱構築しないといけないという。脱構築というのは「破壊する」という意味の体裁をよくした言葉だ。バトラーは女性性の救世主ではなく、その決定的な廃棄のための棺桶の釘である。

楽観的で矛盾しているが、「女性のパワー」、「私たちは何でもできる」、「男よりずっといい」というのはずっと保証を約束されている。しかしこの同じ運動が、女性性が存在しないという主張から利点を得ようとするのに使われると瞬時に被害者の硬直に陥る。女性という生まれもった被害者の地位は、平等委員会やダイバーシティ専門家の機構全体にとっては福音である。それは、常に新しい被害者が生み出され仕事は終わらず、流行遅れになることはない。

(中略)

 

誰が真に男性原理的な社会を見ているか

しかし納得いかない理由からネオフェミニズムの視点からは、この家父長制システムは真に男性原理主義の社会を避けて通っているようである。インドでの集団レイプやイスラム教社会での女性への投石を非難することはそのつどレイシズムとされる。というのも文化に敏感なフェミニストはこれが女性への抑圧ではなく単なる「文化の違い」だと知っているからだ。

イランの女性にとってはなんと素晴らしいことだろう!それはそうと彼女らはもはや被害者になりたくない。彼女らの敵は年かさの白人の男性だけではなく、若い有色人種の血縁者もいる。それらは絶え間なく記憶を呼び覚ますことで、西洋の豊かな国のフェミニズムの体裁よく作られた敵のイメージを壊してしまう。そのことは歓迎されないので、西洋の女性運動党派集団は罰として支援を拒否している。

この部分は右翼ポピュリストとほとんど区別がつかないほどよく似ている。どちらもポストモダンフェミニズムが日常的な直観に反することや、アジアや中東の性差別を左翼が問題にしないことを非難している。

左翼のダブルスタンダード批判は一見説得力があるが、ここでインドやイランが持ち出されているのはヨーロッパ内での政治活動のためなので、実際にそれらの国の女性のことを考えているわけではない。

それらの国の個別の問題を考えるためにはもっと細かい事情を知った上で長くコミットしないといけないだろうし、啓蒙してやろうという態度で臨んでも解決にならないどころか別の問題を増やすだけだ。

 

 

 

その名はショコクス

今年はクリスマスマーケットは中止だ。

ほんとだったらあちこちの教会広場に市場が並び、ソーセージやホットワイン、ギュロスやランゴシュ、スープやお菓子、手袋、帽子などなどを売っているのだけど、今年はない。街は静かだ。

ドイツのクリスマスマーケットに日本人の友だちが来たら、妻(ナディ)が必ず勧めるものがある。それがショコクス。Schokoküsseというのはチョコレート·キスという意味で、泡のようなクリームが入ったチョコレート菓子である。


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彼女が言うには勧める理由はいくつかある。まず、日本になく輸出もできないのでドイツでしか食べられない。日持ちしないし、気圧が低いと割れるから空輸できないのだ。そして、ショコクスに似たお菓子はどこにもないこと。ほんとに無いかは知らないけれど食感がたしかに独特で、チョコの中に詰まっているのは、クリームというより、ものすごくきめ細かい泡としか言いようのないものだ。

そういうわけで彼女に言わせると、今食べなきゃ損!、なのである。

ショコクスは昔、ネーガクスと呼ばれていたが、Negerはniggerと同じ黒人の蔑称なので今の名前に変わった。Twitterでこんな画像が出回っていて、

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お店のショコクスのポップに、

「親愛なるお客様へ

かつてどんなふうに呼ばれていたかは私たちには関係ありません。こんにちこれはショコクスと言います」

と書かれている。「Negerはniggerとは違って、別に差別的なニュアンスはないよ」そんなふうに言うドイツ人もいるが、もちろんそんなことはない。アメリカほど黒人差別が表面化して、社会問題になってないからといって余所事にはできない。日本もドイツもそうだろう。


それはそうと、この画像、妻もネットで見たようである。そして彼女は思い出したようだ。(今シーズン、ショコクス食べてないじゃない) と。

クリスマスマーケットがあれば回ってるあいだに必ず一度は食べるのだけど、今年はなくて忘れていていたのだ。そういうわけで、その翌日の土曜日に製造元まで買いに行った。フランクフルトから車で40分。ハインブルクのKöhler Küsseである。


ハインブルクは小さな町で、マイン川の向こうのGroßkrotzenburgには大きな原子力発電所があり、そればかり目立っている。かつて米軍の駐屯地があった地帯はフェンスに囲まれて同じ形の大きな兵舎がずっと並んでいる。マンションに改築するようだ。Köhlerのチョコレート工場の近くに瓦工場があり、ビルのように積み上げられた瓦が塀の向こうに見えて、それがちょっと面白かったけど写真は取りそこねた。とにかくそれくらいしか見どころはなさそうな町なので間違って観光で訪れないでほしい。


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閉店まぎわに着いたのに、工場に併設された店の前には長蛇の列があった。たぶんみんな考えることは同じで、列も例年より長いのだろう。チョコレートもいろいろ売っている。夏はアイスクリームを売ってるらしい。


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これがショコクス。チョコレートも買った。


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いろんな味の種類を買った。ココナッツ、モカホットワイン味、ラム酒、などなど。ショコクスは、似たようなものがスーパーにも出回っているのだが(そしてぼくも妻にそう言ったのだが)、あれらはやっぱり別物らしい。工場で直接買うか、そしてできればクリスマスマーケットで買って食べるのがいい。観光で来た人はぜひ。

 

 

情けはハトの為ならず

駅の広場のベンチで、広場に集まるハトを眺めていた。

餌をやる爺さんを中心におおむね正規分布でハトたちが分布している。どのハトも思い思いに餌をつつき、一つの餌を2羽が狙って鉢合うと一方が他方を追い払う。

通りすがりの男が空き缶を蹴飛ばし、転がった缶がハトの群れに干渉すると、驚かされた2、3羽が飛び立つ。他のハトたちは地面に残って食事を続け、その2、3羽もすぐに引き寄せられるようにそこに戻る。

そこに、ハトを捕まえようとする子どもが走って乱入した。すると5、6羽が宙に逃れ、それに引っ張られるように群れ全体がもち上がり、一斉に大きな羽音と羽毛屑を残して飛び立った。今ここで誰かが集合写真撮ってたら全員顔が隠れたマグリットの絵みたいになろうという大群だ。ハトの群は全体がひとつの粘体生物のようにうねりながら広場の上空を一回りしたあとビルの向こうに消えた。

2、3羽ならつられて飛び立たないが、一定数の仲間が飛べばいっしょに飛び立つというルールでもあるようだ。好き勝手バラバラになって餌を食べていても、何かあって逃げるときは周囲の個体に影響されて一糸乱れず塊のようになる。集団のうねりは個にとって、ドミノ倒しみたいに避けがたいものなのかもしれない。


仕事の休憩中、そんなことを考えながら、いつものようにベンチでぼんやり休んでいた。ベンチは街路樹を囲んで円形であまり座り心地がいいとは言えないが、職場はやかましくて落ち着かない。駅の広場もうるさいが、話しかけてくる人あまりいないので他の人間と関わりになることなく安らいでいられる。とはいえ、完全に人々と関わらないことは難しい。宣教者、大麻売り、物乞い、タバコの火乞いなど、声をかけてくる人もたまにいる。


言い争う、怒鳴り声が聞こえた。毛布をまとった髭モジャの大男が、ブルカを被った女性2人と対峙して、大声を上げている。声が大きくなってから気づいて見物を始めたので何があったのかはよくわからない。

近くにいた別のモロッコ系の男が、

「ナチめ!」

と加勢し、大男を罵倒する。(この男もよく駅広場にいて、モロッコ出身というのは前に聞いたのだ)

「私はふだんは何ユーロか差し上げてますよ。今は手もちがないだけで」

女がそう言ってるのが聞こえる。おそらく、髭の大男はこの女性2人に物乞いして拒絶され、何か言っちゃいけないことを言ってしまって、それで口論になったんだろう。しばらく言い合いして大男は去り、モロッコ系の男と他の通行人が女性2人に慰めの声をかけ、「よい一日を」と彼女らも去った。

男は少し離れたところで猛然と立って、また物乞いを始めた。愛想の悪い人間は物乞いでも上手くいかんのだなと思うと気分が滅入って、ぼくはちょっと路上生活者の男に同情した。


ロッコ系の男がそのあと通行人の若い女に「よう、ねえちゃん」と声をかけ、会話しだした。その女は自分のダンスの仕事の話をしていた。ちょっとしたいざこざに居合わせたせいで何となくその場が知らない人に声をかける雰囲気になっていたのだと思う。その若い女が今度は僕に話しかけてきた。

スマホもってる?」

と聞いてくる。ライターを貸してくれとはよく言われるが携帯電話は珍しい。この辺りは盗難が多く、僕も以前ここでスマホをひったくられそうになったことがあったので警戒しつつも、彼女が自分の鞄を無防備に僕のベンチに置いたので、

(まあ、いいか)

と思って応じた。

電話をかけたい場所の住所を言うのでGoogleマップで番号を調べてやる。聞いたことのない小さな劇場のようだ。電話したいというので発信して渡す。

仕事の応募か売り込みかわからないが、ダンサーとしてそこで出演したいらしい。「世界一のダンサー」という言葉が何度か出てきた。かけ終わったあと、

「ダンサーのピナ・バウシュ知ってる?」

と聞いてくる。「知ってる。映画は観た」と答えると、

「知ってる人初めて会った」と。ピナ・バウシュにダンスを習ったのか、なんなのかよく分からなかったが、とにかくそのような現代舞踊を彼女もやっているらしく仕事を探しているそうだ。今はイベント関係の業界は苦しいだろうなと思う。そのあと少し話し、また携帯電話を貸してほしいと言うので貸した。

今度は親族にかけたようで、ずいぶん長く話している。途中から機嫌が悪くなり、電話の相手に不満を述べている。どうも彼女の叔父が亡くなったのを電話口で知らされたようだ。顔も知らない人の訃報が名も知らぬその姪に、僕のスマホを通じて伝えられたということだ。話は長引き、僕の休憩時間は残りあと少しになった。ようやく話が終わったので僕は、

Mein aufrichtiges Beileid! (ご愁傷様です)

が思い出せなかったので、

Tut mir leid! (お気の毒に/ごめんなさい)

で済ました。

若いダンサーはスマホを返し、「叔父さんが死んじゃった…」と鞄をベンチに置きっぱなしで、フラフラと広場の中央の方へ歩いていく。

僕はここでの自分の役目を終えたことを見てとり、「もう行かなきゃ」と急いで去った。広場ではドミノ倒しの連鎖はまだ続いていたのだろう。

 

茄子ピリピリ言わない派宣言

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茄子を食べたときに舌がピリピリするのは、アレルギー反応らしい。

ぼくは茄子を食べたとき、炒めた茄子よりも煮た茄子でとくに、辛いような味と舌がピリピリ傷むような感覚をもつ。誰でもそう感じるのだと思っていたのだが、そうではないらしい。アレルギーなので、ピリピリしない人とピリピリする人とがいるということだ。茄子がそういう山椒みたいな味にならないような調理法がないか検索していたときに偶然それを知った。

知らなかったとはいえ、それ自体は、

(あぁ、そうなのか)

と、とくだん意外な知識と思わなかった。けど、それにまつわる親子の体験談を読んで、長年のわだかまりを目の当たりにしたような気がした。エピソード投稿していたのは母親で、幼い娘が「茄子を食べると舌がピリピリする」と言ったというところから文は始まっていた。

そこでハッとした。

茄子で舌ピリピリを、ぼくは今まで誰にも言っていなかったことに気づいたのだ。家で食事に文句をつけるのはためらわれたし、茄子はそういうものだと思っていたこともあり、わざわざ言葉にすることはなかった。

この娘はピリピリすると言ったあとに、でも大丈夫、茄子は食べられるとつけ加えている。なのでこの子が無神経だから言葉にできたわけではない。自分の感じたことを素通りせずに拾いあげ、必要以上に拒絶的にはならないように人に配慮している。

同じことがあったとき、どれくらいの人がこういう言語化をできるのだろう。ぼくはたぶんかなり口に出さない方だ。自分の感性は事実の前ではとるにたらないもので社会的に共有するほどの価値はない、というのが基本姿勢で、よほど親しい人にしか話してこなかったように思う。

感じたことを素直に言葉にしない人たちも、少数派だろうが、ぼく以外にも確実にいるはずだ。自分の好みや感覚を、感じて自覚するところから言語化して他人に伝えるまでに、いくつかのドアがありいちいちポケットからそれに合う鍵を探さなければいけない人たちが。

「昼飯なに食べた?」

と聞かれて、本当はうどんを食べたのに何となくそれをそのまま言うのがためらわれて、

「蕎麦です」

と何の得にもならない嘘までついてしまう人がぼく以外にもいると思う。それが率直に言うより楽なのだ。

感じ方の違いというのは思わぬところに、思った以上にある。前に職場の友人が居酒屋で話していた。

「酒って苦くない?いや、ビールとか焼酎とかがちょっと苦いってみんな言うやろ。そうじゃなくて、チューハイとかカクテルも全部苦いねん。

これ、医者に言われたんやけど、何万人かに1人アルコールそのものの味を感じる人がいて、俺がそれらしいねん。」

医学的に何かの説明がされる特徴にせよ、好みにせよ、こういう違いは無数にあるのだと思う。しかし、たいていはみんなおおむね同じという前提で回っており、細かい齟齬はコミュニケーションで調節する。しかし、そこでぼくを含めた「茄子ピリピリ言わない派」の存在が躓き石になる。(そもそも「茄子ピリピリしない派」が多数派なのは置いといて)

 

言語化されない感性の違いはどこに行くのだろう。その一部は、頭の中だけで言葉にされたり、社会的な文脈を気にしなくていいところで文字にされたりするだろう。(このブログのように) もしくは言葉にされず十分に意識も向けられず、見えないすれ違いのリスクとして軋轢やディスコミュニケーションを招いていることも考えられる。

「これ、嫌いだったなら言ってくれればよかったのに」

「言うほどでもないと思ったんだよ」

自分を表現するのが苦手な人が、いたるところでそういうすれ違いを起こしているにちがいない。

他方で、さらりと言語化された感性はどこに行くのだろう。おそらくそういうものがコミュニケーションを円滑にし社会を豊かにしているのだろうと思う。

「でも、それが何だというのか」ピリピリ言わない派はそう反論する。「すんなりと、溜め込むことなく感性を共有して認められる。お前だけの世界は、そこで終わりじゃないか」

おそらく素直に感じたことを言えない僻みだろう。あるいは、とるにたらないものとして素通りされてきた自分の感覚たちの怨念か。長い逡巡で後回しにされて、ようやく言語化を許され日の目を見た感性こそ洗練されたものであるはず。そうあってほしい、というのが茄子ピリピリ言わない派の切望である。